十五年前に考えていた 「豊かさと満足度」

十五年前に考えていたことが
どこまで間違っているかを考える


豊かさと満足度

[時代の変化]

 凄惨な事件が起こるたびに、ヒトは何故こんなに愚かになったのだろうかと考える。様々な分野の専門家たちが分析をしている話を読み聞きしながら、いっこうに原点に戻ろうとしないことに焦れったさが募る。

 科学技術というものが進化し、脳科学、心理科学、社会科学、情報科学などと、何でも科学で片付けられる時代になった。したがって、犯罪科学とか犯罪心理学などという言葉もすっかり御馴染みなっている。工学においても同じようなことが言える。

 科学や技術は、物理学や哲学よりも遥かに派手で、いかにも人々の役に立つ学問のように見えて、高度経済成長の渦中では持て囃され、就職活動をする若者には拠り所にされ、中流生活を目指す人間関係の中では一種のエリートとして見られた時代もあった。

 モノを作る企業は、大手を振って歩き、経済界で野暮をしても暴言を吐き続けようとも時代を牽引するリーダーであった。鉄や自動車(の業界)は強く、いつも威張っているように見えた。電機(の業界)もプライドを前面に出した。そんな時代があったのだ。

 まさか、こんな時代になるとも思っていなかった…と思う人も多いに違いない。しかし、予想できたともいえよう。何も一人の総理大臣がおバカだったからと責任を押し付けてみたところで、それがたとえ正しく事実であったとしても、虚しさが残るだけだ。明らかなのは、戦後が30年で社会が変身し、さらに30年たった今、変曲点を迎えているということだ。

[病む社会]

 国民はどんどんとバカになっている。自分で何も考えないで、他人が作り上げたモノサシを使って社会を再構築(または改革)しようとする。そしてそれを、これまでの暮らしの延長上に自分の未来の姿として投影しようとしている。その、ボケナスだった他人が考えた数々のモノを踏襲して、一体何をどのように改革ができるというのか。目を覚まそうじゃないか、と言いたいが、昔だって「無関心」「無感動」「無気力」なんていう世相の頃もあったわけで、30年のサイクルかもしれない。

 目を覚まさないから、事件は繰り返し発生する。自分は豊かであるとか、自分だけは豊かであればいい、と考えているのかもしれない。しかし、そういう人がいっぱい居る社会は、科学技術社会が育んだこの哲学なき社会の特徴でもあり、かなり荒んだ状態であるといえる。人々は、痛ましい数々の事件を目の当たりにしていったんは悲しんで見せるものの他人の話としてやがて忘れ去ってしまう。

 そもそも、果たしてそんなに生きてゆくことが辛くて苦しいものだったのだろうか。無人島に一人で上陸し、たった今からサバイバルな一人暮らしを始めねばならなくなったら、もしそうなったとして、ヒトはどんな時代でもその島に暮らしていつかは病むのだろうか。

 無人島ならば、生き続けるのも諦めて海に身を投げるのも自分で決めれば良いことだ。魚が捕れなければ森に行き野獣を狙うか果樹を採る。米や野菜を栽培するという知恵も絞らねばならないし過去の経験も活かさねばならなくなる。無人島で暮すこと=自由。のようであるが、自由とは実に曖昧な言葉で、一人だけしかいない状況にはありえない言葉なのかもしれない。何といっても生きること自体が自由であり大変なことなのだから。

 つまりは、生きるチカラを喪失しているのか。三無主義の時代と同じような波が押し寄せているのか。もしかしたら、このまま原点に返ることなど望めないのだろうか。

 社会にはたくさんのヒトが病んだままで放置されている。病みは、多方面に広がり続け、あたかも感染症のように社会を蝕みつづける。

[豊かさとは]

 豊かに暮らすということは、お金持ちになって好きなことをして自由に行動ができて、不自由をしないことだろう。もちろん大富豪である必要はないが、マネーの時代や自由経済とか競争市場という社会が続く限り、豊かさ=マネー、として追い続ける人は多いでしょう。

 一方で、物質的な豊かさに対して、心の豊かさを求める人の割合が増えてきている。人間関係や社会関係などのストレスを上手に克服できることも豊かさの指標になりつつある。

 多くの人々は自分では不自由だと思っていないのかもしれない。むしろ豊かさを求めつづけてある程度のところで満足しきっている。それだけに、メンタルな側面での満足度は重要になってくる。歴史を塗り替えるような事件が度々起こっていても、それはよその出来事という感じ。目まぐるしい社会の変化のなかでストレスを刺激しないようにそっとしている。

 交通機関やマイカーのおかげでとても便利になったし、欲しいものは簡単に手に入るし、必要な情報は瞬時に届く。毎日の暮らしには楽しみや喜びが満ちている。映画を観たりレジャーランドへ出かけたり、家族とテレビを見たりグルメやお洒落な暮らしをして、大方が満足している。これで時々海外旅行に行ければ…そんなふうに暮らしていたいという夢を抱いている。

 幸せな暮らしって何だろうか。不自由で不便で惨めで貧しくて…そんな暮らしはしたくない。そんなふうに暮らした過去が微かに残っている世代がおじいちゃんやおばあちゃんのころで、極めて潜在的にこれまで来た道を引き返すことに怯えている。そのことはあまりにも当たり前の心理で、誰も否定できないし、非難もできないのだけど、やっぱし、本当の豊かさとはもっと別のところにあるような気がする。

[少し理屈で考えてみる]

 そもそも美味しい肉というのは、毎日贅沢な餌を与えられて身体じゅうに万遍なく脂肪をまとわり付かせた牛のもので、もしかしたら糖尿病になる一歩手前の、人間ならばメタボリックで典型的な成人病を患った重篤な牛かもしれない。

 美味しいといわれるニワトリは、生まれたときから暗い鶏舎に封じ込められ、満員電車のような混雑の中で1日のほとんどを暗闇で眠り続けることを強要され、僅かの時間だけ明かりが点り覚醒させられて餌を食べる。そんな日々を60日ほど(というか60回ほど)送り立派な肉が身体に纏わりつ付いたころ、彼らはそのときに生まれて初めて太陽の光を見て、人生(鶏生が正しいのか)が終わるのである。(死ぬときに「生きていて良かった」と思わないだろう)そんなニワトリを美味いといって私たちは食べている。

 何も肉に限らないし、食べ物だけの話ではない。あらゆる業界でヒトは、自由であり競争社会であるという大義名分で仕立て上げられた社会システムのなかに投入された。その裏には機械に使われているような状態のオペレータが存在し、会社の売り上げやお客の満足度を盾にサービス残業という概念を生み、内実は会社のために働きながらあたかも自分の自己形成のために働くかのような風潮を作ってきた。それが良い社会への前進だと捉え続けてきた。

 急ぎ足で歩き、モッタイナイよりも先に、値段優先で不要なものは平気で棄ててきた。使い捨てが便利だからそうしてきたし、便利だから(お客様のためだから)という理由で24時間営業のコンビニも増えた。

 地球温暖化って騒ぎ始めてやっと、少し協力しようかなと言い出すものの、根本的なところは全然変わらない。まだまだ、自分の暮らしは傷めたくない人が多い。

[宿命]

 私たちは、豊かさを求めて(守り続けて)夢を追い続けねばならない。そんな宿命を持っている。

 ガソリン騒動を見てごらんなさい。先月末、ガソリンスタンドにできた長蛇の列に黙ってマイホームパパは並んでいたのだ。年金や健康保険の憤りについてもそうだ。大人しく流れに逆らわず、今の生活を守りながら満足度を維持しようとしているのが分かる。善良な国民は暴動ひとつ起こさない。

 ねえ、真剣に政治の流れを変えてゆこうじゃないか、新しいものを自分たちで作ろうじゃないかという意識を持ってるの? そう問えば、30年前のように無気力で無関心な回答が返ってくるのだろう。

 風に揺らぐ煙のようにマスコミが先導する世論の流れに、自分も乗り遅れないように行く方向を探っている。

 病みに満たされた暮らしの棲み家を自分たちで作り上げておきながら、自分たちの暮らす社会システムを、そんなに簡単に都合よく修正できるものだろうか。これも、豊かさボケとしか言いようがない。豊かさボケも宿命なのだ。

[貪らざるを以って宝となす(菜根譚)]

 ヒトの心が不幸にも病んでしまうのは、現代社会の皺寄せから出た毒のようなものだ。毒を出す原因物質は、先進国を自認する国民にとって麻薬よりも恐ろしいもので、豊かさとその豊かさを求め続ける心だったのではないか。

 何不自由なく暮らせて(いるように見えて)、毎日に不安を感じることなく、与えられたものにも大きな不満を持たなくなっている社会になってしまったが、これは心を依り合わせながら生きてきた社会にしたら代謝機能を失ったようなもので、つまり、高学歴社会も定着し安定した収入があり福利厚生面でも満足感が満たされたことで、豊かさを目標に夢を見てきたのに、あるときから突然夢を失った状態に陥って、お互いを気遣うことも労わることもなく、カッコ良く言えば個人が一人で楽しむだけになってしまった。

 さあ。夢は失った。満足ボケ状態で、気がついたら信頼できる人は誰もいなかった。私たちが求め続けた「豊かさと満足度」ってのは、豊かでなく(貧しく)、自由でなく(不自由に)、スピーディーでなく(スローな暮らしで)、便利でなく(不便で)、もっと厳しくいえば、生活の節々が「痛みを伴なう状態」で培われるものであったのではなかったのか。

2008年6月12日 (木曜日) 豊かさと満足度

豊かさと満足度

続・豊かさと満足度

これまでに続いて、また再びこのテーマについて考える。

政治が混迷をしている。このことに自由に意見を言うことはとても良いことであると思う。その意見を参考に新しい意見が生まれ、次々と政治に対して意見を述べ、社会の中に盛り上がりを作り、変化が生まれるきっかけになるだろう。

だが、連鎖的に発生する意見のどこかのポイントで、何か異変が起こったとすると、または、違った論理が、さらには事実無根なことが紛れ込んだりしたとすると、それは途轍もなく恐ろしいことである。

その遺伝子の突然変異のような事態が、どんな形で起こるのかはなかなか具体例を引いて言えないために、先日からもどかしく且つじれったく感じている。

こうして積極的にどしどし意見を言う人に申し上げたいことは、自分の主張に対する逆の立場(反論する側)になって自分も意見が言えるかどうかのチェックをして欲しい。つまり、お互いに席や立場を入れ替えて相手を論駁できるようになったうえで、貴方の意見をお聞かせ願いたい、ということです。

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今、自由意見が活動的です。あるときはtwitterのタイムラインを、あるいは新聞記事のオピニオン欄を、みんなの意見が自由に飛び回る。それを誰もが自由に読めるので、次々と連鎖的に意見は躍動的になる。

(立ち止まって考えてみる)

社会はこの姿と同じように変化しているのではないか。それは政治や政策への提言だけでなく、お笑い、映画、音楽、遊び、就職活動、結婚恋愛などなど、あらゆるものが「自由」な視点で見つめられて、語られて、動いてゆく。

「個性」とか「自由」という便利な言葉で、その裏にあるかもしれない魔性を魔性と思わないまま社会が変化する。儲かるから、自由主義経済社会だからという盾を大いに利用し、情報科学から情報技術へと、テクノロジーの進化が無哲学の波の浚われて行ってしまった…のではないか、と言ったら言いすぎでしょうか。

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すべてが「豊か」になってくる。これは、自分たちの暮らしが良くなってきていると考える。

果たして正しいの?と思うのだ。今の世の中に大きく欠乏しているモノの1つに、(自分だけでなく)みんなをもっと幸せにしよう、ということがある。

お鍋料理の季節は終わったが、お鍋料理の配分で例えると、「自分の取り皿には自分では食べ物を盛らない」(お互いのを取り合うことで自分を満たす)、というような考え方が長い時代の流れの中で消滅して来ている。

先に書いた「政治や政策への提言だけでなく、お笑い、映画、音楽、遊び、就職活動、結婚恋愛など」において、目立つようになってきたから社会で話題になるんだろうと思う。そして、問題となって噴出しているものもある。

前に申し上げてみんなに知らんふりをされたことをまた書く。
今夜の夕飯のおかずの5品のうち上から2品を世界のどこかの人に届けることが出来れば。

ご飯でなくてもかまわない。服でもいい。知恵でもいい。言葉でもいいのかもしれない。

多くの人が「豊かさ」というものを得て思いやりや気遣う心、優しさを失いつつある。もっと普通の心も失いつつある。(逆に)、向上したこともたくさんあって、煙草ポイ捨てを例にとればよくわかる。昔は棄てても「変」ではなかったのだから。

ITというスパイスではなく麻薬に近いようなモノを楽しんでいることは、「ポイ捨て」行為と似たようなことをやっているわけで、もっとしっかりと社会を構築してゆくうえにおいて、一部の企業が儲かるとか経済が活性化されるということにブレーキになるかもしれないけど、こういう愚かな行為やメディア利用の無節操さにいち早く気が付いて、やめねばならないのが使命ではないのか、と思う。

技術を否定するのではない。たとえば、私がかつて専門としていた先端医学技術工学の分野で考えれば、情報科学や制御理論、材料工学を駆使して、人類の生命が持つ課題(延命、病気治療など)に役立てることが出来るはずだ。現代社会(情報政策)がITに懸けるパワーを、老人や福祉や困った人々、弱い人々に向けて活用しよう(予算を回そう)と何故しないのだろうか、と感じるだけです。

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インターネット全般についても、かなりの面で浸透したのだが、社会の相互の豊かさを助け合うという思想のもとに進化はしていない。ホームページでもブログでも、twitterでも、すべて自分に向かって注目を集めるための主張手段的な要素が大きい。

これだけの情報科学の進化は、私が30年前に学んだ世紀には予想が出来なかった。基礎技術にそれほどの進化はないし、驚愕的発明、数学にも発見があったわけでもない。
そう考えると、現代社会が激変といわれる発展を遂げつつあるのは、狐や狸の魔術に惑わされているようにも思える。

もっとしっかりした哲学を持ち、基礎技術を大事に扱い、人命を救うとか、老人社会や福祉システムに革命をもたらすとか、人間味を生かすような社会システムを構築する方向に使えないものか。(IT技術自体は素晴らしいのだから)

科学技術のエンジニアは、哲学や理学の目指した思想をまったく失い、経済社会やマネーにいまだに踊らされて、幻の「豊かさ」を追っているのではないか。(そういうところにある満足度って何者だろう…)

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電子ブック、IPADのニュースを見ながら、以上のようなことを考えていたのだ。

まあそんなボヤキだな、これは。

私はそのうち死んで居なくなるから、進化についてゆけなくなったらITからは足を洗うのだ。(願望)

Rev0.1
2010年5月15日 (土曜日) 豊かさと満足度

豊かさと満足度