わたしの新しいドラマを始めよう ─ 三月篇
『卒業』で昔を探ると @2014の三月で立ち止まってしまった
▼けんけんぱあの人に追いつけないまま
わたしの三月朔日はこんなふうに始まったのでした。いつものようにあの人ってのは架空の人でありながらわたしは誰かを見つめている。
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▼雪あかり夢から醒めて火をおこす
▼雪しぐれあなたの髪を眠らせぬ
▼郵便屋さん私の手紙は来てません?
▼凍りつくよな貴方の指と切る
▼雨音がピチピチ春が近づいてくる
三月になっても一向に暖かくなって来ず。お水取りのころに春のジャケットとズボンで出掛けた覚えもあって、あのひんやりと沁み入る寒さが快感だったのだが、今年はしばらくお預けになっている。
▼土砂降りの予感がしたの逢う前に
▼泣き顔がステキ土砂降りハネたボブ
容赦なく夜どおし降り続く雨の音を聞きながらわたしは何をぼんやりとしていたのか。いつもならば32年前に東京で聞いた雨音を思い出すのだろう。今年はそんなにも沁みったれていなかったようだ。ちょうど夢中になっていた本でもあったのかもしれない。
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▼蕾待つ誰とは言わぬ露の朝
▼花が咲くまでもう少しだけ頑張る
どうやらひたすら何かを待っているような気配がある。またどこかの街角で素敵な人でもみつけたのだろうと想像しておいていただくことにしよう。
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▼よもぎ摘み1両の汽車飄々と
▼下駄の音春はまだかと坂をゆく
▼あの人を憎んで雨水凍りなさい
▼恋空を寒風吹いて片思い
春の足音という表現がある。それが好きで、春が好きであるよりもその言葉の響きが好きなために春を待ち遠しくしているのではと自分で思うことがある。足音が近づいてきたり坂道をのぼっていくドラマの場面には明るい未来へと向かう変化が隠れている。見えないものを待っているのが好きなのだろう。何年か前の今頃の季節にも夜空を見上げては切ない思いをしていたことがあった。そんな時間ばかりであれば死んでしまいそうになるが、片思いであっても終わってくれるからこうして生きているのかもしれない。
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▼うしろ向き泣いた笑顔の黒い髪
▼お月様もう貴方なんぞ追いかけない
▼春一番あの子が欲しい花いちもんめ
▼ウグイスや囀りだけが花なりて
▼鴨の池そろそろざわめき始めたる
▼あの人がお伽噺話をしてくれてひとつの恋が終わるのを知る
ちょっとした決心のようなものが見えていると思いませんか。恋が終われば、また新しい恋の予感を感じ始めるというお得な気質なようです。
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▼卒業の朝霧雨滲む水銀燈
▼待ち合わせ疏水のほとり柳の芽
▼あの人の言伝てを胸に春に立つ
3月下旬にはおとうの誕生日があります。もう16年も過ぎてしまって、その誕生日を祝うこともないのですが、生きている時にも一度もお祝いをしたことなどなく、言葉に出来ないほど後悔をしています。
ヒトはひとりで生きていることには変わりないのですが、知らない所でものすごい大きな心配や願いが飛び交っていて、そのおかげで自分が成長できていくのだということにあるとき突然気づくわけです。
これは他人に教えられて知ったら無意味なことであり、教えて差し上げてもそれは禁断なことだとつくづく思います。たいていはおとうが死んでしまってからのことが多いと思いますし、死んでしまってからのほうが宝としての価値があるのだとも思う。宝とはそういうものだとも言い換えられるかな。
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▼土筆摘み架空の会話を籠に盛り
▼サクラソウお稲荷三つくださいな
春休みに落第が決まった頃だったのか、それとも特別研究テーマが決まった頃だったのか、それははっきりと記録にないのですけど、いつも通りに商店街に出かけた帰りにいつも通りの小さなお店でお稲荷さんを買うのが愉しみでした。可愛らしい頭巾のバイトの女の子で、きっと近所の大学生だろうと思うけど、ショーウインドーの上の小さな寄せ植えの花の名前を尋ねたことがありました。知らなかったようで小さな声で「サクラソウ……」と教えてくれました。あのころの恋はいつもたいていがそんな感じでした。