競う 2月下旬号

銀マド 登録日時 :02/02/27 22:54




▽冬季オリンピックが終わって新聞が少し落ち着いてくれるかなと思う。何故なら、競うということに私は関心がないので、誰が1位になったかとか高得点だったかということに注目する意思が全くなく、当然のことながら金メダルが誰であろうがどこの国であろうが関心がなかったので、新聞記事が面白くなかったのよ。


▽人が人を追い抜いて前に出るという概念がどうしても馴染まないのです。もちろんこんな変人は希少で、オリンピックの映像を1分も見なかったといったら信じない人が多かった。


▽だから、オリンピックの記事が新聞紙上を埋める時や、プロ野球、ワールドカップ、相撲…など、新聞紙面をある期間、独占してしまう時は「うんざり感」で満たされる。ゴミの紙切れが配布されてくるのだから購読を中止してもいいほど苦痛であった。


▽反論はあるだろうし、反論さえ出ないで呆れている人があるでしょうね。でも、私は「競う」ということに余り執着しないです。しかし、勝ち負けが嫌いかというとそうではなく、不必要に優劣をつけることが嫌いのようです。不必要という言葉に人それぞれの考え方があると思いますけどね。


▽確かに人々はギリシャ文明以前から競うということに熾烈な感情を燃やし続けてきた。だから、とても大事であると思う。そのおかげでに文明が発達し、産業革命が起こったのだろうし。


▽ただ、オリンピックのメダルはなんだか変ですよね。頑張ったご褒美に差し上げるんだったら、みんな金メダルでいいはずだし、賞状でもいいはずです。記録タイムが10秒だったら「10秒賞」10.5秒だったら「10.5秒賞」でいいはずなんだけどな。


▽じゃあ、おまえは競争をしないのか、負けてもいいのか、と問われると困るんですよね。A君とB君が隣どうしでパン屋さんを始めたらお客さんは美味しい、安いなどを求めてどちらかの店を選択します。これ即ち、店と店の競争なんですね。競争して切磋琢磨されると思います。これは大いに歓迎ですが、始まりの頃の趣旨と、どこかの時点でかけ離れていくような気がするのです。負けたほうは価値がなく個性もない、存在の意味がない…というような風潮が生まれたり、勝てばそれでいい、勝つという結果が大事であるのだというような催眠術にかかったような錯覚。そこにマネーが群がったりします。群がるマネーも低レベルですね。


▽切磋琢磨だったはずでしょ。お互いが競争してそれぞれの存在価値を認め合って、競争が終了したら2倍の価値(個性)がそこに残ることが大事だと思うのです。勝負の最中に、プロセスを無意味であると誤認してしまうことが嫌いなんだろうと思います。


▽「でも、競争に勝たねば生き残れないのよ。死ぬしかないの」とうちのんは言います。「だったら勝つために価格破壊が発生して社会が理念を失ってしまってもいいのか…と思わないか」と質問しても受け付けない。自由主義社会という言葉を盾に私の反論など反論とみなさないのだから。


▽私の負け。議論は私の負けなんだろうと思います。(昔、どっかで書いたかもしれないけど) しかし、自動車が200万円で売っているとしましょう。社会経済理論にのっとり需要と供給でバランスが取れるところに落ち着くのが正しいのかな。自動車が私たちの地球の環境に良い意味でも悪い意味でも影響を与えるならば、そのためにこの自動車の価値を250万として、絶対的なものを提示することも必要なんじゃないだろうか。(現実にはそんなことは無理だとも思うけどね。)


▽企業が利益のために様々な図式や理論を駆使する。消費者が自分の欲のために低価格や高品質をあさる…。その挙げ句の果てがデフレ現象でしょう。せめて「私だけが得したらいい」という意識を取り去らねば、経済の平和は来ないような気がする。


▽おっと、オリンピックのメダルの話はどこに行ったのだ!


(脱線修復)


▽メダルの価値に「欲」(個人欲・国欲など)を群がらせた茶番劇は終わった。「競うということは、元来、もっと美的であったはずだ」ということがいいたかったのですが…。