(十年前の日記) ✰ 一生懸命、生きなくては ─ 啓蟄篇

啓蟄間近で
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一生懸命、生きなくては ─ 啓蟄篇

しばしば、静かに物を考える機会があると、どうして私は今のような仕事をしているだろうと思うことがある。多くの昔の知人たちも、折り在って再会すれば、私がイメージと異色な仕事をしていると思うらしい。

先代は、村長、村会議員、町役場職員だった。そんな衰退の系譜を正直に受け継げばよかったものを、どこか私の捻くれ根性が反発したのだろう。クラスのK君が「オトコは数学」と叫んだこともあってか、どん尻の成績だった数学を使う分野に進学をした。

いい加減なところで見切りをつければいいのに、執念深い気性と、とんでもないときに根性を発揮してしまう質から、工学部を諦めなかったのが人生を決定づけてしまったようだ。

紆余曲折の歴史はあるものの、情報科学と数理科学の谷間を往来しつつ電気のことも知ってるふりをして、アホみたいに大きい「パーな」総合電機メーカーに席を置くことを選んだ。正しい選択をして早々に山の中の農村に帰れば、明るい人生だったのだろうか。しかし、想像は次々と浮かぶものの、どれも情けない姿ばかりだ。

時間というものはパラパラ漫画のように捲れてしまったら戻せないし戻さない。戻そうとも考えない。

そういう掟を破って、もしもあのときにあのような道を選択していたらどうなっていたのだろうかと、深々と考えて、静かに沈み込んで夢を見る。しかし、どこまで考えてもそれは夢であるだけだ。

例外もなく、啓蟄のころになると、また、夜中に魘されたそうで、卒業できなくて必死になっている私が、試験を控えて友人たちに情報を集めて回ったりしている夢を見たところを見つかったらしい。

親はそんなアホな息子とは知らず仕送りを続けてくれたのだから、夢の中でも夢から醒めても、泣ききれない。

絶対に取得できるわけのないほどの科目数が卒業直前の試験でも残っていた。あとから考えても、本当に卒業できたのか不安になって、卒業証明書を取り寄せたこともあるほど、ドタバタであったあのとき。人生で一度だけ死に物狂いになったのかもしれない。

真っ白なA4サイズの答案用紙に、答えが書けない。解けない。そこで、苦肉の策で私は次のように答案用紙に書いたのだった。(そんな科目が幾つもあった)

先生、私は一生懸命勉強したのですが解けません。勉強したことを代わりに書きます。就職も決まりました。卒業させてください。

こうして考えてみると、今も昔も進歩がないことに気がついた。遅すぎるか。あと十年でおとうの死んだ年令になるというのに。


2014年3月 6日 (木曜日) 【裏窓から】