ウルトラ・ニッチ重版を受けて、素人が鮨を握ることの意義を語る
「ウルトラ・ニッチ」重版がかかりましたよ、浜田さん!!!
と嬉しい電話が編集担当の土江さんから入る。わずか2週間での重版に、思わず心がふわっと軽くなる。銀座のロメスパことジャポネのジャリコをパルメザンもどきチーズをがっつりかけて、タバスコで拭った直後だから、その無重力化される気分は格別だ。その後、ライティングを担当してくれた上阪さんともメッセージで話すが、メッセージでのやり取りで経営者は料理するべきだよねということで盛り上がる。3年前のちょうと今頃、僕はこんなことを書いている。書籍にも登場するバリスタの井崎英典さんとも出会った直後のことだ。
料理出来ないんだよって思っている人に特に勧めているのが、鮨である。日本人で鮨が握れたら、海外での着目度合いが変わる。日本人だったら、料理ぐらい出来るでしょ?鮨ぐらいできるでしょ?的な目線が強まりつつある今日このごろ。昔、日本人は数学得意でしょ?って言われた時代から、日本人=食という方程式が完全に成立されたからだ。90年代のアメリカにいたときなんて、鮨や天ぷらなんてマイノリティが食べるものと結構バカにされたものだ。当時の日本食といえばBENIHANAの鉄板だった。
定期的に照寿司の渡邉さんと一緒に寿司教室もやっている。ここからハマって鮨を握り始めたらいいと思っていて、中には寿司屋を作って今や週の何日かはプロの鮨職人になった人もいる。
作家の本田直之さんは鮨教室に通ってから、月に数回の鮨会をやっている。食べ手として詳しかった彼は、卸先も超一流を使い、包丁も新調してゲストからお金を取ってポップアップ展開をしている。上阪さんも彼のポップアップに行ってきたみたいで、興奮しながら楽しかったことを教えてくれた。そう、鮨を握るということは楽しいのである。そして料理という小さなクリエイティブでゲストを楽しませるというのはもっと楽しいことなのである。
究極の「ウルトラ・ニッチ」はその人本人である。別にナショナリズムに訴えているわけではないが、日本人として生まれてそのメリットを最大限享受出来るのが今だったらやった方がいいのだ。最初は下手で・・・と言われるが、はっきりいって人はそこまで自分のことを見ていない。一番自分の下手さにがっかりするのは自分だろう、それだけ自分に意識が行っているというのは上手くなる可能性を秘めているということ。場数を踏んで、人前に経ってしばらくしたら立派な料理人だ。
考えてほしい、今やスマフォの画像エンジンが圧倒的にアップデートされたことで、ほとんどのカメラマンやビデオグラファーが元素人たちだ。もちろん誰々に師事していて・・・的なカメラマンも消えたわけではないが、昔はそういうカメラマンや映画学校通っていました的なビデオグラファーだけだったのが、もはや自分でなんでも出来てしまう時代だ。料理業界もそんな時代に入っていることを一番分かっていないのが、頭の硬い古い人間たちだ。包丁の持ち方がどう、構えがどう、サーブがどう、修行経験がない、名店での修行経験がないなどなど、プロはプロの視点で批判をしてくるが、ようはその人が楽しくて、食を通して鮨を通して人をハッピーにさせられる能力がどれだけ高いか。この能力しか求められていない。
食は情報を食べる時代、そしてステータスを食べる時代から、エモーショナルを共食する時代に突入しているのだ。