おつかれさま、親父。さようなら、浜田寿一先生。
最愛の親父が旅立っていった。間質性肺炎と長い間戦っていたが、優しい顔で旅立っていった。親父がなくなったその日は特別な一日だった。北九州から朝6時の便で東京に飛び立ち、そのまま赤坂入、そこに豊洲から届いた本マグロを朝から解体する。そしてその夜は長年温めてきたスパークリングの日本酒をついにオフィシャルリリースする。親父はいよいよ6ヶ月間、入院していた大学病院より、特別介護付きの老人ホームへと移動する。前日から部屋のデコレーションなどで、親父は車椅子にも乗ることができない寝たきりの状態だったが病院の風景とは変わって色味のついた温かい部屋に移動することが出来たのもその日だった。きっと疲れていることだろうということで、お袋をスパークリングの日本酒のリリースディナーに誘った。ディナーが開始されてしばらくすると心肺停止の連絡が老人ホームから入った。すぐに救急隊員がかけつけて、大学病院に戻るも彼の心臓の鼓動が戻ることはなかった。
僕が子どものときにPENという雑誌が発売になり、そこから親父の鮨熱が始まった。毎日鮨の話だ。いい店にいくと、値札が存在しないんだ。マグロを競り通すためのセリ札は3000万円するんだ。最高級のマグロを一流の卸してもらえるのは一流の店だけなんだ。だから近所の寿司屋のマグロは冷凍なんだよ。当日の朝、塩釜で釣れたばかりの本マグロを解体しながら、このシーンを親父に見せたいなぁっとそう思っていた頃だった。酒もそうだ、僕の小遣いは近くの酒屋に一升瓶を買いに行くのが仕事だった。その当時、彼は浦霞を飲んでいた。買ってくると100円をもらえた。二級酒だったが、間違って一級や特急を買ってくるとカンには二級酒がいいんだよと言われたことを覚えている。辛口信仰は江戸時代に温度コントロールが難しかったから始まったなど、日本酒好きが講じて上智で酒のコミュニティカレッジのコースを作ったこともあった。そんな親父の大好きだった日本酒のリリースの日だった。
親父がいなければ、アメリカに行かなかったし、そして親父とお袋のコンビじゃなかったら、今の僕の個性も出来上がらなかった。最後は上智の名誉教授になった親父だが、苦労人だ。親父を教職の道へと戻したのが、当時銀行員だったお袋だった。断片的にしか聞かされていないが、文字通りの二人三脚だった。親父との記憶は断片的にしかないが、オーストラリアで過ごした3年間は家族で過ごした時間だった。ちょうど7歳から10歳までの多感なときだったから、記憶に残っている。時間があればロードトリップについていく、小さな車で旅をするもんだから小さな子どもにとっては途中から苦痛だ。それもオーストラリアは広大だから、半日かけての車旅だ。飽きて背もたれを蹴ると、こっぴどく怒られた。オーストラリアでもかけるカセットは同じだった、松田聖子、ダ・カーポ、サーカス。僕の店の鉄板で流されている曲たちだ。
親父が若いときはゼミの学生たちが毎日泊まりにきた。小さなアパートで雑魚寝をするんだから、お袋もよく許したと思う。とにかく毎日誰がいた。親父も学生たちと年が近かったのだろう。大人たちの中で僕は育った。そのときのことは今でもフラッシュバックするときがある。ある日、中国からの留学生がぼくらの朝食のテーブルにいた。婚約した日本人が失踪して、破棄になったらしい。朝からお袋のど直球な大人の話が続いた。親父は黙々と食べてその話を聞いているのか、聞いていないのか分からない感じだった。でもとにかくその学生を家に泊めて、朝食をともにしてあげたい、不器用で人見知りの親父なりの優しさだった。それをいつもお袋がスピーカーのように代弁するのであった。
入院するまでの2年ほど、毎月町鮨にお袋と一緒にやってきてくれた。まさか息子が鮨屋を作るとはPENを読んでいた親父は想像もしなかったと思う。とにかく鮨が好きだった、親父に最高の鮨屋を作ることができて親孝行できたと思うよ。と照寿司のなべちゃんが伝えてくれた。二人で親父に握ったことを今でも嬉しい、そう彼は優しく伝えてくれた。時折、病室に妻と娘と一緒に行くと、目を二倍くらい大きくさせて、そしてミトンの手袋をさせられてミッキーマウスのようになった大きな手で、ウェイブしてくれた。1歳の娘は旅先でも「じぇじぇ」と言って、彼女にとってのじいじに会いたがった。だから今回も中東から戻ってすぐに会いに行った。そのときも同じように手袋でウェイブしてくれたことを覚えている。それが意識ある親父との最後の会話になろうとは思ってもいなかった。あのときに娘が今日はじぇじぇに会いに行くんだと、ずっと伝えてくれたことを覚えている。そんな娘に感謝だ。
親父76年間、本当にお疲れさまでした。そしてありがとう!