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【中編】 テロルの挫折とデジタルなあの世 〜『ときめきに死す』発、『エヴァ』経由、『黄泉ネット』行き〜

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だが、そこにはまた別の幻想が萌芽していることも見逃してはならない。
パソコンはあってもインターネットがまだない時代に漂っていたデジタルな夢の胎動。80年代初頭、現実を超えたいまひとつの現実、ハイパーメディアの可能性は、ネガとポジが抱き合わせになった未分化な幻想として眺められていた。いまだ到来せぬ夢はオカルトそのもの。多くの識者がノーテンキな期待を語るなか、インターネットと名付けられることになる名付けようのないグロテスクな向こう側の露出は、鋭敏な作り手たちの感性をビリビリと刺激した。ネットが形作る世界を、民間伝承やファンタジー作品に登場する異界のバーチャルな変種、早い話が“デジタルなあの世”として捉えた作品が、ここから無数に生まれていくことになる。それは、ただひとつの現実、ただひとりのわたしが相対化されていく未来に向けたせいいっぱいの抵抗だったとも、愛憎相半ばするラブレターだったとも言えよう。
いわばインターネットは、それが登場した時点では、人類の敵となるか味方となるかわからぬ、地球に不時着したエイリアンだったのだ。その脅威に対抗すべく持ち出されたのは、後に見るように、おばけや妖怪といった昔懐かしい恐怖の表象、民間伝承の中にルーツを辿れる霊性の故郷だった。われわれは、異邦人たちに抱く未知なる恐怖を、無意識のうちに怪談という馴染み深い形式の中に招き入れ、その不安を和らげようと企んだのである。
こうしてテクノオカルティズムとでも呼ぶべき新たな時代思潮は、ユングの集合的無意識を都市空間の中に実装し、インターネットをうわさのネットワークの統御装置、闇の集合知として予見的に描いたいとうせいこうの小説『ノーライフキング』(88)を皮切りに、90年代から2000年代前半にかけて3つのエポックメイキングなアニメ作品を生み出すに至った。
『Serial Experiments Lain』(98〜)では、都市伝説が組織するうわさのネットワークがサイバースペース(作中では“ワイヤード”と呼ばれる)と結合することで次第に現実を侵食し始め、薄れていくその境界上で、仮想空間における神、偏在する複数のわたしのあり方がラディカルに提唱される。『電脳コイル』(07〜)では、主人公のおばあちゃんが経営する駄菓子屋が“電脳探偵局”の本部に据えられるなど、土俗的因襲的な世界観とデジタルガジェットとの折衷が試みられ、あの世とこの世を分かつ鳥居が現実とネットの境界に見立てられることによって、ロボットが管理する未来都市にフォークロア的な恐怖が接続される。
そしてなにより、『新世紀エヴァンゲリオン』(95〜)の要諦を成す人類補完計画、全人類が肉体を捨て巨大な霊的存在として一体化する計画こそは、仮想現実において初めて可能となる夢、永遠のこどもが安住するにふさわしいおもちゃのゆりかごだろう。だがここには、現実とネットに分裂した主体を生きていくこと、固有の欲望を保ち、清濁を併せ呑む大人になることへの鋭い嫌悪と葛藤が感じられる。戦後急速に失われていった健全な成長のモデルを、家族の・ようなもの=擬似家族のモデルを使ってシミュレートした森田芳光の試みは、90年代に入ってバーチャルな想像力に取って替わられたわけだ。
事実、『Lain』には、『ときめきに死す』中の不気味な食卓の情景がいっそう過激な形で登場し、もはやがらくた同然と化した擬似家族モデルの退廃ぶりがあらわになる。主人公の少女・岩倉玲音と母親が交わす言葉はほとんど無意味で、気だるげな受け答えはシュールなコメディーのようだ。家族の会話はすれ違いを続け、一家団欒の場であるはずのリビングには不快な咀嚼音だけが響く。(『Lain』はおそらく、世界で初めて咀嚼音を音響効果として用いた作品だろう)
『エヴァ』と『電脳コイル』のいずれにおいても、安定的な家族モデルは既に崩壊しており、主人公と両親との関係は不全の状態に陥っている。そこにはほとんど大人が存在しないかのように見え、“エイリアン”に抗する力を持っているのは、幸か不幸かこどもたたちだけだ。『エヴァ』において、主人公・碇シンジの母親役を代理する葛城ミサトは、性愛の要素を取り繕うことのできない不完全な恋人として描かれる。彼女はいわば『ときめきに死す』のみどりの逆パターンであり、母になりきれない未熟さのために姉になることすら適わない、体だけ成長したこどものようだ。あまつさえ、過剰なまでに父の権威を発散するシンジの実父・碇ゲンドウですら、その欲望は、美少女フィギュアを収集するおたく少年とほとんど変わりないのだから呆れる。家族システムの崩壊によって不能化した欲望が、もはや取り返しのつかないディスコミュニケーションの中で加速していく光景を、ひとまずここに見て取ることができよう。
いずれにせよ、その黎明期において、ネットがもたらす新たな現実や身体意識が、これまでとはまったく異質の怪談として眺められていたことは間違いない。でなければ、コンピューターやロボットといった新種の機械文明の中に人物を置く三つのアニメ作品が、いずれも思春期の少年少女たちを主人公に据え、そのアイデンティティの揺らぎを、死への恐怖や怪談の形式を使って描いた理由をうまく説明できない。大人とこどもの狭間で揺れ動く未分化な身体感覚は、人類が迎えつつあるデジタルな幼年期の不安を代理するものと捉えられたのである。
こうした事態は、バブルが弾けて以降、70〜80年代の牧歌的なオカルトブームが急激に陰惨化し、血みどろの都市伝説を生んでいった背景とも関わる。『ノーライフキング』が予言した、学習塾を中継して学校や地域をまたいで広がるうわさのネットワークは、より広範な形でオンライン上に実装されるにつれ、やがて都市全体をも呑みこんでいった。「ねえねえ聞いて、あの子ってばさ〜」という町のうわさがネットを通じて不気味なリアリティーを獲得していくさまは、『Lain』において詳細に描写され、その試みは、後に“少年バット”の都市伝説が現実をモザイク状に変容させていく『妄想代理人』へと引き継がれることになる。いわば都市伝説とは、たったひとつの現実がオカルト的な想像力に傷つけられることによって生まれた別種のリアリティー、現実の傷口から出た膿のようなものだったのだろう。あの世とこの世が混ざり合う地点に現れるのは、当然、おばけや幽霊ではあるまい。それは半分人間・半分おばけの、ハサミや斧を持った“怪人”たちなのだ。要約すれば、かつて人々が遠巻きに楽しんでいたUFOとネッシーが住む向こう側の世界は、ネットを通じて次第に現実へと流れ込み、口裂け女と斧男が跋扈する仮想的な暗部を形成するに至ったわけだ。デジタルなあの世が顕現しはじめたのである。
とするなら、95年に1作目が公開されて以来、99年までに4作を数えた映画シリーズ『学校の怪談』が大ヒットを記録したのは、このような事態に対するアンビヴァレントな人心感情を反映した結果だったとも言えよう。田舎の小学校を舞台におばけや妖怪が跋扈する古き良き怪談の世界を甦らせた本シリーズは、こどものみならず大人からも熱い支持を得た。たとえこの企画が往時の都市伝説の流行にならったものだったとしても、そこには無意識のうちに、ネットや都市が形成する悪場所を、怪談という日本人の身に馴染んだ形式の中に取り込もうとする意図が働いていたのではないだろうか?いつの時代もなつかしさはエクソシズムである。毒をもって毒を制す。大人たちは、今まさに顕現しつつあるデジタルなあの世に、徹底的にアナログなあの世のイメージをもって対抗しようとしたのだ。夏休みのファミリー向け映画の枠を借りて、フロイトが呼んだ不気味な(unfamiliar)形象を、親しみやすい(familiar)恐怖の鋳型の中に流し込もうと試みたのである。文字通りのfamily=安定した家族制度が崩壊した時代にあって、慌てて呼び戻されたのは、取り壊される寸前の老朽化した旧校舎や、おばけや幽霊の住まう忘れ去られたフォークロアだったというわけだ。
シリーズを通して描かれるのは、小学生男女がてけてけや動く人体模型といったおばけたちと対決し、こども同士の友情とほのかな恋心を育んでいく成長の過程だ。おばけは決まって木造の旧校舎に現れ、古くなり忘れ去られていくものへの郷愁を掻き立てる。大人の観客にあってみれば、そこに自身の失われたこども時代を重ねてノスタルジックな連想に耽ることも可能だったに違いない。
だが、ジュヴナイルな冒険物としての外皮の下には、古くなっていく現実の手触りと新たに勃興しはじめた異質のリアリティーとの間の緊張がたしかに横たわっている。荒れ果てた木造校舎はシリーズが進むごとにこざっぱりした装いに変わっていき、まるでネットなど存在しないかのようにふるまっていた童話的な世界は徐々にテクノロジーの襲撃を受けていく。なかでも、『学校の怪談2』に登場する恐怖シーン、コンピューター室に立ち並んだパソコンのモニターが真っ赤な血に染まる光景は、荒れ果てた教室とのアンバランスも相まって、アナログ/デジタル、農村/都市、大人/こども、現実/ネットといったさまざまな緊張関係の極限的な表現として読むことができよう。デジタルなあの世をふたたびアナログに送り返そうとする試みは、流血の困難を伴うものだったのだ。
『Lain』の物語は、風俗街のビルの屋上から飛び降り自殺した少女から、玲音のパソコン(作中では“ナビ”と呼ばれる)にメールが届くところから始まる。血みどろの惨劇をきっかけに、あの世の回路がこちら側の世界へと接続されるわけだ。引っ込み思案な中学生・玲音は最初のうちネットを敬遠し、クマの着ぐるみのような部屋着に体ごとくるまることで心の安定を得ている。真っ暗な部屋の中でぼんやりと蹲るこの小熊の姿は、われわれの祖先である原始人が、狩りで仕留めた熊やいのししの毛皮を身に纏うことで、獲物と同様の強大な力を身につけようとした歴史を思い起こさせる。それらは一説によれば魔よけの役割を果たしていたともいう。デジタルな原始時代の幕開けに際し、呪いの力が再び息を吹きかえしつつあることを直感した少女は、無意識のうちに素朴な祖霊信仰の歴史を呼び戻そうとしたのかもしれない。だが、第一話でナビを遠ざけ着ぐるみの中に安逸していた玲音は、ネットの世界に没頭するにつれて人格が複雑に再編成されていき、次第にクマの部屋着に見向きもしなくなる。
また、VR技術が発達した近未来を舞台とする『電脳コイル』では、あの世とこの世の境目が、神社の鳥居という日本土着の霊的オブジェによって表現される。無菌的な都市空間に開いた裂け目、“バグ”と呼ばれるデジタルマッピングのエラーからは、古くなって劣化した煉瓦塀がひょっこり顔を覗かせる。清潔な都市の下には田舎の風景が、装われた皮膚の下にはアナログな手触りが隠されているわけだ。従って、バグが巡回ロボットによって絶えず修復されていく過程は、こどもたちが遊び場にしている町の隙間を殲滅せんとする、デジタルな浄化戦として読むことが出来る。だが、都市の暗部と古きよき田舎の風景との不調和を強迫的な対決によって乗り越えようとする大人たちとは違い、柔軟なこどもたちは、デジタルとアナログのあわいで遊ぶことができる。そもそも、ネット黎明期の緊張した空気を鋭く切り取ったこれらの作品が、いずれも大人とこどもの狭間で揺れ動く思春期の少年少女を主人公にしているのはゆえなきことではあるまい。日頃からあいだ(インター)の世界に生きる彼らであればこそ、新たな世界の扉を開く戦士として特別の力を持ち、最前線で戦う道が開かれるのだ。
このように読んでくると、こどもたちが古色蒼然たるおばけと対峙する『学校の怪談』のストーリーの裏には、急激な技術革新の波に取り残されつつある大人たちの危機感が隠されているようにも思える。取り壊される旧校舎や打倒されるおばけたちに、彼らが自らの複雑な立場を重ねたと見るのは穿ちすぎだろうか?未熟なCG技術によって作られたおばけには、まだぎりぎりで触知できそうな質感が残されている。
しかし、99年公開の4作目をもって実写版が完結した後、『学校の怪談』は、よりフラットでひっかかりのない次元=アニメーションのなかに表現の場を移していくことになる。それは奇しくも、20世紀から21世紀に向かう劇的な時代の転換と軌を一にしていた。では、日本人の霊性に根ざした古き良き田舎の風景、なつかしい暗闇がわれわれの記憶から失われた後、“おばけ”たちはどこへ行ったのだろう?


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