みんな迎えに行く先を間違えてない?🚙=꒱‧* 〜“胸糞映画”『胸騒ぎ』感想〜
『胸騒ぎ』見た。もうやめよや。胸糞映画とか下品な言葉作って、ここ胸糞で嫌ですよね〜とか、そんなんおもろいか?
映画には夢を見せてほしい。よくできた夢か、とびきり精巧な悪夢を。
たしかに上手いところはある。が、うまきらない。
うまきらない70点ぐらいの作品が一番苛々するので御容赦を。
だいたい、胸糞とかそーゆーんじゃないんだよ映画は。『胸騒ぎ』がそれぞれの演出で参照してる『ファニーゲーム』(なんかや〜な感じの“隣人”との噛み合わないやり取り)、『ドッグヴィル』(脱出できたかと思いきや逆戻り)、『ゲットアウト』(不気味な人物の“叫び”が実は「ここから逃げて」を表す)、そしてなぜか全く不発の『サンセット大通り』(プールに浮かんだうつ伏せ死体)の監督たち、ミヒャエル・ハネケ、ラース・フォン・トリアー、ジョーダン・ピール、ついでにビリー・ワイルダーは、言っとくけど100%うまきるマスターだからな?
悪夢にこそ慎重さが必要。
あとランティモスの『籠の中の乙女』『ロブスター』とかの“胸糞映画”にも数学的エレガンスを感じさせるほどの完璧な悪夢構築手腕がはたらいていて、それゆえ、胸糞だけでは終わらない。映画としての豊かさや快楽、余分なものがちゃんとある。でも『胸騒ぎ』は“それだけ”の映画じゃん?よくないよ。
誇張でも皮肉でもなく日本一の映画批評家・町山智浩も、こーゆーの当たり前のように推すのよくないよ。影響力あるんだから。健康的じゃない。『胸騒ぎ』の監督は明らかに将来性のある人だけど、少なくともこの作品は“胸糞のための胸糞”で、豊かなところがなにもないじゃん。しかもその逆算的に作られた筋立ても、重要な場面の演出がことごとく上手くない。練られてない。「この道しかなかった」ように見えない。から、いちいちもやもやさせられてしまう。
例えばハネケのように隙なく精巧な悪夢が構成されていれば、それはそれで虚構の生産物としての映画を見る快楽が生まれてき、現実に則した倫理とは異なるフィクション作品の健康的な倫理が付与されるのだが。
現実に則した倫理とは異なるフィクション作品の健康的な倫理、それ即ち「おもしろい」ということだ。いろいろあるけどまずは「見ていておもしろい」「作品に参与する時間と経験自体に快が認められる」という以外に、映画の倫理などありえない。見ることの快楽がないただ“それだけ”の作品は、観客に対して礼儀を欠いていると言わざるを得ない。
だから、客も客だし、批評家も批評家。YoutuberもYoutuberだよ!
しっかりしてくれよ。
いい作品と作品環境をつくるのは、送り手と受け手の共同作業だろ?
甘やかしちゃだめだろこんなの。
ふつーに考えて、まだまだこっちから迎えにいかなきゃなんない半端な作品じゃん?
芸術に対してぐらい、迎えにいきたいないんだよ俺は!100%の虚構で、向こうから完璧に満足させてほしいんだよ!なんでちょっとの距離歩かなきゃなんないんだよ(笑)
70点ぐらいの作品のなにがムカつくって、「まだまだ荒削りなところは多いが、将来が楽しみな才能の登場である」とか、無意識に足りない30点分こっちから迎えにいっちゃうところ(笑)
やだよそんなの。仕事じゃねえんだから。
みんなついつい迎えにいっちゃってるけど、俺はやだね。芸術に嘘つきたくねえもん。
逆に言うと、お客さんに待ち合わせ場所まで迎えに来させる失礼を断じてはたらかない作家を、僕は“マスター”と呼んでいる。
胸糞どーこー関係なく、ランティモス、ハネケ、トリアー、ピールはみんなマスターだからな?
なめんな。
内容で公平に評価しろ。
あとさ、迎えにいくんならせめて、こんな陰気な“胸糞映画”にじゃなく、明るく楽しい作品の方に対してそうしない?
ちなみに予告編はよくできてて、本編よりずっとおもしろい(笑)