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DJ ShadowのMV『You Can't Go Home Again』を映画として見た!(脳内で)

映画『You Can't Go Home Again』
予告編


車が主人公の映画である。
ニューヨーク一帯を牛耳るイタリア系マフィアの逃走車両として調達された黄色いスポーツカー。われわれと同じ四本の足と正常な思考能力を持つ彼は、マフィア子飼いの少年ドライバー、チャーリー・ブラウンの手によってライナスと名付けられる。
本作は珍しい構成を取っている。
前半部は、よくあるマフィアものの典型たる人物紹介を兼ねた仲間内のやり取りが披露され、小粋なジョークと罵詈雑言の中にイタリアの血を確かめ合う民族主義的な気配が織り込まれつつ、愚にもつかぬ噂話を通じ人物間の微妙な緊張や対立関係がさりげなく伝えられる。
観客の頭の中におおまかな見取り図ができ上がったところで、“コーザ・ノストラ”(誇り高き者たちの意。イタリアやスペイン系のマフィアは自分たちのことをマフィアやギャングとは呼ばず、このような自称を用いる)のボス、アル・カモネの前に一人の少年が連れてこられる。
汚れたTシャツの袖から青白い腕を覗かせた小柄な男の子。仏頂面で下を向いている。
「だれだ、そいつは」
「へいボス、新入りのドライバーでさ」
少年を引っ張ってきたカモネの腹心ナシ・パチーノが答える。
「ドライバーだと?まだほんのガキじゃねえか」
「それがちょいとわけありでして。こう見えても操縦の腕は天下一品、度胸の方もなかなかのもんです。あっしが保証いたしやす」
「おもしろい。ついてこい」
けたたましいエンジン音とブレーキ音。カモネとパチーノを後部座席に乗せ巨大な立体駐車場の中を縦横に走り回るパジェロ・ミニ。カモネの愛読書にちなんでチャーリー・ブラウンとあだ名された少年は、無表情を保ったまま最高速度のスラローム走行と1mmのズレもない完璧なストップ&ゴーを成功させる。
「やるじゃねえか、ガキ。誰に運転を教わった?」
鼻高々のパチーノ、ご満悦のていのカモネにそっぽを向いてチャーリー。
「·····じゃない」
「ああ?」
「ガキじゃない」
「なんだと?」
「ガキじゃないって言ったんだ。僕は来月で14になる。もう十分大人だよ。それから、僕に運転を教えてくれたのは父さんだけど、だからどうってわけじゃない。あいつは僕と母さんを残して逃げた最低のクソ野郎だ」
「威勢がいいな。その親父はなんてんだ?」
「さあ?ほんとの名前は知らない。仲間からはスヌーピーって呼ばれてたみたいだけど」
「スヌーピー?そいつは今·····」
「死んだよ。二年前、フィラデルフィアで。マフィアの抗争に巻き込まれたって聞いた」
「二年前だと?まさかおまえ、あの時の·····」
戸惑いつつ両者の顔を見比べるパチーノを尻目に、にやりとほくそ笑むカモネ。
「なるほど気に入った。おまえをファミリーに迎え入れよう。なにか欲しいものはあるか?」
「·····ま」
「あ?」
「車。こんなぽんこつじゃ速度が出ない。走行音もうるさい。ギアの立ち上がりだって遅いし、少しだけどハンドルに引っかかりがある。ってゆーか、ファミリーカーに乗ってるマフィアってどうなの?」
カモネ思わず肩をすくめ、
「偽装にはこいつがうってつけなんだがな」
「それならもっといい方法がある。真っ黄色のスポーツカーを用意するんだ。街で一番目立つやつ。そんなバカげた車にまさかマフィアが乗ってるなんて誰も思わないよ」
「なるほど。ますます気に入った」

こうして無口な少年チャーリーと、ピカピカのスポーツカー・ライナスのコーザ・ノストラでの幸福な日々が始まる。
ファーストミッション。見事成功。
セカンドミッション。首尾上々。
サードミッション。感度良好。
さらに数年。
エトセトラ、エトセトラ。
小気味いい編集によって、チャーリーが瞬く間にカモネの信頼を勝ち取り、組織の中枢にのし上がっていくさまが活写される。
気弱な少年は、いつの間にか長髪を振り乱したたくましい青年に成長している。
そうして訪れる運命の日。
エンジンをかけたまま、膝を抱きかかえ、真っ暗なライナスのシートに一人うずくまっているチャーリー。やがてしらじらと夜が明け、チャーリーが外に出ると、ガレージには組織の主だった構成員が勢揃いしている。
「遅いぞチャーリー坊や!」
「大事な日だってのになにやってんだ」
「調子は?」
「ひさびさの大仕事だ。頼むぞ」
口々に声がかかる。
パチーノに乱暴に肩を叩かれながら、チャーリーはいつも通りそっぽを向いたまま、
「うるさい」
そこにカモネが現れ、無言の頷きを交わしつつ車に乗り込む二人。
バタン!
同時に、暗転。

次にわれわれが目にするのは不思議な光景だ。
高速度で移り変わっていく景色。
街路や木々、高層ビルやショッピングセンター。思い思いに時を過ごす人々。
画面はセピア調のモノクロに変わってい、風を切る音と低い唸り声のような音のほかは、まったくの無音。
スクリーンの端に時折捉えられるカナリアイエローの枠組みから、観客は今見ているものがライナスのフロントウィンドウ越しの景色であることを知る。
だが、なぜ?
チャーリーは?
カモネは?
パチーノは?
取引はどうなった?
無数の疑問が頭に浮かぶ。
その疑問に答えるかのように、孤独なドライブの隙間を縫って断片的なカラー映像がカットバックされる。
足。
二本の。
隣に、さらに二本。
バタン!
ドアが閉まる音。
カメラが上昇してチャーリーとカモネの凸凹な背中を映し出す、さらにアップしてコーザ・ノストラ一行、正面に対峙するスーツ姿の男たちの姿を俯瞰でキャッチする。
横一列になって向かい合う屈強な男たちの後ろには黒塗りのバンがカブト虫のように連なり。
その中央に、場違いな黄色いスポーツカー。
ライナスの前に立ち、ひそかに後ろに回した右手でボンネットを撫でているチャーリー。
不安げな手指の動きをクロースアップで捉えた後、カメラはそのままボンネットを這い上がり、フロントウィンドウの中へ吸い込まれていく。

·····と。
元通りのセピア色の景色。
手を繋いで通りを行く小さな男の子と父親の姿がこちらに追いすがるように一瞬膨れ上がり、飛び去っていく。
ブゥゥゥーン。
静かなエンジン音。
景色、また景色。
眠気を誘うその連続。
運転席には誰もいない。
前半とは打って変わり、そこには笑いさざめきも下品な軽口もなければ、チャーリーのあたたかな熱もない。
からっぽのシート。
「·····思い出しているのだ」
多くの者が気づく。
「これは車越しに“見えている”景色などではない。ライナスが、彼自身が今まさに“見ている”景色そのものなのだ」
そしておそらくは、なにかを、あの日起こった出来事を回想している。
道なき道をひた走り、何度も何度も、執拗に。
なにかを悔やんでいるのか?
シーンが進み、ライナスの回想がトラウマの核心部に近づくにつれ、カラー部分のカット割りのタイミングは性急になり、その記憶は分裂的に、混乱したイメージのでたらめな集積と化していく。
「逃げろチャーリー!」
銃声。
旋回する画面。
「くそ、ハメやがって!」
「出せ!早く!ライナスを!」
「足が·····」
「ボス!ボス!」
血塗れのパチーノの顔のアップ。
なにごとかを訴えかける口元のスローモーション。
「チャーリー、言っておきたいことがある。おまえの親父は·····」
カモネの声?
「あぶない!」
爆発音。
炎に呑まれる車。
さらに思い出す。
舗装路を外れた、荒れた砂利道。
交互に突き出される汚れたスニーカー。
息遣い。
ハア、ハア。
大量の血がアスファルトに広がる。
シャツの袖口からだらりと伸びた手。
「思い出すな!」
チャーリーの声だ。
「振り切れ!振り切れ!振り切れ!」
ザク、ザク、ザク。
やがて砂利道は途切れ、粒の細かい砂地が現れる。
波音。
画面は静止し、息遣いが高まる。
ハア、ハア、ハア。
「いたぞ!逃がすな!」
「クソ!走れ!走れ!走れ!」

走って走って、ライナスはプエルトリコ人居住区の貧しい通りにさまよい込む。
画角変わって、通りの一角にふらふらと侵入していくライナスの姿を上空からキャッチ。
と、画面が色づきはじめ·····
タラタッタ!
MPCによる強力なドラムビートに不穏なベース。DJ Shadowの名曲『You Can't Go Home Again』がかかり始める。
ラップトップPCでの手軽な音楽制作が一般化する以前、ヤツはニューヨークの潰れたレコード屋の中で夜な夜な5万枚ものヴァイナルを漁り続け、あらゆるジャンルのレコードから切り出した音を神業のごとく繋ぎ合わせこの曲を作った。
おわかりだろう。本予告は、チャーリーを失ったまま一人走り続け、走って走って、ついに力尽き、今まさに緩慢な死を迎えようとしているライナスが見た最後の光景、混濁したイメージがミルフィーユ状に折り重なった後半部をそのまま切り取ったものなのだ。

こうしてあらすじをなぞり書きしてみたところで、依然として謎の多い、不思議な映画だ。
全体の構成は以下の三部に分けることができそうだ。

①チャーリー視点によるマフィア・ストーリー&一人の少年のビルドゥングス・ロマン(成長譚)
②ライナス視点によるドライブ映像と“あの日”の回想のカットバック
③俯瞰視点(神の視点)による幻想的な映像=ライナスが見た末後の情景

第一部は“あの日”の直前で唐突に途切れ、その後なにが起こったのかは明らかにされない。第二部の回想場面からおぼろげにその様子を窺い知ることはできるものの、パチーノやカモネ、チャーリーの生死は不明のままだ。
だが、注意深く見ていると、第三部に多くのヒントが隠されていることに気付くはずだ。
ライナスはおそらく、死にかけている。
そしてそのコンディションは、走る、逃げる、逃走する、という運動がチャーリーのそれと重ね合わされていたのと同様、長年シートをあたためた相棒の熱とひそかにリンクしているようだ。
第三部を分析してみよう。

ちょうど予告編の全編に当たるこのパートは、ある街の通りの一角を舞台に、クレーンカメラ一台によって撮影され、場面転換なしのワンカット風の映像に仕上げられている。
カメラは真夜中の通りを振り子のように、死神が持つ大鎌のように揺れ動きながら、その振幅の度に、複数の人々の微妙に連関を欠いた行動を上書きしていく。
まず最初に登場するのは、街路にゆるゆると侵入してくる黄色いスポーツカー=ライナスと、その追跡から逃れようと必死に走っているように見える長髪の青年=チャーリーの姿だ。
この場面は幾度も反復され、その都度通りに存在していなかった人間が増えていくことから、われわれが目撃している映像が現実そのままの光景ではないことがわかる。
夢幻的な映像体験を可能にしているのは、ある単純なトリックだ。
全編がワンカットで撮影されているように見えて、実はカメラの振幅が最高地点に達しフレームが一面の闇に覆われた瞬間、カットが切り替えられているのだ。
そもそも、映画において、あるひとつのカットの前後に配置される二つのシーンの間には時間的・空間的ないっさいの繋がりが存在しない。
カット前にAの人物が居間でくつろいでいるシーンが映し出された直後、突如としてBの人物が空港に降り立つシーンが映し出されたところで、観客は特に不自然には思わないだろう。なぜなら、「映画とはそもそもそういうもの」だからであり、われわれは普段「映画内の時空間と現実内の時空間には関連性がない」ことを無意識の前提として映画を見ているものだからだ。
裏を返せば、ワンカット撮影には大きく二点のメリットが認められることになる。

①カットが切り替わらない=映画内の時空間が分断されないことによって、本来繋がっていないはずの映画内の時空間と現実内の時空間が繋がっているかのような錯覚を観客に抱かせる。
②①の効果によって、観客は、映画の上映中、登場人物たちと「同じ時間を生きている」かのような感覚に陥り、「今・ここ」で起きている出来事をリアルタイムで目撃し共有している気持ちになるぶん、観賞の集中度が増し、画面の緊張感が高まる。

②の理由から、ワンカット(風)撮影は主にサスペンスジャンルの作品において多く用いられてきた。
もっとも有名な例はおそらくサスペンスの巨匠アルフレッド・ヒッチコック監督による密室劇『ロープ』だろう。
ひさびさに同窓生が集まる名門大学のパーティーの場。ささいな諍いからかつての旧友を殺めてしまった男が続々と到着する客たちから己の罪を隠すべく苦心する。
物語は殺人の舞台となる一室でのみ進行し、犯人がじりじりと追い詰められ焦りを深めていく様子がダイレクトに伝わってくるため、観客は社会正義の観点から見れば到底許されぬ行為に手を染めた男に感情移入しつつ、部屋の外に出ることができぬ視点の共有感覚に息苦しさを覚える。
だが実のところ、こうした究極の密室劇においても、カットは巧妙に切り替えられている。
登場人物がカメラの前をよぎる瞬間、その背中がレンズを覆い隠しフレームが闇に閉ざされる一瞬の隙を狙ってカットがかけられているため、傍目にはスムーズな映像の連なりのように感じられる仕掛けだ。
同様の手法は、女性を狙う連続殺人鬼の凶行を描いたサイコスリラー『フレンジー』において目覚しい効果を上げている。
冒頭、一度目の殺人シーン。犯人が女性の首を絞め上げるショッキングな映像をたっぷり見せた後、さあ二度目の殺人シーンが来るぞという見せ場の直前、なんとカメラはすいーっと引きはじめ、今しがた犯人の背中にくっついて登ってきた階段をゆっくりと逆戻りするや、そのまま通りの外へ出ていってしまうのだ!
そうして観客の側に接近してくるカメラの運動が通りを水平に横切っていくエキストラの人物の背中とかち合った瞬間、カットがかかる。
続くシーンとのなめらかな接続によって、観客は否応もなく不気味な時空間の中に投げ込まれ、眼前で展開されている情景のグロテスクな非現実性とも相俟って、悪い夢の中にいるような心地を味わうわけだ。

「同じシーンを二度見せる必要はない」と語るヒッチのいじわるなエンタメ美学が炸裂したこのシークエンスにイカれたのが、『キャリー』で知られる反骨の映画作家、ブライアン・デ・パルマ。
アル・パチーノ演じるイタリア移民の青年がマフィアファミリーのボスの座にのし上がっていく名作『スカーフェイス』で大胆なアレンジをやってのけた。
パチーノが浴室に男を閉じ込め残忍な拷問が繰り広げられようかというまさにその瞬間、カメラは我関せずとばかり後退を始め、そのまま部屋の窓から外へと飛び出し、俯瞰で通りを舐めた後、さらに下降して道路に停められた車に乗っている別の人物へとフォーカスする。
「あえて見せない」おあずけ演出により、観客は自らのイメージソースをフルに使って「わたしが考える最も残虐な場面」を脳内保管するほかなくなり、その想像に寒気をもよおすに違いない。

イタリア系青年のビルドゥングス・ロマン、ワンカット風の撮影手法の導入、幻想的な演出、荒涼たる雰囲気など、本作『You Can't Go Home Again』は『スカーフェイス』と多くの要素を共有している。ことに第三部は『スカーフェイス』を発想源にしていると見ていいだろう。
とはいえ、鬼面人を驚かす種類のデ・パルマの驚異(ワンダー)に対する感覚と本作のもの悲しい雰囲気とでは明らかに異なる感触がある。
それは奇しくも渇いた暴力性と叙情が混在するDJ Shadowの同名曲からわれわれが受け取る感覚そのままだが、しかし、映画にあってMVにないものは「物語」の存在だ。
第一部と第二部の物語を受けてこそ、第三部の映像は、一見バラバラなイメージ同士を結びつけ、確固たる象徴性を付け加えていく。
第三部に登場する人物たちとその行動が喚起するイメージを見てみよう。
逃走するチャーリーと、その背中に追いすがるライナスの姿に重ね·····

①白い息を吐き、悲しげに壁に手をつく女性。カメラが最高地点まで上昇しカットが切り替わると、彼女は恋人らしき男性と口論を始める。
②時計売り?の少年。巨大な掛け時計を抱え、よたよたとよろめく。
③通りに停められた車のフロントガラスを叩き割る女性。しかし、車内から金品を奪い盗る目的はないようだ。
④ジャケットやジーンズなど、何者かの手により窓から放り出され、乱雑に通りに折り重なっていく衣服。

これらすべてに共通しているのはズバリ、死のイメージだ。
①は愛する者との別れ=離別を。
③は車の破壊、即ちライナスの肉体に加えられる暴力と荒廃を。
④の脱ぎ捨てられ、室外へと投げ捨てられる衣服は、ぬけがらになった人間のボディー、死体を想起させる。
②についてはどうか?
巨大な時計は時間を司る神=クロノスの形象化であり、クロノスは西洋の伝統的な図像表現において大鎌を持った死神として描かれてきた。いかなる人間も時間による支配と強制力=死神の力には抗えないからだ。小柄な少年が自分の顔より大きい時計に振り回され、肉体の主導権を奪われているように見えるのはそのためだろう。
神といえば、沈黙する神と問う人間との相克を主題にしたスウェーデンの巨匠イングマール・ベルイマンの哀切極まる作品『野いちご』にも、丸時計は印象的な姿を覗かせる。
老齢に差し掛かった男性教授が少年期の甘やかな恋を回想し、迫り来る死の気配と対峙するうち、次第に虚実入り交じる夢幻的な世界の中に呑み込まれていく。
一寸先も定かやらぬ濃厚な霧が立ち込める街路で主人公が出会う時計は、無意識の欲望が幸福な過去を希求する時間と未来から接近する避け得ぬ現実時間との狭間で、ある残酷な決断を迫る。
「生きるべきか、死ぬべきか」
死と時間の結びつきを伝える図像表現はさらに、5時間に及ぶ大作『ファニーとアレクサンドル』の中にいっそうわかりやすい形で登場する。
父を失い、信仰に篤い母の下で厳格な教育を受ける兄妹。兄のアレクサンドルは、一人きりでの心細い留守番の最中、無愛想に時を刻む柱時計の背後に、巨大な鎌を振り上げた死神の幻影を目撃する。子供が抱く死に対する漠然とした恐怖を描く名シーンだ。
すると本作における表現ーー小さな少年が巨大な時計=死に足を取られ、たたらを踏むーーは、さしづめベルイマンの傑作二本のいいとこ取りと言ったところか。

まだある。
①~④のシーン、及び人物たちの行動からははっきりとした目的が読み取れず、そのいずれもがあるひとつの出来事が発端から終結へと向かう道程の「途中」に閉じ込められている。おまけに彼らには互いにその存在が見えていないらしく、めいめいがバラバラな時間感覚を生きているように感じられる。
ここに漂っているいかんともしがたい孤絶感、ディスコミュニケーションの絶対性こそ、この通りがチャーリーとライナスが行き着いた死の国であることのなによりの証拠ではないだろうか?
おそらく彼らは、それぞれが固有の死の物語を語り、生き続ける、孤独な演技者なのだ。

とはいえ、無明の闇に閉ざされた死の世界にも、朝は来る。
クレーンカメラが振り子のように揺れ動くたび、景色は少しずつ夜から朝へと移り変わっていく。
やがてしらじらと明けゆく空の下、バイクに跨った不良少年たちが爆竹を焚いて走り出す。
シャドウのドラムが跳ね上がる!
朝靄を切り裂く火花の閃光は“あの日”の車の爆発炎上シーンを想起させるものだが、しかし少年たちがチャーリーとライナスの道行きと逆方向に走り去っていくことから、これが幾許かの希望を含む表現であることがわかる。
さすれば、本作における最大の謎、「なぜチャーリーは親友であるはずのライナスの姿に怯え、逃げているのか?」という謎にもおのずと答えが与えられよう。
あの場面は、二人がそれぞれバラバラに体験した末後の景色が、想像的な死の街路において、希望の感覚のうちに組み合わされ、イメージの中で巡り会ったものなのだ。
即ち、チャーリーは第二部に登場するマフィア組織から逃げている。
ライナスは、親友を守れなかった罪悪感に苛まれつつ、チャーリーの幻影を追いかける。
チャーリーが恐怖の表情を浮かべつつ必死に走り抜くのも、その割にはライナスの走行速度が異常に遅く、途中で追跡を振り切られるのもそのためだ。
「チャーリーに会いたい!
今一度、あの少年の熱を肌身に感じたい!」
ライナスの願いは最後まで届かない。
二人の追いかけっこは停止した時空間の中に封じ込められ、黄色いスポーツカーは永遠に無口な少年の背中に追いつくことができないのだ。

しかし。
二人がともに同じ願いを持すならば。
鉛のようにずっしりと重い足取りの一歩を、それでも前に進めようとするならば。
すれ違う運命が不意に交錯する瞬間、真っ暗な通りに光はたしかに射し込むだろう。
そのかけがえのない瞬間に向かって、ライナスは走り続ける。
何度も何度も繰り返し、映画のように。
失意と幸福の日々をリピートしながら。
いつか手を繋ぐアキレスと亀の姿を夢見て。
















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