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2023年最後の映画日記 〜ホラー、終末、フェミニズム、“sweet home”〜

2023年12月30日

大脳辺縁系系の映画に続けて当たった。
サルとヒトの境界線なり突然変異的進化のミッシングリンクとして位置付けられる「人間の動物的本能を抑制するためだけに生まれた」脳の器官・大脳辺縁系に著しい損傷を与えるウィルスの大流行により理性のタガが外れ凶暴化した人々が暴力・殺人・レイプに打ち興じる地獄絵図のさなか(明らかにコロナ禍の戯画)「はたして人間はどれほど人間的か?」という哲学的なテーマが鋭く提示され、主人公の美男美女カップルの人間的情感の最たるものとしての愛が人間に残存する動物的本能としての暴力性にテストされていくグロ描写限界突破のエクストリームホラー『哭悲(こくひ)/THE SADNESS』は、60年代の日活や松竹映画を思わせるフリージャズの劇伴使用がおもしろくひさしぶりに生音サックスの衝迫が腹に来た。
他方、愛妻家のキアヌ・リーブスが妻と子供が旅行に出かけている隙に現れたブロンドとブルネットのイケイケ美女二人組に誘惑され最初は断るもののあまりにもグイグイくるもんだからさすがにこれはイケる気がする〜と3Pハッスルやらかしてしまったら地獄行き、明けて翌日から美女たちはクレイジーサイコな本性をあらわにしはじめ····という結構の『ノック・ノック』は意外にも繊細な心理描写を交えつつワンアイデアをガンガン展開させて飽きさせないばかりか「動物と人間を区別する理性的な器官としての大脳辺縁系がはたして男性にあっては正常に機能しているか?」つまり「男性はどれほど理性的か?」を女性二人が殺人クイズ形式で審判していくラディカルフェミニズム的なテーマの一貫性と徹底ぶりが素晴らしく、The Pixiesの“Where is my mind?”が爆音でかかるラストに通常なら「ファイトクラブこすりもうええてwww」となるところ不覚にもむちゃくちゃスッキリしてしまう選曲の妙にたじろぐ。イーライ・ロスは別に好きじゃなかったが、いくなんでもこれは上手すぎる!おもしろすぎる!参りました。脱輪ならぬ脱帽ものの傑作です。
ちなみに、個人的大脳辺縁系系小説NO.1はダントツで佐藤究『Ank:a mirroring ape』



2023年12月31日

『オクジャ okja』見た。
スラップスティックコメディ色強めで動物主役でロマ・ジプシー風の音楽が流れることから“ポン・ジュノ版クストリッツァ”のような趣だが、相変わらず社会批判の毒は強く、表現上のタブーたる畜殺場面をきっちり描き得たのはスポンサーなしのNetflix製作の映画ならではの成果か。とはいえ、圧巻の出来を誇る過去作と比べればどうしても一枚落ちる印象は拭えず。毎度必ず挿入されているキリスト教的な象徴(韓国は土着のシャーマニズムと結合する形でキリスト教が普及していったキリスト教大国。ポン・ジュノ監督もまた熱心なクリスチャンとして知られる)に関しては今回まったく読み解けず。わかった人おせーて。

ディラン・マッケイでもイアン・マッケイでもないアダム・マッケイって何者!?『ドントルックアップ』見た。最高!ニポンのアニメ大好き!なサブカルコスプレ赤髪パッツン女(※イメージ)に扮するジェニファー・ローレンスちゃん過去一!調子乗りでガキっぽい男性性の悪癖を等身大で体現するディカプリオも、長年アカデミー主演男優賞に恵まれなかった反動から(われわれファンとともに)すっかり身に馴染んでしまった「極端な難役に体当たりで挑戦」して「がんばってる感」の臭みがきれいさっぱり抜け落ちている分、ある意味で『キラーズオブザフラワームーン』の何倍もいいのでは?改めて「いい役者さんだなあ·····」としみじみ感じ入った次第。
ティモシー・シャラメは相変わらず安定の70点だが(「もちろん悪くないが」のライン)、友人のF氏の言う通り「そもそもイケメン枠じゃないですやん」な事実を多くの観客が確認できる点で、むしろ本人にとっても望ましい契機なのではないだろうか。
ティモシーは本来ポスト・イライジャ・ウッドぐらいの“微妙な”位置付けで眺められるのが適当な役者だという気がする。無論、ディスではない。あくまで、映画やフィクション作品において送り手と受け手が共同して作り上げる「表象=イメージ」についての話。例えばチャーリー・カウフマン脚本の名作ラブストーリー『エターナル・サンシャイン』がリメイクされるとすれば、イライジャの役はティモシー以外にはありえないと思う。
いやはやとにかく楽しかった!最高だった!あらゆる方面に毒を吐きまくりつつアメリカという国が抱える本来的な歪さとハリウッド映画最大の主題にして固有のトラウマたる“sweet home”を前景化して見事に包摂する力量は尋常一様のものではなく、昨今流行りの「人類滅亡もの」(パッと思いつくだけでも、同じくNetflix製作でメリル・ストリープ出演の『終わらない週末』、そのものズバリなタイトルを持つ人気ドラマシリーズ『sweet home 俺と世界の終末』、シャマランのズッコケホラー大作戦(シナリオは完全に破綻しているものの、やはり嫌いになれない)『ノック 終末の訪問者』などが挙げられる)の中でも完全に頭一つ、いやいや、上半身一個分ぐらい飛び抜けた出来!
“sweet home”というテーマは『ノック・ノック』(しかしノックと終末が続くな·····)のラストでも皮肉で悪意たっぷりの視点から反転した形で眺められていたが、本作ではまさかの正攻法で救いようのない物語を抱きすくめるところに、アメリカ映画や古典的ハリウッド映画に対する深い愛情を感じる。
これが見れただけでもNetflixに加入してよかったなあ!各種スポンサーに配慮してたら絶対撮れない映画だし!
でもなんか、Netflixのあり方自体にはどーしても反感が拭えないので、今年中に退会しますけども(笑)

※ところで、Netflixに特有の字幕のflix=ちらつき(“flix”は“flicker”、フィルムの視界へのちらつきを意味する単語の派生語で、一部地域ではかつてそのまま「映画」を意味していた)、一瞬波打つように字幕がちらつく現象なんなの?
意図されたものなのか単に技術的な問題なのかが気になる。

やりやがったなおい、いくとこまでいったなあチャーリー・カウフマン! a.k.a 「ハリウッドで最も難解な脚本を書く男」脚本監督の最新作『もう終わりにしよう』見た。
相変わらず「記憶vs時間、キリスト教的抑圧&男女の愛の不可能性」に発した特濃妄想ミルクが器からどばどば溢れ出すメタフィクションだが、妻ジーナ・ローランドの顔をキャンバスに見立て、fragility=弱さやvulnerability=傷つきやすさ、脆さの象徴としての女性性を男性中心主義の刃によってじわじわ責め苛みつづけるジョン・カサヴェテス監督の名作『こわれゆく女』、同じく男性抑圧の猛吹雪とヘロインの肌寒さから成る雪原世界をヒロインがひたすらに逃げ惑う近年再評価著しい伝説の作家アンナ・カヴァンによる幻想譚『氷』など、女性性が男性性に抑圧されている不当さを訴えるためにはまさにその不当な抑圧が加えられている現場そのものを描写する必要があり、したがって苛烈なフェミニズム作品は男性中心社会のあり方を再肯定するホラーな暴力作品と一見して見分けがつかなくなってしまうという表象上の問題を極端な形で露呈したエクストリーム・フェミニズムの先行作例二つが登場人物の口から言及されつつ、どうにかしてその先を目指そうと主人公を乗せた車は視界すらおぼつかぬ雪道のなかをひた走るがまるで時間の経過が存在していないかのごときのっぺりと平板な銀世界のクローズドサークル内に主人公(正確には、この「映画」を「想起」=われわれに向けて語り起こしている「主体」)の記憶と自意識は閉ざされたままで····という具合に、フェミニズムとメタフィクショナルな自己言及性(車のフロントウィンドウなど、本作において窓はなんらかのまなざしなり意識の主体が過去や未来の自分をも含む“他者”の存在性を他ならぬ現在の自分との隔たりを通して覗き見、間接に経験するためのスクリーンへと変じてゆく。「目は心の窓」とはよく言ったもので、なるほど、映画とは他の誰かの人生をわたしが覗き見る経験にほかならないのだとして、わたしの人生もまた誰かが覗き見ている映画なのではないだろうか?)を融合させてチャーリー・カウフマン色に染め上げたグロテスクな傑作。
でもって、ここでもやはり“sweet home”というテーマがトラウマホラー的なもの、容易に逃れ得ぬ制度的に閉じた空間として登場してくる。
毎度お馴染みキリスト教的な象徴については読み切れないところが多いが(ヨブ記のなぞりか?ってな気配濃厚)、「雪が激しくなってきたら戻れなくなる」と心配する女に男が返すセリフ「大丈夫、チェーンがある(I have a chain)」はおそらくひとつのキーポイントで、このやり取り及び命綱としての“chain”という言葉は劇中で幾度も反復される。
とすると、これは単に車のチェーンをばかり意味しているわけではなさそうで、人と人との「絆」、あるいは「聖母子の連帯」“Jesus & The Mary Chain”を含意しているのかもしれない。キリスト教の象徴性を含む映画にありがちな示唆的手法、ヒロインが“Jesus!”と悪態をつく場面もこれ見よがしな読解のヒントとして登場。
ところでこの女優さん、「女性性が男性性に抑圧されている不当さを訴えるためにはまさにその不当な抑圧が加えられている現場そのものを描写する必要があり、したがって苛烈なフェミニズム作品は男性中心社会のあり方を再肯定するホラーな暴力作品と一見して見分けがつかなくなってしまうという表象上の問題を極端な形で露呈した」最新の作例であるところのアレックス・コックス監督による大傑作ホラー『MEN 同じ顔の男たち』でも主演を務め、男どもからとんでもなくひどい目に遭わされていたっけ。
ジェシー・バックレイ、新世代フェミニズムホラークイーンといったところか。素晴らしい演技力と不思議な華を持った女優さん!大注目!

※なお、「女性性が男性性に抑圧されている不当さを訴えるためにはまさにその不当な抑圧が加えられている現場そのものを描写する必要があり、したがって苛烈なフェミニズム作品は男性中心社会のあり方を再肯定するホラーな暴力作品と一見して見分けがつかなくなってしまうという表象上の問題」については、こちらの記事を参照されたし。

全体を通して、ホラー、終末、フェミニズム、“sweet home”というテーマ群をここ数年の映画作品を支配するムードとして読み取ることができそう。

2023年最後の映画に僕が選んだのは、デヴィッド・フィンチャー監督の『Mank/マンク』
ネトフリ限定ゆえ唯一見ていなかったフィンチャー映画だ。
もうね、なんて豊かでおもしろいんだろう·····作ってくれてありがと♡♡♡
舞台は黄金の20年代を過ぎ越し、大恐慌の煽りを受けつつどうにか再起を図らんとする1930年代初頭のハリウッド。若干24歳にして大作に関するほとんどすべての権限を委任された「犬顔の天才少年」オーソン・ウェルズの名作『市民ケーン』の共同脚本家ハーマン・マンキウィッツ(マンクは彼の愛称)の戦いを描く。
皮肉な饒舌家にして信念の人マンクに扮するは、徹底した役作りで知られる俳優ゲイリー・オールドマン。
いまだにあちこちの歴代映画ランキングベスト1に輝き続ける押しも押されもせぬ名作であるところの『市民ケーン』だが、実はアカデミー受賞は脚本賞のみ。作品賞も監督賞も逸しているのだから驚きだ(同年の作品賞はハワード・ホークス『わが谷は緑なりき』に与えられた)。
というのも、メディアから政財界にまで絶大な権力を奮った時の新聞王ウィリアム・ハーストを映画の主人公のモデルとしたせいで、ハースト陣営から激しい妨害工作をくらったためだ。ハリウッドが一人の権力者の圧力によって膝を折ったアカデミー史上最大の恥辱と称される一事である。
当初から危険が予測されていたにも関わらずマンクがハーストをモデルに脚本を書いたのは、過去の私怨や個人的な正義と関わっていた·····というフィンチャーと脚本家エリック・ロスの“解釈”に基づく一種の謎解き=ミステリー映画として読まれるのが、本作についての妥当な見方だろう。
このあたりの虚実綯い交ぜになった事情については、映画ライターの村山章氏のこちらの記事に詳しい。要点が簡潔に整理された素晴らしい内容。


さて、本作を見ていて二つの映画を思い出した。
ひとつは、『ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男』。何十時間もかけた特殊メイクの末にイギリス首相チャーチルになりきったゲイリー・オールドマンが超絶美人のタイピストにベッド越しに“物語”を語り聞かす構図は本作と瓜二つ。
二つ目は、コーエン兄弟の名作『ヘイル・シーザー!』
『ローマの休日』のフロント(偽名)による脚本家ダルトン・トランボをモデルにした主人公が1950年代のハリウッドで奮闘する様子をコメディタッチで描いた映画だ。
先のマンクはユダヤ系アメリカ人。トランボはユダヤ人でこそなかったが熱烈な共産主義者で、1940年代のハリウッドで赤狩りの嵐が吹き荒れた頃、仲間を売るための裁判証言を拒んだ10人の志高い業界人、いわゆる“ハリウッド10”のうちの一人。この件によりハリウッドを追放されたトランボは、『ローマの休日』をはじめとする複数の映画の脚本を変名で執筆せざるを得なかった。
自身ユダヤ系であるコーエン兄弟の映画では、同じく「西欧中心史観や資本主義たるものから迫害されたる辺境の者」という視座からユダヤ人=共産主義者という見立てが施されている場合が多く、本作もその例に漏れない。
マンクとトランボ、二人の被迫害者にして天才脚本家が眺めた30年代と50年代のハリウッドの姿。それぞれを見比べてみるのも一興だろう。

※2011年12月、『ローマの休日』の脚本家クレジットは正式にダルトン・トランボ表記に変わり、約60年の時を経て遅ればせながら名誉が回復された。


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