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イグジット・スルー・ザ・代理満足ギフトショップ ~アーバンギャルド『アバンデミック』批判/twinpale『ショートケーカーズ』礼賛から生活のアナキズムへのドライブスルー~


・始まりに代えて ~なぜ長くなるのか?~

君がわかってくれるなら一行で済むし、だれかが既に書いているなら書く必要はない。
書いても書いてもわかってもらえないから長文になり、だれも書かないから自分が書くハメになる。
めんどくさいことこの上ない。
できればやりたくないし、やめられるもんならさっさとやめたい。
そう思いながらアーバンギャルドと松永天馬についての批評を書き続けてきてもうすぐ10年になる。
こわいですねえ·····

とはいえ、天馬さんは僕よりずっと深い苦悩と晴れやかな絶望を味わってきたに違いない。表現の主たる場であるアーバンギャルドの歴史だけでも15年。
おそろしいですねえ·····

まこと時間の経過というのはおそろしいもので、『前衛都市を知りたい子供たち』vol.5に脱輪が寄稿した『天使化する世界に取り残されて~僕とアーバンギャルド~』の中にぶち込まれた種々雑多な固有名詞の数々はあっという間に灰になってしまった。
もともと「読んだ端からすぐ腐る!」文章を目指して書いたので本望といえば本望なのだが(そうまでして“今”の世界の中に置かれた“今”のアーバンギャルドの姿を捉えたかった。過去や歴史ではなく)、とはいえ、一番変わってほしかった部分についてはまるで変わっておらず、不思議な予言として成就してしまったくだりもある。
「男でも女でもある/ないという現代の天使的、両性具有的な動向をアーバンギャルドは取り逃し続けている」と書いたら、直後に『アンドロギュノス』という楽曲がアンサーソングのようにリリースされたり。
勘違いしてほしくないのは、これは天馬さんが脱輪の文章を読んで影響を受けたとか「あいつは俺のパクリだ!」とかそーゆー下品なことを言いたいわけではなく、単にわれわれ二人がよく似た世界観の中で生きているために、日頃の生活の中で似た種類の刺激を受け取って創作へと昇華し、似た種類の反応を世界に向けて返しているというだけのことなのだ。
よーするに、僕には松永天馬という人の考えていることがよくわかる。昔からずっと、手に取るように。
実際にわかっているかどうかは問題ではない。そもそも自分が考えていることなんて自分自身にすらわからないものだし、答え合わせには意味がない。
だからこそ、書く。批評する。すると書かれた言葉が見知らぬ他者としてしゃべりはじめ、わたしが知らない真実をわたしに教えてくれるのだ。作品は最も身近な他者であり、創作はそのゼロ番目の他者に名付けられる経験を通して初めて自分自身になっていくための演技的な挑戦である。
だからこそ結局は、「わかる気がする」ということの中にすべてがある。作品を通じてそこまでの妄想的直観を抱かせてくれる人間や体験の数は、そう多くはないのだから。

・脱輪ってだれ? ~メンヘラの彼女が「あたしはみんなと違って病気だからうんぬん」と興奮し始めた瞬間を捉え「はいはい、自己紹介いいから」と冷たく返していたらあっという間に複数人と浮気され光の速さで振られた友人のエピソードを自己紹介という単語を聞くたび思い出すという自己紹介~

僕こと脱輪は会社員として毎朝6時起きの休日返上でモーレツに働くかたわら“野生の批評家”を名乗って様々な活動を行っているイケメンである。
「人類初!お金がもらえる文学サークル!」を謳い、“お茶代”という1000文字以上書いて送れば誰でも無条件で原稿料100円をゲットできるとち狂った文学サークルを独力で運営しているあしながおにいさんでもある。
また、この多様性の時代にあって誰をも満遍なく傷つけ誰からも平等に嫌われる“批評”という悪行に手を染めている犯罪者でもあり、映画を中心に、哲学からファッション、モテテクからショッピングのコツまで、この世に存在するありとあらゆる事象をターゲットに日々膨大な文章を書き連ねている孤高のあーちすとなのだが、僕の批評の原動力はほとんど常にこのような妄想的直観に関わっている。
それは「こいつの考えていることが100%わかる!」だったり「Aの映画とBの小説は同じものだ!」だったり「おまえと俺は前前前世から結ばれる運命だ!」だったりする。
統合失調の症状に特徴的な「わたしだけが真実を知っている」系の誇大妄想。
逆パターンとして、「わたしにはどーしてもわからない」系も存在し、わからないからこそわかりたくて書くのだが、結局は同じ妄想的直観が反転した形に落ち着く。
思うに、書き言葉の利点とはまるで無根拠な個人の妄想に謎の威厳を持たせられる点にあり、文章を介して他者へと伝達された妄想はリッパにひとつの解釈として成立し始めるから不思議で、10年間1秒も切らさずその不思議の中に身を置いているうち、そもそもコミュニケーションというのは逆説的な性質を持つものなのかもしれないとまで妄想し出す始末(結局妄想)。
よーするに僕は、自分の妄想を他のみんなと共有して仮想の砂場で一緒に遊ぶために批評という形式を悪用しているわけだが、このことは創作を通じて積極的に他者とコミュニケーションを図っていると表現することも可能なのだからまことものは言いようだ。
ところが、ある時期を境に、天馬さんの考えていることがわからなくなった。
いつもの妄想的直観が働かない。
こんなのはじめて!
こわい。
たすけて。
ぴえん(o̴̶̷̥᷄ ̫ o̴̶̷̥᷅)
というわけで、アーティストにまったくもって共感できないためにどう考えてもアーバンギャルド及び松永天馬のファンとは認められない僕がそれでも自分の考えを理解してもらう目的からこの文章は書き進められる。
当然、自らが拠って立つところの前提を明らかにする必要もあれば、一見さんお断りのヒヒョーなんかクソだと思ってしまう厄介な性格上登場する用語や概念に逐一説明を加える必要もあり、というかそもそも本当の僕は僕が書いたものの中にしか存在しないから、これまでアーバンギャルドについて書いてきた批評を悲しいかな自分自身で再批評しなければならない。
結局僕はジブンというブラックボックスの中身を永遠に説明し続け誰にも聞き届けられることなく死んでゆくわけだが、いったいそれがなんだとゆーのだ!
失礼。
二度目の説明は一度目の説明より丁寧かつわかりやすくなされる必要があるから、当然、一度目より長くなる。
覚悟しておけ。
本稿はこれまで脱輪が書いてきたものの中でぶっちぎりで一番長い。まじでうんざり。やめさせてもらうわ。

・やめさせてもらうわけにはいかない!自分が自分をやめちゃったらおめでとうおめでとうのおつかれさま☆彡なにがあっても絶対逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ ~というわけで、概論というか修学旅行のしおりというかまずは全体をさらっと攫っておこう(^^)~

※なぜ批評が必要か?ファンであることの罠

なにかを買ってただ満足して済ますのは、愛する人の手料理を食べて、おいしいと言わず黙って小銭を差し出すようなものだ。
ふざけるな。まず感想を言え。
どんな一流の料理人だって、真っ先に欲しいのはおいしいの一言であるはずだ。
とはいえ、毎度毎度おいしいの一言だけではあなたの恋人は満足しないに違いない。今日はスパイスが効いてるね、いつもと味付け変えてみたんだ、新鮮な感じがしていいね、など、些細な変化に気付いている旨のコメントを添えれば二人の関係はさらに良好なものになるだろう。
余人の気付かぬ微差に対する厳密な意識の発露。まさにこれこそが批評である。
批評性を欠いた愛好の形式は内容空疎な「愛してる」の言葉と同様長持ちせず、愛情を向けるべき対象の順序(必ず作品→作家へと)をうやむやにすることで、かえって作家の人間性を軽視する結果に繋がりかねない。
顔ファン、ガチ恋勢などもってのほか!
作家は作品の中にしか存在しない。
同時に、作家もまた、あなたと同じように感じ、あなたと同じように傷つく人間であることを忘れてはならない。
アーバンギャルドのファンダム(ファンによって形作られる言葉の空間)を見ていると、こうした基本的な前提がないがしろにされているように感じられる時がある。
仮に、純粋にアーティストに金を落としその活動を賛美し続けることで“推し活”を行う者と、対象を時に厳しく批判するが作品を購入しない=金を落とさない人間の対比を考えてみよう。
実際には、批評を行っているような人間は、資料集めの必要も手伝って相当な金額を文化芸術分野につぎ込んでいるものなのだが、資料集めを目的とする購買行動はどこか不純なものとして捉えられがちだ。
それは消費の形態が信仰の形態を引き継いでいるためである。よく“信者”などというが、推し活は実際に宗教なのだ。
しかし、芸術は宗教とは異なる。ライクアローリングストーン。転がり続けることをやめた石は、やがて苔むし、朽ち果てる。ファンであることの罠は、対象の現在の状態が自分にとって心地よく感じられるからといって、転がり続ける石の運動を無意識に止めおこうとしてしまう点にある。

※アーバンギャルドのファンダムには批評が欠如している

アーバンギャルドのファンダムには批評が欠如している。端的に言って、僕以外にアーバンギャルドや松永天馬について継続的に批判的検討を加えまとまった論考を書き続けている人間を見たことがない。あれだけ批評的な活動を行っているバンドであるにも関わらず!
なるほど、イラストやファンアートの類はよく目にする。それらはどれもみな素晴らしいものだ。個人的に好きな人もいるし、作品がupされるのを心待ちにしている人もいる。しかし残念ながら、絵やイラスト、ビジュアルアートは対象への評価軸を表しにくい。画家が対象を具体的にどのように評価しているのかがいまいち伝わりづらいのだ。そのため自然と、描いた者ではなく描かれた物自体に反応が集中することになる。「かわいい」「尊い」「しんどい」「無理」の大合唱。同じく作家軽視、人間軽視の姿勢である。
だが一方で、アーバンギャルドのファンダムに批評“性”が欠如している、とはけっして思わない。僕が見る限り、鋭い感覚や思わずハッとさせられるような視点を持っているファンの数は少なくない。問題はだから、せっかくの批評の芽がまとまった形で外部に出力されない=なぜか作品化されない点にある。
こうしたことの背景には、自らの好きに判定を下すことによって同族を傷つけてしまうことに対する恐怖心が潜んでいるのではないだろうか?

・推し=購買行動は好きに評価を下す責任を免責する

“推し活”を問題視している。
愛によってなされる活動自体をではなく、その背後に潜んでいるねじれた論理を。
推し活を行う人間が「推しに貢献する、コンテンツに課金する、金を落とす」という誰の目から見ても文句のつけようのない健全な購買行動を必要以上に重視するのは、好きに判定を下すことによって他のだれかを傷つけ、また逆に判定を下されることによって自身が傷つく事態を過度に恐れているためであるように感じられてならない。
即ち、批評に対する恐怖心。
現代に特徴的な購買行動の加熱ぶり(課金のための課金、というような)は、自らが判断の主体となることから目を背けさせ、作品に評価を下すことによってアーティストとそれを取り巻く言説空間を正常に保つ責任を免責してしまう点において、実に危険だ。
その行く先に待ち受けているものは·····後ほど『ショートケーカーズ』論の中で分析する。

・自由と多様性は不干渉の原則を不感症の怠惰へと変える

自由と多様性の名の下に、人工の荒野に放し飼いにされ頭数管理される動物的な生。
自由という概念の中で不干渉の原則が重要な位置を占めることは事実であるにせよ、その重要度をいたずらに強調し過ぎることは、自己責任なり自助と都合よく言い換えられる見捨ての論理を正当化する結果に繋がってしまう。
自分と無関係な他者に向けられる見捨てを正当化する論理が個人のうちで積極的に内面化されれば、自分がある特定の集団なり国家にとってふさわしくないという判断を下された場合、たまたま自分が帰属集団や国家にとっての“推し”ではなかった場合、これに異議を唱える余地はあらかじめ徹底的に失われてしまう。この点において、僕は“推し”概念のカジュアルな蔓延=“推し活”をひどく警戒している。
例の成田悠輔の「老人は集団自決すべき」発言とも深く関わる問題だ。
高齢者の存在が“若者に推されていないキャラクター”として不用意に抽象化されている点も恐ろしいが、一方で、誰からも推されない生は当然存在するし、していい。
われわれの自由を可能にする条件としての不干渉の原則が、推しではない大多数の他者への不感症に繋がってしまっては元も子もないではないか?

・暴力と加害性を引き受けることなくして他者と関わることはできない(文学サークル“お茶代”の一例)

僕がたった一人で運営しているお金がもらえる文学サークル“お茶代”はだから、自らの加害性を引き受けた上で「見知らぬ人間に無条件でお金を支払う」というあえての積極的な干渉を行ない、失われつつある無関係な他者との相互交通の可能性を暴力的に復活させるための試みでもある。
それは無責任な購買行動、免罪符としての
経済システムを“悪用”することによってなされる。
“お茶代”のシステムは、以下の点において極めて暴力的かつ加害的で、アナーキーだ。
『主催者に裏の目的がないために、なかば強制的に善意の狂気と向き合わされる』
お茶代の柱である「見知らぬ人間にお金を支払う」行為には、わかりやすい裏の目的が存在しない。僕の目的はただひとつ、「自分と同じ無名の書き手を支援し、仲間を作る」であり、その活動の源は善意の狂気である。これにより、人は100%純粋な善意がこの荒んだ世の中に存在する事実を受け入れるほかなくなり、ある恐るべき問いの中に投げ込まれる。
「自分はこんなふうに無関係の他者に善意=愛と優しさを行使できているだろうか?」
これはほとんどアイデンティティの危機である。
人格が崩壊するほどの恐怖から逃れるためには、“お茶代”と脱輪の存在を見て見ぬふりするか、「どうせ裏の目的があるに違いない」「この脱輪とかゆーやつは単なる目立ちたがりのクソ野郎だ」「ただ女と出会いたいだけの万年発情ウルトラマンだ」などと理に落ちる理由を強引にでっちあげ、「自信を持って善行に踏み切れない自分」を大慌てで慰めるしかない。
しかし、実はまさにこのような乗り越えられるべき邪魔っけな壁として大衆の前に立ちはだかることにこそ僕の目的がある。
“お茶代”が目指すのは、究極の保守反動をバネにした生活のアナキズムなのだ。

※ここまでをまとめると·····多様性概念の運用上の失敗

よーするに多様性という言葉は現在までのところ「わたしと違うあなたを積極的に肯定しよう!」ではなく、「あなたと違うわたしを否定しないで!絶対に絶対に傷つけないで!」という弱虫で自分本位な姿勢の方便として都合よく利用されているようにしか思えない。
なぜなら、「わたしと違ういろいろな人がわたしと同じこの世界に生きていること」は、それ自体が極めて不安で暴力的な事態であり、既にして充分すぎるほどの加害性を含む状態だからだ。
「暴力」や「加害」といったキーワードが「多様性」概念に反するものとして当たり前のように使用されることはだから、社会的な抑圧に抗するための過渡的な段階として大いに健全で正しいとしても、人と人が関わり合って生きていくための理念としてはやはり、根本的に間違っている。
なぜなら、多様性に満ち溢れた世界とは種々雑多な暴力に満ち溢れた世界のことを指すからだ。
他者と関わること、作品を通して自分とは異なる他者である作家と関わることのあらかじめ暴力的で加害性に満ちた責任を引き受ける
覚悟のない“大衆”が、そのような極大化された暴力の世界に耐えうるようには、僕にはまったく思えない。
だからこそ、他者と作品に暴力的な判定を下す批評が敬遠され、ありうべき積極性が消極的な引きこもり=無関心によるあいまいな承認へと容易に読み替えられてしまっているのだろう。
だが、これはレトリックであり欺瞞に過ぎない。購買行動による自己正当化=推し活には罪を帳消しにする免罪符として機能してしまう側面がある点をよく認識すべきだ。
なぜなら、他者に対して評価を下すこと、批評を除外した多様性などありえないのだから。
アーバンギャルドのファンダムには批評が欠如している。ファンの絶対数が不足していた過去には単にまだ育っていないだけだろうと軽く見積もっていたが、現在では巧妙に排除されているようにすら感じる。即ち「傷つきたくない」「傷つけられたくない」という無意識の恐怖の表れとして。
しかしアーバンギャルド及び松永天馬がその他大勢のアーティストと異なるのは、そもそも批評的な表現活動を身上としているという点だ。
批評的な作品を作っている作家のファンダムに批評が欠如していることの矛盾。
ここにはなにか、いまだ意識化されていない巨大な抑圧の存在を感じ取らざるを得ない。
本項において、僕はそれを単に一アーティストを巡ってのものではない、同時代的な特徴の表れとして描き出してみようと思うのだ。

・『天使化する世界に取り残されて ~僕とアーバンギャルド~』批評の批評(withひろえもん)

『前衛都市を知りたい子供たち vol.5』に寄稿した拙文『天使化する世界に取り残されて ~僕とアーバンギャルド~』において、僕は、天使化していく世界の中でミシェル・フーコーの言った“生政治”の問題がより陰湿な形で再浮上してくるであろう点について警告を発した。
“天使化”とは、脱輪用語で、多様化の自由解放の波が覆い隠す「あらゆる対立のなしくずしの混濁」を意味し、それは「男でもあり女でもあり、同時に男でもなく女でもない無性的で非人間的、つまり天使的な領域の一点に向かって、多様な文化圏が一緒くたになって引きずり込まれ、本来対決によって得られるべき傷と勲章をノンジェンダーなニヒリズムによって留保したまま、だれもがあいまいな融和の快楽に浸っているように思える」現在の日本を取り巻く危うい文化状況のことを指している。
その後問題意識は先鋭化し、“ノンジェンダーなニヒリズム”という概念は今では“コスパ・ニヒリズム”という新たな用語に置き換えられるに至っている。
思想信条年齢性別によってではなく、もっぱらコスパを軸として発動する無差別なニヒリズム(ニーチェ主義→虚無主義→ことなかれ主義)。実体物から思想や観念、ファッションや生き方にまでコスパの高さが求められ、反対にコスパが低いと見なされる物事に対しては積極的に判断を中止するふるまいがかしこいとされる動物的なサヴァイビング術。
例えば、ひろゆきが冷笑的に、あえての低温度で“大衆”に訓示する「頭のいい人の生き方の特徴」がまさにそれだろう。
ひろゆき、ホリエモン、DaiGo、西野亮廣、成田悠輔らがアジテートする言説は、この点において実は、彼らが忌み嫌っているはずの左翼的な共産主義思想が歪に変質したものと断じることができる。
マルクスが狙ったのは、それまで階級によって垂直に分断されていた世界に「富める者(資本家)/貧しきもの(労働者)」というあらゆる対立を止揚する二項対立を導入することによって、世界に水平的な一本軸を通し、広く連帯の可能性を問うことであった。
わが国においても、例えば大正期にあたる1922年に「全国に散在する吾が特殊部落民よ団結せよ」から始まる宣言を発し、被差別部落出身の人々の連帯を求めた組織の名が全国“水平”社であったことの理由は、このような文脈の中に置いてみるとわかりやすい。
対して、ひろえもん(めんどくさいのでトム・ブラウンばりに悪魔合体させてみた)が新たに導入したのは「頭のいい人/悪い人」という巧妙かつ悪質な水平軸だ。
彼らがリベラルやインテリ層の批判に晒されながらも大衆の支持を集め続け、メディアから重宝されているのは、それが大衆的な価値観に根差した共産主義であり社会主義リアリズム(“リアリズム”という用語をここではマーク・フィッシャーの言う“資本主義リアリズム”の文脈で使っている。フィッシャーと資本主義リアリズムについては後ほど解説)であるからだ。
少なくとも大衆の目にはそのように映っているのではないか?なぜなら、差別とは世界を垂直に分断することであり、「頭がいい/悪い」という水平軸は一見して非差別的なものに感じられるはずだからだ。
問題は「頭がいい/悪い」は「金持ち/貧乏」の基準よりあいまいなぶん、どうとでも自由に解釈できてしまう点である。
ご承知の通り、「金持ち/貧乏」というかつてマルクスが提起した水平軸は、非正規労働やワーキングプア、ロスジェネといった問題を通じて意識化されることによって、今や多くの人にとって無視できない垂直軸として受け取られるまでになっている。
働けども働けどもわが暮らし楽にならざるじっとスマホを見る大衆(なにを隠そう、僕もそのうちの一人だ)が、解釈によって自らを金持ちの側に位置づけ直すことはもはや不可能だ。今日ではそれを可能にするあらゆる幻想(その最たる例が、大衆蜂起による垂直構造の転覆=革命である)が潰えてしまっているのだから。
Twitterで経済や貧富の差についてのツイートをすると内容の如何に関わらず即座に炎上するのはそのためで(驚くなかれ、筆者レベルのフォロワー数でも見知らぬ人々から13件のクソリプが届いた!)、こちらとしては個人の生活どうこうではなくそれを背後から規定している社会構造についての話をしているつもりでも、ツイートの内容を自分と結びつけ怒り心頭に発してしまう人間が多数存在するほど、貧富の差はわがことの問題として捉えられているわけだ。
ところが、ひろゆきが「頭がいい/悪い」軸に則った極めて乱暴なツイートを発したところで、インテリ層以外からはほとんど批判の声が寄せられない。どころか、その主張に賛同する大衆のリプが大量にぶら下がる始末なのだ。
これは、「金持ち/貧乏」軸に比べて「頭がいい/悪い」軸にはあらかじめ自由な解釈の余地=幻想が担保されているからだろう。大衆が自らを金持ちの側に位置付けることには無理があるが、「頭のいい人」の側に位置付けることならよゆーで可能。なぜなら、「頭がいい/悪い」の定義はあいまいで、ぶっちゃけどうとでも言える種類のものでしかないからだ。
こうしたレトリックにより、大衆は自らを常に「頭のいい人」の側に位置付けつつ、ひろえもんの話にしたり顔で耳を傾け、卑小な自尊心を慰めることが可能になるという仕組みだ。
よーするに、ひろえもんがウケている理由は、大衆にとってちょうどよくきもちいいからなのだ。
だが、ここにはさらなるレトリックが潜んでいる。ひろえもんが口にする「頭のいい人/悪い人」は時々によって「成功する人/しない人」とも言い換えられる。彼らの価値観に照らした場合、この言葉が指し示す内容が「お金を稼げる人/稼げない人」であることは誰の目にも明らかだろう。つまり、大衆の利己心を慰撫する「頭がいい/悪い」水平軸は、他ならぬ大衆の手によって拒絶されたはずの「金持ち/貧乏」垂直軸の言い換えでしかないのだ!
もしそうでなく、「頭のよさ」がなにかしらの精神的な豊かさを意味しているのだとすれば、ひろえもんが知識人層を嘲笑い、文化芸術や哲学思想をこき下ろす発言を繰り返すことの説明がつかない。通常の判断基準に照らしてどう考えても「頭のいい」文化人や左派活動家が揶揄の対象とされるのは、結局はその人物があまり儲かっていない、「金を稼げてない」ように見えるからでしかない。(反対に、同じ人物が成功している=「金を稼げている」場合には、「あんな優秀な人いないですよ!」などと祭り上げられる)
一方で“論破”に集約される言葉の技術や読書に象徴される精神的な豊かさの価値を喧伝し(ひろえもん各人が読書法に関する著作を持ち、DaiGoが大量の本が詰まった本棚を背景に動画配信を行う例を想起せよ!)、他方で文化芸術や知識人を馬鹿にすることの矛盾は、こうしてあっけなく説明される。
いくら本を読んでいようと頭がよかろうと、彼らにとって金を稼げてない者はみな等しく「頭の悪い」人間でしかないわけだ。

・コスパニヒリズムは未来の自己否定を用意する

したがって、ひろえもんの言動を素直に受け取るなら、彼らの存在が自らを「貧乏」の側に位置付けているはずの大衆から歓迎される事態はどう考えても間違っている。
このような矛盾がほとんど「金持ち/貧乏」を「頭のいい/悪い」に読み替えるレトリック一本によって支えられている点は実に情けなく、恐ろしい。
なぜならそれは、金持ちが貧乏人に向かって、資本家が労働者に向かって「“われわれ”が一致団結して世代交代を押し進め、既得権益層を打破しようではないか!」と呼びかける欺瞞的なマルクス主義にほかならないからだ。
しかし、ここで言う「既得権益層」ないし「老害」とは誰のことを指すのか?故意にあいまい化した言動でわれわれを騙し、それによって貧乏人を脅しつけ(なるほど俺は金持ちではないが、しかし頭の悪い人間ではないはずだ·····そうだそうだそのはずだ、この人たちの言うことを聞いてさえいれば·····)、一連の過程の全体において「金を稼いでいる」最も悪徳な人間、「金を稼いでいない」大衆が打破すべき対象とはいったい誰なのだろう?その答は言うまでもない。
さて、以上の記述から明らかな通り、僕の言う“コスパ・ニヒリズム”のコスパはひろえもんが大衆に説く「最短で金が稼げる人間になる方法」を指すわけだが、しかしその欲望がなぜかニヒリズムの形をとって表出される点は興味深い。
「頭のいい/悪い」の二項対立に沿って自らと他者を分類することで、人類の半数と積極的に関わりを持つことをあきらめてしまうというような、まことに効率のよい無気力が出現しつつあるのだ。
なぜなら、ひろえもん的思考に感染した者は強制的に自分を「頭のいい」側に位置付け続ける必要があり、「頭の悪い」人間と交遊することはコスパの悪いふるまいとして遠ざけられねばならないからだ。
しかし、「頭のいい/悪い」が結局は「金持ち/貧乏」の偽装された形でしかない以上、こうした二分法は新たな抑圧を生み、分断を煽る結果に繋がりかねない。
この点において、コスパ・ニヒリズムは二重に虚無的だ。
それは第一に軸の反対側にいる異なる他者との関わりをあきらめさせ、第二に他者との交わりによって豊かになっていく自らの積極的な生をあきらめさせてしまう。
そうして実存的な生を手放した先に待っているのは、人間の機械化。
宮台真司言うところの“クズ”、あるいは、“法外”=自らを規定する基準の外に出る勇気を持たぬ金儲け機械=“損得マシーン”の誕生である。
だが、事態はもっとひどい。宮台は多分に反語的な意味合いを込めて「クズはさっさと自滅しろ。崩壊を加速させよ。さすればクズどもが支配する社会は沈み、法外に出る勇気を持った少数者たちが愛によって営む新たな世界が浮上する。くっくっく·····」と嘯くが、みなが損得マシーンになれるなら、それはそれでかまわないはずだ(僕はやだけど)。
現実には、資本主義社会における勝者は一握りだ。だれかが勝てば、他の全員は負ける。そういうふうにできている。もしひろえもん的な価値観を内面化して生きてきた人間が、未来のどこかの時点で「自分はついに成功を手にできなかった·····」と手ひどい挫折を経験し、自らを「頭の悪い人」の側に位置付け直さなければならなくなったとすればどうだろう?他なる生き方の可能性を自分から排除してしまった世界の中で、はたしてその人は正気を保って生きていくことができるだろうか?
その者の末路は、バズツイートに激烈な憎悪を投げつける“貧乏人”のそれと重なり合うように感じられてならない。

・あなたの生活を規定する権力はあらかじめ環境の中に埋め込まれている ~生政治、あるいはマクドナルドの椅子がかたいことについて~

説明の続きに戻ろう。
フーコーの言った“生政治”とはなにか?
われわれの生活の細部をそれと言わず陰湿な形で規定している微細な政治力もしくは権力のことだ。
これについては、東浩紀と大澤真幸が1991年のNY自爆テロ、いわゆる911勃発の直後に行った連続対談を集成した『自由を考える―9・11以降の現代思想』(NHK出版、1992)中の東の発言を参照するとわかりやすい。
東は、近代から現代にかけて、社会を管理する仕方が“規律訓練型”から“環境管理型”へと移行してきた点を指摘し、規律訓練型~個々人に「かくあるべし」という規範や倫理意識を植え付け集団を統治する~ではなく、環境管理型~個人の生き方に権力が介入する非効率を避け、代わって社会環境の中に集団を特定の方向に条件付ける因子を埋め込む~の身近な一例として“マクドナルドの椅子がかたい”ことを挙げる。
「フーコーの言う生政治という言葉はどうも大げさな気がしてかえって本質を取り逃がしてしまう気がする。現代における管理社会の様態はもっとささいでいやらしいものなのではないか?例えば、マクドナルドの椅子がわざとかたく設計されているというような。ただ椅子が固いというだけの理由で、利用者は長時間座っていることができず、誰に言われるでもなくあらかじめ店側によって計算された利用時間の範囲内で退店していく。そうして次から次へと人が移り変わっていき、自動的にある程度の客回転率が担保される。現代では、こうした種類の管理の方式が社会の隅々にまで行き渡っているのではないかと思うのです」(大意)
僕が『天使化する世界~』の中で表明したのは、まさにこのような生権力の存在、それ自体取るに足らぬ管理の兆候の無数の集積に対する違和感であった。
❝例えば、煙草。僕は分煙にはおおいに賛成だが、いったいいつからその方針が完全禁煙=喫煙者廃絶の大目標にすり替わってしまったのだろう?
~中略~
分煙やたばこ税増税、電子タバコ導入の是非を巡る議論は、ほんの少し前まではたしかに“今のこと”としてあったはずだ。ところが完全禁煙というジョーカーの発動により、これら議論は最初からその大目標に至るまでの途中経過であったかのような外観に塗り替えられてしまう。大企業によるユニークな禁煙“応援”キャンペーン、有名大学の喫煙者排除の人事策、今年4月の改正健康増進法の施行。かくしてだれもが率先して記憶喪失となり、やがてはあったはずのすべてが本当に忘れ去られてしまうのだ。
あれ?なんか変じゃない?でもでも、最初からそうだっけ?う〜んそっか、記憶違いか、そっかそっかそうだったな……
自分らしさも、完全禁煙も、貫く背骨は同じである。それは個人の所有にかかる今を、集団が設定したゴールに至るまでの途上と断じ、ガンバローネ!のかけ声とともにより良き全体に回収してしまおうとするグロテスクな世話焼き根性である。❞
「個人の自由をより良き全体に回収してしまおうとするグロテスクな世話焼き根性」、まさにこれこそが生権力だ。
やがてその権力は皆で目指すべき目標へとすり替わりはじめ·····
❝自分らしく、という大目標を万人が等しく達成できる世界が、絶えざる闘争の果てに少しずつではあるが着実に実現されようとしているーーこのような一見希望に満ちた歴史認識が無自覚に圧殺してしまうものは、個性を確立できない無個性な生、平凡な自分を生きていく自由である。このまま行けば、こうした生き方は、自己実現から逃げている、勇敢な選択を放棄する姿勢と見なされるようになるだろう。いわばその者の現在は、大いなる流れのなかで中座した過程として理解されてしまうわけだ。
しかしこれだけは言っておきたい。個人の現在はどこまで行っても現在であり、ありもしないストーリーの途中経過と断じる権利はだれにもない。❞
こうした兆候に抗うため、脱輪はあえて次のような“過激な”宣言を行い、この章を締めくくる。
❝勝手に絶望する権利も、勝手に自殺する権利も、わたしにはある。
ひとまずはそのように断言できる自由こそが保証されるべき最低限の自由であり、これを容認しない国家も、フレーフレーで押しとどめようとする風潮も等しく危険である。なぜならここには、個人の心身の健康を管理調整することによって、集団を良きものにするという全体主義の思想が潜んでいるからだ。❞
多くの人が全体主義と聞いてただちに思い浮かべるのはナチス・ドイツの脅威だろうが、これはなにも大げさなもの言いなどではない。ナチスは国民の禁煙施策を推し進め、代わって山登り=ワンダーフォーゲルを推奨したのだ。これは、自身画家になれなかったコンプレックスを隠し持つヒトラーが、モダニズム画家たちの作品を精神の健康を損なう“退廃芸術”として排斥した一事と同根であり、「ドイツ国民たるもの、われわれが利用可能な資源として肉体の健康を維持すべし」という命令のカジュアルな実践であるにほかならない。一見して争う余地がないように思える“健康”という概念には、実は警戒すべき側面が備わっているのだ。
まして、わが国にはかつてナチス・ドイツ及びムッソリーニが支配するイタリアと軍事同盟を結ぶ全体主義国家であった過去もある。気をつけて気をつけ過ぎるということはないだろう。

・天使化の一側面 ~喫煙民族というマイノリティの迫害に誰一人声を挙げようとしない多様性などポイズン~

さて、僕が本能的に感じ取っていた不安は、ほどなくして現実のものとなる。
コロナ禍と多様性時代の到来だ。
『天使化する~』を書いていた時点ではこの言葉はまだ人口に膾炙していなかったものの、今思えば、“天使化”とは“多様化”に付き纏う負の側面、ようやくそれが実装化されつつある世界の中で起こるネガティブな動向を予言的に言い表す言葉であったにほかならない。
世界はたった数年でものの見事に天使化した。しかもその天使の面差しは、当時の僕が思い描いていたよりいっそう青ざめて無表情なものだったのだ。
そして再び、煙草。
コロナ禍に見舞われて以降、わが国では、飛沫感染の防止を理由に、喫煙所の廃止、封鎖、撤去が迅速に実行された。ああ、それはまったく驚くべきスピードだった!
各地のコンビニの出入口に置かれていた灰缶はまたたく間に撤去され、ショッピングモールや街中にかろうじて点在していた喫煙所はテープでぐるぐる巻きに縛られ「使用禁止」の札を貼られた。近隣で唯一の喫煙スポットであった家の前のファミリーマートの店先にあった灰缶も姿を消した。仕方なく街に繰り出すと、数年かけて脳内地図にインプットしておいた喫煙スポットのことごとくが封鎖されていた。これにより、僕の休日の過ごし方は変化せざるを得なくなった。個人の暮らしが大きく変わってしまったのだ。
きっと、ここらが潮時とばかりに煙草をやめた人も多かったに違いない。社会環境の中にごく小さな因子を埋め込むだけで、近所にある灰缶を撤去するだけで、その被害(正当な対価を支払って入手した品を享受する権利をある日突然奪われるというのだから!コンビニで買ったコーラを飲むことを街中のどこでも禁止されるようなものではないか?)にあった人間は不平を漏らすでもなく、ただ黙って自分の生き方を変える。そういう事態が有りうる。環境管理型の権力=生政治の恐ろしさはここにある。それは行使者の存在がけっして可視化されることのない無色透明な力なのだ。この点について、われわれはもっと敏感になるべきではないだろうか?ごく小さな、取るに足らない環境の変化にいちいち文句をつけていくべきではないだろうか?
今これを読んでいるあなたには、以上の記述が一喫煙者の、自分とは無関係なマイノリティの単なるわがままであるように感じられるかもしれない。もしそうなら、残念ながら、あなたも遅かれ早かれひろえもん的レトリックに引っかけられる“貧乏”で“頭の悪い”“大衆”の一人だと断じねばならない。
わたしの生活に起きた変化は、あなたの生活にも起こり得る。その危険性をよく認識すべきだろう。


・『キュルキュルと巻き戻ってくるたった20秒の未来 〜アーバンギャルド『白鍵と黒鍵のあいだで』論〜』批評の批評、代理満足の次元の欠如を巡って~

とはいえ、われわれの身の上に起きた最大の変化といえば、やはりCOVID-19ウイルスの蔓延とその影響による社会環境の劇的変化をおいて他にない。
『天使化する世界~』執筆の約一年後にリリースされたアーバンギャルドのアルバム『アバンデミック』は、アバンギャルド(前衛)とパンデミック(ウィルスの集団感染)を掛け合わせた造語タイトルから容易に推察できる通り、コロナ禍による市民生活の変化を鋭く反映した内容に仕上がった。
率直に言って、僕はいくつかのトラックを除き、本作をまったくと言っていいほど評価していない。その理由は、アルバム中のテーマを象徴的に物語る楽曲『白鍵と黒鍵の間で』を俎上に載せ、1曲のために20000字近くを費やした拙論考『キュルキュルと巻き戻ってくるたった20秒の未来 〜アーバンギャルド『白鍵と黒鍵のあいだで』論〜』に詳しい。
必要上、その要旨をかいつまんで紹介しておこう。
アーバンギャルドのアルバム『アバンデミック』は、コロナ禍を反映したフィクショナルな想像力の産物として不充分な内容に留まってしまっている。なぜなら、同作はフロイトが言った“代理満足”の次元を捉えられていないからだ。
代理満足とはなにか?患者は自らの症状と長く付き合ううち、次第にその症状自体からニセモノの満足感を受け取るようになる。病んだ自分、苦しい自分をアイデンティティの基礎とし、病によって制限される行動の範囲に可能な自由のサイズを合わせてしまうのだ。
理由は簡単で、その方が楽だからである。自由は責任とセットなので、受け持つ自由の量が少なければ少ないほど、行動や意思決定についていちいちの責任を取らずともよくなる。「あたしはみんなと違って病気だから·····」と言い訳すれば済むわけだ。
したがって、病に長く苦しむ者の心からの願いとは「あたしを不自由で無責任な状態に留めおいてくれるこの病気を手放したくない」=「絶対に治りたくない!」ということなのだ。
フロイト理論を発展させたラカン派の精神分析学者ブルース・フィンクは臨床経験をもとにこう断言する。
❝もちろん患者は本気で変わろうなどと思っていない!症状が発症し、患者が症状からくる行動に引き込まれるようになっているとすれば、それは大量のエネルギーがこうした症状と結びつけられるようになってしまったからだ。患者は症状をそのままの状態にするために膨大なエネルギーを費やすのである。というのも、彼らはフロイトが「代理満足」と呼んだものを症状から得ているので、その症状をおいそれと手放すわけにはいかないのである。❞
(『ラカン派精神分析入門 理論と技法』より)
このため、患者は自分が「治らない」ためならどんなに不道徳で非倫理的なふるまいでも平気でやってのける。精神分析治療において、それまで従順だった人間が医師に対し突如として猛烈な抵抗を示す“否認”という段階がよく知られている。
快方に向かっている予感が兆し始める段階はいい。楽しい。抑圧されていた自由の範囲が拡大し、縮こまっていた羽がピンと伸びるような開放された気持ちになり、患者は全能感の繭に包まれる。だが、いよいよ本格的に治りそうになってくるや、繭は破れ、患者は深刻な精神の危機に直面するのだ。自己を裸に剥かれるような不安感。己が身を守っていた症状の鎧が取り除かれつつあることを察知した患者は、その暴力の行使者たる医師に向かって見当外れな怒りを爆発させる。
否認は、患者が自身の症状と向き合いはじめ治りかかっていることの重要な兆候である。医師はこの点をよく心得ておき、「裏切られた」「洗脳されていた」「先生はわたしを操ろうとする悪人だ」などと口汚く罵ってくる患者の怒りを冷静に受け止め、耐えねばならない。否認は精神分析治療において患者と医師が協力して通り抜けねばならない必要不可欠な過程なのだ。
さて、以上から代理満足と生権力の話を総合して考えてみよう。代理満足という概念を個人の肉体から社会環境へと拡大して考えてみた場合、コロナをわれわれ全員の身の上に振りかかる世界的な規模の症状として捉えることができる。それが症状である限りにおいて、われわれは不自由や苦痛を受け取るわけだが、しかし、これだけ事態が長期化してくると、患者たるわれわれはそこからニセモノの快楽=代理満足を引き出しはじめるようになる。
つまりこういうことだ。
「あなたはコロナが生む不自由さそのものの中に居心地の良さを感じている」
われわれが症状を打破し、その力をポジティブなものとして使えるようになるためには、治療が否認の段階にまで進む必要がある。否認へ至るには、まず第一に患者が自身を真の欲望から遠ざけている代理満足の存在に気付かなければならない。
したがって、コロナがわれわれにもたらした不安や苦痛にばかり注目し、それがもたらす安心や快楽=代理満足の次元を取り逃がした表現は、患者の「治りたくない!」欲望にうっかり応えてしまう点において、症状を隠蔽し、われわれの社会の根源的な不自由を温存してしまう危険性を孕んでいる。
コロナ禍にリリースされた作品の多くと同様、『アバンデミック』もまたその罠に足を取られてしまっているように感じられる。
❝大衆がコロナ禍の現状に対して不満をばかり抱いているという見方は、あまりにナイーヴ過ぎる。われわれは、明らかにその不自由から満足感を受け取っている。
仮にウィルスの脅威によって見えない壁が可視化され、幽霊めいた身体性が実感を伴った不安に高められたのだとしても、その幽霊っぽさは以前からわれわれに馴染み深いものであったはずだ。コロナがもたらした生活上の不自由は、あらかじめ憑在論的な空間の隅々に書きこまれていたものであるに過ぎない。とすれば、そこには必ず憂鬱と隣り合わせの快楽が潜んでいるはずなのだ。❞
ここで言う“憑在論的な空間”とは、マクドナルドの椅子が固いというような些細な生権力がわれわれの生活環境の隅々にまで行き渡り実装化された都市空間のことを指す。このような都市の内部で日常生活を送るうち、われわれのからだは知らず知らずのうちに生権力の集積たる社会体制にとって都合の良いサイズへと切り詰められ、固有のリアリティを喪失してしまう。
「生きている実感が持てない」「なにをやっても満足できない」「そもそも自分がなにを欲望しているのかがわからない」不自由なからだ=“幽霊めいた身体”へと変質していってしまうのだ。
したがって批評家としての僕が目指すのは、個人の内面の無意識的死角に隠れている代理満足とわれわれを取り巻く都市空間の中に埋め込まれた生権力とをともに打破し、自由な世界の中で自由なからだを手にすることである。
これが単なる夢物語に聞こえるとしても、さしあたって次の点は強調しておきたい。
❝『白鍵と黒鍵のあいだで』を貫くある種のナイーヴさ、生真面目さは、われわれが代理満足を発見する道を阻む点において、皮肉にも体制に親和的なものであると断じねばならない。
なぜならナイーヴさは、生権力に取ってなにより都合のいいものだからだ。自身が無意識に感じている快楽の存在を意識することなくして、その快楽に抵抗することはできない。
~中略~
そうでなければ、どうして歌の中の「君」と「僕」が「本当に」出会えないことがあろう?明らかに「僕」は、「白鍵と黒鍵のあいだでまだ迷っている」状況に心地よさを感じ始めているのだ。❞
もし仮に『白鍵と黒鍵の間で』の主人公である「僕」が、愛する「君」に触れることができない不自由さのうちにふと安らぎを見出すような一幕が描き込まれていたとすれば、『アバンデミック』という作品は、もっとずっと哀切で皮肉らしい、真に迫った内容になっていたに違いない。
端的に言って、コロナ禍を反映した表現が他のアーティストと同様に代理満足の次元を捨象した範囲に留まるのであれば、アーバンギャルドがあえてそれを繰り返すことの意味が見いだせない。
たとえ、コロナ禍に端を発する文化事象の変容を巡って、『アバンデミック』が他作品よりいくぶん広い視野からの目配せを行っており(アプローチとしては不充分だが、『シガーキス』で煙草と喫煙をロマンチックに捉え返すなど)、アルバムの最後を飾る楽曲『ダークライド』において、マーク・フィッシャー~ニック・ランド~暗黒啓蒙の文脈をかろうじて掬い上げようとしているとしても。
いっそのこと、まるでコロナなど最初から存在していなかったかのようなユートピア世界を展開した方が、皮肉として上手く機能したのではないだろうか?あのアーバンギャルドが“社会”をガン無視して作ったアルバムなら、ぜひとも聴いてみたかったものだと心から思う。
とはいえ、捨てる神あれば拾う神あり。
周囲から絶賛の声が聞こえる中、一人悶々と不満を募らせていた僕のもとに福音が届く。
蒼井叶と白雪姫乃によるアイドルユニット・twinpaleに松永天馬が提供した楽曲『ショートケーカーズ』。
結論から言ってこの曲は、フィッシャーの言う資本主義リアリズムの次元とフロイトの言う代理満足の次元を見事に捉え、その快楽と苦痛を推し活という現代の事象になぞらえてポップに表現した、離れ業とも呼ぶべき傑作である。


・オタクと推しの違い ~“推し活”の背後に潜む強迫観念~

そのことを納得してもらうために、旧来的なオタクと現代的な推し活者(造語。推し活を行う主体に通りのいい呼び名が与えられていない事実は示唆に富む)との相違について一瞥しておこう。
僕が観察した限り、どうやら「オタク」を名乗るにはなにかしらのコンテンツを愛好しているという心の状態だけで十分だが、「推し」を名乗るにはそれプラス積極的な消費行動の存在が求められるようだ。「推し活」、「推しごと」などという通り「推し」とは自らが特別の消費主体となる活動のことを指すから、「在宅無銭ヲタ」はOKでも、「在宅無銭推し」はそもそも概念として成立し得ないのだろう。推し対象に金を落とさない、現場に足を運ばない推し活など有り得ない。倫理的に言ってそれは悪ですらある。
しかし、その倫理意識はどこから来たものなのだろう?
①尊い推しを支援する目的から積極的に経済活動に参与し、
②推しに金を落としてコンテンツの維持拡大に貢献し、
③自らを特別の消費者に仕立て上げることによって、社会システムとの接点を保ちつつ、自己実現を図る。
いわば推しとは概念ではなく、あえてする余剰的な経済活動の実態そのものなのだ。だからこそ、愛好者たるオタクとは違い、推し活を行う主体には名前がない。「だれがやったか」の主体性ではなく、「いくら落としたか」という実績の方が重視されるためだろう。
といって、各人の生活をいきいきと活性化させるアクティブな機能として見る限り、推し活はまことに健全である。
僕がどうしても引っかかってしまうのは、予め批判の余地なく構成された論理の健全さそれ自体が逆説的に証明してしまうある圧力の存在だ。
推し活の背後には、自/他を巡る鋭い倫理意識=「推しにお金を落とさねばならぬ」「コンテンツに貢献せねばならぬ」「経済活動の積極的な主体たらねばならぬ」という強迫観念が潜んでいるのではないだろうか?
そもそも、オタクカルチャーが一般化する以前、オタクであることはどこか後ろ暗い意識を伴うものであり、オタ活は社会からの逸脱行為として半ば自覚的に営まれるていのものだった。いまだ倫理的に擁護できるふるまいとして認知されていなかったわけだ。
翻ってみるに、推し活という逸脱行為を擁護する論理があらかじめ健全に構成されている奇妙さは、なにかしら病的・神経症的な防衛機制の働きであるように感じられてならない。即ち、「他人に批判されたくない」「非常識なふるまいに及んでいると思われたくない」「社会から逸脱したくない」という。
推し活のあり方そのものが健全なのはいい。素晴らしい。だが、本来社会システムからの逸脱であるところの行動を支える論理までもが健全さに装われているというのは、まことに不健全な事態ではないだろうか?
オタクの歴史は自らの逸脱性を巡る社会との軋轢と闘争の歴史であり、逸脱を擁護するためのオリジナルな(つまりはどこまで行っても不健全な!)自己正当化の歴史であったはずだ。アングラサブカルは言うに及ばず、すべてのカウンターカルチャーにはそれ自体反社会的な社会説得の論理がつきものだった。
ところがどうだろう!
僕の目から見る限り、推し活はいわば逸脱なき逸脱のレトリックであり、その背後には「誰にも反論されたくない、傷つきたくない」という恐怖心と「どうせこの地獄みたいな世の中からは脱出不可能なんだから楽しくかしこくコスパよく生きていくしかない」という諦め混じりのプレッシャーが隠されているように思う。
最近よく目にする「○○最推し 同担拒否」という斬新な愛好の形式は、まさにこのような恐怖が膨れ上がっていった先に現れた声なき悲鳴ではないだろうか?
その人物にはもはや、他者からの共感や賛同の声すら「わたしを傷つけかねない反論」として感じられるようになってしまったのだ。
どうやら推し活者の中にも「同担拒否」を標榜する過激勢に対して違和感を抱く者が多くいるようだが、しかし、次のように考えてみればどうだろう?
推しに金を落とすことでコンテンツの積極的な維持拡大を図りつつ同時にそのコンテンツやファンダム内の秩序から自分一人だけを隔離しようとする矛盾に満ちた推し形態=「同担拒否」は、推し活が孕むより根源的な矛盾~社会的バランスを欠いた行為を社会的に承認された論理を使って営む~を隠蔽するために現れたものであると。
実際、同担拒否とは「推しに貢献している人間は世界でわたし一人しかいない」という明らかに誤った外観を作り出すことによって、自らを文字通りの「特権的な消費者」の位置に置く見事なレトリックであるにほかならない。
つまり同担拒否の矛盾は、推し活が抱えるより大きな矛盾を想像的に解決するために呼び出されたものなのだ。
くれぐれも断っておきたいのだが、僕は推し活が純粋な愛を原動力にしていることに少しの疑いもないし、その点を否定するつもりは毛頭ない。本題はだから、愛によって営まれるすべてがたやすく換金されてしまうのはなぜか?その構造から抜け出すことはできないのだろうか?という点にある。
もっと正直に言えば、僕が推し活に違和感を感じてしまうのは、来たるべき残酷な未来に向けた準備運動をさせられているような気持ちになってしまうからだ。体制にとって都合のいい論理を大衆が率先して内面化するための訓練がカジュアルに実施されつつあるのではないか?そのような疑念が拭いきれないのである。
例によってこれは僕の妄想的直観に過ぎないのかもしれない。だが、賭けてもいい。外れたらなおいい。美学的で反社会的であるはずの行為がなぜか極めて体制順応的な社会倫理に包摂される形で営まれることの矛盾は、そう遠くない未来に別の形を取って、より政治的な領域において顕在化するだろう。
僕がなによりも恐れるのはこの点だ。

・すべての職業は売春 ~資本主義システムの非人間的な側面~

さて、ここまで来てようやく以上の記述がある狡猾なやり方で進められてきたことが明らかになろう。
僕は“推し活”を「自らが特別な消費者たる目的から営まれる経済活動」として、あたかも特殊な様態であるかのように描き出してきたわけだが、もちろんこうした見立ては正確ではない。
どころか、推し活は資本主義経済システムの内部におけるごく一般的な消費と享楽の形であるに過ぎない。せいぜいが、戦後から続くその型に不可避的な洗練が加えられていった結果の最新バージョンといったところか。
なるほどたしかに推し活を支える優等生的な逸脱の論理は大いに気にかかるところだが、すべてのレジャーは多かれ少なかれ同様の矛盾とそれを噛んで含めるための隷従的な論理を隠し持っているものだ。
したがって問題の根本は、「商品の売り買いを通じて社会に参与するためには、まずなによりも自分自身が他者によって売り買いされる商品として扱われる苦痛を受け入れねばならない」という、資本主義システムの非人間的な側面にある。
わたしが消費者になることは、わたしが消費物になることでもある。
どういうことか?
俗に「世界最古の職業は売春である」などと言われる(異論多数)が、あらゆる職業がある特定の単位時間わたしがわたしの肉体と精神を労働力商品として資本主義市場に売り渡す行為であることは論を俟たない。
すべての職業は売春なのだ。

・さあお待ちかねの『ショートケーカーズ』論だ!ドンドンパフパフ(ˊᗜˋ)/

といったところで『ショートケーカーズ』である。
厳密に言えばこの歌の主人公は、「お菓子工場勤務」の「アルバイト」の少女と「チェキ工場」に勤める「期間工」の男の子の二人だが、おそらくこれは単に叶ちゃん♡♡と姫乃ちゃん♡♡♡♡のtwinpaleの二人に合わせた形式的な振り分けに過ぎず、また両主人公は非人間的な労働環境の象徴たる工場の製造ラインに勤務する者として性格を同じくしてもいるため、ひとつの人格としてまとめて考えてしまってもいいだろう。
いずれにせよ主人公は、ショートケーキに「くる日もくる日もいちごをのせ」るロボットのような労働を無表情でこなしつつ工場の終業時刻である「2000」=午後8時を今か今か「来たりぬ来たりぬ」と待ち侘び、仕事が終わるや速攻で帰宅、推しへの「課金」を通じた「推しごと」に精を出すことを生き甲斐にしている人物である。
現代においてさして珍しくない人物像だろうが、問題はその描かれ方だ。
主人公はどのような自意識を持って「推しに推しごと」を行っているのだろう?
「今日も一日疲弊しちゃった そのぶん貨幣を稼いだぜ とられる前に取り返せ」
一見するとここでは通常の購買行動=消費の構造がなぞり書きされているだけのように思える。即ち、稼いだぶん使って満足を得る、という類の。しかしこのラインは次のようにも言い換えられる。
「今日も一日消費されたな そのぶん消費しなくちゃな やられるまえにやるだけね」
自身が消費物として扱われる犠牲を通して初めて特別な消費者たりえる資本主義システムの非人間的な側面に、主人公は鋭く気付いている。そのため推し活は、気楽な趣味としてではなく自己の存在を粗末に扱う社会に対する復讐として、「やられるまえにやる」システムへの反逆行為として捉え返される。当然、ことは実存的な生き方の問題にまで関わってくるだろう。
「人生かけて浪費したいな 気合で浪費しなくちゃな」
このフレーズが「~しなくちゃ」という強迫観念めいた義務感に根ざしている点を見逃すべきではない。主人公にとって、推し活が趣味的な享楽を超えた苦痛を伴う行為であることがわかる。
だが、自身に「しなくちゃ」と言い聞かせる一方で、彼女は、人生をかけた浪費行動=推し活があくまで代理満足の次元に留まるものでしかない可能性を予感してもいる。
いちごの赤に血の赤が混じり、ショートケーキに死の予感が差し込むのはそのためだ。
「ショートカッターズ ショートカッターズ お願いをするよに ちいさな傷あと つけて つけて つけてくの」
「ショートカットで ショートカットで 一生を終えたら どんなにいいでしょ? でもそれはできないでしょ?」
「ショートカット」には短髪の他に近道という意味もあるが、ここでの用法は明らかに、リストカッターが死なない程度に軽く手首を傷つける行為の隠語としてであろう。
前段では本来の用法通り主人公が「ちいさな傷あと」をつけていくさまが描かれるが、後段では打って変わって人生そのものをショートカットする危険な欲望が語られる。
ここから、「ショートケーカーズ ショートケーカーズ お祈りをするよに まっかないちごを のせる のせる のせるだけ」は工場での単純労働を表すだけではなく、ショートケーキのように真っ白な手首に「まっかないちご」=血を浮かび上がらせる行為を意味していることがわかる。直後、やや唐突に「ショートケーカーズ ショートケーカーズ あなたもおんなじよ まっかな血潮が流れてる だから」と歌われるのはそのためだ。
思えば、松永天馬はこれまで様々な作品の中でいちごのモチーフを多義的な象徴として用いてきたものだが、本作は間違いなくその最も優れた例だろう。
だが、主人公が「人生かけて浪費し」てまで「推しごと」に励み、無個性な労働者から特別な消費者に変身することによってささやかな自己実現を果たしたところで、不安定な短期労働者としての身分はまるで変わらず、「ストロングゼロきめる ただれた生活」はいっこうに改善されない。
さらに言えば、課金によって利益=真の満足を受け取る者は結局は彼女ではない。主人公が自身のアイデンティティの拠りどころとしている反逆行為としての推し活は、システムに傷をつけるどころか、皮肉にもその安定的な存続に利してしまうのだ。
結局のところ、消費による自己実現とはヤブ医者が患者に与えるケーキのように甘ったるい代理満足であるに過ぎない。それがニセモノである可能性にどこかで気付いているからこそ、主人公は時として抗いがたい死の衝動に襲われる。
「ショートケーカーズ ショートケーカーズ 祈りが届くまで
ちいさないちごを のせるのせるのせるだけ」
「ショートケーカーズ ショートケーカーズ 目を閉じて跳ねたら ちいさな痛みも 忘れて笑えるから」
「ちいさな痛み」とは自傷行為による痛みであり、システムの外側に出ることができない自身への忸怩たる思いを指すが、思考を一時停止させ、ひたすらに労働に身を任せてさえいれば、その痛みを忘れてほんの束の間笑うことだってできる。
だが、「いちごをのせる」が自傷行為の比喩であることから推して、「目を閉じて跳ねたら」とはいったいどこからどこへ飛び降りることを言うのだろう?恐怖心から思わず目を瞑らざるを得ない、日常生活の「ちいさな痛み」を忘れられるほどの大ジャンプとは?
最後のフレーズは実に意味深だ。
「今日も推しごと お疲れさま☆彡」
(落下していく星の絵文字に注意すべし!)


・ならば、どうする!? ~交換なき贈与の可能性によって資本主義リアリズムの幻想を打破する~

だが、もし仮に推し活が死の危険と隣り合わせの代理満足の形態であったとして。それでは、消費に当てはまらない内容のセルフケアなりご自愛とは一体どのような種類のものなのだろう?はたしてそんなものが本当に成立し得るのか?
この問題を突き詰めて考えて見た場合、哲学のサブジャンルである倫理学において“交換なき贈与”と呼ばれている議論に行き着く。「見返りを求めない親切や愛は有り得るか?」という居酒屋トークでよく聞くアレだ。
生産と消費によって成り立つ資本主義は基本的に交換のシステムだから、そのシステムの外に出るためには、交換という概念自体を更新するか、“交換なき贈与”という矛盾した概念の可能性について探ってみなければならない。というわけで、現在この分野は“ケアの倫理”や脱“資本主義リアリズム”などとも相まってにわかに脚光を浴びているのだ。
興味深いのは、ハイデガーの贈与論を引き継いだサルトルが「われわれにとって唯一可能な交換なき贈与にして無償の愛の形態、それってSMじゃね?」と言っていること。
ハイデガーの無償の愛概念にはキリスト教的な神への愛の要素が強いのだが、サルトルがそれを対人で考えてみた際に出てきたのがSMというキーワードだった。
SとM、サディストとマゾヒストとはただ互いの肉体を一方的に使用して自身の欲望を満たしているに過ぎない。ただ、その一方向性が双方向から同時にあらわれるため、結果としてなにかを交換し合っているように見えるだけだと。
まあぶっちゃけなんとでも言えそうな話ではあるが(笑)
とはいえ、純粋な倒錯なりフェティシズムを資本主義を逸脱する形で転用するならば、やはりなんらかの可能性は仄見えてくるものと期待したい。「双方向的に一方的に利用し合う」状態をSMの関係を超えて集団的に現出させるやり方を実装化できれば、あるいは。
僕が生き方の核に据えている「プレゼントは常に交換されるべき」という原則における“交換”とは、まさにこのような「全力の一方通行に互いが耐え合う」ことを意味しており、その過剰性によって資本主義リアリズムを乗り越えることを目的としている。
資本主義リアリズムとはなにか?
2018年に自死したイギリスの批評家マーク・フィッシャーが提起した概念で、「なるほどたしかに資本主義は最良のシステムではない。しかし、これに代わるよりよい選択肢はもはや我々には残されていない·····」という幻想のことをいう。この幻想が多くの人にあらかじめの諦念をもたらし皮肉な現実志向へと向かわせるわけだが(もちろん僕の言うコスパ・ニヒリズムは資本主義リアリズムの一様態だ)、しかしそれが幻想であるからには、人々の思考を変革することによって打破することも可能であるとフィッシャーは言う。
僕自身、日々の生活や批評活動を通して志半ばにして斃れたフィッシャーの仕事を受け継いでいる自負があり、“お茶代”もまた資本主義リアリズムを打破するための(多くの人々を巻き込んだ!)作品の一部である。僕に言わせればそれは生活レベルにおけるアナキズムの実践なのだ。

・だったら対案を出せだと?いいとも出してやろう! ~“お茶代”というドライブスルー~

なぜ“お茶代”がアナキズムの実践なのかというと、「①見知らぬ人に②裏の目的なく③ただ仲間が欲しい、自分と同じような野生の創作者を応援したいという純粋な気持ちから(倒錯)、④無審査で⑤お金を支払う」というお金の使い方は、従来の資本主義システムの中には見出され得なかったものであり、おそらくはnote運営も想定していなかっただろう事例であるからだ。
端的に言って、僕がやっていることは交換と呼ぶにはあまりに過剰であまりに一方的な贈与なのである。
つまり“お茶代”は、あえて資本主義システムの内側に踏み留まりつつ、交換原則から過剰に逸脱するヘンテコなお金の使い方を集団で行使し続けることによって、システムを内側から食い破ろうとする試みなのだ。現存のシステムをそのままの形で利用しつつ、その意味するところだけを体制に気付かれぬよう少しずつ変質させていく、というような。
実際、お茶代スト(お茶代参加者)たちの間では、自分が記事を書いて主催者の脱輪から100円をもらい、その100円を使って別のお茶代ストの記事を購入、するとその100円がまた·····というようなことも行われており、純粋倒錯に発する贈与によって資本主義の外側に生まれ落ちたお金が、結果としてより豊かでクレイジーな交換を生み出す事態も発生している。
自分を飛び越えてみなが好き勝手にやってくれているさまを見るのは、資本主義の外側を用意している人間として実に嬉しいものだ。
だが、それだけではない。
贈与をジャンプ台にした例外的な交換は、なによりも僕自身に起こっている。
“お茶代”には女子大生から落語家まで、小説家の卵からプロのライターまで、多種多様種々雑多な人間たちが集まっているのだが、その彼らが僕に会いに来てくれる。
社会的な身分としては単なる地方のサラリーマンに過ぎないこの僕に、だ。
先月だけでも、鳥取、熊本、横浜、大阪からと、4人のお茶代ストたちがそれぞれ別々のタイミングで会いに来てくれた。さらには“お茶代”を通して脱輪の活動に興味を持ってくれた方からインタビューを受け、「幼少期」について尋ねられたり(ほんとに聞かれるんだ!と新鮮な驚きがあった・笑)、いろいろな人たちと対談イベントを行ったりもしている。
さらにさらに平社員の癖になぜかエグゼクティブ並みに忙しい日々の隙間を縫って、昨年は映画批評を中心とする426件の記事をnoteに投稿した。おかげで自分でも意味がわからないほど眠れない風呂にも入れない毎日だが、ここまで生きてきて初めて!というぐらい、意味がわからないほどの充実を経験してもいる。
こうした異常と呼ぶしかない出来事の数々は、“お茶代”が存在しなかったならば、あったとしても通常よく見られる文学サークルの形態をとっていたとすれば、起こり得なかった事態であるに違いない。そしてなによりも、僕自身が勇気を持ってヘンテコな行動に踏み出さなかったならば。
よーするに僕は、それまで無関係に生きてきた人々の運命を無理やりねじ曲げて交錯させ、善意の狂気を世界に向けて行使することによって、なかば暴力的に人脈を捏造しているわけだ(笑)
昨年の11月をもってめでたく1歳の誕生日を迎えた“お茶代”継続の動機を訝しがる人は多いが、しかし、「100円で人脈を買っている」と考えれば、これほど安い買い物も他にない。これが倒錯を原動力とする贈与が新たな交換=交歓を生んだ実例でなくてなんであろう!
だが、足りない。まだまだ足りない。まったくもってディ・モールト足りない。
僕はなにも満足していないし、人生においてまだなにひとつ成し遂げちゃいない。
仲間が必要だ。
都市空間に埋め込まれた生権力の網の目をかいくぐり、幽霊的な身体に潜む代理満足を厳しく退け、ニセモノの欲望をばかり欲望させる資本主義システムをマクドナルドのドライブスルーのように通り抜けるためには、大衆として多くの人間にあいまいな好意を向けられる自己像に訣別し、暴力と加害性を引き受けた上で他者に相対する覚悟を持った仲間が必要だ。
一人ぼっちの運動はいつか挫ける。
君よ、どうか僕を助けてくれ!
というわけで、人類初!お金がもらえる文学サークル“お茶代”では新メンバーを随時募集中しております。詳細についてはTwitterの公式アカウント @ochadaiofficial をご覧下さい。こわくないよ!
こわくないどころの騒ぎではない。ウチはほんの出来心でつれづれなるままに文章を書いただけで無条件で原稿料がもらえ、その上「なんだか知らないけどめちゃくちゃ褒めてもらえる」ことで有名なサークルなのだ。
おじけづく君の足に、一歩踏み出す勇気と半歩踏み外す狂気を!
少しでも興味を持った人は、ぜひ気軽に参加してみてほしい。
生活のアナキズムはここから始まるのだ。

・結語 ~ファンダムの内部から批評が出現することを願って~

翻って、現在のアーバンギャルド及び松永天馬の活動は生活のアナキズムたりえているだろうか?
その評価の是非はやはり、外からごちゃごちゃ難癖をつけてくる批評家の手によってではなく、あくまで内側から、ファンである君自身の手によってなされるべきだろう。
僕がnoteに投稿した松永天馬論『松永天馬の三つの人格、あるいはジャン・コクトー 〜存在の詩人、同語反復の批評家、分裂のスタイリスト〜』は本邦初の本格的な松永天馬論であることを自負しており、内容の圧倒的なおもしろさの割にだれも読まないことで有名な脱輪の文章としては珍しく、アーバンギャルド及び松永天馬のファンの皆様から熱い反応もいくつも頂戴した。ありがたいことに天馬さんご本人から心のこもった激励のメッセージもいただいた。
とはいえ、初めての松永天馬論がファンではない人間の手によって書かれてしまったことは、まことに嘆かわしい事態ではないだろうか?大げさではなく、これを超える論考がファンダムから現れない限り、僕のやったことはすべて無意味になってしまうのだ。
というか脱輪は、ファンの手になる論考の出現を期待して、ほんの露払いの役目を果たしたに過ぎない。
したがって、これは挑発だ。
これは激励だ。
祈りだ。
お祈りをするよに、真っ赤ないちごを手首に乗せるように、あなたに向かってお願いする。
どうか批評を恐れないでくれ。
自分の好きに判定を下すことの責任から逃げないでくれ。
他者と関わることの暴力性と加害性を、購買行動=推し活によって免責しないでくれ。
それらはすべてアーバンギャルドが15年間戦い続けてきた敵に率先して従属せんとする奴隷のふるまいであり、あなたを真実の欲望から遠ざけている代理満足が見せるシュガーな悪夢であるにほかならない。
あなたを安住させている症状の次元において、あなたの分身たる『ショートケーカーズ』の主人公が「目をとじて跳ね」る結末を迎えたことをどうか忘れないで欲しい。
救えなかった人間が何人もいる。
たった今目の前に存在する人間に愛と優しさを行使し、その苦難を人生もろともまるっと救済できずして、なにが言葉か。なにが芸術か。なにが批評か。自分はこれまでなんのために言葉の力を磨いてきたのか。幾度も自問自答し、絶望し続けてきた。
だからこそ僕はあなたに「おつかれさま☆彡」を言わせたくない。星になんてなってほしくない。
生きて生きて生き抜いて光り輝かなけりゃ、この人生はいったいなんだって言うんだ?
以上はまったくもって余計なお世話だ。
上から目線の暴力だ。
生活のアナキズムの実践としての、あなたによって打倒されるべき保守反動の壁だ。
にっくきヒヒョーカ・脱輪をこれ以上のさばらせていてはいけない!
ってゆーかぶっちゃけ、たった一人で“アーバンギャルドの敵”を10年やり続けてきて「パトラッシュ、僕はもう疲れたよ·····」
今の願いはひとつだけ。
「脱輪が安心して“アーバンギャルドの批評家”を引退できる日が、一刻も早く訪れてほしい」
いつか他ならぬあなたの手によって、アーバンギャルド及び松永天馬のファンダムから決定的な批評が現れる日が来ることを信じている。
われわれのドライブスルーは、ニセモノの満足やあいまいな好悪をばかりくれるギフトショップを潜り抜けた、その先に待っているのだから。

202302202244 脱輪筆

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