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僕たちはなんだかすべて忘れてしまうね = ここに消えない会話がある

A.

友達でも恋人でも、ふとした関係の水たまりに嵌まり込んだ時、「あれ?この人のどこが好きなんだっけ?」となってしまうことがある。
唐突に冷静になり、ありえないスピードで頭が回る。
すると100%「実は好きじゃないのかも」という結論に落ちつく。
なぜなら、その問いは答えだからだ。
無意識では既に「好きじゃない」という結論が出ているのだが、自分もその関係に参加してしまった責任上、「好きじゃないから好きじゃないの!」などと勝手なことは言えない。
「悩んで悩んで考えた末に〜」という論理が必要とされるわけだ。
だけど残念ながらその問いは答えだから、遅かれ早かれ元の地点に行き着く。
あとは自分を納得させるためにどれだけの時間がかかるかというだけの話。
なーんてアサヒスーパードライな話をしてしまった後に恐縮だが、ほんとうはそこからなにかが始まる、始まっているのだと思う。
思うし、思いたいし、信じたい。
じゃなきゃこの世は真っ暗闇じゃないか!
交わらない二人が交わったことによって、世界が汚れた。シミがついた。その痕跡は、あるといえばあるし、ないといえばない。
だけど放たれたなにかはどこかに記録されているはずで、その意味では消えない。

そのシミを、一瞬一瞬素敵なものにしていこう。
わたしが消えても消えない世界の痕跡に参加しよう。
これはロマンティシズムではない。
生きるための気合いだ(笑)

「ここに消えない会話がある」
そう信じない限り、会話は泡のように浮かんでは消える儚いものにならざるを得ないし、しまいにゃ“ここ”自体も消えて無くなる。
最初と最後をベースに考えると、結論は必ずむなしいものになる。
最初と最後のあいだを小さく割り続けて、そのブロックの中で残されるなにか、ざらざらした実在の手触りを信じていくしかない。

「僕たちはなんだかすべて忘れてしまうね」
VS
「ここに消えない会話がある」
だけど二つの言葉、実は同じことを指してるんじゃないかと昔から思ってて。
そういう世界観の中で生きてみる。チェスの駒のように選び取りたい盤面の中に自らを置いてみる。
“生きるための気合い”はきっと本気のゲームの果実として、優しさとなって滲み出てくる。

B.

大切なのは、「今はもう好きじゃないんだな」はいいとして、「実は最初から好きじゃなかったんだな」ルートに進まないよう注意すること。
後者のように考えると、「相手との関係に参加してしまった自分の責任」をいきなり帳消しにできて楽だから、ついついそっちの方向に流れてしまいそうになるのだけれど·····
結局のところその楽さは、ある時間ある場所で、あなたのシミに寄り添おうとしてくれた相手の尊厳を傷つけ、最終的に自分自身の誇りを傷つける結果に繋がりかねない。

なかった方がいい物語はない。
いやむしろ、無理に物語にする必要はないのだ。
「最初から〜」なんて都合のいいストーリーに足を取られぬよう、残されたなにかをわからないまま信じよう。

C.

ちなみに、かつての恋人とのことについて僕は「Aのように見えていただけで実は最初からBだったのだ」式のいかなるストーリーの当てはめも自らに禁じているが、別れた後、「それにしてもけっこうなうそつきだったな(笑)」とは思った。
もちろんこれは微苦笑とともに甦る楽しい思い出だ。
「あの子うそつきだったな〜」とか「ひでえ女だったな〜」とか思い返すのはすごく楽しいし、健康にいい。
そんなふうに生きていきたい。






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