嬉しいこと感じたあと、なんか悲しくなる

休日なんかは、外出さきでよく勉強してます。つかれると、不案内な場所を、ふらふら散歩しています。

夕がたぐらいになると座りつづけると疲れるから。

でねー、この記事のサムネみたいに、きれいな夕方の空を眺めながら、ワイヤレスイヤホンで音楽ながしてあるくのね。

このじてんで、なんてさみしい生き方してるんだと我ながら思うんだけどね。

で、歩いてる途中なに考えてるかというとね。

気になる異性から積極的に話しかけられて舞い上がったりした昨日のできごととか思い出しちゃったりして、「あのこよく見てくるし好きなのかな?」みたいにおもったりする。

同時に、客観的なみて、そんなうぶな学生みたいな恋愛してるひまあるの?とか思っちゃって客我がこころの内から顔をのぞかせてくるのよ。

そうすると、「なにやってんだろうな」っておもっちゃうわけ。

たのしいできごとを純粋にたのしいと思えるだけの人生を生きれてるひとは幸せです。

たのしいことをたのしいと受け入れられないのは、おそらく、ぼくがまだ社会に受け入れられていないからだと思う。

「みんなと違う」「そんなワガクズさんこそ素晴らしい」って、受け入れられているじっかんがないから、堂々とうれしいことをうれしいとおもいこめない。

社会で成功すればみんなと違うエピソードはかがやくんだけど。

いま成功するために法律の勉強をしてるから、ダイヤモンドの原石をみがいているだんかいなんだと自分のじんせいを解釈してみる。

そうするといくぶんか前向きになります。

ぼくはねー、法曹になったら、専門職として誇りを持ちながら、チャレンジングなお仕事をしたいわけです。

あとひとつやりたいことがあって、ぼくみたいにだれからも評価されていないけども、すごくがんばってて、この人ならお金を投資できると思える人を応援するコミュニティをつくりたい。

社会のための役割を提供しつつ、そのコミュニティの外で成功するためにしっかり努力させる。

おかねもうけだけじゃなくて、そうやってぼくなりの美徳をつんでいきたいんです。自分のためになるんです。

それは、いまの自分が死ぬほどつらいから、こういう思いしてるひとを助けたいんです。なんでだろうな。未来の自分が未来のいまのぼくに似た状況の人を助けても、いまの自分が幸せになるわけじゃないのに。

でも、未来で人助けできるかもしれないと思うと、すこし他人に対する責任が出てきて、いまをがんばろって思うわけです。

その頑張りのおかげで、最終的になりたいじぶんになれたとき、ぼくは恩返しで困ってる人をたすけるんですね。

そうやって、崇高な未来におもいをはせて、夕方のそらを眺めるワガクズでした。


@wagakuzu