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都市生活の違和感から新天地へ:田舎暮らし始まりの始まり

さて今日は、ドームハウス・インフォを主催している私個人のことを少しお話ししたいと思います。

ドームハウスとの出会いは20年以上前。 そもそも建築学部生時代からドームハウスには興味があり、研究室にあるバックミンスターフラーやジオデシックドームの本を読みあさっていました。 建築設計をマスターするには長い時間を設計修行に費やす必要があります。 木造住宅を中心に、多くの物件に携わり、現場と事務所を往復し、法規、構造、デザイン、人付き合いと多岐に渡り学び蓄積していく日々が続きました。 その後、ドーム建築には関わることなく、就職、転職、修行、独立、とステージを替えながら建築にどっぷりと浸かり、人生を建築設計に捧げる年月が続きました。

東京での独立当初、山の中で過ごす週末の時間が、様々な不安の中での生活を癒してくれていた時期がありました。 週末になると車にキャンプ道具やシュラフ、食料を詰め込み、子供を連れて夜中の甲州街道を東京から山梨へ走らせる。 ビルの隙間からしか空が見えない国道を抜けて、八王子を過ぎると峠に入ります。 真っ暗な山道を、子供を後ろで寝かせたまま数時間。 長いトンネルを抜けると、右手の山際にオレンジの街灯が輝く甲府盆地にやっと入ります。 八ヶ岳と甲斐駒ヶ岳に挟まれた峡北地域へと向かい、お目当ての森へ。 森の中でフクロウの鳴き声を聞きながら、満天の星空の下でたき火をし、時間を気にすることなくのんびり、のんびりと過ごす短い時間が、薬のようでした。。。 お金がないので、米に缶詰程度の質素な夕食ですが、これがまた美味い。 森の中だと何でも最高のディナーになります。

そうしている内に学生の頃に夢見ていたフラードームの事を思い出しました。 いつも頭の片隅にあったのでしょう。 三角パネルを東京で作って、毎週末、山へ運んでドームハウスを造ることが出来ないだろうか。 漠然と考え始めていました。 パネル式のドームハウスなら、狭く土地のない街中の住宅地でも作れるかもしれない。 運ぶのも普通ワゴン車で運べるし。 と、夢がどんどん膨らむんですね。

この頃、長男が2歳過ぎ。 共働きでしたので、家で仕事をしている私が平日は子供の面倒を見ながら、仕事と家事をやっていました。 一級建築士もまだ取ったばかり。 育児と目先の仕事を必死にこなす、先の見えない時代でした。

無認可の小さな保育園に朝から夕方まで子供を預けて、家で仕事をする。 保育園の散歩の時間になると、保母さんが園児を5~6人ずつ、コロ付きの大きなカートに載せて、自宅の前の道を通るんです。
無認可保育園の庭は、車も停められないほどの狭い庭しかないので、近所の公園まで子供達を連れて行ってくれるんですが、ケージの中の我が子を仕事場の窓から見下ろしながら、こんな子育てで良いんだろうか、と漠然とした違和感が重く心の中にいつもありました。

そんな都会生活の中での、唯一の楽しみの週末田舎体験。 だんだんと通い慣れた森が定まってきた頃、その行き来の途中に保育園があるのを見つけました。 町営の保育園ですが、そこのグランドが広いんです。 サッカーが出来るくらい広くて、遊具もプールもあって、古い本物の飛行機が飾ってあったりまで。 調べると、保育料は東京の無認可保育園のなんと十分の一。 衝撃でした。


八ヶ岳

保育園の飛行機


そもそも東京出身ではない私にとって、東京に居る意味が一気に崩れた気がしました。 何よりも、広いグランドで走り回っている子供達と、ケージに載せられて公園へ行かざるを得ない我が子。 ショックですよね。

自分の家を持つ夢と、自分の居場所に巡り会える期待。 将来の不安や、子育ての不安。 いろいろなもやもやとしたものが、田舎への移住により全て好転する気がしました。 東京には多くの仕事も、多くの人も、夜中まで照らされている明るい街や、そこでの豊かな暮らしもあるように見えて、実は私にとっては何も無かった。

都市を脱出し、田舎暮らしを。 人生、再出発を。 そして生き甲斐を、再発見したい。 森の中に生きていくための拠点を作ることを夢見て、ミレニアムで沸く2000年、東京を離れたのでした。

甲斐駒ヶ岳

その後、森の中にドームハウスを建設するまで、、、8年。 新天地での起業は山あり谷ありでしたが、それでも8年後、念願の森のドームハウスを着工することが出来ました。

「あの時感じた違和感は正しかったんだ」、と改めて思います。

どうしてドームハウスなのか。 どうやって自分の手でドームハウスを建てたのか。 そしてなぜドームハウスの専門家を目指すことになったのか。
これから少しずつお話ししようと思っています。

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