勝手に芥川研究#9 短ければ短いほど切れる~「詩集」その他
芥川龍之介は短編作家です。長編にチャレンジしましたが「路上」も「邪宗門」も未完に終わっています。わたしはそれで良かったと思っています。時代的背景もありますが、芥川が短編作家だったからこそ今の名声があり、もし長編を書いていたら名を残さなかったと思うからです。
そして芥川の短編は短ければ短いほど切れ味が鋭いというのがわたしの印象です。例えば「詩集」という作品。
わずかこれだけの短編ですが完璧です。売れなかった詩集の末路の悲しさを歌っているようですが、紙切れとなった詩集が林檎の味わいを深めていると解釈することもできます。「夢みつつ、夢みつつ、日もすがら、夢みつつ……」のリフレインは強烈で読後しばらく頭に残ります。
しかしこれははたして小説でしょうか。散文詩といえなくもないですね。
特に晩年の作品に顕著ですが、わたしが一番好きな「蜃気楼」という作品も小説というよりも散文詩のような感じがするのです。
「蜃気楼」では、蜃気楼を昼間と夜間に友人と見に行くのですが、大した事件は起きません。いわゆる筋がありません。あるといえば、昼間に水葬された若者のタグを見つけること、夜間に土左衛門と見間違える靴を見つけることだけです。自裁する半年前の作品ですので終始不穏な雰囲気は漂ってはいますが、夜間に登場する妻の鳴らす鈴の音がとても愛らしく穏やかな気持ちにさせてくれるので、他の作品のように暗い作品ではありません。
以下のくだりですね。この部分がなければ陰鬱なだけの作品に終わっていたでしょう。
ただ、この作品で何が言いたいのかと言われれば、何もないのです。前期や中期に見られたラストの背負い投げ(志賀直哉曰く)や奇抜な仕掛けは何もなし。「新時代」の到来に意味を見いだすことはできますが、わたしはそこはあまり重視していません。
重視したいのは海辺の情景とごくわずかなアクションを淡々と描写している点です。つまりこれも散文詩の一種、あるいは絵画(写実主義というのでしょうか)を小説にしたものだとわたしは思います。
芥川は、萩原朔太郎には酷評されましたが、室生犀星によれば詩人としても優秀だったと言いますし、詩人でありたいと思っていたひとですので、短編に特化していたのは当然だし、短ければ短いほど、余計な部分をそぎ落とせば落とすほど切れ味が増す作家だと思います。そして、特に中期から晩年は、初期の筋書き中心の小説から詩や絵画に近い小説を目指していたのでしょう。そういう意味では彼が力を入れた「河童」は主義主張の塊で、色々な意味で読み応えはあるし芥川研究に欠かせない作品なのですが、個人的にはあまり好きではありません。
芥川龍之介の作品は、短いものほど佳作が多い。
わたしの個人的な見解です笑。
今回はこのテーマでさらっと書いてみました。
それではまた!
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