長編小説について(私見)
出版界不況が叫ばれて久しいが、そのせいだろうか、近年の小説は長大化の一途を辿っている。本屋に立ち寄り平積みされた単行本をざっと眺めると、大抵300頁は下らず、しかも一頁が二段書きだ。本を買う時、タイトルで大抵決める衝動買い派の1人であるが、さすがにびっしりと描き込まれた活字の大群を見ると、値段もさることながら却って買う気がしなくなる。あまりの原稿量に一冊では製本できずに、<上><下>などと書かれていたりするとまず買わない。
いつ頃からこんな時代になったのだろうか。元号が平成に変わる前、明治から昭和の時代には歴史小説は別として、文庫本にしたときに一冊に収まる程度が長編小説の丁度良い長さだった。また当時には短編集も長編とは別格で魅力溢れる作品が存在しており、読者は朝出社の一時間で小気味よい短編を一本読み、帰宅時に重厚な長編小説の続きを読むという選択の余地があった。ところが現在は、出てくるもの全てが重厚なフィレステーキばかり(味はまた別)で、小料理屋のさっぱりした小粋な一品料理を食べることが出来なくなりつつある。そんなカロリーの高い食事ばかりしてよく平気でいられると、読者の方にも疑問を持つし、書き手にも作家と言うよりは実業家のイメージを持ってしまう。
書き手にも読み手にも問題はあるのだろうが、とりあえず書き手のほうだけ取り上げれば、「長くなる」のではなく「長くする」、「簡潔に書かない」のではなく「書けない」のだろうと思う。前者はひとえに金のためだ。今時、短編を書いても儲からないということだろう。これは読み手に大いに問題がある。
さて、後者は小説が単なる物語になり下がったということだ。最近の小説はすぐに映画化されるが、やはり歴史小説を除いて、もともと小説は映画化し難いものだった。なぜなら、小説はストーリーだけで読ませるものではないからだ。勿論、最低限の筋を備えているのは絶対条件だが、読者に提供しているのは「筋」だけではなく、「文章」であり「テクストの妙」であるはず。つまり「言葉の美学」であり、一枚の「絵」といってよい世界だった。その「絵」は作者にしか描けないのだ。考えても見て欲しい。ゴッホの絵をそっくりそのまま書き写した絵はいかに良くできていても贋作以外の何物でもない。同じ事が小説にも言えるはずで、自分が描いた絵の世界を再現できる映画やドラマはまず有り得ない。本当の作家はそれを知っているので安易に映像化することを嫌ったものだ。ところが現代ではまるで映画化を前提としているがごとく、小説が書かれている。「筋」重視、いや「筋」だけ。だが「筋」だけ知りたいのなら、ブックレビューを読んだり、ドラマや映画を見るだけで充分。時間をかけて活字を読む必要はないではないか。他に付加価値が無ければ、最初から映像を見ているほうがずっと楽だし、効率が良い。これでは本が売れなくなるのも当たり前だし、読み手も筋しか読んでいないから進歩がない。
まず短い作品が評価されるように、書き手も読み手も努力することが必要だ。出版業界に期待するのは無理かもしれないが、いわゆる-文壇(今そんなものがあるのか?)-で量より質という気質を育てて欲しい。古来、日本の文化は俳句や短歌、詩、掌の小説類など数少ない言葉で味わい深い美的空間を創出してきた。その伝統を大切にして欲しいと思う次第である。
ところで、この数年日本文学の新作でいわゆる「珠玉の短編集」というものにお目に掛かったことがないが、どなたかお勧めの本があれば是非教えて欲しい。