[勝手に芥川研究#8] 「地獄変」は芸術至上主義の傑作か?
「地獄変」は芥川のあまりにも有名な短編です。初期・中期の作品の中でも完成度の極めて高い、彼を象徴する芸術至上主義の傑作とされています。
この作品を読むとき注意しなければならない点がひとつあります。語り手である大殿の奉公人が必ずしも真実を語っていないということです。色眼鏡を通して大殿の所業について語っているため、大殿が善人であることになっていますが、読んでいけば自ずとわかるように、大殿は相当我が儘で世俗的な殿様です。語り手がどこまで真実を言っているかわからないため、あくまで推測ですが、絵師の娘を手籠めにしようとして拒まれたことと、絵師の芸術至上主義が鼻についていたことから、両者を懲らしめてやるため、最後に娘を炎で焼いたと思われます。人でなしのやることですね。絵師よりもこの大殿という人物の極悪非道ぶりがまず印象に残ります。
むしろ絵師は、自分の娘を焼かれながらも絵を描き続けて芸術至上主義を貫いた点で中盤までの印象と異なり畏敬の念すら覚えます。
この作品でひきあいに出される、娘が焼かれる以下の描写。
絵師は自分の娘が焼かれる姿を眼前にしながらも、芸術家としての芯を失いません。
一方悪趣味な罠を仕掛けた大殿はこの有様。
自分で仕掛けておきながら、絵師がたじろぐどころか歓喜の表情さえ浮かべるのを見て、自分の企てが失敗したことからくる狼狽か、それとも良心の呵責からくるものかわかりませんが大いに苦悩しています。
この対比を、一般的には、絵師の芸術至上主義が大殿の世俗的な悪趣味を打ち負かしたと言われているわけです。つまり芸術至上主義の勝利、世俗的趣味の敗北ですね。
しかしわたしはその解釈に疑問があります。なぜなら、地獄変の屏風ができあがり大殿に献上された際、大殿は出来に感動しその後何事もなく過ごしているのに対して、絵師は首をくくって自害しているからです。この結末は結局のところ芸術至上主義の敗北ではないでしょうか。
個人的には、絵師のほうは羅生門のようにその後行方がわからなくなるなどにする、また大殿は自らの行為に苛まれる顛末を描くなど、いろいろあるとは思いますが、最後の展開は物足りなく感じます。
わたしはこの作品を読んで最初に浮かんだのがEAポーならどうするだろうということでした。芥川はポーについて「ポーの片影」という一文で触れています。作品について賞賛してはいるものの深くはふれていませんが、怪奇趣味があった芥川のことですから好まなかったはずはありません。なぜポーのことをわたしが思うのかといえば、生きている人間を焼き絵を描くという行為、さらに寸前にその人間がすり替えられ自分の娘になってしまうという奇抜さ、残酷さがポーの怪奇幻想小説の展開にありがちだからです。
ポーならラストシーンをどうするでしょうか。個人的な想像ですが、絵師はともかく大殿に対してそのまま平穏な暮らしをさせることはないでしょう。何らかのしっぺ返しを用意しているはずです。
もちろん芥川は怪奇趣味を持ってはいるし、殺人などの主題も使ってはいるものの、ポーのような幻想小説に特化しているわけではないので、比べるのはおかしいのですが、この作品のラストについてだけは、ポーならどうするだろう、そう思わずにはいられませんでした。
今回はここまでです。
ありがとうございました。