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触媒雑記帳~かたりすとの日常(その9)

 一二
 僕は感覚で生きている。さらにいえば、感覚だけで生きている。noteの記事を書く時も感覚で書いている。論理で書いてはいない。小説を書くときも詩を書くときも曲を作るときも同じだ。芥川龍之介は文芸には論理的な思考が必要で、そのために数学を学べと言ったが、僕は数学や物理は苦手だった。とにかく論理的な思考は苦手だ。哲学書もたまに読むには読むが右の耳から左の耳へ抜けていく。頭に残らない。あらゆる小説も感覚で読んでいる。論理はさておき感じるままに読んでいる。果たしてそれを読むといえるのかどうかは定かではないが、僕にとって読むことは感じることである。

「小説を感じる」。おかしな言葉だが、それほどおかしいことだろうか。例えば音楽を聴く時論理が必要だろうか。それがビートルズではなくベートーベンであっても論理で聞く人がいるだろうか。クラッシックを聞き込んでいる人なら様々な技法や旋律や和音の斬新さなどを解析しながら説明的に聞くかもしれないし、それによって楽しみがより深まるだろう。だが多くは理屈抜きに音を感じるのではないだろうか。ベートーベンは力強く、モーツァルトは優雅、という風に感じるのではないだろうか。絵画も同じで、鑑賞に論理が必要だろうか。音楽と同じように絵画に詳しい人なら時代時代で変遷する手法や革新性を論理で説明するかもしれないが、多くの人は絵画を見てただ何かを感じるのではないだろうか。ムンクの叫びは不安を感じ、ルノワールのイレーヌは可愛いさを感じるのは論理ではなく感覚であろう。
 芥川は文芸は最も芸術から遠いと言った。文芸の中で芸術に最も近いのは詩であると言った。もし小説が芸術でないのであれば読む上で論理的思考が必要かもしれない。しかし、仮に小説が芸術の一種であるのならば感覚だけで読めるはずである。もっとも文芸あるいは小説が芸術かそうでないかを論じるのは不毛な議論であるし、無意味なことであるが。
 とにかく僕は感覚で生きている。

本当、可愛い。。😍

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