「焼き餅」~青ブラ文学部お題作品
目の前の大皿に焼いた餅が山のように盛られている。
ある夏の朝食時のことである。
「ハニー、違うんだって!」おれはキッチンにいる妻に向かって叫んだ。妻は、向こう向きに立ったまま、横目でおれを睨んでいる。「昨日はチームの打ち上げでさ。帰りが遅くなったのは悪かったよ。でも車で送ってくれた女性はおれの部下なんだ。何の関係もないってば」
昨晩は飲み会があり、おれは泥酔して部下の女性に家まで車で送って貰ったのだが、妻はそれが気に入らないらしい。妻は焼き餅焼きなのだ。だから目の前に焼き餅がある。
だからといって酷暑の夏の朝から焼いた餅を食べる気にはならない。何度も何度も説明して妻はやっとわかってくれた。焼き餅は引っ込められて、トーストが出てきた。やれやれである。
おれの妻は変わっている。
一見すると同僚がうらやましがるほど美女だし、料理も上手で性格も穏やかだからいわゆる「良妻」なのだが、感情表現が変わっている。というか変だ。
元旦などは朝起きたときから寝るまでずっと笑っている。もちろん作り笑いだが、おれと会話するときも、掃除をするときも、テレビを見ているときもずっと笑顔を作っている。長時間無理して笑っているものだから顔面の筋肉に負担がかかり夕刻に顔面神経痛のような症状に陥って医者を呼んだこともある。結婚して数年経って慣れたが初めてのときに理由を聞いたら翌日渋々答えてくれた。笑う者には福来たる。だから元旦は笑っていたらしい。
夫婦喧嘩をしたときは驚いた。一晩口を聞かずに翌朝目を覚ますと、長い黒髪をジェルか何かで上方向に垂直に固めておれを睨み付けていた。口から泡を吹きそうになりながら理由を聞こうとしたが答えてくれないので暫く考えると「怒髪天を衝く」という言葉に思い当たった。要するに妻はそれほど激怒していたということである。おれは土下座して謝り機嫌を直してもらった。
ある日家に帰ったら部屋中にスプーンが転がっているので何じゃこりゃと思ったのだが、ひと月続けていたピアノ教室を辞めた日だった。さじを投げたのである。
大事になったこともある。おれの誕生日に豪華な夕食を用意してくれていたらしかったのだが、鍋を焦がして食材を台無しにしたことがあった。おれに謝った後、庭に出て木を登り始めたので、危ないぞと注意した直後、自分から手を離して地面に落ちた。足首を骨折して全治二ヶ月の大けがを負った。本人は口に出さないが、おそらく「猿も木から落ちる」と言いたかったのだろう。
こんな風に妻の感情表現は変わっている。特に嫉妬深いところがあるので、女性関係については気をつけないといけない。それはよく分かっていた。
だがある日魔が差した。
一泊の出張先で酔った勢いで名前も知らない女性と一夜をともにしてしまったのである。もちろんその夜限りのつきあいなのだが、妻にばれたらまた焼き餅を食わされる羽目になる。おれは家に帰る前に、女の香水の匂いを消し、気配を察知させる忘れ物がないか入念にチェックした。絶対にばれることはない。確信を持って帰宅した。
翌朝早くに目を覚ますと隣で眠っていたはずの妻がベッドにいない。妻のほうが早起きだが、それにしても早すぎる。まだ朝の五時である。嫌な予感がした。気づかれたのか?おれは手早く着替えを済ませると、階段を降りておそるおそる食卓を覗いた。
大量の焼き餅がテーブル狭しと置かれている。やはりばれている。妻の姿を探すとキッチンでパジャマ姿のまま背を向けて立っている。
「おはよう。おい、何か勘違いしてないかい」おれは怖々声をかけながら焼き餅だらけの食卓に目をやった。一枚の写真が置かれている。なんだこれは?よく見るとおれの背中だ。ベッドに横になっている。首筋に赤いあざがある。キ、キスマーク!もしかしてあの夜のものか!
「おいおい違うんだ、いやごめん、悪かった、いやあれはその」おれはうろたえながらキッチンで背中を向けている妻に歩み寄った。「おい何をしているんだ?」おれは目を大きく見開いた。
妻は、コンロの火に片手をかざしていた。美しい手がみるみるうちに赤くはれていくのがわかる。妻の顔が痛みで歪んでいる。痛みのせいか、悲しみのせいか頬を涙がつたっている。おれはコンロの火を消して妻を抱きしめながら叫んだ。
「焼き餅焼くとて手を焼くな、って言うだろ!おれが悪かった!ごめん!」
妻の怪我は全治三ヶ月。
おれがひと月の間、毎食焼き餅を食わされたのは言うまでもない。
(了)
本作は、青ブラ文学部お題への参加作品です。いつも企画ありがとうございます。
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