短編小説「月の血脈」(その5 完結)
「妹さんはすべてを知ってしまったのですね」私は念を押すように呻いた。
「遺言状はないと私からは説明してありました。そして遺言状は父の書斎の机の鍵のかかる引き出しに隠してあったのです。ですが、その日たまたま執事が書斎の大掃除をしたせいでしょうか、遺言状が妹の目に触れてしまったのです。妹は呂律が回らなくなるほど酔っていましたが、私を見て一言こう言いました。
『姉さんが羨ましい』と。
私は返す言葉を思いつきませんでした。私が瑠璃子の立場なら同じ事を言ったと思います。だって自分は近い将来醜く変わり果てて狂い死にする運命にある。かたや姉はたまたま捨て子であって、その運命を免れる事が出来る、本来であれば捨て子であることが羨まれるはずはないのですが、この場合は逆です。呪われた血筋、遺伝を免れる事ことができる唯一の免罪符は『血が繋がっていない』ことなのですから」
月子は立ち上がると、私のグラスが空なのを見て、グラスを手に取り台所に消えるとブランデーをグラスに半分注ぎ入れて再び現れた。その間二、三分くらいであろうか、私の中で妙に気色の悪い感じが胃の上あたりで蠢いていた。ただでさえ気味の悪い話なのであるが、ただそれだけではない何か胸の奥につかえる感じがあった。何だろうか、彼女の話の中に何か納得できない部分があった。
「その日から妹は少しずつ歯車が狂ってきました。時々大声で泣いたかと思うと、喉が壊れるくらいに笑ったり、一階と二階を意味もなく行き来したり、鏡の前で何時間も座ったきりであれこれ自分の顔をいじくりまわしてみたり、それは次第に常軌を逸する行動になってきました。
毎日朝からお酒を飲み、夕方にはすれ違うと酒の臭いが鼻をつくようになり、彼女の部屋はすえた嫌な臭いが充満していました。それでも酔いしれることができないのか、夜は眠れないらしく、睡眠薬を何錠も服用していました。
婚約者の男性とも全く会おうとせず、電話が掛かってきても意味の分からないことを喚き散らすだけでした。アルコール漬けであることを知ると、相手も愛想をつかしたらしく、それきり電話ひとつ寄こしませんでした」
月子が話の最初で言っていた瑠璃子に奪われた婚約者というのがその男性だろうが、彼女はいっさいその事に触れなかった。
「妹はそうして何ヶ月も酒浸りの生活で、鏡をただじっと見つめる日々を送っておりましたが、どこで手に入れたのかいつのまにか能の面を顔につけるようになりました。最初は時々だったのですが、そのうち食事の時も寝る時も面をはずさないようになりました。妹の部屋をこっそり覗いてみると白い能面がいくつもあり、そのうちの一つを顔につけては鏡をじっと食い入るように見つめている姿が目立つようになりました。既に肩や背中は心労と不摂生な生活によって枯れ木のように痩せ細り、そんな姿を眺めていると涙が出るほど悲しくなったのを覚えています」
「それで妹さんは、今でもああやってお面をつけているのですね」
「滅多に来客などないものですから、妹も物珍しかったのでしょう、先ほどは失礼しました。よほどお客様のお顔が見たかったのだと思います」
「上の姉さんは離れた小屋にお一人で。妹さんはこの家の二階に閉じこもりきり。お二人とも治る見込みはないのですか」
正直私は、月子を冷たいと思った。特に鈴子についてはたった一人で離れ小屋にいわば幽閉しているようなもので、むしろ精神病院の方がましではないか、とさえ考えた。
「鈴子姉さんについては、医者は既にさじを投げております。病名すらはっきりしない遺伝病。伝染の恐れは無いとのことですが、見るも無惨な有様なので私としては姉さんの気持ちを思うと一人にしてやりたいのです。もっとももはや自分の姿形を恥じらうようなまともな感情があるのかどうか、私にも分かりかねますが。
瑠璃子については、実はまだ病は発症していないはずなのです。時々身体を洗ってやるのですが、痣などはまだひとつも見当たりません。ただ来るべき病への恐怖が彼女を放蕩生活に駆り立て、お酒と薬で身体が衰弱し、あげくの果てに心の病にかかってしまっただけなのです。ですから、恐怖の原因さえ取り除けば回復するはずなのですが、原因が事実である以上私にはどうすることもできません。不憫ですが、このままにしておくしか手がないのです」
私は押し黙ったまま、残ったブランデーを飲み干した。
「私の話はこれで終わりです。話が長くなってしまいましたね。疲れている夜に気持ちの悪い話を聞かせてすみません」
月子は念を押すように言った。そして私に背中を向けると二つのグラスをお盆にのせて片づけ始めた。私は、立ち上がると窓の側に寄り、かきつばたの模様の深い森のような深緑のカーテンを再び開けた。空はもう既に白んで来ていた。初夏であるから朝は早い。一体何時間月子の話を聞いていたのだろう。ほんの睡眠薬がわりで話を聞くつもりがどうやら徹夜になってしまったようだ。
片づけが終わり、月子が応接間に戻ってきた。
「あら、ごめんなさいね。つまらない話をして朝になってしまったみたい。お疲れでしたのに。今からでも少しお休みください」
彼女は私に寄り添うように窓の側に並んで立ち、私たちは朝靄に煙る森とわずかな朝陽に照らされて途中まで見える煉瓦道を眺めた。
「はい、そのつもりです」
私は、その前に朝の空気が吸いたかった。辛気くさい話を聞いたせいもあるが、やはり妙に胸につかえるものがあって新鮮な空気を吸って飲み下ししまいたかった。彼女の話には何か矛盾があるような気がした。それが何だかは分からなかった。ただ得体の知れない恐怖を私は感じていたので、澄み切った空気を吸ってひと眠りしたかった。
私は窓を開けた。すると爽やかな水辺の香りと木々の臭いの入り交じった風が部屋に入り込んできた。
月子の肩に掛かっていた漆黒のスカーフが舞い上がって髪の毛のように床に落ちた。
その瞬間私は見た。その首と背中に蛇が這うような大きな黒い痣、いやかさぶたのような醜い固まりがあるのを。
月子は一瞬切り立った崖から決して覗いてはならない深淵を見下ろしてしまったような恐怖の表情を浮かべ、私を真っ赤に充血した鬼神のような目で睨んだ。私は眉間を氷のナイフで刺し貫かれたような衝撃に襲われ、身動きができないでいた。魅入られたように月子の炎のように燃える瞳を見つめていた。だが、すぐに彼女の表情から、沿岸の波が引くがごとく赤みが去っていき、平静な表情に戻った。そしてゆっくりと床に落ちたスカーフを拾うとまた肩に掛けた。相変わらず手袋はずっとはめたままである。
月子は無言のまま窓の外を見ていた。その時の表情を私は言葉で言い尽くすことができない。爬虫類に近い表情と言えば、良いのだろうか、悲しいのか、愉快なのか、寂しいのか、満ち足りているのか、何も読み取れない白紙の表情。紙でできた人形細工のような表情と言ったら良いだろうか、とにかく生きている人間の表情とは思えなかった。
「何もかもお分かりになりましたか」
月子はそう言った。
彼女の一言で私は悟った。そして心の中につかえていた疑問はすべて解きほぐされた。極めて恐ろしい形ではあったが。
柏家の血を引いていない捨て子は、きっと月子ではなく妹の瑠璃子のほうなのだろう。月子は妹の身体はまだきれいだと言っていた。一方月子の身体は全身痣だらけに違いない。絶えずスカーフ、手袋をはずさないのはそれらを人目から隠す為であろう。月子の言うように三人の娘の中に一人捨て子がいるとすれば、いまだ痣のない瑠璃子以外にあり得ない。
では、なぜ遺言状には逆のことが書いてあったのだろう。死を覚悟した人間が嘘を書くとは思えない。ということは遺言状など最初から無かったのだ。あったのは、月子が直接聞いた文造の言葉だけ。遺言状は最初からなく誰かが作成した偽物に違いない。そしてそんなものを作成できるのは、遺言を聞いた月子以外にいない。ではなぜ、そのような嘘の遺言状を月子は作成したのか。
私は思った。全ては瑠璃子に対する復讐と嫉妬のためだ。婚約者を奪われた憎しみ、柏家の遺伝を免れる事に対する嫉妬、これらの感情が月子に嘘の遺言状を作らせて、わざと瑠璃子の目に触れるようにしておいたに違いない。
結果は見事に彼女の思惑通りになり、瑠璃子は酒に溺れ、神経が参ってしまい、婚約者にも見捨てられ、廃人同様になってしまった。なんと恐ろしい復讐だろうか。月子の罠にさえ落ちなければ瑠璃子は一生健康な美しい女性として過ごせた筈なのに、偽の遺言状によって彼女の人生は完全に破滅してしまった。
私は全てを理解したが、あえてそのことについては一切月子に話をしなかった。いやするのが怖かった。事実、私は隣にいるこの魔性の女の目を再びまともに見ることすらできなかったのである。ただひとつ聞きたかった。
「あなたはこれからどうするのです」
「姉のようにぼろぼろに朽ち果てて、発狂して死ぬだけですわ」
そういうと月子は、赤い唇を耳まで裂けんばかりに歪めてにたりと嗤った。私は、少し気分が悪くなったので、窓から離れると二階に戻ろうとした。
「少し休ませて頂いてから、朝早くに発ちます。逸郎君に会えなかったのは残念ですが、また会う機会もあるでしょう」少しぎごちなかったかも知れないが、そう礼をいうと私は二階の借間に戻るため、らせん階段を登った。
「逸郎には会えない事情があるのです」
月子はそう言うとくすくす笑った。なんだかおかしな感じがした。先ほどまでの胸に引っかかった感じは、遺言状の真相が判ったことで消えていたが、今度は妙な違和感、何か現実感のない不安感、吐き気がするような気分の悪さが私を襲っていた。ブランデーを飲み過ぎたのか。
そして階段を登る途中、事実何度も吐きそうになった。長旅の疲れ、徹夜、不気味な話が重なって疲労が極地に達したのだろう。目眩までしてきた。
二階の廊下をおぼつかない足取りで歩きながら、私は自分の寝室に辿り着きドアを開けた。明かりがついていたはずなのに真っ暗だ。夜明けの薄明かりがカーテンの向こうから部屋を少し照らしているが、それでもよく見えない。私は壁際の電灯のスイッチを手探りで探したが、なかなか見つからない。部屋に足を踏み入れて中に入っていくと何かかが足に当たった。ずっしりと重いものだ。それでいて柔らかい感触のもの。
少し目が闇に慣れてきて私は部屋の間取りが自分の部屋と異なることに気がついた。私は入る部屋を間違えたのである。先ほどの目眩はさらにひどくなり、頭痛がひどくなってきた。私は部屋を間違えた事を悟り引き返そうとした。その時また足に大きなものが引っかかって私は転んでしまった。転んだ私の頭のすぐ横に何か大きな塊のようなものがあった。人間の頭であった。
その人間は赤ん坊のように身体を丸めて横たわっており、よく目を凝らしてみると半透明のビニール袋でくるまれていた。ビニールに吸い付いた目や鼻や口が私の方に向けられていた。私はその顔に見覚えがあったので、少し動きが鈍くなってきた指先で触ってみた。それは冷え切って無機質なぶよぶよした物体だった。
要するに死体なのだ。
私が声にならない悲鳴を上げた時、部屋の明かりがついた。
ビニール袋の中の人間は逸郎だった。青白い顔をして目を堅く閉じたまま最早呼吸をしていないただの肉塊と化していた。その肉塊がゴミの収集袋に入れられて床に転がっていた。袋からは異臭が漏れていることにも気がついた。死後数日経っているのだろう。私は目の前の光景がもの凄い速度で回転し、ひどい乗り物酔いの時のように胃の中の物を全部吐いた。頭痛と目眩は益々ひどくなり、手足の動きも鈍くなり、立ち上がることさえ困難になっていた。うつぶせのまま動けない。一体どうしたんだろう。悪夢のような光景の中で私はぼんやり理由を考えた。
頭上から月子の声がした。
「逸郎には会えない事情があると言ったでしょう。あなたももうすぐ誰とも会えなくなるけど」
ブランデーだ。毒を盛られたに違いない。逸郎は月子に殺されたのだ。私も同じように死ぬのか。野良犬のように殺され、ゴミ箱に捨てられてしまうのか。私はどうも考えがまとまらない弱った頭脳を使って考えた。柏家の狂気の血脈は、既に月子の中で開花していたのだ。月子は身体に痣が出来ただけじゃない。その精神は完全に狂気に浸されていたのだ。それも殺戮を弄ぶ悪魔として。
遠くで女の甲高い笑い声が聞こえる。あれは誰の声だっけ。思い出せない。身体の感覚が無くなってきた。首から上だけが、いや冷たい床に着いている右頬だけがまだ皮膚感覚が残っている。何だか涙がぼろぼろこぼれて来る。目が霞んできた。何も見えなくなってきた。何も聞こえなくなってきた。
(了)
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