大手電機メーカーでの4年間 上

私の最初のキャリアは日本電気(NEC)という大手電機メーカーでスタートしました。最終的には4年弱で退職したのですが、当時を思い出しながら3回に分けて書きたいと思います。

日本電気では半導体のプロセス開発や生産技術のエンジニアとして就職しました。なぜこの選択をしたのか、なぜ退職しようと思ったのかについてお話したいと思います。

1.なぜ半導体業界だったのか?

 私が大学院修士課程を卒業したのは2002年でした。当時は就職氷河期でかなり就職が難しいい状況でした。特に2001年にITバブルが崩壊したため、一部のIT系では内定取り消しなどもあったと記憶しています。
 地方の国立大学でしたので、一緒に就職活動をしている仲間も非常に苦労していて内定を取れる人、地元企業志向の人、内定が取れない人と極端に分かれていたと思います。
 私自身は大学の研究内容が半導体のモノづくりに近い領域だったため、モノづくり系を選択していましたが、就職活動をする中で製品開発よりも生産技術系の仕事に興味を持ち、最終的に日本電気への内定を得ることができました。
 ちなみに2002年卒の就職ブランド調査(理科系)では
  1位:ソニー 2位:本田技研工業 3位:日本電気
  4位:NTTドコモ 5位:日本アイ・ビー・エム 6位:トヨタ自動車
  7位:松下電器産業 8位:日立製作所 9位:富士通
 となっていて電機メーカーの人気が高かったことが伺えます。
 私自身も人気企業に就職したことで非常に満足していたことを覚えています。

2.日本電気での生活

 私の配属された半導体プロセス開発は相模原事業所でした。当時UC棟といわれる先端の試作ラインがあり、そこで開発したプロセスを全国の工場(基地)へ展開していくような体制でした。
 当時は矢部寮と呼ばれた会社の寮があり、6畳一間、風呂、トイレ共同の壁が非常に薄い寮でした。その寮には相模原事業所以外にもプラズマディスプレイへ配属された人たちもいました。(彼らはいったいどこに行ったのだろう?)
 初めての集団生活、食堂は1Fにあり、一週間の朝食と夕食の要否を記載したり、郵便物などはすべて寮の管理者の元に届けられるという、当時でもワンルームの借り上げが多い中「今どきこんなのないでしょ?」と思うくらいの生活でした。ただ、同期や先輩などが一緒に暮らすことで仲間意識を作り上げるには非常によい環境だったとは思います。
 仕事に慣れてくると基本、フレックスタイムで10時出社で22時以降に帰宅などが普通になってきたので寮で食事をした記憶がほとんどありません。

3.日本電気でのお仕事

 私の最初の配属先は当時、先端プロセス開発本部という部署でした。この部署では同期が16人だったと記憶しています。
 入社後の4月いっぱいまでは研修などが行われていましたが、5月から本配属となり仕事に専念していました。主に次世代プロセス(当時だと90nmプロセス)の開発を担当していました。朝から夜までクリーンルームにこもって仕事をすることが多かったと記憶しています。
 2002年11月からはNECエレクトロにクスという新会社が設立され、私はワケのわからないまま転籍となりました。当時賢い一部の先輩は転籍を拒否してNECに残った方もいますが、私は他の大多数の人々と共に転籍を受け入れてしまいました。
 その後、プロセス技術事業部へ異動し生産技術の仕事にも携わりました。当時のNEC九州やNEC関西、エルピーダメモリの広島工場など4年弱の間に3工場で立ち上げを支援しました。これは他の同期と比較しても非常に多かったと思います。また、自慢にはなりますが一緒に出張立ち上げをしていた先輩よりも効率よく仕事をすすめ、想定の期間よりも早く仕事が終わってしまっていました。退職の少し前ではNEC山形での300mmラインの立ち上げの打診がありましたが、すでに転職活動をしていたことと、私がか関わった90nmプロセスの設備と異なるメーカーの設備を導入しようとしていることから、事業部長に「山形にはいきたくないです!」と言ったら本当に山形出張がなくなったのは今思えば驚きです。
 こんな感じで仕事をしていましたので、当時は一部の先輩からは「あいつは生意気だ!」などとも言われてていたようですw

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