#9 「ホーム。」

勝手に離れたくせにふらっと戻ってこれる。
そういう我儘を許してくれる場所があるのは、ありがたいもんだと思う。

私は「環境が変わる」というイベントが生来わりと好きだったもので、
住居にしてもSNSにしても色々試してしばらくしたらまた次を探す、そんな事をよくやっている。
根無し草というべきか、浮気性というべきか。
熱しやすく冷めやすい、とも言うか。そういうやつだ。

この記事も「たまーに思い出してnoteに戻って長文書くのもいいもんだ。」で済むような駄文だ。
無理に全部読まなくたっていいやつなのだ。



昨年、日記帳を買った。
生まれてはじめての事だ。

ある日思ったのだ。「日々に何も無さ過ぎる」。
━━いや、そんなことはないのでは?
書こうと思えば、毎日の些細な事柄にも目を向けるようになるのでは。
…と、書けば哲学的で耳障りは良いのだが、たぶん後付けだ。
実際のところステイホームでちょっと頭がおかしくなりはじめたのである。

「自分を定義するものは作品とSNSだけ。」という思考がよぎった。
そして逆説的に、「その二つに関連しない時自分はまるでこの世に存在しないよう。」という考えも。

自分にはこの2つしかないというのに、一方の「作品」という要素も、
近ごろは果たして自分に関連していると言えるのか、ひどく曖昧だ。
昔からの問題(風習?)だが、第一に作品と結び付けられるのは「作者」ではなく「最も著名な人間」だ。
(ターミネーターと聞いて思い出すのはシュワルツェネッガーであってキャメロンでは無いのではないだろうか。)

そういう意味では近年の作品(言ってしまえばMV)の代表者は自分ではない。自分は、一般に作品と結びつきながら認知されているとは言いがたい。

これについて深堀りし始めると前述の哲学思想に分岐していくわけだ。



長くなりそうなので橋を折ると。
そういうわけで、最近はアイデンティティって何だったっけと、道を見失うこともしばしばなのだ。

なので日記を買った。
ある日過去を思い返した時に、こんな苦しみもあったけど今はラクになったよなと言える日が来るかもしれない。
人生は、生きるつもりがあればしっかり長めの時間が用意されている訳だから。

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今は作品を作っている。
この瞬間だけは自分と作品に繋がりを感じられる。
だが世に出たら、まるで自分と関係ない作品になったかのように感じる。
そして自分を見失うからまた作品を作る。
この繰り返しなのだ。

悲観でも厭世でもなく、ただ自分の現在位置を正直に書き記そうと思う。
(日記ってそういうもんだと思うし)

誰かに私や、同業たちのため息が届いてほしいと思う

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