【n%フィクション#10】とかくこの世は。
楽しいばかりではない、でもこの子たちは、全力で今を生きているのだ。
〈はじまり〉
自分は家庭教師で4人の生徒を担当している。
色々な理由で学校に行けない子や発達障碍を持つ子など、所謂サポートが必要な子を専門とした家庭教師だ。といっても、そういう子たちを専門としている派遣会社に所属している訳ではなく、成り行きと偶然の末、現在に至った。
通常の授業とどのように違うのか?自分の経験の範囲で話すとするなら、大きく違う点としては、授業のペースと脱線率である。特に後者の脱線率は、かなり高い。授業自体が嫌で聞いてくれないときもあれば、単純に話したいことがあり余り過ぎて逸れることもある。そして、授業に戻る頃には、「で、何の話ししてたんだっけ?」となることも、しばしば。しかし、どの子も本質的に拒絶することはなく、自分のペースで向き合ってくれている。そして、それぞれに好きなものや特技があり、その事を話す時は何よりも楽しそうに話すのだった。そんなとき自分もついついノセられて、雑談に花を咲かせてまう。
そんなこんなで、結果、雑談過多というふざけた授業スタイルを取っているが、ご家族の理解もあり、楽しく進めている、しかし、時には回り道が困難な仄暗さにぶつかることもある。今回はそんな話を。
〈いつかのこと〉
日曜日に教えている、A君は自閉症スペクトラムを抱えている。他人とのコミュニケーションや学校の勉強は苦手ではあるが、とんでもないクラスで絵がうまい。実際、自分が指導しているここ2年間で、いくつもの賞を受賞した。間違いなく才能のある子である。でも、その子が活躍できる居場所と活躍したい居場所にはギャップがあり、その事が彼を苦しめるのであった。
「勉強ができない自分が嫌だ。」
「勉強さえできれば普通学級に残れた。」
「テストでも良い点が取れた。」
「友達もできた。」
「僕は僕は、、、」
その子はせきを切ったように言葉を吐く、一時の癇癪だったかもしれない。吐露したその思いは、本音だった。こういうときは、優しくなだめるのが正解だと思っている。だけど、何も言えない、自分は何も言えなかった。ただ背中をさすることしかできなかった。なぜなら、自分自身もかつて発達障碍で苦しんだからだ。
慰めたところでそれが何になるんだ、発達障碍は病気ではない。緩やかに発達はしていくものの、一生向きあっていかないといけない。当たり前の難しさに憂い、いくらやっても手に入れられない自分を責め、それを何度も、何度も繰り返して納得するしかないときもある。誰だって苦手はある、抱える生きづらさだってある、成功とは、多かれ少なかれで努力で勝ち取るしかない。だったとしても、人並みな幸せくらい分けてくれたって良いじゃないか。日曜日の昼下がり、自分は何に怒っていいかも分からず、トボトボと帰路についた。
...といったこともある。楽しいばかりではない、でもこの子たちは、全力で今を生きているのだ。
〈結び〉
「そんな子ばっか教えてて病まないの?」
と、ちょくちょくスピリタスショットみたいなことを尋ねられる。非常にストレートではある。でも実際、移動に残業、ヒアリング。時給で換算するなら存外安く、労力もストレスも通常より幾重にかかる。不条理さにスペシウム光線を撃ちたい夜も多い。自分は聖人どころか良い人でもない。ただ、この子たちが少しでも前を向き、何かを得るきっかけや生き方の多様性を知ってほしい、あと雑談が楽しい。それに尽きる。
今年の3月を区切りに4名中、3名が家庭教師を卒業する。関われる時間も残り限られては来るが、変に拘らずいつも通りでいきたい。家庭教師関連の話は生徒数や継続年数も相まって、学びも小咄も色々にある。でも、それはまたそのうちに。
「とかくこの世は。」10%フィクション