ケズレヴ・ケース〜コーデリア〇一光宙記録〜 Kezlev Case.-Cordelia 01 Space Log- 改訂版
汝、深淵を軽々しく覗くなかれ
所詮、深淵は汝のことなど歯牙にも掛けぬ
——— 統合理論物理学者 I,フレサンジュ
ケズレヴ・ケース〜コーデリア〇一光宙記録〜
Kezlev Case.-Cordelia 01 Space Log-
承前
地球に端を発した太陽圏文明が、そろそろと恒星間航宙へ乗り出した時代。
自分たちのささやかな版図の、目下においてはただひとつの恒星、すなわち太陽を中心点とした半径五十光年以内の星々へ、まずは無人の光宙探査艦が送られた。そして、それらがもたらした探査結果を基に、ある程度は何らかの見込みがありそうな宙域へと、今度は有人のそれが送り込まれた。
いわゆる光世紀時代の始まりである。
光世紀世界の宙域にあまた存在する恒星系は、その後の観測、解析精度の技術向上と、複数の光宙艦による実測が可能となったことで、かつての提唱者、継承者たちが想定していた世界より遥かに豊穣の海であることが判明した。
太陽系宙域からの光学、電波、重力波観測によるデータから導き出された予想値を上回る収穫を、実測任務に赴いたいくつかの光宙艦が持ち帰ると、そのたびに人々はおおいに歓喜し、その証左として、光世紀世界探査に関連する企業の株価があがり、投資が促進された。
それは太陽系宙域全体で見れば、決して少なくない数だったから、結果として、宙域全体の経済が活況に満ち、機運はいよいよ次の段階への期待感によって、醸成されていった。
かくして、光世紀世界への人類移住の模索が始まった。
既にいくつかの恒星宙域、星系では、試行錯誤の末に、採算ベースに乗った無人プラントが稼働しており、いまはまだ細々とではあるが、それでも着実に徐々に太陽系宙域を中心とした経済圏の萌芽を育み始めていた。しかし、こうした一方向にのみ偏った経済モデルは、いずれ歪な構造を維持出来なくなり、結果としては遠からず破綻してしまうことを、人類は太陽系内での多くの失敗と成功の経験から学んでいた。
しかも、これから乗り出そうとしている世界の規模は、太陽系の比ではない。
最大で半径五十光年にも及ぶ広大なるフロンティアであり、いずれは可能になるであろうが、現在の光宙艦建造技術では、ひとりの人間がその生涯の全てを費やしても、あまねくその世界の全てを旅することは出来ない程に遠く果てしない領域なのである。
光世紀世界への橋頭堡を着実に築くには、臆病と慎重を履き違えてはなし得ないが、同時に無謀と勇気を取り違える訳にもいかなかった。
複雑に絡み合いながらも星系経済圏を構成する企業群や、是とする信仰や思想、主義の違いから枝分かれした国家、政体群にしても、今や独立独歩、孤立主義を標榜する構成単位は見当たらず、それぞれが人類の欠くべからざる細胞のひとつひとつとなって、大なり小なりの共存共栄を図っている。だからこそ成立している現在の太陽系文明の行く末を、今さら悲劇的な未来へと向かわせる訳にはいかないのだった。
開闢以来、そして有史以前から連綿と続いて来た地球史、人類史の最後の一頁を誰がしたためるにしろ、我々以外の誰かがひもとくのだとしても、愚劣な一文で締め括ることを、もはや人類は望んではいなかったのである。少なくとも、その程度には教訓を得て、そして多少なりとも学習して、ここまで生き延びて来たからこそ、人類はようやくその領域を太陽系外へ広げる資格を、歴史と云う名の見えざる神から得たのであった。
とは云え、何らかの意見の対立がなかった訳ではない。
大別すれば、光世紀世界移住計画への積極論を唱える一派と慎重論を唱える一派とになる。無論、その派内も細分化すればきりがない程に様々な考えに則り、丁々発止のやり取りが行われてはいた。だが、極論すれば、すでに移住しないと云う選択肢だけは、少なくともこの時点では、存在しなかったのである。
今すぐにその荒波の大海への漕ぎ出すのか?
時を待ち、潮の流れを見極めて、それから凪いだ海へと櫂を差し入れるのか?
云々。
それぞれの論を個々に考察することに興をそそられないでもないが、それはまた別の機会に譲るとして、今は、そうした議論百出の末に、比較的太陽系近傍の宙域に存在する既知の星系として知られているてんびん座グリーゼ五八一、またはウォルフ五六二の名で知られる赤色矮星へと向かった派遣光宙艦の一群についての物語を記そうと思う。
この光宙艦群が遺した航宙記録の顛末は、後年、光世紀世界移住計画の全体に少なくない影響を与え、その結果、いくつかの計画の修正が余儀なくされたことで知られているからだ。そして、現在の観点から見れば、それは人類史の大きな転換点のひとつ、何かの始まりであり、何かが終わった重要な事象のひとつであったとも云えるからでもある。
現在、我々が歴史を学ぶ意義のひとつは、こうした過去の事例を詳らかにすることによって、まだ見ぬ未来への考察の糧とするためなのだから。
尚、一般には、この出来事は、光宙艦群の旗艦名を冠した《コーデリア・アクシデント》またはついに到達した惑星グリーゼ五八一c、光宙艦派遣計画が具体化し実施段階となった時点で《ケズレヴ》と云う惑星固有名を与えられた、その星の名前を採って《ケズレヴ・ケース》と呼ばれている。
やや直裁的で陳腐と云えなくもないが、古典文学的なある種の暗喩をも含むその艦名から、容易にこの出来事が社会全体へもたらしたイメージを誰もが想起し得るため、当時のマスコミや大衆はこぞって《コーデリア・ショック》とも呼び習わしていた。
勿論、本件に遭遇したのは何も群旗艦たるコーデリア〇一単艦だけではなく、派遣光宙艦群を編成していた光宙艦船全てに何らかの類が及んでいることから、公正さを期すると云う観点を鑑み、当初は、公式、非公式を問わず、このグリーゼ五八一方面第五次派遣光宙艦群の制式記録名を明記した《05DLSSS-LCC1050 incident》と云う第三者による調査委員会の誰かが事務的に名付けたであろう如何にも無味乾燥な数字と文字と記号の羅列で記されていたが、普及はしなかった。結局のところ、現在、確認出来る公式な記録、信頼出来る確かな史料においては、もっぱら《ケズレヴ・ケース》と端的に呼称されており、最終的な公式な件名もそれに落ち着いたものと思われる。
故に本篇でも特に必要がない場合は、その表記は《ケズレヴ・ケース》で統一する。
以上の通り、これは、地球人類による恒星間往還時代の黎明期に起こった最も著名なアクシデントとして知られる《ケズレヴ・ケース》の発生当時の記録を基に再構成した物語である。
一部、固有の人物名、団体名、地名などは、社会的影響を考慮し、筆者と、関係者の子孫、今も現存する関連、後継団体などとの合意によって、架空の名称となっているが、この些細な改変自体は、史実そのものには何の影響も与えてはいない。
その点はあらかじめご了承いただきたい。
物語を始めるにあたり、既にほぼ広く知られた歴史的な出来事でありながら、筆者のささやかな好奇心を満たしたいがための些細なやりとりと無遠慮で興味本位でしかない浅はかな疑問、質問攻めに、根気強くお付き合いいただいた関係諸氏に、まずは深く謝辞を述べておきたい。
前哨-異変-
群司令を務めるイリア・ハッセルブラッドは、半舷休息中の居室に設置されたモニターを通じて、その日、今週最後の定期補給が終了した旨、副司令のジョセフ・アサクラ一等宙佐からの報告を受けた。
長期光宙艦勤務の実際を知らない人間が見れば、宙将補たるイリアは、いまだ二十代前半の容姿を保っており、対するアサクラ一等宙佐は、五十代後半の老練な士官に見える。
つまりこのふたりの外見と実際の階級の逆転現象に違和感を覚えるかもしれない。
そもそもジョセフは外見の印象と実年齢との間にさほどの大差はない。
ただ、それは惑星重力圏での定住勤務が長く、その年齢分ひとつひとつを積み重ねて、佐官までの階級を昇って来たからで、光宙艦勤務経験自体それほど多くはなかったのである。
彼が今回の派遣光宙において群副司令の任についたのは、まさにその後方勤務で培った事務官としての力量を買われてのことでもあったし、何よりも本人が退役後の終の住処として、この派遣光宙艦群の目的地を望んだからだった。実際、彼は今回の派遣光宙任務終了を以って、現地退役が決まっており、すでにケズレヴ居留地初代行政官と云う当該星域の施政責任者として内示がおりていた。
三〇代を過ぎた頃から、頭頂部から徐々に薄くなり始めた頭髪も、今では白いものが混じり始めていたし、光宙士官にしては珍しく、その体格は縦ではなく横へのベクトルを指向し、精強よりは温和、およそ剣呑な空気とは無縁な人物としての印象を醸し出している。ジョセフは、公私にわたって、自らを《事務屋の親爺》と表向きは自嘲気味に、その実はささやかな矜持を保って公言している。
その意味でも彼が他者へ与える印象に違和感はない。
書類仕事を軽んじる者は、その他の実務でも早晩、その無能ぶりを露呈することとなる、と手厳しい本音を吐く代わりに、彼は後年、こんな言葉を残している。
「事務を能くするものは全てを克くす」
ジョセフが決裁したと云うことは、彼が自身の職責の及ぶ範囲で、建前ではない全ての責任を持つと云うことなのであった。なるほど、これから新たに築かれる居留地の初代施政者として、彼ほどの適任者はいなかったことを伺わせる含意ある彼らしい言葉である。
そして、彼が乗艦しているウラヌス級光宙艦コーデリア〇一を群旗艦とする派遣光宙艦群を構成する移住者母艦のひとつには、彼と共にケズレヴに骨を埋めることになるであろうその家族たちも乗り組んでいる。それ故に、ジョセフは光宙期間中、年に二回、許可されている二週間の休暇を家族と過ごすために、その移住者母艦とを私的に行き来すると云うある種の特権を決して無駄にはしなかった。
要するに彼は公私において好人物だった。
公団本部で彼と仕事を共にした人々の一部からは、こんな証言もある。
現職がグリーゼ五八一方面第五次派遣光宙艦群副司令並びに群司令部首席幕僚たるジョセフ・アサクラ一等宙佐の前職は、公団本部の人事部統括官だった。つまり、彼の派遣光宙艦群副司令、さらにはケズレヴ居留地初代行政官としての内示を決済したのは、彼自身なのである。
だが、これがさして問題とならなかったのは、ジョセフはどこまでも人事部統括官として客観的な視野に立ち、もっとも適切な人事として自薦も厭わなかっただけで、何よりも、その人事の最終命令権者が、彼ではなく、イリア・ハッセルブラッドであり、彼女もまた自身の行う人事のみならず、全ての職務に対して、その責任を背負うことを厭うタイプではなかったからである。
そして、こんな話も残っている。
自身の群司令部転属の辞令と行政官任官の内示の発令を自らの手で行うことには、流石にためらいがあったジョセフは、後任の人事部統括官に引き継いで貰おうと、その旨をその時点での直属の上官である幕僚総監部群管総務へ意見具申した。実際、本部内には公私混同ではないかとおよそジョセフのこれまでの経歴からは無縁な発言が囁かれ、なにものかの横槍がチクチクと彼の小さくはない尻を小突いていた。
しかし、そんな瑣末なことでケチがつくような話しなら、あとは自分が責任を負うから、とっとと、群司令部へ着任して、こちらの仕事を始めろと、イリアが彼を叱責し、同時に即刻下命したと云うのである。
イリアにとっては、命令とはまさしく”命を賭して令する”もので、彼女の構想する群司令部には、今すぐにでもジョセフが必要だったし、それを脇でごちゃごちゃ云う人間がいるとしたら、それはもう彼ではなく、イリア自身が受けて立つ問題なのだった。
「実際、例の風変わりなたったひとつの質問で終わった面接と、この時のハッセルブラッド群司令の激昂ぶり、このふたつだけで、彼女の幕下に加わるには充分な動機だと思いましたな」
イリアの風変わりな質問とは、彼女のエピソードの中では比較的有名なものなので、今は書き添えないが、この時のジョセフへの命令とも無関係ではない。
「件の面接でイエスと答えた私にですよ? 舌の根も乾かぬうちに『この件での抗命は許さない』と云い放ったのですからね。有能で信頼出来る上官にはこの程度の人間としての矛盾が必要だとは思われませんか? 非の打ちどころがない、全てにおいて完璧で隙がない人が上にいると下は疲れるだけですからね。まぁ、私人としては矛盾だけで生きている節がある群司令のおともだち、あれはあれでまた……ね」
事務屋の親爺ジョセフ・アサクラの人物像を検証する際、実はこの発言の一部にも言葉通りに捉えてはいけない箇所があるのだが……。
とにもかくにも、自身で要らない仕事を増やすところだったことを気付かされた人事部統括官ジョセフ・アサクラ一等宙佐は、月の周回軌道-ムーン・オービタル・ゾーン-にある公団本部光宙艦低重力繫留廠の一角に置かれたグリーゼ方面第五次派遣光宙艦群司令部準備室(仮)へと赴き、改めて幕僚人事の辞令とケズレヴ行政官の内示を、人事部統括官臨時代行兼務となったイリア・ハッセルブラッド宙将補より拝命したのだった。
《決断と実行のイリアとアサクラ》と云う後世の評はここから始まったのである。
ユニークなのは《決断のイリアと実行のアサクラ》ではないところであり、この評価を最初に下したのは誰なのか、そして、この分け方は評価として正しいのか否か、歴史と実業を学ぶ者の間では今も議論が絶えない。
無論、イリアが、ジョセフへの下命後、直ちに自ら群司令専務へ戻ったことは云うまでもない。
そして、行政官としての任地へ赴く途半ばにある彼が着任すべき居留地は、今はまだない。
この派遣光宙艦群がケズレヴへ到着した後、ようやく本格的に建設される段となっているからだ。
つまりジョセフの初代行政官としての仕事は、自らの任地の都市基盤整備そのものなのである。
「何しろ事務屋の親爺ですからね。そりゃあ、退役後は畑を耕すセカンド・ライフこそが王道でしょう?」
決して規模の小さくない太陽系外恒星宙域開拓事業計画も、彼の中では自宅の裏庭に拓いた猫の額ほどの日曜菜園のスケールに収まるものだったらしい。
すでに四度に及ぶ有人派遣光宙艦群の往還とそれを補填する数次の無人光宙艦群の派遣によって、運び込まれ設置された無人の自律型資源探査採掘ドローン群や、これから始まる本格的な星系居留地建設と維持、発展に寄与するであろう同じく無人の工業プラント群などは既に稼働を始めている。
おっとり刀で駆けつける将来のあるじのために、今もせっせと現地で採掘した資源を、有用、実用な資材へと、加工し、量産し、時が来るまで貯蔵している筈である。
そして今回の、つまり第五次派遣群によって、ようやく人的資源となりうる最初の移住者たちが、ケズレヴへ降り立つことになる。
云うまでもないが、ここで云う〝降り立つ〟と云う表現は比喩である。
最初の居留地は、特異な自転周期を持つケズレヴの昼夜半球境界面-トワイライト・ゾーン-の静止衛星軌道上に建設される多層構造モジュールによって構成される予定だからだ。
実を云えば、イリアはこのケズレヴへの有人派遣光宙往還任務全てに参加していた。
最初は光宙士官候補生と位置付けられている新米の光宙准尉として。そして、派遣任務の回を重ねる中で経験を積み、実績を挙げ、他の宙域、星系への派遣光宙任務を経て、今回、ついに群司令としての任を務めることになったのである。
ジョセフを筆頭とするケズレヴの将来の住人たちを送り届けるイリアにしてみれば、この光路は、馴染み深い通い慣れた道だった。
だが、ケズレヴへの水先案内に適していたからと云う理由だけで、イリアが宙将補を以ってその任にあてる派遣光宙艦群司令となった訳ではないことは、彼女を知る多くの人々が証言し、または記録を残している。
すなわち、通い慣れた道だからと云って、その任務を軽んじることなく、万難を排し、万全を期し、万人の命を預けるに足る能力を余すところなく発揮できる適任者としての指揮官、それがイリア・ハッセルブラッド宙将補だったからである。
《ケズレヴ・ケース》は、彼女の資質と力量を後世に示す具体例でもあった。
そんなイリアは、ジョセフとは逆に、地上と云う場所で過ごした経験が殆どない。
まだ公団の訓練校に入学する前は、火星と木星の間に広がる小惑星帯-メインベルト-の首長国たるセレスで暮らしていたが、公団本部がある地球-メインランド-へ初めて赴いた時など、〇.〇二九Gのセレスに慣れていた彼女はひどく面喰らったくらいだ。
知識やある程度の重力下訓練などで、頭と多少は身体でも理解していても、長く一.〇Gに近い重力圏に留まっていると奇妙な違和感を覚えるのが常だった。だから、絶えず惑星上の重力を意識しながらの施設勤務や、時として〝非人道的な加速を強られる〟ことさえある惑星軌道艦での航務ではなく、こうして果てしなく長大な距離と時間を、少なくとも主観ではゆるゆると光航する光宙艦勤務の方が、彼女の性には合っていた。
もっともその結果、〝アインシュタインの呪い〟によって、実年齢と乖離した若い容姿のまま、今に至ってしまったが、彼女自身は、常々、逆よりはマシと、長い光宙勤務の習慣によって、ある程度の長さで切り揃え、シュシュでまとめた蜂蜜色の柔らかな髪のまとめ損ねた何本かを揺らしながら、笑って語っている。
その時の無邪気であどけなささえ感じる彼女の表情は、人によっては十代半ばの少女にさえ錯覚させ、和ませもするのだが、それは無論、彼女の責任の範疇にはない。
「見た目で判断されての給料では割に合わない程度には、公団に貢献しているつもりだからな」
これは何も彼女だけの見解ではなく、殆どの光宙艦勤務にある者の述懐であり、諦念に近い境地でもあった。
そもそも光宙艦に乗ると云うことは、そう云う事実を受け入れることなのだから。
公団が設立されて数世紀、実際の有人光宙艦群が最初の太陽系外の恒星系に到達してから三世紀以上は過ぎている。だから、イリアのような人間は公団内だけでもかなりの人数になる。つまり、社会はとっくの昔に、〝アインシュタインの呪い〟など気にしてはいないのだった。
それでも、職務上の必要を除けば、そのような相手に実年齢を尋ねることは非礼にあたるとされるのは、恐らくは古来のルール、エチケット、マナーの延長線上にある社会的習慣に過ぎないのだろう。
何にせよ、ジョセフをはじめとする彼女よりは見た目は年上に見える部下たちも、職制での上下関係を重視していたし、彼女もその職分に見合う仕事ぶりで、部下たちの信頼と敬意を得ていた。
結局、そのような瑣末なことは光宙艦勤務においては何の問題にもならなかったのである。
こうした一般的な光宙艦での生活時間は、ほぼ地球の自転速度を基準としたサイクルに基づいている。長期凍眠による待機光宙期間を除いた実働生活時間は、人類が地球発祥である以上は、深く遺伝子レベルで刻まれたリズムで過ごせる生活サイクルに合わせた方が合理的だし、何よりも身体的、心理的な負担も少ない。どんな些細なことでもストレスやトラブルの種になりかねない障害は摘んでおくに如くはない。つまり、今週最後の補給が定時で完了したと云うことは、タイムスケジュール通りにまもなく日付が変わる。
すなわち〝〇〇〇〇-ゼロ・アワー-〟となり、アサクラ副司令との交代時間が近いと云うことだった。
イリアは、いつも通りにミスト・シャワーを浴び、手早く髪をまとめ、シュシュで束ねて留める。またしても例によって、何本かがそこからはみ出していたが、それは身なりを整えると云う彼女自身の規範では許容範囲内だった。
そして実年齢どころか外見上の年齢から見てもなお童顔に見合ったバランスが取れた体つき、つまりは低重力下生活者に多いスラリと伸びた細身な身体に通常勤務用作業服であるバーミリオンカラーのカバーオールを着用すると、群司令の専用個室から直接ブリッジへあがれる連絡通廊へと宙を泳ぎ出した。
彼女専用の個室や通廊は、勿論、特権のためにあるのではなく、緊急時の即応体制をとるために設置されたものだ。それは、逆を云えば、無駄のない効率重視の設備こそが信条の光宙艦においては、彼女がブリッジへあがる手段のもうひとつは、艦内を巡る通廊のいくつかをバイパスする羽目になることを示唆していた。それこそ時間の無駄だし、非直の一般航務員が日常的に使用している通廊も経由するかたちとなり、群司令の抜き打ち巡検と勘違いされるのも甚だ迷惑なので、イリアは専用通廊からブリッジへあがることをもっぱらとしている。
セパレートの上衣と下衣を静電気防止処理が施されたマジックテープで留めて、一体とした制服の両肩にあしらわれたシンプルなふたつの白銀の輝星が彼女の階級を示し、左の胸ポケットの上にある徽章によって、群司令としての職制が示されている。
これら階級章と徽章は光学的発光繊維の刺繍加工によって制服に表示されており、周囲の明度に合わせて、その加減も自動調節される。だから暗闇でも識別出来るし、必要なら任意に消灯することも出来る。出来ないのは自身の階級と職制とは違うそれを表示させることくらいだった。
だが
彼女がどれ程、見た目は可憐な少女に錯覚されようが、こればかりは最上位士官と云えども、むしろ最上位だからこそ、他の範となるためにも、服務規定上、これらを制服からむやみに外す訳にもいかない。だから、直任務中の時は、せめて階級章と徽章を意味もなくそびやかして、部下のストレスにならないようにしているのだ。
実のところは、それでも一般通廊でハッセルブラッド群司令に遭遇した者は、しばらくは幸福になれると云う何の根拠もない迷信があり、それにまつわる非公式な渾名もついて回っているのだが、それは彼女の知るところではない。
光宙艦航務員の制服は素材や機能性などは都度、更新されてきたが、そのデザインは人類が地球近傍宙域をうろうろしていた時代、つまり公団の前身組織の時代に採用されて以降、それ程、大きな変化はなかった。求められるべき変革は常に推し進められては来たが、必要を感じられないものについては、往々にして保守に徹するのが、世の常なのではないか。それは光宙艦乗りの心の持ちようも同じなのだろう。
古の昔から、船乗りと云う生き物は迷信を好むように出来ているのだから。
取り敢えずはブリッジへあがり、先ほど報告を済ませたばかりの副司令からの当直の引き継ぎを受ける。
一見、先刻のモニター越しの報告は無駄なのではないかとも思えるが、あれは報告と云うかたちを取った、彼女の直任務がまもなく始まることを告げる一種のモーニング・コールを兼ねているのだ。わざわざその目的のためだけで、定期補給が〝二三三〇〟に完了するように稼働させてはいないが、もし何よりも仕事よりも朝寝坊と二度寝を優先したがる上官がいたとしたら、手間は省ける。
イリアはむしろ先に起きているタイプの上官だった。
それはそれで胃弱な部下などはストレスになりそうだが、幸い、ジョセフは必要以上には頓着しないタイプなので、その意味でもこのふたりは良いコンビだと云える。
光宙時の通常勤務では、一般の航務員は八時間ごとの三交代制だが、群司令、副司令、艦長などの指揮官クラスの上級士官は十二時間ごとの二交代制となっている。上に上がるほど、給料だけならまだしも、責任と仕事と拘束時間も増える、とは一般の航宙士たちが口にする出来の悪い冗談の定番だが、勤務中の食事と休憩も含まれているので、別段、辛いと云うこともない。
それに仕事と拘束時間も増えるのはさて置いても、責任がついてくるのは致し方ない。上官は責任をとるためにあるのだ。決して部下に責任を押し付けるためにいるのではない。少なくとも公団ではそう教えられるし、教わったものもそれを実践している。
先達が実践し、後継も倣い、それが常識として紡がれ、伝統として繋がる。
伝統墨守は、何も悪習弊害のみを引き継ぐものではない。
そして、イリアがブリッジで副司令からさほど目を引く事柄もない引き継ぎを受けてから、数分後、先行する前方哨戒群から発進した緊急事態発報の第一報を載せた無人連絡艇-シュヴァルべ-が群旗艦へ接近しながらの情報連結を求めて来た。
イリアは職業的慣習に従い、左腕のクロノグラフをチラリと覗き見る。
〝〇〇〇一〟
艦内時間で真夜中を一分過ぎていた。彼女が乗る群旗艦コーデリア〇一の光路前方からは、グリーゼ五八一へと向かう途上の暗い隘路を照らす光の虹が果てしなく連なり続いている。
これが異変の始まりであった。
この時、グリーゼ五八一方面第五次派遣光宙艦群《制式記録名:05DLSSS-LCC1050》は、光程二十光年余に及ぶ道行きの最終段階へと移行しつつあり、そのための編成形態を整えていた。
大まかに説明すれば、進路の最前に哨戒光宙艦を核とした前方哨戒群、次いで約一光日(二十四光時)後方に群旗艦コーデリア〇一を核とした群司令艦群。そして、さらに約一光日の距離を置いて、本光宙艦群の主力とも云える移住者母艦群と物資輸送艦群、補給艦群、さらに約一光日の最後尾にある後方警戒群から成っている。
実際には、これらの光宙艦群とさらに後方の中継ステーションと拠点整備された宙域や星域の間に築かれた兵站線上を飛び交う後方連絡艦や兵站維持輸送艦などなどが続いており、さながら、古巣から新たな巣を求めて連なる蟻たちの隊列であるかのようだった。
公団はこうした派遣群をフリートとは呼ばず、キャラバンと称していた。
確かに、延々と連なって進む艦船のさまを表すには、これ程、しっくりと来る言葉は他にはない。
純軍事組織ではなく、準軍事組織ですらない公団の組織モデルは、意図的に軍事組織のそれを採用しているため、構成する人員の階級、運用スタイル、記録などに散見する用語など、随所に如何にもな軍事組織的な色合いが見て取れるが、そのことにのみ注視すると、公団の全貌は見えては来ない。
宇宙開発事業公団-Space Development Public Corporation-と云うおそろしく端的で何の趣きも面白みも感じられない正式名称の組織は、事実、その字義以外のなにものでもなかった。
ただ、その宇宙と云う単語が意味する領域が徐々に拡大し、それに合わせて公団の活動域も広がり、それに見合うだけの組織を維持しているだけなのだ。そして、そうした組織を運用するにあたり、もっとも効率的なモデルとして採用したのが、それこそ人類が有史以前から、改善に取り組みながら実績を積み上げてきた軍隊のそれだったと云うだけなのである。
その意味でも、擬似的軍事組織と云う言葉の方が公団の有り様を説明するには、いちばん適切かと思われる。
そもそも軍隊とは、それが仮想であっても敵があってこその組織である。その点、公団には、公的な意味、表向きな意味での敵は存在しない。
もちろん、征服すべき未知なる宇宙こそが、我らの敵である。と、恥ずかしげもなく演説ぶった公団の人間は少なくない。それが本気だったか冗談だったかは別としても。
だが、宇宙は征服するには人類にとって広大極まりなく、仮にそれらを敵として戦い抜くには、徒手空拳にも程がある。仮に征服し得たとしても、漠然とした達成感が得られる程度では、人は満足しないし、莫大な投資の末に得られるのが、それではあまりに割に合わなすぎる。
宇宙には、まだまだ未知の領域が広がっているが、そこが浪漫と冒険の領域だった時代は、はるか昔、それこそ太陽系外縁部を、人類が初めて踏破したあたりで終わっていたのである。
無論、個々人が私的な心のうちにそれを感じていたとしても、それを咎め立てする必要もないのだった。
故に公団に属する艦船の艦種には、警戒艦と呼ばれる艦はあっても、純粋な意味での戦闘艦は存在しない。
コーデリア〇一などは、文字通り、群旗艦としてキャラバン全体を統率・指揮する機能に特化した艦種であり、武装と呼べるものもあるにはあるが、それは長駆の旅程で、障害となり得るものを物理的に排除するための必要最小限のものであった。
だいいち、限りなく光速に近い速度で飛翔する光宙艦が物理的な戦闘行為を行うこと自体が今の技術では不可能に近かった。光熱源兵器も質量兵器も全て〝アインシュタインの呪い〟の前では無力化され、何の役にも立たないし、意味もない。ここは跳躍飛行が可能で、既知の物理法則さえも飛び越えた異次元空間ではないのだから。
だから排除すべき対象には、恒星系重力圏内など、ともかく一度、アインシュタインが必要以上に干渉してこない宇宙空間へ減速して降りないことには、対処のしようもないし、必要もない。
幸いにして、何らかの物理的障害として、人類または異星人などが立ちはだかった事例は、いまだになかったし、それに類する何かが行く手を阻んだこともなかった。多くの場合は、排除可能なイレギュラーの微小天体であったり、もしくは過去の光宙艦群が除去し損ねたデブリの類だった。これは他の艦種も同様で、自衛のための武装、兵装が必要となる相手は、何らかの意図、意思を持った敵ではないのである。
ただ、それは人類文明の領域に軍隊や戦闘艦は存在しないと云う意味ではない。
大は星域全てをカバーする組織として、小は惑星や衛星の地上面にひしめく大小の都市や国家や何らかの独立した政体を持つ自治勢力に至るまで、とにもかくにも、何らかの軍事組織を持たない勢力の方が少数派であるのが実情であった。その目的も主として自治権の及ぶ範囲での警察行動のためであったり、文字通り何らかの軍事行動(多くは自衛のためと嘯く)を目的とした組織であったり、それこそ枚挙に遑がない。
自前の組織を持てない勢力同士が、同一の思惑に沿って同盟、連合勢力として運用している例もある。そして、不幸にして、現在に至るも、小競り合いの末の物理的な軍事衝突が実際に起こってもいる。
皮肉屋揃いな歴史学者などが〝ガス抜き〟と呼ぶ類のものだ。大規模な軍事衝突に発展しないのは、この〝ガス抜き〟によるところが大きいと主張する向きもある。
だが、哀しいかな。そんな〝ガス抜き〟で、何らかの人的被害が皆無だった事例は、どれ程の史料を探しても見当たらない。
人が歴史と云うフィルターを通して、世界を俯瞰する時、往々にして陥りがちな罠に気づくものは少ない。それが、こうした人的・物理的被害を被った犠牲者たちの実相である。我々は、ひと桁の犠牲者が出た事象と、膨大な犠牲者が出た事象を、その人数、被害総額などで比べがちであり、ともすれば、最小限の被害で済んだ側を〝この程度で済んで良かった〟などと片付けてしまいがちである。
だが、そこでふと視点を変えて、歴史を見つめ直してみると、ある小さな事件に端を発して、連鎖的な事件が続き、その結果、失われた人命の数が実は膨大だったと云うことさえある。一瞬で膨大な人命が失われた事例より、事態が一向に収束しなかったために、延々と失われ続けた人命の累計が逆転している事例は、決して少なくはないのだ。
そして、どれ程、膨大な人命が一瞬で失われようと、結果として多くの人命が失われようとも、その個々人にとっては、たったひとつの命が失われた一件の事例なのだ。
だからと云って、宇宙の星々が全て尽きようとも、人の世に争いの種は尽きない。
それもまた事実であった。
ただ、とにもかくにも人類が宇宙へ乗り出し、曲がりなりにも地球圏の外にまで生活圏を延ばして以降、それこそ人類全てを巻き込む程の大規模な軍事衝突は、実際には起こってはいない。
これは現在の視点から見れば、ただの結果論であると云われてしまえば、それまでなのだが、その要因のひとつとして、人類がいまだ統一した政体を持ち得ていないからだとは考えられないだろうか。
地球の方々で発展していったそれぞれの文明勢力にとって、世界を統一すると云う望みは、ある種、抗し難い芳香を放つ果実だったようで、多くの英雄として名を遺す人々や、他の無名のまま歴史に埋もれた人々が、その争奪戦で覇を競ったことは云うまでもない。
むしろ、英雄とは、簒奪だろうと何であろうとも手段を問わず、その戦いを制した、時の勝者を指す美名、虚名、僭称と云っても良い。
ある時代までは、その勝者が統一者として振る舞い、栄華を極める。それは可能だった。実際、世界帝国なる存在は、地球上に何度か現れている。ただ、そこで指す《世界》の規模が時代が下がるにつれ変わっていくだけであった。要は自分たちの既知領域を世界として捉えるなら、世界統一は何度も試みられたし、実際、それに成功したものたちも多い。だが、やっと世界を手に入れたと安堵した征服者たちが見たものは、さらにその先に広がっていた見知らぬ世界であった。
それに更なる野望を抱いた者もいれば、途方に暮れた者もいる。
「この途は何処へ続く?」
「この世の涯にございます」
「ここは何処だ?」
「この世の涯にございます」
「この地平の先には何がある?」
「この世の涯にございます」
「我々は何処へ向かう?」
「この世の涯にございます」
何をどう問うても同じ答えしか還って来ない堂々巡りの歴史に身を投じた者の何と多いことか。
人の望みは果てしないが、それを為すには、その命はあまりに短い。とはこうした際に引用される使い古された言葉である。
そして、こうも云える。
人がその命尽きるまでに掌握し得る版図にも限りはあるのだ。だから、古の帝国は一族何代にも渡る大事業としたし、過去から今に至るも、実に多くの勢力が離合集散を繰り返しながら、いまだ成し得ない難事業であることは誰も否定は出来ないだろう。
公団がそれを別の意味で意識していたのかどうか、明確な史料は何も残されていない。
そも、規模はともかく一事業体でしかない公団が、そのような未来構想を当初から戦略の基礎として考慮していたかどうかも不明である。だが、結果として、公団のおこなって来た開発事業の成果物のひとつとして、今後の考察において俎上にあがることもあるかもしれない。
公団がその事業規模と領域を拡大しつつある途上で、いくつもの〝自称、公団のライバル〟たちが、その上前を掠め取ろうともしたし、公団の行く手を阻もうと企てたりもした。
手を変え、品を変え、時には組織の規範すら変えてでも、彼らは、自分たちに何の既得権益も与えないまま、成長していく公団を目の上のたんこぶ扱いして、あらからさまに妨害に出ることすらあった。
また、そこまで邪険には扱わないまでも、ほぼほぼ非武装の擬似的軍事組織と云う歴史上稀有で奇妙な存在としての程を成しつつある公団に、皮肉なセリフを投げつけるものも後を絶たなかった。
前者はおもに政体公認のアジテーターたる政治家と愉快な仲間たちを騙る政商連合であったり、後者はおもに自分たちこそが本家宗家であると譲らないやはり政体公認のテロリストたる軍事組織と愉快な仲間たちを気取る軍産複合体であった。
《愉快な仲間たち》には、自分たちに与しない相手は《不愉快な存在》だと思う性があるらしい。
「〝ごっこ〟も一世紀、本気で続ければ、これはこれで結構、サマになるものです。皆さんは、まだ半世紀ですか? あぁ……うん。ファイト!ですよ。頑張ってくださいね」
百年〝軍隊ごっこ〟をしている素人と嘲笑された公団の幹部が、その揶揄った当該国の国防軍建軍五十周年を祝賀するパーティーの席で述べたスピーチである。
この相手の感情を逆撫でする行為以外のなにものでもない挨拶をした幹部は、弁明を求めるその国の報道陣の囲み取材でこう答えている。
「継続は力なりと云いたかっただけなんですけどね……。いやあ、慣用句の意訳と云うのは、実に難しい」
無論、このコメント自体を流暢な現地の言葉で述べている時点で、この公団経営幹部、E・カートライト第一事業本部長(当時)に、皮肉には皮肉で応じる意図しかなく、さらにはそれを取り繕うつもりもないことは明白であった。
「思えば、その血こそが、公団と私の一族を繋いでいるのです」
とは、同氏のある子孫の言葉だが、そのカートライト家に名を連ねる者のうち、公団に属した者は、今のところ、第一事業本部長(当時)とこの子孫のふたりだけなので特にこの言葉に何かの含意があるとは思えない。
ただ、E・カートライト自身は後日、次のような述懐を私的な日記に残している。
彼の国が、我々を評した〝ごっこ遊び〟とはなかなかに云い得て妙だった。なので、ついこちらも興に乗っただけなのだが、挙句、先方の不興を買ってしまった。その点は誠に遺憾であったと云わざるを得ない。
何をか云わんや。
歴史が示す範囲で、公団に関わったカートライト家の人間は、ここは土足禁止だと知ると、わざわざ玄関のあがり口まで戻り、脱いだ靴を履き直して、改めて土足で踏み込んで来るタイプに思えてならない。その意味において、カートライトの名は、公団史、実業史、その他の歴史に、公式、非公式問わず、その無遠慮な足跡をはっきりと残している。
だが、もうひとつ、確かなこととして、公団の〝軍隊ごっこ〟の実態は、軍事組織へのオマージュでも、アンチテーゼでも、カリカチュアでも、パスティーシュまたはパロディでも、ましてや、ただの劣化コピー、パクリの類ではないとも云えるのだった。
事実、公団にとって〝継続は力〟となったのだから。
蛇足ながら、彼の国は、その後、幾度かのクーデターと革命と政変を経験し、都度、暖簾と看板と主人を変えたが、今はもうない。
先に述べたことを繰り返すが、宇宙開発事業公団は、その名が示す通り以上の団体でもなければ、それ以下でもない。そして、その範疇を越える行為に及んだことも、既知の範囲では記録にない。
これは公団が太陽系内での開発に従事していた時代からいささかも変わっていない揺らぐことのない方針であり、標榜する指標でもある。
すなわち、未開拓の天体ないし星域の探査から始まり、やがて開発と事業の採算化を図る。そして、可能ならば、人的資源としての移住者を募り、基礎的な研究・開発拠点とし、さらに可能ならば、規模を拡大し、生活拠点としての基盤整備を行う。都市レベルで留まる拠点もあれば、星域全体を管轄出来る拠点となる場合もある。だが、公団は、ある程度の生活拠点の持続性、継続の目算が可能と見ると、その拠点での自治を勧めるようになるのだ。勿論、この自治権委譲についても具体的で明確な指標があり、今のところ、そこから外れて失敗した事例はごく僅かである。
自治権の確立、または何らかの独立した政体として成立し得るだけの人口と経済力を維持出来るようになるまでが、公団が責任を持って事業として請け負う範囲なのである。そして、以降も何らかの技術的、経済的な関与は継続するが、あくまでも関与であって、干渉ではないところが公団の公団たる所以であった。
歴史を紐解くまでもなく、多くの場合、争乱の引き金は、何らかの勢力、政治基盤からの自主独立を標榜する勢力と、それを良しとしない勢力との対立である。だが、初めから将来的な自治、独立が担保され、しかもその点では実績に折り紙付の公団が保証人だった場合、争いの種は多少は軽減されることだろう。
単一の巨大な政体による人類の統一計画にどれ程の意味があるのか?
先に述べた通り、古来の計画はほぼ水泡に帰し、暴論と極論に過ぎることを承知の上で敢えて述べるならば、そのような野望はまさしく無謀な教訓以外の何かを我々に残しただろうか?
異文化と人的交流が促進されたと云う反駁は容易い。
だが、暴力と支配ではなく、それを平和と共存のうちに成し得た時代も存在するのだ。
どこに政体の中枢を置くにせよ、現在を以ってしても、その統一された意志によって決定された政策や施策を、あまねく全領域へ今日、明日のうちに知らしめて実行し得る手段は存在しないのである。
それならば、最初から緩やかな繋がりは保ちつつ、各々めいめいでよろしくやって貰った方が、結果としては全体の益となるのだ。確かに情報の伝播が速やかに行われないもどかしさはあろうが、幸いにして、人的交流、物流などの経済交流は、いまのところは瞬時往還である必要はないのだから。
急ぐ必要はない。
人ひとりの一生のうちに成し得ようとするから、どこかで綻びが出て、結局は破綻するのである。
ならば、人類の領域を広げつつ、緩やかな自主独立の拠点を確保しながら、いずれ機が熟した時に、未来の総意としてそれを選択するまで、待てば良いではないか。
彼らから見て過去の我々に出来るのは、彼らの可能性と云う選択肢の萌芽をなるべく多く育てることなのだから。
その選択肢を彼らがどうするか?
その結果にまで責任を持つなどと豪語するとしたら、過去の我々は、未来に対して傲慢に過ぎる。
星の一生にも限りはある。宇宙にもいずれ終焉の刻は訪れる。
だが、人類が軒先を借り、間借りをする程度の時間的猶予は十分に確保されているではないか?
急ぐ必要はない。
宇宙に流れる時間と人類に与えられている時間を同一視してはならない。
急ぐ必要はないのだ。
実際、恒星間航宙が現実のものとなり、有人光宙艦往還が実用化された時、多くの人間が、惑星上で我々を縛り続けていた時間の鎖から解き放たれたではないか?
それを〝呪い〟と呼ぶか〝恩寵〟と呼ぶかは、それこそ光の速さで明日を奪取することを選択した彼ら彼女ら自身が決めることなのだ。
急ぐ必要はない。
限りなく秒速約三十万キロメートルと云う地上から見れば目の眩むような速度で、宇宙的な視点から見れば、それでも尚、遅々とした速度で、我々は未来を目指せば良いのである。
光速限界を突破できない限り、我々が進むべき方向は未来以外にはないのだから。
だから急ぐ必要はないのだ。
宇宙開発事業公団の訓練校で、新入生たちが、教官たちにまず最初に叩き込まれる三訓は、
慌てない 〜Don't Panic.
急がない 〜Don't Hurry.
止まらない 〜Don't Stop.
である。
一般には公団の〝Don’t 節〟あるいは〝ないない尽くし、ない尽くし〟として知られているものだが、元々は公団の広報担当者が、非公式ながら〝ないものねだりではありません〟とコメントしたことで世間に知れ渡ったとする説もある。
そして、惑星ケズレブ開発事業も、そのような公団の構想に沿って計画が進められていったのである。
太陽系からの光程約二十光年余にある赤色矮星グリーゼ五八一は早くから複数の惑星を持つ恒星系であることが知られていた。だが、実際に無人光宙艦による宙域探査が行われたのは、光世紀世界へと人類が足を踏み入れてからしばらく経ってからである。
そもそも公団は、この光世紀世界、すなわち太陽を中心点とした半径五十光年と云う全球宙域を構想した提唱者のプランに基づいて、事業を拡大していったのである。すなわち、そこがどれ程の宝島だと判ってはいても、一気に離れ小島へ波濤を乗り越えて行くことはせず、ひとつひとつ、近海の小島から小島へと飛び石のように伝って、拠点を整備し、徐々に光宙艦の航路を伸ばしていったのである。
その時点で、かつての空想物語や開発プランで構想されがちな巨大万能単艦主義的な恒星間航行船は、非現実的なものと実際に建造まで至った物は極めて少なかった。
決してゼロではなかったところに試行錯誤の後が見えなくもない。
単艦で恒星間を渡るためには万能でなくてはいけないし、何もかもを詰め込んでいかなければならないから当然、巨大になるし、エンジンも……etc,etc。目的地の恒星系と地球ないし太陽系へ往還させるために、そんな非効率な手段で採算の採れた事業として成立し得るのか? だいいち、何らかのアクシデントが船に起こり、それが回復不能であれば、そこまでの計画は全てご破産。
いちからやり直す羽目になる。
実用恒星間往還事業は、ゼロサムゲームではない。
失敗は成功の母と嘯くには、あまりに投資額が莫大に過ぎるし、ともすれば、文字通り、夜逃げすら出来ずに進退極まった挙句に、人類総無理心中の憂き目に遭ってしまう。
かくして、単艦で行われていた初期の無人光宙艦探査計画では、ある時期から将来的な有人光宙艦就航を見越して、複数艦編成による試験運用も並行して実施されるようになった。
目的別、用途別に特化した光宙艦群の組み合わせによる運用の実効性が試されたのである。
公団の光宙艦は規格化された標準艦と呼ばれる何種かの艦体に、目的、用途に合わせてユニット化されたモジュールを追加装備することで、量産化と小型化、採算性のバランスをとっている。殊に主機とされる光速駆動機関はほぼ全艦種で共通化、標準化されており、推力が必要な場合は、より大型の主機をいちから設計するのではなく、それで間に合うようなら、複数の主機を束ねるように組み合わせて高い推力を得ることを前提にしている。
可能な限りの効率化は、実用恒星間往還では必須命題だった。
基本的な設計が同じと云うことは整備、運用の点でも多くの利点がある。光程途上で修繕を必要とする事態となっても、同航する修繕工廠艦によって、破損したユニットのみ修復または交換すれば良いし、何より、最寄りの造船廠まで曳航する手間も最小限に押さえられる。
もはや、宇宙船がフルオーダーメイドだった時代は遠い過去の話でしかない。現在、根本的な設計思想が違った船の実験艦を除けば、実用化試験運用艦までがセミオーダー化されつつある時代なのだ。
これが現在のキャラバン方式へと繋がっていき、ようやくグリーゼ五八一への往還計画の順番が巡ってきたのであった。
このように多くの試行錯誤と石橋を叩いて渡っても尚、アクシデントは起こるし、そもそも予測出来なかったからこそアクシデントになるのだが、その意味では《ケズレヴ・ケース》が遺した多くの教訓もまた、公団の歩もうとする未来への指標となったのだ。
現在も、グリーゼ五八一のハビタブル・ゾーンの黄道面周回軌道上を巡る《ゴルディロックス記念宇宙生物学研究ステーション群》が、ケズレブ星域自治政府と宇宙開発事業公団の共同出資によって、同自治区施政百周年記念事業の一環として設立された施設であることを考えれば、それは自明であろう。
緊急事態を告げる第一報を載せた無人連絡艇-シュヴァルベ-がコーデリア〇一との情報連結に入った時点で、先ほど当直が明けたばかりのアサクラ一等宙佐、群司令部直轄の管制指揮所《CIC-Control Information Center-》に顔を出してから上がってきた群司令部先任次席幕僚のクライヴ・ハメット二等宙佐が、ブリッジ正面のメインモニターを睨むイリアの視界の隅に現れた。
もうひとりの次席幕僚であるビヨン・スジュン二等宙佐は当直士官として、そのままCICに残っていた。
クライヴとスジュン、ふたりの幕僚も二交代制のシフトではあるが、イリアとアサクラのシフトとは六時間ずらして運用されている。全員が同じ生活時間でシフト交代していては、平時二十四時間稼働の光宙艦の運用は成り立たない。常に誰か指揮官相当の佐官クラス以上の士官がブリッジなりCICなりに詰めているからこその群司令部なのだから。
とは云え、多少は休めたであろうクライヴはともかく、先ほど直が明けたばかりのアサクラ副司令は溜まったものではなかろうとブリッジの誰もが同情を禁じ得なかった。
が、当の副司令は、直明けわずか五分足らずの間に、蓄積していた疲労を先ほどまで着ていた制服ごと自室のランドリーボックスへ脱ぎ捨てて来たようだった。涼しい顔つきで、洗濯したての着替えの制服の袖口に残っていた小さなシワをさり気なく伸ばしながら、イリアが司令席にある際の副司令としての定位置、つまりイリアの席から見て右斜め後方の首席幕僚席へ収まっていた。
そしてその反対側、つまりは彼女の左斜め後方の次席幕僚席に着座したハメット二等宙佐は、すでにCICのスジュンとのやり取りを始めていた。
イリアは彼らの姿を微かに反射するモニター越しに眺めながら、頼もしくも微笑ましくさえ思っていた。
おそらくは最初の状況終了までの間、これが彼女が笑顔を見せた最後の場面である。
振り返れば、彼女の群司令としての最初の仕事は、群副司令も含む幕僚の選抜人事だった。自薦、他薦も含めれば、それなりの候補者数の中から彼女は三人を選ばなければならなかった。
個別面接の際、イリアが彼ら彼女らにした質問はたったひとつ。
「貴官は、上官たる私が誤った選択をした時、間違えた命令をした時、直ちにノーと抗命出来るかね?」
この風変わりな質問に〝イエス〟と即答した三人が、イリアと共に群司令部首脳部としてコーデリア〇一に乗り込んだのだ。
尚、これは余談だが、三人の幕僚たちは、他の航務員たちからは、イリアの公団における非公式な渾名にちなみ、イリア同様に、敬意をこめて三匹のクマ《スリー・ベアーズ》と称されている。
そして、そのコーデリア〇一のブリッジで首座にあるのは、イリアではなく、艦長のエミリア・カートライト一等宙佐であった。
彼女もイリア同様に光宙艦生活が長いため、〝アインシュタインの呪い〟を受けていて、イリア程ではないが、それでも二十代の盛りに見える容貌だった。だが、この呪いは、艦長として時には精悍さと冷静さを演じなければならない時、長所として機能していて、エミリア自身も呪いとは受け止めてはいなかった。
思えば、自身が艦長として光宙艦を預かった時にも、この外見に随分と助けられたものだと、以前、イリアはエミリア相手に語ったことがある。
明らかにエミリアが他のクルーに与えるイメージと、イリアが他のクルーに与えるそれには、良い印象であったとしても少しばかりイリア自身の思うところとは違っていた。そのことを、果たしてエミリアは指摘したものかどうか、少し悩んだ挙句、彼女らしからぬ曖昧な笑みを浮かべた後、細く編みこんだ黒髪の生え際に浮かぶ冷や汗を意識しながら、すっかり冷めた紅茶のチューブをそっと咥えたものだった。
だが、今はエミリアは艦長として掛け値なしの毅然とした表情で、次なる状況への推移に備えての機動配備を全艦へ通達し終えていた。緊急事態はマニュアル通りには起こらない。その為の群司令であり、その為の艦長であり、だからこその指揮官なのだ。
イリアが見つめるメインモニターの片隅では、艦内時間を刻む数字の下で、別のふたつのカウントが実行されていた。緊急事態が発報されてからの時間経過である。前方哨戒群との時差が考慮され、更にコーデリア〇一と情報連結した連絡艇からの微細な誤差修正データを受け取り、現在のカウントが示す数字は、
Tマイナス01:40:04:02±07
Tマイナス25:45:04:09±04
つまり、前方哨戒群で事態を把握してから約一時間四十分、リアルタイムすなわちコーデリア〇一側での主観時間では約一日と一時間四十五分が過ぎようとしていた。艦内時間も緊急報を受信した〇〇〇一の時点で二四〇一へと表示が切り替わっている。状況が終了するまでは、この表示は戻せないし、自動では戻らない。こうした時計合わせにも似た作業は光宙艦では欠かせないルーチンでもあった。光宙艦が他の対象と彼我の距離を計る時もまた光年光日光分光秒と示されるからである。
限りなく光速に近い速度で飛翔する光宙艦にとって、時間とは距離であって、距離とは時間なのだ。
多少の誤差はあれ、前方哨戒群は光程どおり、一光日前方にあった。状況如何ではこの光程を詰める必要もあれば、逆に離れる必要もあるのだ。
こうして前方哨戒群では第一日が終わり、群旗艦コーデリア〇一では最初の一日が始まろうとしていた。
異変-状況-
前方哨戒群の送って来た第一報はシンプルだった。
〝グリーゼ五八一をロスト〟
テキストはそれだけで、合わせてパケット化されたファイル側でロストした時間、ロスト前二十四時間の観測データ、ロスト後、緊急事態発報直後の連絡艇離艦までの観測データなど、光路後方にある群司令部が判断材料となり得る各種データが付帯していた。
そうしたデータは既にCICの解析チームによって整理統合されつつあった。
まず誰もが予想し得る観測機器類の故障が除外された。
群旗艦コーデリア〇一のブリッジの正面メインモニターをずっと眺めていた群司令イリア・ハッセルブラッド宙将補は、群司令席を指揮コンソールごと自ら百八十度回転させ、彼女の後席に座るふたりの幕僚と相対した。CICのスジュンも各自のコンソールのサブモニター越しに、他のメンバーと顔を合わせた。
「さて、諸君。どう思う?」
イリアは即断即決を要求される事態でない限りは、まずはスタッフに意見を述べさせるのが、常であった。各自のファーストインプレッションにヒントが隠れている場合も少なくないからだ。
最初に口を開いたのは、CICに詰めている次席幕僚のビヨン・スジュン二等宙佐だった。彼女はデータ解析畑を歩いて来た才媛で、実際、それに見合うだけの仕事を成果として提示している。
「先ほど、生のデータも覗きましたが……。確かに現時点ではグリーゼ五八一をロストしたとしか表現出来ない状況かと思われます」
どこかひどく陳腐な云い回しに聴こえる自身の発言に対し不満を感じたのか、スジュンはあからさまなため息をついた。
「赤色矮星-レッド・ドワーフ-とは云え、我々から見れば、かなりのデカブツです。向こうが消えた訳でなければ、光路上に何らかの観測を阻害する物理的要因が出現したとも考えられます」
「小官もアサクラ副司令と同意見です」
スジュンは解析前の個々のデータをザッと見た上で、何らかの機械的異常や不調によるものではないことを皆に請け合ったのだ。ただ、その表現が直裁に過ぎる点が、彼女のお気に召さない様子ではあったが。
時として整理統合されて分析されたデータからこぼれ落ちたコンピュータですら見落としがちな取るにたらないところに事実が隠れていたりする。スジュンは彼女自身の経験でそれを知識で補完し、さらに行動で実証している。
もっとも解析前の生のデータからそんな事を読み取れる人間は、イリアの知る限り、半径十光年以内の宙域には他にはいないだろう。
そして群副司令であり首席幕僚たるジョセフ・アサクラ一等宙佐は、観測機器が故障でなかった場合に導き出されるであろう極めて常識的な推論を述べただけだ。
スジュンと同格の次席幕僚クライヴ・ハメット二等宙佐は、ふたりの意見を総合して鑑み、同意することで、イリアが判断をくだす前に時間を空費しないようにしているのだった。
常にそれぞれがこの役割分担に徹してる訳ではない。
各自に得意とする分野があり、その時は、率先してイニシアチブをとり、イリアがより深い決断が出来るように計る。逆にイリアの考えを先に促して、そこに補足を加えながら、群司令部としての総意をまとめあげることもある。
後世において、いくつかの二次史料、三次史料などでは、彼ら彼女、三人の幕僚たち、俗称三匹のクマの性格として、熱血派、穏健派、冷静派と実に判りやすい人物として描写されることがある。
が、人はそれ程、単純に類別できるほど、簡単な性格を持ち合わせてはいない。
むしろ、その渾名の引用元である古典童話からの逆引きによる後世の創作の可能性が高いと云う旨は明記しておいても差し支えはなかろう。少なくとも一次史料では彼ら彼女のそのような人物像は確認出来てはいないし、それを裏付ける証言も残されてはいない。
この時点で、今、出来得ることはひとつしかなかったが、イリアはさらにブリッジ中央の他の乗員席よりも一段高い位置に設定された、つまりは一番の特等席たる艦長席で群旗艦コーデリア〇一の操舵指揮を担っているエミリア・カートライト一等宙佐にも意見を求めた。
同じものを見ているからと云って、同じことを考えているとは限らない。それは逆も真で、同じことを考えているからと云って、同じものを見ているとは限らないのだ。
「前方哨戒群の指揮を執っているペポニ二佐は、貴官の悪友だったな? 悪友同士、彼の考えは読めるかね?」
「群司令、お言葉を返すようですが、彼は確かに小官にとってのただひとりの悪友です。が、小官は彼のただひとりの良き友なのです」
多忙な群司令の代わりにつまらない冗句に付き合って笑うのも副司令の務めだとばかりに、ジョセフが口の端を斜めにして笑った。
「……ですが、あの男ならそろそろ決断する頃でしょうか?」
エミリアはメインモニターの片隅に示された前方哨戒群で緊急事態が発報されてからの経過時間がじきに二時間になろうとするのを眺めながら、そう呟く。
何を決断するのか?
などと訊くような素人は、幸いにしてこのブリッジにもイリアの言葉を借りるならば、半径十光年以内の宙域にもいなかった。
彼、ネプチューン級哨戒光宙艦トリトン二二艦長のンガジ・ペポニ二等宙佐なら、もうすぐ緊急制動を掛けて減速を開始し、通常宇宙へ降りるだろうとエミリアは告げているのだった。
光速に限りなく近い速度で航行中の光宙艦群では、加速方向前方に展開する艦船から通信連絡艇を用いて、加速方向後方の艦船へ情報の伝達は可能だが、逆に後方の艦船から前方へ通信連絡を行うことはほぼ不可能に近い。
これを《アインシュタインのスローフォワード・ルール》と云う。
あくまでも擬似モデルに過ぎないが、比較的判りやすい例えとして、激流を遡上する船団をイメージすると良いかもしれない。この場合、最上流を遡上するのが前方哨戒群であり、群司令艦群を間にはさみ、最下流を遡上しているのが後方の光宙艦群である。水は高きから低きへ流れるの通り、エネルギーもよりポテンシャルの高い方から低い方へ流れているのだ。
故に、上流から下流に位置する船へメッセージボトルを送ることは可能だが、あまりにも激しい流れのため、下流から上流へボトルを渡す手段がないのである。あらん限りの力を込めて、上流にいる船へ目掛けて、ボトルを放り投げたとしても、届かずに流れの只中に落ちてしまえば、こちらへ戻って来てしまう。
その為、双方向での情報・物資のやり取りを行う場合は、光速度の激流から逃れるために、減速して、比較的流れの緩やかな通常空間へ戻って、相対速度を合わせる必要がある。
前方哨戒群はその任務の性質上、群旗艦(群司令艦群)よりも先行しているが、それ以外の艦船が、その後方に展開するのは、その為である。そして、こちらからは物理的な指示を出せない以上は、群旗艦は、緊急時には、前方哨戒群の行動を予測し、然るべき行動に移らなければならない。謂わば、受動的スタンドプレーを連携させ、能動的チームプレーと云うスタイルへ矛盾なく、遅滞なく、出来れば効率的にまとめあげることが群司令部へ課せられた仕事なのである。
今回のケースの場合、まずは後方の艦船群へ、緊急制動を掛けさせ、通常宇宙速度まで減速し、双方向通信可能宙域へ降りる旨を伝達した上で、次の行動を決定することとなる。
尚、群司令艦群より後方の艦船でアクシデントが発生した場合に備えているのが、最後尾の後方警戒群であり、その名称とは逆に、彼らが警戒しているのは、自分たちより前方の艦船でのトラブルであり、自分たちより後方の心配はしてはいない。何故なら、先に述べた通り、限りなく光速に近い速度で航行する船に後方から肉薄することなどアインシュタインなる無神論者の神が定めた物理法則が宇宙を支配している限り、事実上不可能だからである。
現在に至るも、アインシュタインにさよならを云う方法は発明されてはいない。
故に兵站を担う艦船は加速と減速を繰り返し、光速宇宙と通常宇宙を往来し、長大な兵站線を連ねていくこととなるのだ。それでも何らかのトラブルが発生した場合の経済的損失を比した場合、こうした一見、非効率的に見えるキャラバン方式の方が遥かに安全であり、実のところは効率的でもあるのだった。
最短の道が最善の道とは限らないのである。
そして緊急発報から二時間が経過した時点、つまりコーデリア〇一側の主観では既に約二十二時間前に、前方哨戒群は緊急制動を掛け、減速に移ったと考えるのは、この状況では理にかなっている。
原因はまだ判らないが、あるべき筈の目的地をロストしたのである。
闇雲に前に進んだところで何の解決にもなろう筈がない。
そして、予想通り、最初の連絡艇の接近から約二時間後、続報を載せた連絡艇は、前方哨戒群の減速開始を知らせると同時に、更なる観測データと今後の哨戒任務のスケジュールについても伝達して来た。
彼らが減速し、通常宇宙へ降りようとしているのは、グリーゼ五八一の光学・電波・重力波探査による直接観測を試みるためであった。
「まぁ、光宙艦乗りとしては甚だ経験不足な小官でも同じことを試みるでしょう」
アサクラ副司令は小腹が空いたと云って、ブリッジの当番航務員を通じて需品科配膳部から取り寄せた携帯糧食を齧りながら、そう韜晦してみせた。
無論、第二報が到着するであろうこの二時間、群司令部は手をこまねいていた訳ではない。
当然ながら、この前方哨戒群と連動した機動行動の具体的な検討と実施へと状況を進めていたのだった。
これについては、まずはイリアが自身の意見を述べ、それについて幕僚たちに意見を求めた。
「私としては、ここで距離を保ったまま、減速を開始するよりも、可能な限り、トリトンとの邂逅軌道へ速やかに遷移する位置で減速した方が良いと思っている」
「危険ではありませんか? 現時点でグリーゼ五八一が雲隠れした原因は不明です。下手をしたら、トリトンごと災厄のど真ん中で心中する羽目にもなりかねません」
これは既知宇宙で最も美味な嗜好品は水であると公言して憚らないハメット次席幕僚の意見であった。
実際、今、彼がチューブから啜っているのは、どこかの著名な名水でもなく、硬水や軟水の類でもなく、水質的に特別なものでもなく、ただの艦内資源循環再生装置で提供されている常温の飲料水である。
筆者は彼の〝ただの水〟への並々ならぬこだわりにいささかの興味を覚え、多少、彼についての記録を調べてみた。が、彼の出自、履歴、諸々を辿っても、それにまつわる由縁は拾えなかった。だから、現時点では、彼が水(名水ですらない普通の常温飲料水)に拘っているのは、ただただ、彼の趣味・嗜好の問題でしかないとしか記せないのだった。
全ての物事に誰もが理解出来る動機がある訳でなく、全ての物事に誰もが納得出来るような結果が用意されている訳ではないのだ。
「小官は群司令に賛成です。……見てみたいですから」
飲食厳禁のCICに詰めているスジュンは軽食なり嗜好品で気を紛らわせている他の幕僚たちを羨むでもなく、端的にそう述べた。だが、彼女のイリアへの同意には、彼女自身の知的好奇心を満足させたいと云う緊急時ではもっとも遠ざけるべき動機が含まれていることに気づかないものも、半径十光年以内にはいなかった。云うまでもなく彼女が見たいものは、グリーゼ五八一ではなく、それをロストさせた何かの方なのだから。
だが、何にせよ、決断するにしても時間は限られている。
前方哨戒群から距離を置くなら、じきにこちらも減速行動に移らなければならない。
イリアは旗艦コーデリア〇一を除く並走艦群と並びに後続の艦船群へ待機行動を取る為の減速を指示するため、群旗艦との同期行動に入っていた二艇目のトリトンの無人連絡艇へ追加情報を載せたのち、その情報連結を解いて直ちに後送させた。
当然ながら最初のシュヴァルべは既に二時間前に後送を終えている。
つまり、コーデリア〇一は単艦でトリトン二二とのランデヴーを図ろうと云うのである。
もし、通常宇宙まで降りた後、まだ行動できる時間的または物理的な猶予があるならばと云う前提条件がつくが、必要であれば、直ちにアサクラ副司令とハメット次席幕僚は共にコーデリア〇一を離艦するよう合わせて指示した。
彼らは、後方に控える移住者母艦に同行している警戒艦に移乗し、臨時群司令部を立ち上げて運用する役割を担うのだ。
云うまでもないが、彼らが旗艦司令群の並走艦ではなく、一段、後衛の警戒艦に群司令部を置くのは、この時点で、現在の旗艦司令群が、新たな前方哨戒群として先行するからである。
つまり、彼らが臨時群司令部を置くのは、そう云う事態となった場合なのだ。
「せっかくだ。ビヨン二佐には私に同行して貰おう。見たいものが見つけられるとよいな……」
偶数の人数で構成されているチームの最小単位はツーマンセル、またはバディシステムと云い換えても良い。すなわちふたりだ。それは何も何らかの戦闘行為や作戦行動に限ってのことでない。ましてや、スジュンはデータ解析のエキスパートである。それこそ何かを見つけてくれる公算がいちばん高い。
元々、職業軍人からの転職組であるクライヴは堅実な光宙艦群の運用で定評があり、この航宙群往還を全う出来れば、昇進の上、いずれは派遣光宙艦群の群司令の任につくことだろう。そして、ジョセフは、当然、ケズレブ到着後からが彼の本領を発揮する立場なのだった。
そのことを察しているからだろう。誰からも異論は出なかった。
イリアの命令を待たず、エミリアが艦内通話の回線を開いた。
「艦長より達する。本艦はこれより艦内時間二七〇五に緊急制動を開始する。通常宇宙巡航速度まで減速後は直ちに先航する哨戒艦トリトン二二との邂逅軌道へ遷移する」
イリアはこう云う抜け駆けは嫌いではない。事態の収束を図るには拙速は禁物だが、必要な迅速さは指示と行動、双方について回るからだ。
そしてこれが越権とならないのが群旗艦艦長の職権でもある。
「尚、本時刻を以って全員二十四時間シフト、状況終了までの無期限超過労働だ。各員、手が空いた者から群司令部宛に特別残業手当の申請書を提出しておけ……」
などと云う余計なひとことさえ添えられてなければの話だが……。
もっともエミリアはのちにイリアの愚痴に抗弁している。
「遺言状と云わなかっただけマシだったとは思われませんか?」
改めて述べるまでもないとは思うが、この物語では、再三、〝通常宇宙へ降りる〟と云う表現を用いている。
当然、これは光宙艦航務員が好んで使う比喩に過ぎない。
一部の宙軍関係者が好んで使う〝通常宇宙へ浮上(または復帰)する〟と云う喩えも同様である。
軍人は軍人で験を担ぎたがる人種なので、船が沈むさまを想起するからと〝降りる〟、〝下りる〟と云言葉を嫌い、〝浮上する〟、〝復帰する〟と云い換える傾向にあるのだ。これらの比喩の違いは、公団が採用している用語の多くは、主にメインランドの空軍関連に、対して宙軍関係は、主に同じく海軍に由来しているからともされる。
そして、こうした光宙艦が最大船速、理論値では光速の九十九.九九九九%、(実測値ではそこまでの速度を記録した有人光宙艦は公式記録では今に至るも存在しない)で光航している空間も、実際には通常宇宙である。
だからこそ、乗員も光宙艦もアインシュタインの呪いから逃れられないままなのである。
あまり知られてはいないが、光速度九十九.九九九九%が理論値でしかないのは、多くの試験有人光宙艦が、この速度を超えた先で消息を絶ち、もしくは今に至るも調査中とされる原因で爆散し、少なくない犠牲者を出しているからである。無人光宙艦は既に小数点もう一桁先の領域で稼働している現実があるだけに、公団関係のみならず、多くの技術者、科学者を悩ませ続けているのだった。
さらにこれもあまり知られてはいないが、このことに関しては、全知全能のアインシュタインですら何も啓示も示唆さえも残してはいないのだった。
このため、九が六つ並ぶ光速限界点-シックス・ナインズ・ポイント-は人類にとっては、神すら見捨てる自殺行為の忌むべき数字とされているのだった。
そして、このグリーゼ五八一方面第五次派遣光宙艦群が太陽系宙域を進発した時点では、この忌み数を無効化するための宇宙空間と物理法則、科学的な理論を易々と瞬時に跳躍出来る艦や、別のルールで飛翔可能な画期的な航宙艦は、理論を実用へと推し進めるべく、公団の技術本部などでも研究は行われてこそいたが、モックアップすら出来てはいなかった。
だからと云って、いつまでも夢物語、空想上の産物のままとは限らない。
ある段階までは、そうだったものがどうしても越えられなかった障壁をたったひとつ飛び越えただけで、突然、現実のものとして我々の目の前に出現した事例はいくらでもあるし、そもそも光宙艦と云う存在も、確かな実例のひとつだろう。
「生まれたばかりの娘と別れて、養育費を稼ぐべく、散々っぱら苦労した挙句に、目的地に着いてみたら、先回りしていた年頃の娘が待ち構えていて、お父さん、あなたの孫ですよ……とか云われるんだぜ」
これも定番の光宙艦乗りの冗句だが、この後に続くバリエーションは、折々の時代によって流行り廃りがある。
ケズレヴ・ケース以前の時代、特に好まれていた派生形は、こうである。
「その衝撃に比べれば、未知の太陽系外由来生命体とのファースト・コンタクトの衝撃なんて……」
しかし、まもなく緊急制動を掛け、最大減速態勢に移行しつつある光宙艦コーデリア〇一のブリッジ、その一角を占める群司令部の自席では、イリアが口には出さないまでも、そっとひとり毒づいていた。
「緊急制動時の衝撃に比べれば……」
その命令を下したのは他ならぬ自分なのだが、彼女は公の立場でそうしただけで、私の立場では、全く心穏やかではいられなかった。
イリアが光宙艦の緊急制動を初めて経験したのは、それこそ光宙准尉時代の慣熟訓練の実動演習の頃だった。今となっては、当時の彼女を知るものは、半径十光年どころか、光世紀世界全領域を探し回っても数えるほどしかいない。
だが、何より本人が生々しい記憶として苦々しい想いとして憶えている。
気絶まではやむを得なかったと思う。何なら、胃袋は空っぽだった筈なのに、僅かな吐瀉物まじりの胃液をそこら中に撒き散らしたことも許容できる。だが……。
何が、だが……だったのかを明確に示す史料はない。
まさかとは思うが、イリア自身が何らかの手段で公的、私的記録から抹消した可能性はある。あるいは、当初から、何の記録も残してはおらず、この〝だが……〟が全てを意味しているのかもしれない。
だが……。
こののち、実時間にして約一年を待たず、それまで浮いた噂ひとつなかった彼女が自然分娩による初産で、長女アリス(後の太陽系監察連合統合宇宙軍幕僚総監アリシア・グレイ大将)を授かったことと、緊急制動訓練時に乗艦していた光宙演習艦コバヤシマル四七の艦内で、二番目にタフでジェントルでハンサムと評されていた同世代の医務長イスマト・ハルボニ・ルルシュ一等宙尉を生涯の伴侶としたのは、果たして偶然だったのか?
これ以上、この点を掘り下げるほど、筆者は下世話な語り手ではない。
とは云え、以前、別の仕事で既に退役していたアリシア・グレイ本人にインタビューした中で、この段について、彼女は母親譲りの屈託のない笑みを浮かべてこう答えている。
「いかにも母らしい、と皆さんおっしゃったものです」
状況-開始-
緊急制動へ向けてのカウントダウンは三十分前から始まった。
こうなると多忙を極めるのはエミリア指揮下の航務員たちであって、群司令部スタッフの出る幕は殆どない。三十分の時間も惜しいとばかりにクライヴはイリアに許可を求め、より精度の高い予測モデルを構築せんとするスジュンの助手を買って出て、CICへ降りて行った。
残された群司令と群副司令は、制動開始までは、状況の急変でもない限りは、ひたすらに待機となる。
「……少しでも休まれては如何ですか?」
ジョセフが、年長者を気遣うかのように、声を掛けてくる。
実際、イリアの方が明らかに年長ではあるのだ。
「……。私は先ほど起きたばかりだ。むしろ貴官こそ少し休みたまえ」
「いやぁ、デスクワークが長かったものですから。少々の徹夜には慣れております」
そうか、あれを少々で済ませるのか?
イリアは、立場上、前職にあった時のジョセフの仕事ぶりの記録には公式、非公式ともに目を通している。正直、感嘆した、と云うよりは、絶句した。心身ともに健康な状態での薬物その他不使用による連続不眠耐久実験か何かの被験者なのかとさえ疑ったほどだ。
日頃の彼を眺めていると、そんなそぶりはまるで見せないし、気取らせない。だが、ジョセフ・アサクラは公団随一のワーカホリックとして悪名高い人物だった。そして、同時に溜めに溜めた有給休暇を一気に使いまくって、家族サービスに邁進する良き家庭人でもあった。
要するに振り幅が両極端なのだ。
と、イリアは思っていたのだが、実像は少しばかり違っていた。
彼はいわゆるオンとオフのスイッチを巧みに使い分けながら、仕事中であっても分単位の隙間時間が生じれば、そこでオフに切り替え、休んでいる時でも、特に疲れていなければ、頭の中をオンの状態にして、文字通り、頭脳労働に励むのだった。そうやって頭の中で書類を整理し、文書の内容を精査、推敲までして、何食わぬ顔で、さも、今、考えたかのようにアウトプットしてしまうのだ。
いや、どの途、ワーカホリックには違いない。
家族の前では、
「お父さんはお前たちと目一杯愉しみたいから、目一杯お仕事もしなければならないのだ」
と嘯き、職場では、
「小官は存分に任務に精励したいがために、存分に休暇も率先して消化したいのです」
などと嘯く手合いだ。
それに……。
と云い掛けて、イリアは口をつぐんだ。それに、気遣いは無用だ。自分は間もなく気絶する予定なのだから。とはさすが副司令相手でも云える筈がない。恥とは思わないが、わざわざ事前申告する類のものでもないだろう。
だいいち……。
と彼女なりに心の内で自分へ抗弁した。だいいち、光宙艦の緊急制動中に、平気な顔をして起きているやつなど私は見たことがない!
それはある意味、事実であった。
彼女自身は、人事不省に陥っているのだから。
「それではいよいよアリス嬢ちゃんに弟妹を授けるおつもりなのですね?」
光世紀世界をあまねく探すまでもなく、実は彼女と目と鼻の先にいるエミリアこそが、過去の経緯と〝アリシア出生の秘密〟双方を知っている数少ない生き証人であった。
そして、うっかり訓練大学校同期の彼女の前でこんな愚痴を漏らしでもしたら、きっとわざとらしく、からかってくるに決まっているのだ。
とっくに成人しているアリシアの弟か妹を今さら産んでどうするのだ?
進発、帰還の都度、公団光宙艦繋留廠へいつも見送りに来ていたアリシアは成人してからも太陽系内に留まっており、両親とは似て非なる道を歩んでいた。
一度、アリシアのハイスクールでの成績を知った公団の人事部から、イリアに〝内々に推薦状〟を書いては貰えないかと、非公式な打診が来たことがある。
父親たるイスマト宛ではないのは、この時点で彼女の方がすでに公団での序列が上位だったからである。
無論、そのことが家庭争議の火種にならなかったのは、イスマトはイスマトで、公団内で二番目にタフでジェントルでハンサムな上に、何よりも公正無私な人格者としての地位を確立していたからで、決して家庭内序列が二番目だったからではない。
なんにせよ、イリアはそれを一笑に付して断った。
「アリスは、すでに小官の娘と云う不自由なリスクを産まれながらに背負っているのです。これ以上のリスクを娘へ強要するなど、親として看過出来ません」
そして、アリシア自身には、
「人は自由に生きるためにこの世にあるのだ。その自由を自ら捨て去るような不自由でつまらない人間にだけはなるなよ?」
と、親としては、如何にももっともらしく聴こえる詭弁を捏ねくり回した教訓を垂れてみせた。
やがて、彼女は光宙艦勤務から戻る度に、アリシアの現在の職場の名を訊いては、その度に首をひねることになる。
「以前、訊いたところと違うではないか? アリス……。自由に生きろと云ったが、いくらなんでも転職するにも程があるぞ?」
「……母さま。またお忘れになったのですか? 私は、初めからずっと同じ職場にいましてよ? 私が転職しているのではなく、職場の方が改組、再編をするたびに、名前をコロコロと変えているだけなのだと」
「…………」
「もう何度も説明したではありませんか? あぁ、いよいよその見た目の若さに疲れて、ついに耄碌なさったのですね……」
「呆れているだけだ。いったい何なのだ? お前の職場のその節操のなさは?」
「臨機応変、柔軟即応。それがウチのモットーなのです。母さまや父さまのトコだって、謹厳実直、曲突徙薪にすぎるきらいがあるではないですか? 少しはウチの自由闊達さを見習ってもよろしいのでは?」
「……それはつまり……。一本、筋が通ってないと云うのだ……。まぁ、公の場でなら、カウンターパートとして認めても良さそうだが、母親の立場からすれば、まだまだ詰めが甘いと云いたいところだ」
「当たり前です。今となっては私の方が姉に見えたところで、それでも私は、いつまでも母さまの血を引く娘でしてよ? その娘が公私に亘って母親をやり込めてしまっては、母さまのお立場がないではありませんか?」
そう云ってアリシアは母親譲りの屈託のない笑顔から真顔となり、イリアの愛娘と云う立場から、この場での本来の立場へと戻った。
そして、目を細めて自分を見つめる妹のような母親へ敬礼すると、ここが低重力下とは思えないような見事な挙動で踵を返し、部下たちが待つ来賓席へと向かう。
今回の進発式での現職は、確か、太陽系治安維持軍第四管区技術試験団団司令だったか……?
これから始まる苦行の前の現実逃避に向けて、記憶の森へと分け入りながら、宇宙開発事業公団グリーゼ五八一方面第五次派遣光宙艦群司令イリア・ハッセルブラッド宙将補は、いまのところは一粒種の太陽系平和維持機構軍第四管区航宙技術試験団団司令アリシア・グレイ少将に、こちらの不注意と不手際に起因する行為では、決して弟妹は授けまいと密かに誓った。
だいいち、配偶者たるイスマトは家族たちと、遥か後方の太陽系にあるのだ。
人類が宇宙へと乗り出した中世期に比べれば、はるかに社会的通念と宗教観や倫理観が緩くなってきた昨今ではあるが、そもそもイリアは彼以外との間で子を成したり、またはそれに準ずる行為に耽るつもりも予定もないのである。
そして、これは蛇足ではあるが、結局、イリアは終生、娘アリシアの職場の名前を一言一句違えずに憶えることはなかった。
「それが母さま、いえ母らしいところでしたから……」
アリシアは、そんな母親の思い出を語る時、誰に対しても、心底、嬉しそうに、そして愉しげに笑って聞かせたと云う。
秒読みは刻々、ではなく淡々と進行する。
これが長きに渡る光程の前半期であれば、姿勢制御のためのバーニアを吹かし、百八十度回頭の上、主機の推進軸を加減速方向へ合わせなければならない。
だが、既に一度、いわゆる折り返し減速中間点を過ぎてから、緩やかな減速を行っていたコーデリア〇一の主機は、万が一の緊急制動位置を指向していた。
それでもなお、準備行動が必要だったのは、一旦、火を落としてしまっていた主機を再起動させるためと、運用上、艦体からその一部を露出していた艦橋並びに乗員居住区、いわゆる指令モジュールと遠心重力区画双方を、中央船殻部へと収容する必要があったからだ。
光宙艦は、光速に近づけば近づくほど、それ自体が質量の化け物と化す。アインシュタインが用意周到に仕掛けた罠を全て回避し、その呪いの迷宮の奥に眠る謎を解く鍵を手に入れなければ、光宙艦はたちまち宇宙の藻屑となるのだ。
省いて良い手間はなかった。
アインシュタインが密かに残したとされるショートカットを求めて、多くの物理学者たち、その手足となって迷宮の宇宙を疾駆した航宙士たちは、みな、彼との一騎打ちに敗れ、累々たる屍を築き上げていった。だが、その堆く積み上がった屍の山、今や銀河連峰と呼んでも差し支えないほどの高みの向こう側にこそ、目指すものがあることは、誰もが知っている。
つくづく、このたったひとりの天才的なペテン師を、いまだに誰ひとり出し抜けずにいる情けない現実こそが、実用恒星間飛行の歴史なのである。
何よりも困ったことに、答えを導き出すのに使える手段はたったひとつの冴えたやりかたしかない。
それはまさに天上界から下界へと降ろされたか細いたった一本の蜘蛛の糸なのである。そして今だにその神通力の衰えを知らない無神論者の悪戯好きな神は、下界でそのか細い糸にしがみつこうと悪戦苦闘している我々を眺めながら、舌を出して嗤っているに違いないのだ。
光宙艦の船殻は耐衝撃、対閃光防御のみならず、およそ考え得る数々の物理的障害に対しても有効な強固な防護機能を備えている。
それでもなお、最強の盾を貫く最強の矛が存在するのだから、文字通り、宇宙は矛盾に満ちている。
そんな矛盾だらけの宇宙を渡るためには、これらがその実、論理的にはなにひとつ全く破綻していない、つまり、なにひとつ矛盾などないことを証明してみせなければならないのである。
アインシュタインは、いったいどれほどのひねくれ者だったのか?
十重二十重に固く結ばれた矛盾と云う紐を解きほぐせば解きほぐすほどに、新たな矛盾が目の前に出現するとは。それを目の当たりにした人々は、もはや醒めない夢でも見ているような忸怩たる思いの中で、それでも前に進まんともがき続ける。だが、どれほど、悪態を吐こうが、どれほど、怒りに身を任せて、強引に押し通ろうとしたところで、今やアイシュタインの使徒となりさがったかつての勇敢なる物理学者たちと云う屍鬼どもからも一斉に舌を出されて嗤われるのがオチだった。
だいいち、このゲームのルールも勝利条件ですら、アインシュタインその人しか知らないのである。こんな胴元のひとり勝ちが前提の割りが合わないゲームに、人類は、よくも全財産を賭け金として注ぎ込んだものだ。
などと全くを以って非論理的な思考回廊を行きつ戻りつしながら、イリア・ハッセルブラッド群司令は、アインシュタインとその眷族をブツブツと呪いつつ、込み上げてくる吐き気と無限に続くかと思われる制動時に船殻越しに襲ってきた〝非人道的なG〟と云う凶悪極まりない物理法則と格闘する憂き目と相成ったのである。
そして、緊急制動の最終段階を待たずして、イリアは特に誰も期待はしていなかったが、自身の予想通りに気を失い、次に目覚めた時に見たものは、医務室のベッドの傍らで、とびきり最凶のにやついた笑いを浮かべてこちらをみている光宙艦群旗艦艦長の姿だった。
カートライト一等宙佐は、群司令の容体を案じて、艦長権限で医務室へ駆けつけた……ことになっているようだ。
イリアはそこでようやく思い出した。そう云えば彼女は、自分にとっての唯一の悪友だったと。エミリアの唯一の悪友であるペポニとの会見を急ぐべきだった。無論、議題は、エミリアを出し抜くための共闘とその算段ではなく、彼の艦がグリーゼ五八一をロストした経緯と、そこから始まった諸問題の検討だった。
まだ吐き気と眩暈は残るが、医務室の壁に据えられた時計くらいは見て取れる。
ペポニは通常空間での実測を始めているだろうし、本艦は、艦長がささやかな愉しみに興ずる程度の時間的余裕を以って、トリトン二二との邂逅軌道に乗ったことは確かなようである。
何かと悪趣味なことを好むエミリアではあるが、残念なことに、艦長としては公団でも指折りの逸材なのである。公私の別を何よりも尊ぶイリアが、エミリアに物理的にせよ精神的にせよ、友情の証としての私的制裁を加えないのは、全くを以って、ひとえにこの憎らしいまでの彼女の艦長としての才を惜しむからなのだ。
慇懃無礼と書いてエミリア・カートライトと読む。
傍若無人と書いてエミリア・カートライトと読む。
エミリア・カートライトは天衣無縫と云う古事成語を天意無法と書き換えた歴史上最初の人物である。
世界の言語表現全ての悪口雑言はエミリア・カートライトを顕現するためにつくられた。
それでも尚、衆目一致するところで、エミリア・カートライト一等宙佐は、人としては諸々、間違っているのに、艦長の職務においては何ひとつ間違えたことがない稀有な存在だった。
良い意味でも、そして悪い意味でも……。
どうしてこの宇宙は、大は全てを縛る物理法則から小はエミリア・カートライトの人格に至るまで、矛盾と不合理と理不尽で構成されているのか?
かつて、こうした人類を悩ませる最大の命題に実に明解な答えの一例を提示してみせた旧時代近世文学黎明期に活躍した当時は著名だった作家がいた。
そう云うものだ……。(So it goes.)
現時点ではアインシュタインはこの答えに賛同こそすれ、納得はしていない模様である。
それは確かにそうなのだ。
哲学者なら〝そう云うものだ〟で片付ける命題を片づけられない面倒臭い人間が科学者なのだから。
そう云うものだ……。
なるほど、実際、そうかも知れない。
だが……何故?
科学者とは、最後の最後まで〝何故?〟と考え続け、答えを探し続ける疑り深い生き物なのだ。
だが、どう云うかたちにしろ、科学者とは違う意味で厄介な生き物たるエミリアを料理するのは、他の全ての厄介ごとを片付けてから、ゆっくりと行えば良い。何なら退役後の愉しみとしても差し支えはないだろう。おそらくその頃にはエミリア・カートライト被害者の会は、一大勢力として光世紀世界の一角に自治区を形成するほどになっているかもしれない。
新たな将来の愉しみを糧に、嘲笑と云う悪友の特権を行使するエミリアの視線から逃れるために、今は医務室のベッドの上で頭から毛布を被り、せめて早く重力酔い止めの薬が効いてはくれないものかと祈るイリアであった。
前方哨戒群の中核艦であるネプチューン級哨戒光宙艦トリトン二二艦長のンガジ・ペポニ二等宙佐は、地球圏でもその名を知られた誇り高き戦士の末裔である。
と本人は思いたかったが、それは遥かに遠すぎる昔の先祖の先祖あたりまで遡る話で、彼の祖たる人々が共通言語としていた言葉で〝楽園〟を意味する、あまりと云えばあまりな姓を一族郎党がこぞって名乗り始めた頃には、そのような戦士の誇りは、彼らが住まう地域ではすでに質草にもならないカビが生えた代物だった。
そこで、たまたま商才と云う稀有な才能の持ち主だった七代前の先祖が、その誇り高き部族に伝わっていた諸々を古い皮袋から取り出して、〝民族芸能〟と云う新たな皮袋に詰め替えて、売り先を軌道修正して、さも目新しそうな観光パッケージとして売り出すことから始め、ついには莫大な財を成して今に至る、つまりは誇り高き商人の末裔なのであった。
故にペポニ家、もしくはペポニ一族は地球圏アフリカ経済圏では一大コングロマリットの当主として、政財界その他諸々、上は政体首長のスポンサーとして、下は田舎の小学生が持っている文房具のメーカーとして、何らかの影響力を持った存在として確かに著名な一族ではあった。
こうした名家、一族では何代かごとに必ず思春期の反抗期をそのまま引きずって成人する者が現れることは、統計的には証明されてはいないが、それでも確実にひとり、ふたりくらいは現れるものである。
若きンガジ・ペポニ光宙准尉はその典型であり、おそらくはその始祖まで遡っても一族が輩出したただひとりの光宙艦航宙士官であった。
彼らが住む大陸から海を隔てた遥か東の大陸には、精神力によって宇宙を飛翔出来ると信じる部族がいたが、ンガジの知る限り、彼らの部族の祖先は、そのような精神性も信仰も、世界観も想像力も持ち合わせてはいなかった。だから、ンガジは一族の力は経済的にも精神的にもましてや祖先の血筋も使わずに、自身の努力でのみ現在の立場に昇って来たのである。もっとも、世界的にも名門で知られる北米の工科大学の大学院卒業までの学費と生活費は、しっかりと親の出資に依存していたが……。
彼のただひとりの良き友であり、大学での同期でもある群旗艦艦長に云わせれば、その点は、良くも悪くもお坊ちゃんなのである。ただ、良くも悪くもならば、良い点を伸ばせば、悪い点はいずれ注目に値しない取るに足らないものになる。ンガジは自身の長所を伸ばすための労力を厭わなかった。実際、大学院では博士課程まで進み、博士論文をものにしていて空間電子工学博士として、今も時折、学会誌へ論文を投稿している。
その点では、自身の短所を伸ばすことに、愉悦すら覚えていた良き友とは真逆だった。
つまり、後に歩く公団とまで云われる自身にとっては、理想的な人物へと成長したのであった。そんな人物にとって公団はまさに〝楽園〟だったことだろう。
驚くべきことだが、彼の良き友もまた地球外天体都市工学についての博士号を得ているのだった。
しかも、その博士論文は今も多くの研究者に引用されるレベルのもので、どこで聞きつけて来るのか、稀に講演依頼すら公団を通じて舞い込むらしい。無論、私事では何よりも煩わしさと面倒を嫌うエミリアが引き受けた試しはない。
これは何の裏も表もない掛け値なしの事実である。
ただ、彼女の学問への興味と熱意はそこがゴールだったらしく、何度目かの任地の官舎に、博士号の証書ごと置き忘れて来たようだ。
「才能の無駄遣いも良いところだ」
イリアの端的な指摘にもエミリアは躊躇なく反論したものだ。
「それはただの見解の相違ですね。小官の天職は光宙艦乗りと心得ております。故にその職分を全うするために不必要な些事を切り捨てて身軽になっただけの話です」
「曲がりなりにも都市工学について学んだ者ならば、それは公団が行う拠点整備の基盤構築にも貢献出来ると理解できるだろうに」
「それも見解の相違です。小官は叶うならば、いち光宙艦士官としての任を全うすることで公団に寄与したいと考えております。ですから、それ以外の、所詮は小役人風情と変わらない司令部への転科にも何の興味もありません。いやいや、無論、小官には敬愛する群司令を揶揄する意図はありません。小役人も極めれば立派な小役人です。ですが、光宙艦の加減速時に生じる高Gによる物理的な重圧ならばともかく、あのいつ果てるともなく続くチマチマしたお役所仕事に伴う精神的な重圧には、とてもとても小官ごときの器量と神経では堪えられるとも思えません。小官の志向するそれは総監への道ではなく、操艦による道なのです。幕僚として寄り道ついでにお茶を啜りながら、司令部に流れる怠惰な時間を甘んじて過ごすなど、それこそ小官の余人を以って変えがたい才能の無駄遣いも良いところです。実に勿体無い」
彼女は謙虚な口ぶりを装ったまま、堂々と長口上で豪語してみせ、さすがに喉が乾いたのか、地球圏欧州貴族直系の令嬢だと云う副長から、お裾分けで貰ったアールグレイの希少な高級茶葉で淹れたお茶を啜って、ついでにイリアの手元にあったショコラ・トリュフを、遠慮なくひとつ摘んで口に運んだ。
高貴な紅茶の香りとトリュフの上品な甘さに、ひと心地ついたからなのか、悪態をついてすっきりしたからなのか、満面の笑みを浮かべて、エミリアは、空になっていたイリアのティーカップにもポットから紅茶を無言で注ぎ足した。
共に非直の時は、こうして遠心重力区画の一角に設けられた士官専用娯楽室で、無為な午后を過ごすことも多い。ブリッジにほど近い士官食堂は微小重力区画にあり、正直、イリアはそちらの方が居心地が良いのだが、こうしてカップでお茶を飲める愉しみは、無論、こちらでしか味わえないのだった。
終生、重力の井戸の底を嫌ったイリアではあったが、訓練校時代に、今もこうして眼の前にいる彼女から初めてお茶に誘われて以来、微小重力下出身者からすれば、奇妙で贅沢としか思えないこの風習を、だが悪くはないと思っていた。
琥珀色の温かい液体が、纏っていた白い湯気の衣を脱ぎ捨てながら、重力に惹かれるままに白磁のティーカップへと曲線を描いてこぼれ落ちていく様は、何処か官能的な甘い感情をくすぐる。
地球の重力と気圧が織りなす奇跡のハーモニーだとさえ、彼女には思えたのだ。どちらが欠けてもこのマジックは現出しない。そこには、全くを以って、何の実用性も見出せないのに、イリアはこの風習に飽くことはなかった。
そして、そんな非生産的な時間こそが、次の仕事への英気を養うのだと云うことを、イリアは不本意ながら、他ならぬエミリアから教わったのである。もっとも教えた当人はそんな非生産的な時間を浪費せずとも、常に英気と邪気を、誰にも頼まれていないのに、常に、過剰なほどに養い続けているのだが、エミリアはそれへの反駁など意に介さない人間であった。
また、この手の施設が今も存在する理由を、世間は誤解しがちだが、非直の士官が集うサロンや遊戯施設は、何も士官たちの特権享受と云う優雅な福利厚生のためにあるのではない。
ただでさえ長期に及ぶ恒星間航宙の期間、ほぼほぼ目的の星系までは光宙艦と云う名の閉鎖された同一空間で、いつも同じ顔ぶれの人間と何事もなければ特に代わり映えのしないルーチンワークの日々を送るのである。
それを能率的に維持するために必要なのは鞭ではなく飴なのである。
無論、飴だけでは精神的にも病的な肥満になりがちではあるので、多少の鞭も必要だが、その匙加減はいつも全ての指揮官(エミリアを除く)を悩ませる問題でもあった。そして、こうしたサロンが士官への飴なのではなく、上官には非直の時くらいは自分たちの目が届かないどこかに閉じ籠っていて貰いたい、幽閉、監禁しておきたいと切に願う部下たちの側の飴として、つまりは主に部下の側の精神的休養のためこそにあるのだった。
一般通廊でひと目なりともその可憐な姿を拝めれば、しばらくは幸せになれるとされるイリアならいざ知らず、誰しもが、何の自衛手段も心構えもないままで、エミリアとの突発的接近遭遇戦には及びたくはないのだ。
こうして旧態依然の程を装いながら士官食堂、士官専用娯楽室は、公団所属の中型以上の光宙艦設備として、今も存続している。職制、職分での比率から勘案しても多数の一般航務員よりも少数の士官たちを自発的な一時隔離へと持ち込んだ方が、よほど効率的だし、何より理に適っていると考えた時点で、それは如何にも公団的な発想の転換とも云えた。もしも、これを特権だと勘違いしている士官がいるのならば、それは実害がない範囲において、勘違いしたままでいて貰っても良いほどに。
もっとも、士官候補生として訓練大学校へと進む課程で、若い光宙准尉はみな思い知らされるのである。
士官には享受する権利などなく、遂行する義務しかない。
そこが一般航宙士と航宙士官との間に横たわる最初の心理的関門でもあった。
そして、そんな理不尽な職制、職分だと気が付きながらも、彼、彼女たち光宙准尉は、ほぼ漏れなく航宙士官と云う軌道への自身の投入を図るべく、躊躇うことなく己が保てる推力の全てを費やすのだった。
飛び級で一般工科大学の大学院を修了したのち、公団の一般学生枠の訓練生として軌道遷移した若きエミリア・カートライト光宙准尉が、当時の訓練生寮のトイレに、壁の落書きと云うかたちで、自分を棚にあげた名言を残している。
「みんな頭がおかしい変態どもだ……」
イリアは決して口にはしないが、非直で暇を持て余している時のエミリアの相手も、自分の群司令としての義務のひとつだと思っている節がある。そして、イリアは、こうして共にお茶の時間を過ごす時、ここまで自分に自信を持っている堂々とした、もはや奇縁、悪縁、腐れ縁としか呼びようがない彼女のことを羨ましくさえ思うのだった。
図々しいにも程がある図太さこそが、この理不尽極まりない宇宙で生き抜くには必要なこともあるからだ。エミリアならいち光宙艦艦長として宇宙終焉の刻まで何なく平然と生き延びそうな気さえしてくるのは、何もイリア個人の感慨ではあるまい。その点ではエミリア・カートライトも、そしてイリア・ハッセルブラッドもある側面から見れば、公団の理想を具現化した人物とされるが、彼女らは終生、公団の枠から外れることはなく、ともに退役宙将としてその人生を全うしている。
だが、ンガジ・ペポニは一等宙佐まで昇進を果たしたのち、突如、それまで背を向け続けていたつもりの一族の血に目覚め、公団出身の退役将校として政界に身を投じることとなり、合わせて、後のファースト・レディ、エミリア・ペポニの華麗な物語も始まるのだが、それはまた別のお話である。
そして、今、何よりも重要なのは、そんなンガジ・ペポニ二等宙佐がその乗艦を群旗艦との邂逅軌道に乗せるまでの間に、その勤勉さを以ってかき集めた各種実測データがもらたすものであった。
彼はそのために自らの判断で通常空間へ降りたのだし、それを了解していたからこうして群旗艦もここまで独航して来たのである。
近接軌道に乗って直接交信可能域まで達した時点で、早くも哨戒光宙艦トリトン二二は速やかな情報連結を求めて来た。
まだ通信時のタイムラグは生じていたが、群旗艦側が受諾の旨を返信したと同時に、トリトン二二は既にちゃっかりとコーデリア〇一との情報連結に入っていた。
ンガジは群司令が許可しない筈がないと、その受諾信号を待たずに先回りして情報連結信号を発信していたのである。
彼我の相対距離と速度から生じる僅かなタイムラグすら惜しみ、それを逆に利用したのだ。
公団の訓練校で使われる教則本の一頁に記されている光宙艦乗りの心得のひとつとされる〝迅速を尊べ、拙速を厭うべし〟の顕著な実践例である。
「さすがは貴官の悪友だな。貴官と行動規範が似ている」
「そうですね。小官が彼から学んだことは然程ありませんでしたが、彼が小官から学んだことは終生、彼の依るべき指針となり得るでしょう」
緊急事態の発報を受けてから後、ずっとブリッジに常駐しながら、それまで自身で必要と認めない限りは存在感を消していたコーデリア〇一の副長を務めるサーシャ・ソビエスキー二等宙佐が堪えられなくなって、思わず吹き出した。
基本、弁舌ではなく行動を以って部下と直属の上官の範となるべく、寡黙な副官としてエミリアに付き従っている名実ともに由緒ある貴族出身の令嬢たる彼女は、その実、この直属の上官には何の遠慮もない人物として艦内では一定の評価を得ていた。彼女の副官としての最大の仕事は艦長の首に鈴をつけておくこと、と部下たちも囁き合っている。
あれでもカートライト艦長は仕事はきちんとする人だ。だからそれ以外の時は、鈴でもついていれば、我々もあの毒気の被害を被らずに済むと云う訳だ。そしてクルーの誰もがそれを成し得る人物はソビエスキー副長以外にはあり得ないと云う点で意見の一致を見ていた。
曰く、副長に往復ビンタを食らっている艦長を見た奴がいる。
曰く、副長が艦長に今日は夕食抜きだと説教していたのを需品科員の誰かが聴いたらしい。
曰く、実際に艦長の首に鈴がついているのを見たと云う話をしている奴を知っている。
曰く……。
全て、誰かに聞いた話、つまりは伝聞系のそれなので、信憑性もその範疇なのだろうが、それは裏返せば、寡黙な副長サーシャ・ソビエスキー二等宙佐への部下たちの信頼の証がそう噂させるのだし、彼女の精勤ぶりを誰ひとり疑っていない証左でもある。悪い噂は光速限界を突破して過去に遡ってでも伝播するが、良い噂がこれだけ広く伝わる人物は稀である。それは噂であっても、彼女自身への確かな評価あってのものなのだから。
なお、副長が思わず吹き出した件は、エミリアにとってかなりの衝撃だったらしく、仕事はきちんとする艦長としての側面を顕現させ、ひたすら職務に精勤させる効果をもたらした。
だが、それでも半日とは保たなかった。
あれでも仕事はきちんとする艦長のエミリア・カートライト一等宙佐に対してのみ鬼の副長と謳われたサーシャ・ソビエスキー二等宙佐の矜持は、ポーランドの名門貴族の出自としてのそれが誹りを受けた時よりも、いたく深く傷ついたらしい。
開始-観測-
「副長より艦長へ通達。間もなくトリトンとの邂逅点へ達します。油を売ってないでブリッジへお戻りください」
群旗艦コーデリア〇一副長のサーシャ・ソビエスキー二等宙佐が、無駄のない簡潔明瞭な用件を艦内通話で伝えて来る。さり気なく艦長のエミリア・カートライト一等宙佐へ向けた毒が含まれているあたりが、実に彼女らしい。そして、エミリアの御託を封じ込めるために、それを艦内通信の全艦向けに流した点も、実に彼女らしい。
今ごろ、艦内のあちらこちらで、クルーが忍び笑いを必死に堪えていることだろう。だが、それは同時に緊急事態発報後、長時間の緊張を強いられているクルーに気が緩まない程度の、束の間の緩和を与える精神的作用も含まれている。
口数が少ないことでは、人後に落ちないサーシャの言だからこそ、効果的なのである。
苦笑いを浮かべたエミリアに、ようやく気分が落ち着いて、医務室のベッドから起き上がり掛けていた群司令イリア・ハッセルブラッド宙将補が促す。
「……だ、そうだ。次の油を仕入れるまで、仕事に戻るんだな」
「副長のご命令では致し方ありません」
そこで艦内通話が対象者特定秘話回線に切り替わり、再びサーシャの声が聞こえた。
「……僭越ながら、ご気分が回復されておられるようでしたら、群司令もご一緒にお越し願えますでしょうか。差し支えなければ艦長に介添させますので」
イリアはブリッジへ戻ろうとしたエミリアと顔を合わせる。
概ね、察しはついていたが、それを補完するように群副司令のジョセフ・アサクラ一等宙佐の声が、サーシャの言葉を継ぐようにふたりの耳に聞こえた。
「……実は群司令のお休み中に三機目の連絡艇が到着しまして……」
彼らしくもなく、言葉を濁した。
イリアは、彼の口調から状況を理解すると、こちらへ向き直って仕事モードの直立姿勢で、彼女の下命を待つエミリアへ呟いた。
「私も仕事へ戻らなければならないようだ。ついては艦長、肩を貸してくれないかね」
「群司令のお願いでは致し方ありません」
酔い止めの薬が効き始めたとは云え、いまだ復調したとは云い難いイリアは、エミリアに寄り添われながら、ブリッジへとあがった。
こう云う時、体面など気にすることなく、誰の手を借りることを躊躇わないのがイリアであり、同じく、エミリアも、何の衒いもなく、イリアに手を貸すことを厭わない。ある意味で、これが公団が純然たる軍隊とは違う側面を示しているとも云えた。上っ面の威厳など何の益もなく、上っ面の心配など、何の意味もない。彼女たちが何だかんだと云い合いを続けながら、それでも長年の付き合いをやめないのも、軍隊に身を置いているのではなく、共に公団にあるからに違いなかった。
ふたりが戻ったブリッジでは、既にトリトンからの第三便が送ってきた情報の分析と検討が始まっていた。
「……少しは落ち着かれたようですな」
ジョセフが自席へ戻ったイリアに声を掛ける。
「済まなかったな、副司令。それで、何が判った?」
不在中、彼女の職務を代わりに仕切っていた副司令に短く礼を述べると、イリアはすぐに仕事に掛かった。
珍しくCICから出て来た情報解析担当の次席幕僚ビヨン・スジュン二等宙佐が、各員の席のモニターへデータを表示させた。
「これはトリトンの観測位置から見たグリーゼ五八一方向の宙域図です。彼我の距離はこの時点で五光年を切っています」
つまり、これは赤色矮星グリーゼ五八一を主星とした恒星域の、今から五年前の映像と云うことでもある。
「映像の中心点には、本来、グリーゼ五八一があって然るべきなのですが、ご覧の通り、やはり何も見えません」
「まさか、本当に消えたのではないのだろう?」
スジュンの語尾に含まれた微妙なニュアンスを感じ取って、イリアが先を促す。
「はい。これはあくまでも可視観測の未加工映像に過ぎません。ただ、トリトンのペポニ艦長は、この映像自体に違和感を憶えたようで……」
「違和感? グリーゼ五八一が消えた以上の違和感かね?」
ジョセフが最近、老眼気味の目をしょぼつかせながらも画面を見つめ直す。
「……ひどくシンプルな違和感です。判ってしまえばどうと云うこともない程の……」
スジュンはコンソールを操作して、画面中央を拡大すると、骨董品級の値打ちものだと云う噂のウェリントン・タイプの眼鏡越しに、そのつぶらと称される両の瞳を、一同へ順に向けた。
「確かにグリーゼ五八一は写っていません。ですが、その後方にあるべき星々も、また見えないのです」
「成る程。確かに種明かしされれば、どうと云うこともないシンプルな話しだ。アサクラ副司令の所感が当たりましたね」
スジュンと同格だが、先任士官として位置付けられている次席幕僚クライヴ・ハメット二等宙佐が、手にしていたドリンクボトルのチューブから、いつものように常温のただの飲料水を啜った。
つまり、光宙艦群とグリーゼ五八一の間に何らかの物理的な障害物があり、それが視界を妨げていると云うことである。
確かにシンプルな話しではある。
ただ、ここが広大な宇宙空間であり、グリーゼ五八一が恒星としては小型に分類される赤色矮星だとは云っても、それでも太陽半径は〇.二九RSUN。すなわち、太陽の約三分の一、地球の約三十一倍のサイズはある。ただ見るだけなら小さいが、実際に目隠しをするとなると、充分に大きすぎる。要するに先のサイズ以上の障害物が存在することに他ならない。
現象そのものはシンプルである。だが、状況はそれほどにはシンプルではないことも確かだった。
「トリトン二二は通常航宙域へ降下後、直ちに立体実測を開始しています」
「成る程、さすがはペポニだ。人事考課通りの無駄のなさだな」
立体実測とは、この場合、トリトン二二から見てそれぞれ百二十度の方向へ無人探査体を三基、投射し、各々の視差を利用して、より精度の高い観測値を得る手段である。
それぞれの探査領域は一部が重複しており、それによって視野角なども補正出来るため、実測対象の見掛け上の大きさに惑わされることなく、ある程度の正確な位置、サイズ、そして何よりもその実体に迫ることが出来る。
「……詳細な実測結果は邂逅点でトリトンとの情報連結後に到着する予定です」
「それでは邂逅点に急ぐか……」
イリアがそう呟いた時、群司令部のブリーフィングスペースからやや離れた位置、ブリッジの中央部の一段高い席に座る艦長のエミリアがにやりとこちらを見ると、わざとらしく厳しい顔つきへ戻ったあと、口を開いた。
「群旗艦艦長より群司令へ意見具申。トリトン二二との邂逅点へ急航するため、本艦は十分間の緊急八G加速を行いたく……」
「副長より艦長へ意見具申。その必要を認めません。本艦はあと五分で邂逅点に到着します。邂逅点を素通りして何がしたいのですか?」
「……厭がらせ…かな?」
誰への厭がらせなのかは置くとしても、イリアが却下する迄もなく、エミリアの意見具申は無視された。
だいいち、もし本当に緊急加速が必要な事態が発生したとなれば、彼女は手続きやら何やらで時間を浪費するよりも先に、事後で済むものは全て後回しにして、自身の判断で直ちにそれを実行するだろう。
あれでも仕事はきちんとする人なのだ。
群司令部が遺漏なく仕事が出来るのも、有能な群旗艦艦長が群旗艦に関する全てに責を持ち、群司令部を煩わせることなく、存分に差配を奮っているからなのだ。
だからサーシャは艦長たる彼女に信頼と尊敬を以って応え、鬼の副長の任に敢えて甘んじているのだし、イリアが群司令として旗艦を預けるに足る艦長は、どれほど人として間違っていようとも、エミリアを置いて他にはいないのだった。
そして、トリトンとコーデリアとの直接交信可能域まで達すると、すぐにトリトン二二から情報連結許可を求める通信が入った。
イリアはすぐに許可の返信を送るよう、通信担当士官へ伝える。
「公団の人事部はきちんと仕事をしているな? え?」
そこでイリアはチラリと前公団本部人事部統括官の顔を覗き見た。
「……いやぁ、働き者が多い部署でしたので」
「それは貴官もやりがいがあっただろう」
「いえ、皆が働き者ですと、小官などは暇を持て余してしまいます」
「成る程。ここはどうですか?」
クライヴが無遠慮な質問をする。ジョセフは厭な顔もせずに、涼しい顔で答えた。
「さしずめ、バランスが取れている職場とでも。働き蟻も皆、休むべき時を心得ている」
キリギリスの仮面を被った公団随一のワーカホリックの働き蟻は、こともなげにそう評価すると、裏のない笑顔を見せた。
「だが、今は働き蟻の時間。この際、キリギリスにも働いて貰わねばならんでしょう」
「キリギリス?」
「はい。副司令より群司令へ意見具申します。キリギリスを一匹、いや、ひとり迎えに行きたいと愚考します。ついてはその許可をいただけますでしょうか?」
ふたりのやりとりの間に、スジュンは自身の持ち場たるCICへ指示を出す。
「センター長よりCICレンズマン各員へ通達。トリトン二二との情報連結に備えよ」
「CICレンズマン-セカンド、ツグモよりセンター長へ。……その……トリトン二二は、既に情報連結を開始しております」
「は?」
「既にトリトンからの情報は《T.A.N.K.-Total Absolute Navigation Keeper-(全天球統合型航法制御モジュール)》に充填中であります」
レンズマンとはCICに詰める航法管制官-アヴィエイター-たちを表す符牒であり、その歴史は人類が戦闘艦を地球海洋面にちゃぷちゃぷ浮かべていた時代まで遡る由緒ある呼び名だった。元々、CICのアイディア自体が、当時人気だった同名のSF小説シリーズから得たものだったからとされている。実際、アヴィエイターとしても選りすぐりの彼ら、彼女らは、《レンズマン》と呼ばれることに誇りを覚えている。(この時代、〝man〟から性別を示す意味は失われて、すでに久しい。むしろ、〝human-人間-〟の略語として使われていることの方が、社会一般的である)
ましてや、その長たる群司令部次席幕僚ビヨン・スジュン二等宙佐は紛れもなく正真正銘のレンズの眼(いまどき医学的かつ実用目的で眼鏡を掛けている人間など稀なのだ)を持つ《レンズマン-ファースト》なのだから。CIC-群司令部管制指揮所-の士気は、彼女の遺憾無く発揮される俊才ぶりと的確な指示によって保たれているのだ。(なお、重ねての注釈で恐縮だが、ここでの《ファースト》、《セカンド》と云う呼称はCICでの序列を指しており、世代のことではないので、出典引用元の表記と混同しないように留意されたい)
だが、CICの主任航法士《レンズマン-セカンド》であるリヒト・ツグモ一等宙尉の報告に、《ファースト》のスジュンは一瞬だけ戸惑いの表情を浮かべ、イリアを見た。
(そういうことか……)
と、ペポニ艦長のやり方が判ってきたイリアは、エミリアへ話題を振ることで、それに答える。
「さすがは貴官の悪友だな。貴官と行動規範が似ている」
「そうですね。小官が彼から学んだことは然程ありませんでしたが、彼が小官から学んだことは終生、彼の依るべき指針となり得るでしょう」
エミリアのトリトン二二艦長への寸評は、副長のサーシャの吹き出し笑いで、あっさりケチがついた。
悄然とするエミリアを視界の端に見ながら、イリアは、そっと心のうちで満足して自分の仕事へ戻ると、傍らに待機していたアサクラ副司令からデータ・クリップ・ボードを受け取った。
そして、ざっと眺めて、彼が述べた〝キリギリス〟の素性を確認すると、小さくため息をつく。
「……イパネマのご老体か……」
「小官も何の気無しに移住者名簿を見ていた時に知ったのですが、よもや一般人として乗艦しているとは思いもよりませんでした」
ジョセフは、おそらくはワーカホリックの性分として、本当に何の気無しにケズレヴ到着後の仕事を円滑に進めるために、暇を見つけては移住者リストをチェックしていたのだろう。
来週、来月、来年に到着する訳でもないのに、だ。
イリアは誰に云うでもなく口の中でそっと呟く。
何なら、過ぐる年、ソビエスキー副長から誕生日の祝い品として贈られた逆ポーランド記法卓上量子演算機を賭けても良い。
個人的趣味の関係で古物商免許を持つスジュンが間違ないと太鼓判を押した代物だし、そもそもサーシャが個人的に誰かに贈るもの、譲る物、お裾分けする物は、大抵の品が値打ちものなのである。だから、もしサーシャがエミリアの首を差し出したとしたら、きっと差し出した方、差し出された首の方、双方の価値も、ついでに歴史的な名声もグンと跳ねあがるに違いない。
とにかく。イリアはそれほどのものを賭けるだけの自信を持って確信している。
恐らくは、ケズレヴ居留地初代行政官の脳内の記憶野には、既に移住者全員の公開情報のリストが完璧にインプットされている筈だ。
イリアはふと、果たして、自分には、後方の移住者母艦群にいる移住者二万人分のリストを漏れなく記憶出来るだろうかと自問してみた。
たかが二万人、されど二万人である。その家族関係、職業、移住後に要望している様々な事柄、非公開情報を差し引いても尚、記憶すべきデータ量は半端ではない。しかも、ジョセフ・アサクラ初代行政官は、それを最適化したかたちで、いつでも自分の頭の中から取り出せ得るように分類し、整理まで済ませているようなのだ。その管理は情報AIに任せるにしても、必要な情報にたどり着く最善のルートの地図は手元にあるに越したことはない。
云うは容易いが、とはまさにこのことだろう。
「了解した。あのご老体が相手では、副司令自らが出向いた方が礼を失することもあるまい」
「ありがとうございます。ではジョセフ・アサクラ一等宙佐、直ちにキリギリス送迎の任に着きます」
ジョセフはイリアへ敬礼すると、ブリッジから艦内各所へ繋がる通廊の気閘へと向かう。
「艦長より甲板長へ通達。アサクラ副司令が移住者母艦群へ〝おつかい〟に出られる。キャブの発艦準備を急げ」
「こちら甲板長マルケス、了解です。久々のアサクラ・カスタムの出番と云う訳ですな」
心なしか甲板長のエステバン・マルケス一等宙尉の声が弾んでいるように聞こえた。
事務屋の親爺を自称するジョセフは、常々、事務屋の足はキャブですからと公言して憚らない。
そして、おそらくはこの《キャブ》の愛称で知られる五〇式有人単座または八〇式(ないし百二十五式)有人複座の小型光宙連絡艇の操縦で彼の右に出るものは、この光宙艦群にはいないのだった。
無論、アサクラ・カスタムとは彼の操縦特性に合わせて、自身が非番の折にチューニングした専用艇である。そんな非番の過ごし方をしている輩を、職業的技術者集団でもある甲板員の長が嫌う理由は見当たらない。むしろ、つるんでいるに違いがないのだ。
イリアなどは、時としてこの《自称・事務屋の親爺》が、あとどれだけの隠し球を持っているのかと訝しむほどであった。
「そう云うコトだ。それからトリトンからのお客さんもぼちぼちやって来る頃合いだ。そちらの収容準備も進めろ」
「ほ。臨時列車ばかりが出入りしますな」
「それこそ、緊急事態らしかろ?」
サーシャの一瞥からさり気なく目線を外しながら、それでもエミリアは当座の艦長としての職務は果たしてみせ、自分なりの矜持を取り戻そうとしている。
そして、イリアの方へ視線を向けると、
「直接乗り込んで来ますよ、ンガジは……」
とだけ伝え、それで説明終了とばかりに艦長席の正面モニターへ向き直った。彼女としては気の利いた、第三者にとっては余計なひとことを、それ以上は云い添えなかったのは、まだサーシャの目が光っているからに違いない。
情報連結が完了している時点で、コーデリアとトリトンの間は双方向直接通信をほぼリアルタイムで行えるようになっている。だから、関係者でブリーフィングするにしても、リモートで充分と云えば充分なのである。
だが、エミリアがそう云うなら、ペポニ二等宙佐とはそれでは満足出来ない性分なのかも知れない。
そして、アサクラ副司令の光宙連絡艇《百二十五式スーパー・キャブ・アサクラ・カスタム》が発艦してすぐに、彼、ネプチューン級哨戒光宙艦トリトン二二艦長ンガジ・ペポニ二等宙佐はブリッジへと姿を見せた。
ペポニ二等宙佐は紛うことなき偉丈夫であった。
鮮やかな赤のローブとこちらも鮮やかな青い胴巻きをバーミリオンカラーの通常作業服の上に纏い、アフリカン特有の黒檀のようなつややかな肌に彩られたしなやかな細身の長躯から伸びた細い四肢は、無駄のない筋肉が精悍さを醸し出している。地球圏の出身でありながら、身の丈はむしろ、イリアより首ひとつは高い。同じ細身の長身でありながら、イリアと違うのは1G重力下で鍛えられた研ぎ澄まされた刀身のような鋭さを印象づけているところだろうか?
尚、この如何にもな民族衣装然とした装束は、彼の私物ではなく、れっきとした公団の官給品である。文化の多様性を重んじる公団の主旨に基づき、本人から申請があれば、それぞれの属する文化圏に則ってアレンジされた制服が貸与されるのである。もっとも、先に述べたように、彼の眷属で公団に籍を置くものは後にも先にも、彼ひとりだったので、今のところ、この制服を着用しているものは他にはいない。
それでも尚、自らは一族に背を向けているつもりなのだから、彼は、やはり良くも悪くもお坊ちゃん体質が抜けていないのだった。
艦内通廊から続く気閘をやや前屈み気味にくぐり抜けると、一族の慣習に従い剃り上げた形の良い頭部の真ん中で知的な光を放つ両の眼を以って、ブリッジ内をぐるりと見回し、よく通るバリトンを響かせながら、小気味良い敬礼をする。
「申告します。前方哨戒群トリトン二二艦長ンガジ・ペポニ二等宙佐、イリア・ハッセルブラッド群司令へ状況の説明と報告のため、出頭致しました」
「Au Ngaji…… Je, hatimaye ulihisi kutaka kunipa ng'ombe?」
答礼しようとするイリアを差し置いて、艦長席に座るエミリアが上半身だけを捻って振り向くと、ンガジへ何ごとかを囁いた。
「‼︎……エミリア、ふざけるなら時と場所を選べ」
彼の母国語で発せられたエミリアの問いかけに、ンガジは標準英語で返す。
「おやおや……。私を呼ぶときはマイハニーとかスウィートハートと呼べと云ってるではないか? 何ならラヴリーキティでも許容するぞ?」
「今は任務中! あ、 いや……。プライベートでもそんな呼び方はせん!」
「連れない奴だ。数えきれぬほどの夜を共にした仲だと云うのに……」
「……! あれは貴様がグダグダと理由をつけては博士論文を一向に仕上げようとしないから付き合っただけで……」
「おや? そのうちの何度かは、確かにお前の黒檀色の肌と私の象牙色のそれとを重ねて、愛を交わし合ったではないか?」
「あれは! いや、そうではなくだな……。いや! どの途、そう云う用件で出向いたのではないぞ! 私は……いえ、小官は任務中であります。 私事に関しての話題はお控え願います。カートライト艦長……」
〝ようやく牛を持って来たか?〟
エミリアはンガジにそう云ったのだ。
わざわざ、彼の母国語で、彼の出身一族の求婚の際に用いられる常套句まで持ち出して……。
不意打ちに近いかたちで突然、ヘボな恋愛詩人を気取った彼女の問いかけに対するンガジの狼狽振りは、見ていて切なくなるほどだった。
何しろ、ブリッジに詰めているクルーは、誰もが公団の上級士官に属する。
つまり、それは、かなり限定的な地方の方言でもない限り、一般的な地球の言語の殆どについて、高度な教育を受けていることを意味していた。一見、迂遠に見えるエミリアの云い回しも、ここにいる誰もが瞬時に意味を理解出来るし、彼女は判っていて、敢えて皆に聴こえるように云ったのだ。
だからこそ、ンガジへの容赦ない彼女なりの歓迎の挨拶に、どれ程の致死量級な愛情が含まれているかをも理解出来たし、やはりエミリアは私人としては、諸々、間違っていることを改めて確信したのだった。
後日、何かの折に、エミリアはブリッジの中央で愛を叫んでみせたものだ。
「ンガジ・ペポニ、彼こそが私の愛そのものです」
———居合わせた誰もが
「どの口がそれを云う?」
と、しばらくは開いた口が塞がらず、それを平静で清らかな心のままで閉じる方法を各自の座席の端末でそっと検索したし、私は私で
「光宙艦全群へ通達。総員ツッコんでヨシ」
と群司令としての職責を果たすべきかどうか迷った程でした———
後年、ンガジとエミリアの結婚披露宴へ、アフリカ経済連合大統領府の公式な賓客として招かれたイリア・ハッセルブラッド退役宙将による祝辞の一部要約である。
大統領府公邸に隣接する公文書記録館で誰でも閲覧出来る間違いない彼女自身の言葉であった。
「……わざわざ済まんな。ペポニ艦長」
前触れなしの痴話喧嘩から軌道遷移したがっている風なンガジへ助け舟を出すつもりで、イリアは遅ればせながらも、その心中を労う意味も込めて答礼を返す。
そして、視線だけで、
(このふたりはそういう間柄なのか?)
とエミリアの傍らでため息をついている副長のサーシャに尋ねる。
サーシャは肩をすくめながら、
(ご存知なかったのですか? そう云うことです。ペポニ艦長はまことにお気の毒なことで……)
と、更なるため息でイリアに答える。
全くを以ってご存知ではなかったし、個人的にはかなり興味深い話題ではあるが、残念なことにイリアも仕事を優先するたちだった。
どうせ、素知らぬ顔で職務へ戻ったエミリアへのお仕置きは、あとでサーシャがやってくれるだろう。
とにかく、今は先に片付けることが山積みなのである。
観測-検証-
-Ne pas déranger !!-
「Don’t disturb!!(起こすな‼︎)…と来たか……」
「えぇ、まぁ……」
群旗艦コーデリア〇一から一光日後方の待機軌道にあった移住者母艦群の一隻、ジュピター級五群母艦アドラステア〇二に到着した群司令部副司令ジョセフ・アサクラ一等宙佐は、目指す気閘扉に掲げられたメッセージボードの前で苦笑していた。
彼をここまで案内してきた需品科の当番航務員も曖昧な笑みを浮かべる。
「それで? このアマノイワトはどうやって開ければ良いのかな? あぁ……。ミサワ宙士長?」
ジョセフは、当番員の名札を一瞥したあと、少し困った風な程で尋ねる。
チトセ・ミサワ宙士長は肩をすくめながら、やはり困り顔で応じた。
「さて……。アメノウズメにでも踊って貰いますかね?」
「……つまり?」
「はい。外からは開ける手段がないのです」
そうだろうとは思ったが、実際に断言されると、頭を掻くくらいしか出来そうもない。
だが、ジョセフとしても、ここに眠るキリギリス、あるいは群司令イリア・ハッセルブラッド宙将補が云うところの〝イパネマのご老体〟には、何としてもコーデリア〇一までご同道して頂かねばならない。
現在進行形の状況にある程度の道筋をつけるためにも、この〝公団の生き字引〟が生涯かけて貯めに貯め込んだ知恵とそれを下地とした学識が必要なのだ。
チトセは簡単に岩戸に籠っている人物の現状を説明する。
「……つまりはグリーゼ五八一近傍宙域到達まで起きるつもりはないようで……」
「どうやって到達時に自分で起きるつもりなのかね? 目覚まし時計に頼るにしても、多少は光程のズレもあるだろうに?」
「そこまでは……。あぁ、一応、室内コンソールは生きているのかも? 衛生科の方でも生体情報は常にモニターしている訳ですし……」
右手で顎を撫でながら思案していたジョセフは、彼の言葉に一筋の光明を見た気がした。
「……試してダメなら、また考えれば良い……」
アサクラ一等宙佐は踵を返すと、訝しむミサワ宙士長を引き連れ、艦内通廊をブリッジへと向かった。
移住者母艦群は、このグリーゼ五八一方面第五次派遣光宙艦群の中核であり、同時にこの母艦群をケズレヴへ無事に送り届けることこそが本光宙艦群の主任務でもある。
殊にジュビター級でも五群と呼ばれるシリーズの母艦は、単艦での収容人員数は五千名程度の小規模艦ながらも、アサクラたちが太陽圏進発時に就役したばかりの最新艦で、当時はまだ四隻しかなく、しかもその四隻全てがこの光宙艦群に集中配備されているのだった。従来のジュピター級に比しても、超長期連続凍眠が可能な最新の環境保全ユニットが実装されている上、艦内時間で年に二回実施される艦内生活環境メンテナンスもほぼ自動化されており、運用する操船科のみならず後方支援にあたる需品科、衛生科のスタッフもこれまでのそれよりも十分の一でこと足りるように設計されている。
そして何よりも船殻内の居住・凍眠区ユニットを特殊な緩衝ジェルで包みこむことで、加減速時に発生する余分なGを相殺する耐衝撃システムの最新型を実装しているのだった。
進発前の編成会議で、それを知った時、大の重力嫌いで群司令でもあるイリアが珍しく公私混同して、これらのどれか一隻を群旗艦にしようと云い出した程だ。
無論、諸々の現実的な問題により、その主張は着任したばかりのアサクラたち三人の幕僚陣によって、即刻却下された。例のイリアの風変わりな質問へイエスと答えた、彼ら彼女は、早々と上官にノーを突きつける権限を行使したのだ。
だが、イリアが羨む程には、光宙艦の安全性と信頼性、それを踏まえた上での効率化と省力化は、公団がもっとも重きを置いているオーダーであり、そのための技術開発の更新を怠ったことはないのである。
それはハードウェア然り、ソフトウェアも然りである。派遣光程途上にある光宙艦群のハードウェア更新には物理的な限界があるが、ソフトウェアに関しては、リアルタイム補正は無理としても、それでも更新は不可能ではない。
つまりは、例の御仁が籠る〝茨の森の城〟とて同じことなのだ。
城内で眠る主が心置きなく眠り続けられるように、城外にある各種艦内システムは連動しており、文字通りのライフラインとして機能している。
凍眠システムは、人を仮死状態にする訳ではない。
あくまでも極低温下でそれに近い状態で生き続けたままにするものである。半死半生状態、生ける死人製造機、あるいは半ナマ状態維持管理機構などと揶揄する向きもあるが、それは適切な比喩とは云い難い。
例えコンマ何パーセントであっても〝ねむりひめ〟に死んでいて貰っては困るのである。
どこまでも長く緩やかで穏やかな生の継続こそが、凍眠システムの本旨だった。
だから、生体に繋がれたいくつかのチューブを通して、緩慢ではあるが決して止められない新陳代謝のために必要なもの、体外へ排出すべきものの交換は行われるし、それらが正常に行われ、生体が安定した状態にあるかどうかのモニターチェックも欠かすことはないのである。
ジョセフは、そこに活路を見い出しそうとしていた。
だが、もし、城の主人を目覚めさせる手段が、唯一、口づけのみだったとしたら……。
彼は、自身が知る〝公団の生き字引〟のプロフィール写真を思い浮かべた後、力なく首を振った。
もし、その時は、当番であるミサワ宙士長に王子役を押しつけるか、はたまた、ただただ、それだけのために群司令にお越しいただくか……。
自らの職権を濫用するつもりも、ただでさえ貴重な時間と労力を無駄にするつもりもないジョセフとしては、今、ここで自分が出来ることを可及的速やかに全て試すしかないのだった。
彼自身は自覚していなかったが、公団随一のワーカホリックとしての血が密かに、彼の脳細胞を活性化させ始めていた。
ジョセフがアドラステア〇二へ向かって程なく、コーデリア〇一のブリッジではトリトン二二艦長ペポニ二等宙佐によってもたらされた実測データの検証が始まっていた。
彼の乗艦に先立って、トリトン二二との情報連結によって、群司令部CICでの解析が進んでいたため、可視化されたグリーゼ五八一周辺の宙域での異変は、誰の目にも明らかであった。
「……これは光程十光年時点で行っていたグリーゼ五八一の立体実測の結果です」
「……まだ、兆しは見られていないな」
「はい。以後、一光年ごとの定期観測データしか残っていませんが、宙域を限定して詳細な検討を行なった結果、極めて僅かではありますが、直近八光年の時点から、グリーゼ五八一を中心とした観測値の揺らぎがあることが判りました」
CICセンター長も兼ねる次席幕僚のスジュンがコンソールに指を滑らせ、当該宙域の拡大図を皆に提示する。
「揺らぎと云うのは具体的にはどう云うことなんだ?」
同じく次席幕僚のクライヴが先を促す。
「直接的には、グリーゼ五八一の光度に予想される自然変動の誤差以上のものが観測出来ました。さらには赤外線、X線などの放射量にも変化が見られます」
スジュンはさらにトリトンの無人探査体によって得られたデータから割り出された立体的な星域図を表示させる。
「視差一光時程度の精度ではありますが、問題の障害物は、グリーゼ五八一のハビタブルゾーンの外周に展開しており、その領域は現在も拡大中と思われます」
「つまり、およそ三年前にグリーゼ五八一宙域に出現したなにものかが、ハビタブルゾーンを覆い隠そうとしている…と云うことか?」
ここでイリアが口を開いた。
「現在得られているデータでは、あくまでも推論の域でしかありませんが……」
「だが、極めてその可能性は高い」
「はい」
イリアはコンソールのモニターに映し出されているグリーゼ五八一をじっと見つめた。
彼我の距離では、絶対等級がたかだか太陽の一.三%に過ぎないこの赤色矮星の周辺で起こっている現象の詳細を、今すぐに掌握することは極めて難しい。
しかし、それでもこの変異が、こちら側、つまり光宙艦群の近傍宙域に出現したのではなく、目的地周辺でのものだと云うことが判っただけでもこの先の対応は変わって来る。
「さて、どうしたものか?」
「……まずは、こいつがいったい何なのか? その正体を知ることが先決なのでは?」
クライヴが首を傾げながら意見を述べる。
「……これも推論の域は出ませんが……」
アサクラ副司令の留守中、ハメット先任次席幕僚が首席幕僚の席に移ったことで空いた次席幕僚席に座っていたトリトン二二のペポニ艦長が眉間に皺を寄せながら、ひとりごとのように呟いた。恐らく、自分でもはっきりとした確証はないのだろう。
「どうにも観測値の揺らぎが気になるのです。単なる遮蔽物だと云うだけでは説明がつかない程度には、グリーゼ五八一から放射されている赤外線やX線などの数値が低すぎる気がするのです」
「……あれは遮蔽しているだけではない……?」
スジュンが興味深げに、眼鏡のレンズ越しに瞳を輝かせ、ンガジの言葉を反芻する。
いわゆる、おかっぱ頭の黒髪と通常作業服の上に着込んだCICスタッフであることを示すイエローベストの裾が、微小重力下のブリッジで空調システムが作り出す循環気流に揺れた。本来、もうふた回り小さいサイズがスジュンの体格に合うサイズなのだが、彼女は制服も私服も含めてオーバーサイズを好む傾向があった。
厳格なことで知られる需品科被服部の責任者は云う。
「似合うから許す」
これもまた、公団が軍隊ではないことを示す一例ではある。
「通常の自然減衰値以上に吸収している……」
「あるいは……」
「それ以上の推論は我々よりもプロの学者の仕事だろう」
そこまで云ってから、イリアは、空間電子工学博士でもあるンガジが苦笑するさまに気づき、自身が先程のエミリア主演のソープオペラにいまだ動揺していることに気がついた。
「済まない。二佐、含むものはないのだ」
「いえ、お気になさらずに。小官は光宙艦艦長としてここにいるのです。それにこれは空間電子工学ではなく、統合物理学の領域の話ですから」
「プロの統合理論物理学者は、今、副司令が迎えに行っている。それまでの間、プロに問うべき疑問を山積みにしておこうではないか」
ンガジは本当に気分を害してる訳ではないのだと、イリアへの気遣いも含めて、彼女の提案に、育ちの良さも彷彿とさせながら首肯してみせた。
何処か朴訥でありながら、その人柄も垣間見える彼に、イリアは好感を覚えた。
ンガジとエミリアは人間としての品格が真逆のベクトルを指向しているのではないか?
「彼と小官は共にないものねだりで惹かれて合っているのです。もしくはバイナリ……」
エミリアがそう本気の愛を込めて語る程度には、ンガジ・ペポニ二等宙佐はタフでありジェントルでハンサムであった。
まぁ、公団では三番目だがな……。
ひとりほくそ笑むイリアの視界の隅に、今回のブリーフィングには参加していないエミリアが艦長席でそわそわしているのが映る。
先刻からずっと何かを云いたげなエミリアだったが、サーシャの指示で、艦内各署から矢継ぎ早に送られてくる艦長未決ファイルが、その口を封じていた。
カートライト艦長を黙らせたくば仕事に忙殺させるべし。
サーシャ・ソビエスキーが一等宙佐へと昇進し、光宙艦艦長の任を得て転属する折、後任の副長へ贈った言葉である。
案ずることはない。私の艦の主砲は、常に彼女にゼロ距離で照準を合わせて指向している。
非武装の光宙艦乗りにはお馴染みの冗談だったが、サーシャが普段は決して見せない無邪気な笑顔で囁かれた側は、百万の味方を得たようなものです、と彼女への信頼を口にするのだった。貴族令嬢サーシャ・ソビエスキーは、ただの常套句に過ぎない言葉を贈る時ですら、本物の宝石以上の輝きを添えて贈るのだった。
だが、エミリア・カートライト艦長が乗艦する光宙艦のブリッジが、もしもゼロ距離砲撃を受けるとしたら、彼女の傍らに佇むのは、他ならぬ後任の副長たる自分なのだと云うことに、何故、気がつかなかったのか?
そこで初めて、サーシャの言葉の真意に気がつく後任者だった。エミリアが万が一にも艦長としても使えない人間と堕した時、サーシャが指揮する非武装な筈の光宙艦の主砲は、コンマ何ミリかの照準修整の後、精密狙撃を以って、無能な副長たる自分のみを屠るのだと。
「……それはそうと……」
スジュンがそっと右手を挙げて発言の許可を求めた。
基本、自由闊達な発言が尊ばれるイリアの群司令部の幕僚とは思えないほど、控えめで複雑な笑みを彼女は浮かべていた。
それはむしろ、常日頃のスジュンらしくない表情でもあった。
「お忘れかもですが……。ウチにもひとりいます……。その……プロの物理学者が……」
イリアは忘れてはいないと云い掛けて、実際には忘れていた自分に気がついた。
スジュンの直交替士官として、CICに詰めることを仕事のひとつとするクライヴ・ハメット二等宙佐は、例によって、ただの飲料水をひとくち啜ったあと、誰にともなく呟いた。
「あぁ、いたな。ひとり……」
数分後、CIC直属の嘱託調査員で統合理論物理学者のアカネ・アカネ博士が、常駐している空間高機動モジュール、シュピーゲル一七の整備格納庫に隣接する機動調査班-Mobile Observation Team-待機室から、ブリッジへあがって来た。
「……呼ぶのが遅いわぁ! ぼけぇ‼︎」
それが居並ぶ群司令部要員への、彼女に云わせれば、雁首ぶらさげているだけの脳みそカラッカラッな輩への、アカネの第一声であった。
検証-精査-
グリーゼ五八一c-ケズレヴ-を目指す光宙艦群の群司令部副司令へと転属したジョセフ・アサクラ一等宙佐の後任人事部統括官の最初の仕事のひとつは、そのアサクラ群副司令たちの同行者選抜であった。
宇宙開発事業公団配下の太陽系外恒星域派遣光宙艦群の編成は、概ねテンプレート化されており、これに行き先、目的などを勘案したかたちで、必要であれば多少の変更が行われる。
制式記録名05DLSSS-LCC1050の陣容においてもそれは同様で、群司令ハッセルブラッド宙将補の名前で提出された群司令部の編成計画案を叩き台として、光宙艦群を管轄する幕僚総監部管制本部が検討し、裁決する。
ハッセルブラッド宙将補は群司令としては新任であったが、その経歴において、有人ケズレヴ往還事業の実際を熟知していたから、無駄のない機能的かつ効率的な、つまりは極めて現実的な編成案を作成し、上層部へ示した。
幕僚総監部が、事前に彼女に課した〝宿題〟のうち、主なものは、
・新たに進宙するジュピター級五群移住者母艦の運用と評価
・同艦とその後継艦による長距離恒星間往還のマスタープランの構想と策定
・CIC直轄として新設される機動観測班-MOT-の運用と評価
であった。
当然ながら、これらの〝宿題〟は、帰還後に提出するものではなく、光程途上において、随時、レポートとして本部宛に後送されている。
公団が現在進行形で遂行している恒星間往還事業は、ケズレヴ往還だけではない。同時進行で他の恒星系への往還事業も行われているし、ケズレヴ関連にしても、既に第六次往還に向けた準備は進んでいるし、計画案だけなら第八次まで検討が行われている。
如何に他の組織に比べれば〝慌てない〟、〝急がない〟が信条の公団と云えども、その上で〝止まらない〟ためには、悠長に過ぎても意味がない。
その為の試行錯誤は、往還事業途上にある光宙艦群にもフィードバックされ、更なる評価と検討が行われるのである。
つまるところ、長期に亘る光宙往還事業とは云えども、暇になることは許されないのだった。
イリアたち群司令部の裁量権が及ぶのは、幕僚以下の司令部の主だった要員の人事、キャラバンを編成する光宙艦の選定だった。
今回は移住者母艦はジュピター級五群と指定されているので、それ以外の艦種をどう組み合わせ、どの艦を配備するのかを決定することになる。
群旗艦には、イリアの強い意向で、ウラヌス級光宙艦コーデリア〇一が選ばれた。ともに選定に加わった三人の幕僚たちは、コーデリア〇一の艦長について、多くの逸話を知っていたので、少しだけ眉をひそめたが、その艦長の公の実績と、彼女とイリアの浅からぬ縁も少しだけ知っていたから、ノーとは云わなかった。
光宙艦航務員の人事は、基本、各艦艦長に委ねるかたちになり、最終的な調整と了承を行えばよいのだった。これは丸投げではなく、単純な効率重視の結果である。
だから、群司令部としては、幕僚総監部管制本部が作成した候補リストから、光宙艦を個別にピックアップすれば、自ずと光宙艦群全体の人事を決定する流れになる。
ただ、新設されると云う機動観測班-MOT-については、群司令部CIC直轄とは云え、管制本部の意向を踏まえようと云う話しになった。
試験運用の要素が大きいため、むしろ、群司令部的には、管制本部の意図そのものも評価したいと考えてのことのだった。
かくして、管制本部から群管総務経由で、人事部統括官ザンジール・ボンギ・マケバ一等宙佐、自らがMOT要員の選抜を行う運びとなった。
彼女は、前任のアサクラ一等宙佐のようなワーカホリックではなかったし、そもそも職務全般に対する熱意も給料分以上には持ち合わせていなかった。
積極性と消極性の中間でバランスをとるタイプだったのだ。
一見、如何にも杓子定規で典型的なお役所タイプ、ステロタイプな官僚を彷彿とさせるが、それは的を射てはいない。
マケバ一等宙佐は、言葉遊び的な意味ではなく、本当の意味で給料分の仕事しかしないタイプだった。
アサクラ統括官の後任が、彼同様のワーカホリックだった場合、いずれ人事部はオーバーワークが常態化し、早晩、組織の歯車として他の部門との同期を取れなくなるだろう。歯車を動かすための弾み車は、速度を一定に保つために必要なのであって、加速のみを強いる部品ではないのだ。
いわば、マケバ統括官はブレーキではないが、人事部のギアを一速落としてその寿命を長続きさせるために任じられたのだった。組織全体の在りようを長い目で見た場合、そうした時期と人事は必然ではないが、必要ではあった。
つまり、バランスが求められたのだ。
彼女は、上官の群管総務から回ってきたグリーゼ五八一方面第五次光宙艦群群司令部管制指揮所直轄機動観測班人事案策定要綱なる長ったらしいタイトルの書類を給料分の熱意を以って熟読し、同様の熱意で候補者の面接を行った。
「……既定の身長に少し届かないようだが?」
MOT嘱託調査員の募集に応じて、面接会場にやって来た小柄な女性を前に、マケバ統括官は、右手の人差し指を眉に添えながら、目線を彼女と書類の間で往復させた。
かつてに比べれば、はるかに光宙艦搭乗員に関する規定は緩やかだったが、それでも最低条件はあった。
着慣れていない風でダブダブのビジネススーツは借り物なのかも知れない。彼女のサイズにフィットしているとは明らかに云い難かった。
だが、マケバ統括官は、その格好で面接に来たことを問題にはしていない。
ただ、既定身長百五十センチに対し、面接に先立って行われた身体測定での彼女の実測サイズが五センチ足りないことが気に入らなかったのだ。
だいいち、応募に際して提出された選考書類には、百五十センチと記入してあるのも気に入らなかった。
「地球の重力には慣れとらんモンで……。こっちに来るまでに少し縮んだんかも知れませんなぁ」
そんな訳があるか……。
とあからさまに突っ込みたくなる衝動を抑えながら、統括官は改めて自身が対応している面接者を見た。
テーブルの前に置かれた椅子もサイズオーバーのようだった。
これもサイズが合っていない靴を引っ掛けるように履いて、床に届かない両足をブラブラさせている。意識しての行動ではないようだが、普通ならこれだけで面接態度不適当としてお帰りいただくところだ。
一応、最低限の礼儀とばかりに、両手は膝の上に揃えられているが、肩先の上にちょこんと乗った頭は、あまり礼儀を知らないらしい。好奇心を優先させながら、せわしなく会場内を散歩でもするように目線を動かし続けている。
圧迫面接ではないが、それでも多少の精神的なそれを印象づけようと、面接官ザンジール・ボンギ・マケバ一等宙佐は、母親から受け継いだギョロリとした両目で、相対する統合理論物理学博士アカネ・アカネを睨みつけた。
「身長足りんとあかんのんですか?」
アカネはアカネでケロリとした表情で、逆に質問を返す。
「ダメとは云わんが……。五センチはサバ読みにも程があるのではないかね?」
「えぇ? ウチの田舎じゃ、そんなん誤差の範囲ですわ。それに……」
アカネはここで意味ありげに言葉を切り、ザンジールのささやかな関心を惹くことに成功した。そして、あたかも世界の秘密を明かすかのような口調で呟く。
「ちっこいと飯もよう食わんから、補給の面でも有利でっせ」
たかだか、ひとりの人間の食事量を節約出来たからと云って、どれ程の話なのか。それこそ有史以前の単座式軌道往還宇宙機の時代まで遡っても、それ程の重大事ではなかった筈だ。
だが、ザンジールはアカネの口調そのものに、つい笑ってしまった。
そして得意げににんまりと笑うアカネに首を振ってみせ、再び提出書類に視線を落とす。
嘱託研究員としての募集要項で添付を必須としていた自身の最新の研究論文は申し分なかった。ザンジール自身は科学者ではないため、技術本部の科学顧問に意見を求め、その寸評は手元に届いていた。
「独創性はあまりないが、視点がユニーク」
彼女が知る範囲で、これはあの科学顧問にしては高評価だった。どれほど批判的、問題点、欠点が書いてあろうとも、一箇所でも褒めるべきところを記しているなら、一般人の評価基準に照らせば、それは賛辞に近いのだ。
そして、ザンジールはアカネが云うところのウチの田舎、つまりは出身地にも着目していた。通常は気に留める事柄ではなかったが、アカネは、かに座五十五番星Ae(LCC 5400Ae)の出身だった。
一般にはキャンサーEとして知られるこの星を知らない者は、仮にも宇宙開発に関わるものにはいなかった。
それは給料分に入る必要な知識とも云えた。
何故なら、キャンサーEは太陽系からもっとも遠い有人居住星系であり、そこに至る光程の片道分だけで、今回のケズレヴ往還に匹敵する距離の彼方にあるからだ。
今、彼女が地球にいると云うことは、それだけの光程を経験していると云うことでもある。
成る程、アカネは確かに、視点以外も〝ユニーク〟なようだった。
「ウチは燃費がえぇねんでぇ。ここはネェさん、お買い得やと思いまへん?」
嘘である。
アカネは、燃費と云う点では全くお買い得ではなかった。
むしろ、暇さえあれば需品科の糧食部へ顔を出し、何かと理由をつけては、携帯糧食-レーション-はおろか、司厨部が考案中の試食品までたいらげる有り様であった。
「燃費がえぇから、すぐ腹が空くんやないか?」
明らかに間違った物云いなのだが、需品科航務員も含め、彼女と生活なり仕事を共にする航務員の殆どが、すぐに慣れてしまった。
直接的な害がない他愛のない範疇だったからである。
「まぁ、たいがいの人はそれで済むんですがね……」
同じMOT要員として、主としてアカネを乗せて、高機動モジュール-シュピーゲル一七・β-でパイロットを務めるジャンヌ・キケロ宙曹長は、苦笑する。
「彼女、前席の私に指示をする時、後席から蹴飛ばすんですよ?」
比喩でも何でもなく、本当に蹴飛ばすのだそうだ。
「やれ、『機首ちょい上げ!ちょい右!』とか云って、自分が行きたい方向を指示して、彼女の思い通りに飛ばないと、すぐ『ちゃうわっ! ぼけぇっ!』ですから……」
アカネは嘱託研究員と云う立場ではあるが、航宙免許は所持していないから、彼女が現場へ向かうときは、正規の航宙士のエスコートが必要になるのだった。
自身も統合理論物理学修士であるチーム・リーダーのアルベルタ・ホン・ゴウ一等宙尉は、単独でシュピーゲル一七・αを操るし、シュピーゲル一七・Γのパイロットで《レンズマン・チャイルド》と云うCICアヴィエイター見習いでもあるハック・ル・ベルリ二等宙士は、いまだ新人であるが故にアカネを任せるわけにもいかない。
結果、消去法であろうと何であろうと、彼女の身柄はキケロ宙曹長が預かるしかないのだった。
「お陰でついた渾名が〝あさってのジョー〟って。私は好き好んで、あさっての方向へ飛ばしてる訳じゃないんですがね」
ジョー・キケロ宙曹長は、群旗艦内にある被害者の会のうち、マイナーな方に属してるようだった。
機動観測班-Mobile Observation Team-は、その専用機でもある空間高機動モジュール-シュピーゲル一七-に因んで、光宙艦群内では〝チーム・シュピーゲル〟と通称されている。
嘱託研究員であるアカネを除いた三人は、全員が《シルバースター徽章》と云う空間高機動特殊訓練修了者であり、それ故においそれと換えがきかないメンバーでもあった。
この件については、直属の上官となったスジュンからイリアへ上申書が提出され、今後の検討課題として、公団本部にもレポートが後送されている。
MOT-チーム・シュピーゲル-は、云わば〝天翔けるCIC分室〟であった。
必要な事態が発生した場合、即時、群旗艦から投射され、詳細な有人観測任務を行い、CICの情報解析の一翼を担うのである。
その目的のために設計された高機動モジュール-シュピーゲル一七-は、先述の通り、α、β、Γの三つのモジュールに分離し、個別に機動出来るようになっている。
これは必要があれば、有人立体実測にも即応出来ることを意味していた。
イリアは、これは前方哨戒群にあった方が良かったのではないか、と後日の評価レポートに記している。
結局のところ、どれ程の高機動性を誇ろうとも、群旗艦内のCICとの情報連結を優先するあまりに、結局は、その長所を殺してしまっているのではないか。
それであれば、むしろ、哨戒光宙艦のさらに前面で展開可能な体制の方が良かったのではないか?
事実、今、イリアたちが直面している事態に対し、MOTでは対処出来ないのだった。
「だから忘れてましたぁとは云わさへんでぇ!」
これまで実動演習以外での出番がなかったアカネ・アカネ博士は、溜まっていた鬱憤も晴らそうと、群司令に食ってかかっていた。
殆ど身勝手な怒りではあるが、紅潮した肌に次第に虎のような縞模様が現れる。顔と腕以外にもあるのだろうが、他の部分は無論、制服に隠れていて見えない。
「あ」
「アカネ博士が知恵熱を出した。医務官はブリッジへ」
手慣れた様子のスジュンがすぐに衛生科へ連絡する。
「ま!まだやっ!まだ云いたいことはぎょうさんあるんやっ!」
熱に浮かされているのか、はたまた体調的にまだ大丈夫なのかは、誰が見ても明らかだった。
何故ならアカネの全身に施された虎縞模様〝メディカル・バイタル・サイン〟と呼ばれるタトゥー、正確には体内に組み込まれたおびただしいナノマシン群によって浮かび上がるその縞模様が彼女の体調を第三者に示すからである。
アカネ・アカネは先にも述べた通り、地球圏からもっとも遠い有人居住星系キャンサーEに生まれた。
今でこそ、その独自な文化を有するに至った星系は近傍星系とも交流するようになったが、かつては、有人星系としては、ほぼ〝飛び地〟、〝特異点〟だったのである。
そして、この星はその居留地の誕生までの経緯も異色で、歴史学者によっては、《ケズレヴ・ケース》以前の、恒星間航行黎明期の歴史的な悲劇、惨事のひとつとして取り上げることさえあった。
何故なら、彼の地は、約二世紀前に〝再発見〟されるまでは〝生存者〟がいるとは、誰も思わなかった過酷な人跡未到の地として知られていたからである。
そのような環境下で生き延びた人々は、命を繋ぐために出来ることは何でもしたし、事実、そうしなければ生き延びることは出来なかったのである。
そのひとつが、彼女の身体に組み込まれたナノマシン群である。
今となっては無用の長物とも思える代物だが、ただの生活習慣以上にそれは深い根を張った因習の類ですらあった。埋め込まれた者に何らかの生物学的な不具合が生じると、ナノマシン群は皮膚の表層に現れ、他者に対し、それを訴えるのである。
それならば、初めから治療も行える医療用ナノマシンを仕込めば良いのではないか?
と疑問を呈する向きもあろうが、それではダメな理由がキャンサーEの人々にはあるのである。そして、それを解明するのは、おそらく科学者ではなく医学者でもなく、民俗学者だろうと云われている。実際、多くの民俗学者がこの〝不思議の国〟で今も研究を続けているし、その研究成果の一部は、彼の地の経済に多少なりとも貢献しているのだった。
それ故か、キャンサーEの人々は、自分たちを〝不思議の国の住人〟として、方々に積極的に売り込んでさえいた。
とにかく、興奮するあまり、平熱を越えたアカネに、またか、とため息混じりの愚痴をこぼしながら、ブリッジへ呼ばれた医務官は〝キャンサー熱〟を下げるための注射を打った。
特別な医薬品ではなかった。ただのビタミン剤である。
しかし、キャンサー熱を平熱へ戻す医薬品は他には発見されていないのだった。
光宙艦士官、それも宙将補と云う上級将校であり、群司令の立場でもありながら、新人航宙士以上に、今も重力酔いに悩まされているイリアには、少しだけキャンサーEの人々に同情する気持ちがあったが、それを今ここで口にすることはなかった。
そんなことをすれば、熱がさがったアカネがつけあがること疑いなかったからである。
「それで博士には何かアイディアとかプランはあるのかね?」
「ないこともない……。いや、あるでぇ、それもとっときのんがなぁ」
これも独特のイントネーションでそれと判るクレオール言語の一種である〝キャンサー・イングリッシュ〟で、アカネがケロッとした顔で答える。
熱が引くと同時に怒りも収まったらしい。
「それはぜひ聞きたいな?」
「せやろ? せやろ? よっしゃっ! 特別に教えたるわっ……」
ンガジが興味深げに、クライヴが飲みかけた水を無言で飲み干し、スジュンは直属の上官らしく少し疑わしげな視線を送り、イリアは立場が立場なので、無表情のまま、アカネの言葉を待った。
そして、にやついたエミリアが聞き耳を立て、サーシャがそれを眉間に皺を寄せてたしなめ掛けたその時、アカネはブリッジの全員に向かって声高々と云い放った。
「あんなぁ、シュピーゲルでなぁ。ピャーッと先回りして、チャチャっとあれを調べんねん!」
それが出来れば苦労はしない。
とブリッジの誰もが思った。
イリアはそこで彼女を採用したマケバ人事部統括官の添え書きを思い出した。
《科学者ながら非論理的、非科学的な発言をすること多々あり。ユニーク》
もしマケバ人事部統括官が給料分以上の仕事をしていれば、アカネは採用を見送られていただろうし、給料分以下の仕事をしていたら、書類選考の段階で門前払いだったことだろう。
だが、イリアは現場を預かる者として、正式なMOT嘱託研究員たる彼女の言動を〝ユニーク〟の一言で済ますことは出来ないのだった。
「I hear what you say.(云いたいことはわかりました)」
ずっと蚊帳の外にいたエミリアが、満を持して参戦して来た。
「That is a very brave proposal.(それは勇敢な提案ですね)」
「せやろ? せやろ? いやぁ、さすがは群旗艦艦長はんや、判ってるやないかぁ」
アカネが満面の笑みで応じたことで、彼女の皮肉が上滑りして空振りに終わったことを、イリアや他のクルーたちは苦笑いしながら、互いに確認し合った。
あれでも英国の良家の子女たるエミリア・カートライト一等宙佐は、キングス・イングリッシュ特有の持って回った云い回しでアカネを嘲笑しようと試みたのだった。
その言葉の裏に込められた本来の意は、
〝I hear what you say.〜話にならない〟
〝That is a very brave proposal.〜馬鹿げた提案だ〟
となる。
彼女が常日頃、揶揄いの対象にしている公団航務員、殊に上級士官たちが相手なら、その真意を察して、うんざりとするだろう。
だが、エミリアは、アカネがキャンサーE出身者であることを計算に入れていなかった。
キャンサー・イングリッシュに迂遠な云い回しは存在しない。
過酷な生存環境下でのそのようなやり取りは、文字通り〝死〟に直結するからだ。
後日、しぶしぶ敗北を認めたエミリアは、アカネからこうした場合の〝キャンサーE流の正しい皮肉〟を教示されたと云う。
〝アホなこと云いないな、君とはもうやっとれんわ〟
しばらく、イリアはエミリアの拙いキャンサー・イングリッシュに付き合わされる羽目になり、頭痛の種が増えたらしい。
それはともかく、この微妙な会話の行き違いが、イリアの付け入る隙を作った。
(続く)
-2022.01.28.update-
スピンオフ篇
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エミリア・カートライト責任編集
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美少女専艦こおでりあ。
-Episode:1-
「お疲れさまでした、艦長。今年は如何でしたか?」
「如何も何も、毎年、代わり映えはせんよ」
「まぁ、そう云うモノですからね、あの手の集まりは……」
「私は、元来、あぁ云う宴席の場と云うのはただでさえ苦手なタチなのだ。それでもウチの群司令部主催のヤツはまだマシな方だがな」
「そうなのですか? 小官はこの光宙艦群以外を知りませんので、どこも同じなのかと……」
「群司令の器量次第だな、ウチの群司令はその点では文句のつけようがない。それは確かだ。だが……部下を気遣う余りに……な」
「仰る意味が、小官には判りかねます。部下を気遣うのは上官の義務なのでは……」
「無論、そうだ。だがそれがために群司令が採用されたアレだ……。Break Go!とか云うパーティールール……」
「無礼講のことですか? 」
「そう。それだ……」
「ですが、あれのお陰で誰に気兼ねすることなく、存分に愉しめると一般航務員たちにもウケが良いようですが」
「それは常識を知り、常日頃は礼節を弁えるものの言葉だ。ウチの光宙艦群にはいるだろう? そうではないのが……」
「あぁ、艦長の奥さまのことですか?」
「まだ、妻ではない!」
「まだ?」
「あ、いや、聞き流せ、ただの言葉のあやだ」
「ご命令とあれば……。しかし、確かにそうですな、奥さま、いえ、群旗艦艦長にとってはある種の免罪符を熨斗つきで差し出されるようなものでしょうし……」
「あれではお目付役の鬼の副長も手の出しようがなかろうよ……」
「確かに……。小官などは、本艦での直交代のお陰で宴会場へ出向く日時が群旗艦艦長とはシフトがずれておりますから……。ある意味、これは艦長に感謝すべきことなのかもしれません」
「いや、いつでも替わるぞ? 何なら当直二日分を私が引き受けるから、次は貴官が行ってくれないか?」
「……。当直二日分ですか……。いや、やめておきましょう。群旗艦艦長のみならず、各艦の伝説級のお歴々との宴席は、今の小官には少し荷が重すぎます……」
「そうか? ……ところで貴官は先ほどからずっと何を熱心に読んでいるのだ?」
「あぁ、これは失礼しました。艦長がお帰りになられたので、つい直勤務の引き継ぎもないまま、ズルズルと非番のつもりになっておりました」
「いや、まぁ。緊急時ならともかく、平時にまでガミガミ云うほど、私は綱紀粛正などとうるさいタイプではないよ。特に引き継ぐことも……このチェックリスト以上のことはなかったのだろう?」
「いえ、本当に失礼しました。小官としたことが……」
「うん、まぁ、確かに貴官にしては珍しい。だが、咎め立てする程のことでもない……。それでそれは一体何なのだ? 見たところ、何かの小冊子のようだが……」
「あぁ、そうですね。艦長はこちら側ではありませんからね。ご存知ないのも致し方ないかと……」
「? 何か、気の毒がっている風なもの云いだな? 却って、気になるではないか」
「はぁ、そう捉えられたのであれば、それは小官の不徳の致すところ、と云うヤツですね。まぁ、隠し立てするようなシロモノでもありませんし」
「雑誌の類……ではないな……。いや、待て、この手の表紙の本は昔、どこかで観た記憶があるぞ? あ、あれは彼女の部屋の本棚……」
「は?」
「い、いや! 何でもない……。こちらの話しだ……。で? これはいったい何なのだ?」
「《薄い本》です」
「うん。それは見れば判る。多分、三〇、いや二〇頁もなかろう?」
「あ、いえ。見てくれの話ではなく、こういった類の本の総称が《薄い本》でして……。頁数が何百頁であろうとも、《薄い本》は《薄い本》なのです」
「???ますます判らんな??? 少し見せて貰っても構わないかね?」
「小官は構いませんが……。むしろ、艦長の方が構われるかも……です。読んでも怒らないでくださいよ? ……と云うのが、小官の偽らざる今の心境であります……」
「ますます気になるな……。あぁ、済まんな……。どれ、ん? な! 何だ? この表紙は?」
「この本の主役です……。それが何か?」
「あぁ……。その何だ……。少し自意識過剰と誤解されても困るのだが……。これはもしかして私か?」
「もしかしなくても艦長です」
「そ、そうか……。だが……す、少し美形すぎやしないか?」
「ご謙遜を……。無論、絵師の内なる心のフィルターを通したお姿ではありますが……。さすがは公団で三番目の美系艦長と謳われているだけはあります。副長の小官から申し上げるのも些か僭越と云うか身内贔屓かとは思いますが……。なかなかに、いつもの艦長のこうシュッとした格好良い感じが出ていると思います」
「そ、そうかね?」
「はい。萌えます」
「ん? なにが燃えるって?」
「お気になさらずに、さ、どうぞ遠慮なさらずに中身もズイッとイッちゃってください。はい、是非とも艦長自らのお手で……」
「……? ん? 《楽園銀河-総受け本-》……。私は何かウケるようなことでもしたか?」
「あぁ……。これは何ですか? 何かのご褒美ですか? よもや小官の目の前で、艦長自らがこの《薄い本》の頁をめくる様を拝める日が来ようとは……。もう、このシチュだけで何杯でもおかわり出来ます。あ、ささ、小官のことなどお気になさらずに、どうぞ先へお進みください……」
「ん……。んんん!!!???」
「くうう。その食い入るように自身の写し絵を見つめ、時として顔を近づけて、絵の細部に宿る紙とインクの甘やかな匂いを存分に鼻腔へと吸い込むさま……。小官は、今ほどこの艦の副長に着任して本当に良かったと心底思えたことはありませんと、何やら感慨深いものが胸の奥から込み上げてまいります」
「……あぁ、副長。その頬を紅潮させて、感情を昂らせている時に申し訳ないのだが……」
「はい……。トイレですか? ティッシュですか? 催されましたか? 小官のでよければ、使われますか?」
「何をだ? いや、ティッシュよりはファスナー付きの袋だ……。今の私は、この胸の奥から込み上げてくる酸っぱいものの方をどうにかしたくなって来ている」
「おや? お気に召しませんでしたか?」
「副長、私は今、心底、残念がる人間の表情と云うものを生まれて初めて見た気がするよ。あ、いや、無論、人には様々な性癖があることは承知しているし、理解したいとも思っている。そして、そこに〝違〟と叫ぶつもりもない。ないのだが、逆に、どうもこの《薄い本》とやらは私の共感対象、いや、性癖には向いていないようだ……」
「そうですか……。先任次席……いえ、新任の群副司令などは、自分ごときのヘタレ責めとお粗末なモノでは、彼は物足りないだろうに……とある意味、とても喜んでおられましたが……」
「そうか……。この私がモデルと云う主役が、文字通り、何やら悩ましげな視線と生物学的な部位を絡ませている彼は群副司令だったか……」
「……だけではありませんがね。絡ませているどころか、一部は繋がってますし。あとお相手は今の群副司令だけじゃありませんから。何せ、《総受け》なので」
「副長……」
「はい? 何でしょうか? 艦長……」
「そろそろ、ツッコンでも構わんかね?」
「え? 艦長は受けですよ? 突っ込まれてナンボのキャラと云うのは確定事項です、お約束ですよ?」
「うん……。そう云う物理的に突っ込むと云う意味ではなくてだな……」
「あ、その判ってないのにツッコミ入れたら逆に〝何か〟を突っ込まれた的な! うん。ベタではありますが良さげですね。なるほど、次の新作のネタに使わせていただいても構いませんでしょうか?」
「次? 次の新作と云ったか? 貴官は???」
「はい。申し上げました。実は締め切りが迫ってまして……。それで、つい、ブリッジで読み耽ってしまった次第で」
「次があるのか? この本は?」
「次と云うか、前もあります。と云うか、需要があるシリーズですから……」
「需要……」
「実際、副司令などは先任の次席幕僚時代からなんだかんだ云って、新作が出る度に、小官たちのサークルに顔を出されて同じ本を四冊は買って行かれますし」
「同じ本を四冊……」
「はい。布教用、保管用、観賞用、実用の四冊です。これも大きなお友だちのお約束ですね」
「……私は今、何か自分で立ち入ってはいけないエリアに片足を突っ込んでしまったのか?」
「そんな大袈裟な話ではなかろうかと。だいいち、小官などからすれば、むしろ、艦長に、ここ迄、免疫がなかったことの方が意外でした」
「むぅ。世の中にはまだまだ私の知らない世界があるのだな……。それに比べれば、ケズレヴでの一件など些細なことのように思えて来た」
「まぁ、こうして無事に帰還光路に乗りましたし……。その意味でも、今度の新刊は盛大にやろうと云う話になりまして」
「あぁ、そうだった。この本は、その新作だか新刊だか知らんが、あれだ? この本は普通に流通しているものなのか?」
「まさか」
「そうか」
「はい。こんなの商業誌でやったらエラいコトですよ、大問題ですよ、警務隊生活安全課が来ちゃいますよ」
「おい、待て……」
「まぁ、うちはトップがトップなので、警務隊とは話しがついてますけどね」
「それ、群司令部的にはどうなんだ?」
「あれ? 本当にご存知ないのですか?」
「何をだ? ん? 奥付? いや知らん……。一番最後の頁だと???」
「はい、ウチの責任編集者は群旗艦艦長ですので」
「あぁ、そうか。保安司令部分遣隊の事実上の統括責任者か……」
「ウチは、あ、こっちの船の方のウチと云う意味ですが……。ウチみたいな哨戒艦クラスだと警務隊も群旗艦分駐所のさらに分所で、そもそも常駐員がいませんからね」
「幸いにして、あそこの世話になるような事態も起こってはいないし、私が艦長である限りは起こさせもせんがな」
「はい。印刷と製本はウチが担当ですから。お陰さまで警務隊に踏み込まれる下手を打たずに済んでおります」
「待て、待て……。副長、この本はもしかして非合法的な何かなのか?」
「非合法……ではありませんが、まぁ、多少、艦内の風紀と云う観点から見れば、グレイゾーンに懸かることも稀に……と云いますか……」
「副長……」
「いや、でもご安心を……。何かあっても、全て群旗艦艦長が責任を以って……」
「そうなのか?」
「はい。こう、ギュッとなかったことに……」
「副長……」
「はい。ですから、艦長もこの話のやばそうなトコは見なかった、訊かなかったと云う感じで……」
「……この本は艦長の権限でしばらく預かる……」
「はぁ……。あ、使うんですね?」
「済まん、意味が判らん……。私は辞書は使ったことはあるが、他の本で〝使う〟と云う用例は知らん」
「ほほぉ、艦長は辞書ですか、あれですか? 思春期の頃にそっと特定の単語を調べては、赤ペンでラインを引いて…的な??? イマドキだと逆にマニアックですね」
「あぁ。副長、そう云えば、この手の本は同じものを何冊かまとめて買うとか云ってたな?」
「はい、保存用、布教用、観賞用、実用ですか? あ、これは、小官の実用分ではないですから、安心してくださっても」
「そうか……。副長……」
「はい、艦長。何でしょうか?」
「直当番、ご苦労だった。少々遅くなったが、現時刻を以って艦の指揮は本官が引き継ぐ。次の非直明けまで待機せよ」
「は。現時刻を以って、直当番を艦長へ引き継ぎ、小官は非直に入ります。お疲れさまでした」
「だがその前に、自室から残りの本を全部持って来て、ここへ置いて行け……」
「え? さすがは公団で三番目にタフですね、まとめ読みして使われるんですか?」
「違う! 没収して全て無期限施錠保管だっ!」
「えぇぇぇぇぇぇ……」
「くれぐれも群旗艦艦長には泣きつくなよ? 今回ばかりは無駄な抵抗だからな?」
「えぇぇぇぇぇぇ……。あ、そう云うプレイですか? 艦長×艦長のWコンボですか??? あ、でも群旗艦艦長との絡みなら、ほら、こっちの頁に……」
「副長、妄想が逞しいな? え?」
「〝もうそう〟だけに藪を突きすぎたようでございます」
-Episode:2-
「お呼びでしょうか? 艦長……」
「あぁ、済まんな、副長。非直のプライベートな時間に」
「いえ。どの途、私も食事にしようかと思っておりましたので……。おや? 艦長はB定食ですか?」
「今日のA定食は宗教上の理由で食べられんからな」
「あぁ……。無宗教で何か済みません」
「いや、それは気にするな。私たち信仰のある者から見れば、無宗教者もある種の信仰者だ」
「……さすがは艦長。伊達に公団で三番目にジェントルと云われてませんね」
「……もうその云い方はやめてくれないか? だいたい、三大ナントカの類だと三番目は、ほぼほぼ十人十色、人によってまちまちなものだ、それこそ鰯の頭も何とやらだよ」
「それで? 私をお呼びになったのは信仰に関するご質問のためですか?」
「無論、違う。いや、ある意味、そうかも知れん……。正直、私の心のうちでは、今まさに何かが揺らぎつつあるからな」
「意味深ですね」
「逆に貴官、いや今は非直だから、君で良いか? とにかく君にしか訊けそうもない質問だからな」
「伺いましょう」
「……これのことだ」
「あぁ、《群旗艦艦長実用写真集》ですか」
「正直、先日のアレよりどうして良いか、扱いに困っている」
「使い方ですか?」
「違うっ!……あ、済まん。いや、みんなも気にしないでくれ。私と副長のプライベートな話しだ」
「意味深にとられますよ?」
「あ、そう、そうか???どうも私は君たちへの配慮が足りないようだ」
「いえ、お気になさらずに。いつも艦長にはお世話になっておりますし」
「……それ、言葉通りの意味だよな?」
「はい。言葉通りです、額面通りです。利子までいただいて裏表満遍なく……」
「……。まぁ、良い。とにかく今はこの本だ」
「なかなか映えますよね。群旗艦艦長」
「う、うん。まぁ、それは何歩か譲って認めるが……」
「眼が泳いでますね。ひょっとしてこの本にドキがムネムネですか? ドキ!マサムネですか?」
「誰なんだ? それは? まぁ、おそらく君の考えている意味とは別の意味でな。と云うか、君はそう云う妙に独特な語彙を何処で憶えてくるのだ?」
「ウチウチの集まりですね」
「例のサークルとか云う奴か?」
「ですです。特に移住者母艦群司令の特任宙佐からは教わることが非常に多いです。伊達に歳は食ってないですね、あの婆さん」
「おい…。仮にも特任宙佐に対してだなぁ……」
「あぁ、でも。特佐の方がこうしたざっくばらんなやりとりを望んでおられるものですから」
「そうなのか? ん? そんなに特佐と仲が良いなら例の宴会だって問題なかろうに?」
「いえ、公と私は別ですから。あの宴会は公の場ですし」
「うん……まぁ、特任宙佐の話は良いんだ、今はこっちだ」
「この本が何か? やはり実用と云うタイトルが気になるとか?」
「気になるのはむしろこの本の責任編集者だ」
「あ、奥さま……」
「だから、まだ違うと云っているだろう???」
「まだ?」
「……ま、そこはいつも通り流せ」
「はい」
「これは、この本も、もしかして群旗艦艦長自らが仕切っているのか?」
「はい」
「自分でモデルも?」
「はい。それはもうノリノリで」
「ノリノリ……」
「基本、自撮りですし……」
「こ、こんなあられもない一糸纏わぬ姿でか!?」
「いえ、纏ってますよ。アングルの関係で、単に写ってないだけで」
「! そ、そうなのか???まぁ、それなら良いんだ……。いや、良くないような???」
「これなんかも、ちゃんとメガネと黒タイツは身に着けてますし」
「おい、待て……。こっちの写真、これはそのメガネと…タイツしか身に着けていないのか?」
「黒タイツです。色は重要ですよ? あぁ、肌色原理主義者ですか? 差別は良くないですよ? え? そう云うセンシティブな話題は避けろ? そうですか。まぁ、とにかく初めはダメだろ? と云う話だったんですが……。小道具提供者から、そっちの方がダメだろとクレームが入りまして」
「提供者……。あ、このメガネ、何処かで見憶えがあると思ったら……」
「見憶えも何も……。半径十光年以内でガチでメガネ着けてるレアなメガネっ娘はひとりだけですし」
「そうだな。訊くところによるとあのメガネは大変な値打ちものらしいが。そんな貴重なモノをよく貸して貰えたな」
「同じ《壁》のよしみですね」
「壁?」
「ウチと彼女、CICセンター長のところは大手ですから。もっぱら壁サークルとしてイベントの方も協同で仕切ってますんで」
「済まん、ちょっと何を云ってるのか判らん」
「まぁ、とにかく〝眼鏡っ娘∞潤嬢〟さんとしてはメガネでイきたいなら、黒タイツはデフォだろ?と……」
「デフォ……なのか?」
「デフォです」
「……参考までに訊いても良いか? これ、タイツの下には履いてるんだよな? その……」
「黒タイツです。何をバカなことを訊いてるんですか?」
「……だよな」
「黒タイツの下に何かを履くなんてっ!! そんなぶち壊しなコトをかの群旗艦艦長がする訳がないじゃないですか?」
「……!!!」
「そんなわちゃわちゃ狼狽えるほどのことですか? 良い大人が……???」
「むしろ良い大人だから狼狽えてるんだがな」
「艦長……。この際だからこちらからもお尋ねしますが……」
「な、何だ、急に改まって???」
「艦長はよもや常識と良識は同義だと思っておられませんか?」
「……。違うのか?」
「全っ! …………然っ……!違いますっ!」
「そこまで全力で否定されるレベルでか?」
「例えば……。このA定食に入っているピーマンですが」
「うん」
「艦長はこれが入っている為にA定食を食べないのですよね?」
「そうだな。私の信仰ではピーマンを食べるのは良くないこととされているからな」
「本当ですか?」
「え?」
「艦長は、このピーマンの眼を真っ直ぐ見て、本当にそう云い切れますか?」
「ピーマンに眼があったとは初耳だ」
「奇遇ですね。私もです」
「おいこら」
「駄菓子菓子っ!!!!!! 私は知っているのです!!!!」
「え?」
「艦長がピーマンを食べない本当の理由をっ!!!」
「え?え?何で? 何を知っている? あ、群旗艦艦長のタレコミか!!??」
「え? 幼児期にピーマンに襲われて噛みつかれたからですよね?」
「おいこら」
「嘘です」
「副長……。非番の時は容赦ないな?」
「とにかく私の時間に公は持ち込まない。それが公団訓練校の教えですから」
「まぁ、先日は公の時間に私を持ち込んでいたがな……」
「ですから、あれは謝ったではありませんか?」
「で? 君は本当に知っているのか? 私がピーマンを食べない理由を?」
「はい。ご推察の通り、群旗艦艦長からお訊きしました。あ、旨いですよ、今日の水耕ピーマン二号」
「そうか。で? 彼女は何と云っていた」
「惚気られちゃいました。寝室ではあんなにご立派さまなのに、食堂ではまるでお仔さまだと」
「君は、今、さり気なく踏み込んではいけないエリアに片足突っ込んでるぞ?」
「寝室の方ですか? 食堂の方ですか?」
「どっちもだ、と云いたいところだが、話の流れとして食堂の方は看過しよう」
「そうですか。寝室ではあんなに美味しく自分をいただく癖に、食堂ではピーマンは苦くて美味しくないから嫌いだ、と駄々っ子のようにムズがるところが、何ともまた可愛いのだともおっしゃってましたね」
「っ!!!!」
「あと、ピーマンが先で信仰は後だとも……」
「わぁぁぁっ!!!!わぁぁぁぁっ!!!!あぁぁぁぁっ!!!!」
「よく見つけましたよね? ピーマンを禁忌とする宗教なんて」
「聴こえないっ!! 聴こえないなぁっと!!」
「でも私も同意です」
「? なにをだ? どっちにだ? どれの話だ?」
「丸っと全部です。萌え萌えキュン♡ですね。ですから……」
「っ!!やめろっ!!何となく察したからそれ以上は云うなっ!!」
「残りのピーマンは今夜のおかずにして美味しくいただきとう存じます」
-2022.01.09. update-
巻末附録
-あまり役に立たない人名・用語辞典-
《あ》
あいんしゅたいん・の・のろ・い【アインシュタインの呪い】
本篇の物語世界において、さまざまな制約、その他を強制する最大級の呪い。
光速にまつわる諸々の物理現象、質量の増大、加速限界、時間遅行などなどを引き起こし、しばしば登場人物たちを悩ませたり、悩ませなかったり。
しかし、本篇における最大の呪いは、《アインシュタイン》と云う人物名が、ただひとりの固有の人物をただの先入観によって、読者に想起させると云うものだったりする。
筆者は《彼のこと》を指すとは一言たりとも明記してはいないし、本篇中には《彼》にまつわる専門用語もほぼ出てきてはいないのだった。
《う》
うちゅう・かいはつ・じぎょう・こうだん【宇宙開発事業公団】
《英:Space Development Public Corporation-SDPC-》
人類が地球近傍宙域をうろうろしていた頃からある宇宙開発の老舗。
その前身は国際協力組織の一部局と云うのはこの手の話のお約束。
公団と名乗りながら何に対する公なのか、を詳らかにする構想は目下のところは筆者にはない。
本篇で語られる物語の都合上、軍隊的な描写が多いが、実際は、背広組(管理部門)、制服組(実務部門)、白衣組(研究部門)に組織は分かれている。
他の同様な団体、組織に比べればマシだが、それでも巨大な集団なので、その枝葉末節に至るまで説明するとキリはない。
本篇中で《公団本部》と表現される部門はもっぱら制服組のトップ《幕僚総監部》を指す。
光宙艦群のみならず惑星往還を主とする航宙艦、それに関連する諸々の施設の管理、運用を担うのが制服組であり、公団全体の経営、自治権委譲までの居留地経営、対外折衝(営業活動、政治工作とか諸々)や新規事業の受注・下請け発注などは、もっぱら背広組が行う。
本篇に登場したE・カートライト第一事業本部長は、登場人物のうちでは数少ない背広組であり、ジョセフ・アサクラ一等宙佐は、制服組を退役後に背広組に転籍する構図になる。
なお、白衣組は純粋な研究部門で、役に立つのか立たないのか判らない研究がもっぱらで、そこでの成果を事業に結びつけようと四苦八苦しているのは、制服組に属する《技術本部》である。
制服組の組織詳細は《幕僚総監部》を参照のこと。
———・こうちゅう・くんれん・がっこう
【宇宙開発事業公団・航宙訓練学校】
宇宙開発事業公団が管理、運営する職業訓練学校。
実年齢十六歳以上であれば、特に受験資格は問わない。
受験に際しては、一般教養、学科、実技試験があるが、これは受験者をふるいにかけるためのもので、本当の地獄は入学してからである。
基礎訓練課程三年、高等訓練課程二年の五年制。基礎訓練課程修了で公団認定の航宙士資格を、高等訓練課程終了で航宙曹資格を得られる。
基礎訓練課程を以って、公団の一般航務員試験に合格すれば、晴れて二等宙士(いちばん下っ端)として公団に就職出来るし、一応、公的な資格扱いなので、一般航宙士として他の企業、団体、軍隊などにも就業は可能。
二種類ある奨学生制度のうち給付型を選択した場合は、少数の例外を除いて、ほぼ公団への就業は義務となる。
とは云え、就職率はほぼ百%なうえに、もうひとつの貸付型を選択した場合でも、その返済を考えると、高収入が見込める一般航宙士としてそのまま公団に入った方が有利とされている。
これらのさり気ない《公団の縛り》は、学生たちには発案者の名前をモジって《トラバーユ法》と揶揄されている。
複数の専科を含む高等訓練過程を修了すると、三等宙曹(下っ端下士官)として現場へ出るか、航宙士官を養成する大学校への受験資格を得ることが出来る。
———・こうちゅう・くんれん・だいがっこう
【宇宙開発事業公団・航宙訓練大学校】
訓練学校同様に宇宙開発公団が管理、運営する職業訓練学校の高等教育機関。
軍隊で云うところの士官学校にあたるが、受験資格は公団の航宙曹資格者の他に、一般の高等、大学教育課程修了者、それぞれからの受け入れ枠もある。
訓練学校同様に、受験試験は一般教養、学科、実技となっているが、ある年次以降、一般常識も問うべきではないかとの声が囁かれた。
教養、実技課程二年、幹部教育課程二年、演習課程三年の七年制だが、全課程を修了しないと航宙士官(三等宙尉)資格は得られない。
なお、入学と合わせて士官候補生(航宙准尉)として公団から給与が支給されるうえ、学費と生活費は全額公団負担となる。
従って訓練校とは違い《トラバーユ法》以上の縛りで、全課程修了後は、航宙士官として公団入りすることが義務付けられている。
なお、航宙尉官として五年以上勤務し一等宙尉まで昇進すると、佐官資格(丙種三等宙佐)を得るための上級幹部教育課程(二年)の受験資格も得られる。
地球圏には本校(訓練校に隣接)の他、《南極学校》と呼ばれる人類到達不能極演習場など、多くの附属施設を持ち、光宙訓練艦などの管理、運用も行っている。
地球圏外、太陽系外にも分校設備はあるが、それ程、規模は大きくない。
《か》
かに・ざ・55・ばん・せい・Ae【かに座五十五番星Ae】
光世紀カタログコード:LCC 5400Ae
惑星固有名:キャンサーE(自称)
《同宙域移住事業(第三次スコーププロジェクト-Space Co-op project 3rd-)》について。
昔々、まだ恒星間往還事業が乗るかそるかの大博打だったころのお話し。
第一次、第二次と太陽系近傍恒星域への往還事業を成功させた人類外宇宙生活協同組合(Co-op)は、勢いと調子と頭に乗って、第三次計画は〝もっと遠くへ〟をスローガンに、地球から約四十光年先のかに座五十五番星Aの第一惑星〝かに座五十五番星Ae〟を目的地と定め、その事業を推し進めた。
この頃は、まだ諸々のノウハウやら関連法やらの整備がモヤモヤしていたため、このような暴挙も行われていたのだった。
むしろ、その結果からノウハウを得ようとしたきらいすらある。
夢と希望と浪漫の代替品とばかりに、荷物と推進剤と移住者を詰めるだけ詰めて、第三次スコーププロジェクトの恒星系移住船〝太陽の女王号〟は、太陽系を後にした。
往還ではない片道切符だったが、まだ当事者たちは移住者込みでそこまでは気にしていなかったのである。
が、太陽の女王号は、太陽系を後にしたっきり、待てど暮らせど、何の音沙汰もないまま、歴史だけがひとりで未来へと歩を進め、半世紀を経てもなお、その消息は杳として知れない。
目的地へ着いたのか?
まだ旅の途中なのか?
はたまた、力尽きたのか?
この時点では、LCC 5400Aeは孤立した星域であり、最寄りに他の人類居留星域がある訳ではなかった。
現実には、人類の確固たる生活圏はいまだ太陽を起点とした半径十光年を越えた先にはなかったのである。
太陽の女王号の一件が、ありがちな解決手段として〝なかったこと〟にされようとしていた矢先、ある恒星圏自治政府軍の超々長距離航試光宙艦〝ほぼぶらじる〟が、僚艦〝かりふらわぁ〟と共に、かに座五十五番星A星域へと到達した。
そして、見つけちゃったのである。
太陽の女王号の残骸と生き残った移住者の子孫たちを……。
実に彼の船が太陽系を進発して一世紀が過ぎた頃であった。
もちろん、このニュースは光世紀世界を駆け巡ったが、光速限界があるので、これが太陽系、地球へ届いたのは、更に半世紀後のことであった。
しかし、その後の展開は、流石に正味、一年以内に諸々が収斂され、すぐに折り返し、かに座五十五番星Aへと向かったのだった。
が、これも当然ながら、さらに半世紀の刻が掛かり、折り返し一世紀の時間は、完全に五十五番星AeあらためキャンサーEの人々が地元で好き勝手なことをやるには十分な猶予を与えた。
こうしてキャンサーEは独自の文化圏を築き、独自の仕様で、同胞たる人類たちの許で再デビューを果たしたのだった。
この事件を契機に、勢い余って藁の代わりにスカを掴んだCo-opは、虎の尾を踏んで脱落し、他の公団のライバルたちは同じ轍を踏む危険から二の足を踏み、かくして〝割とちゃんとしてる〟公団の事業が徐々に拡大し、今に至るのであった。
なお、キャンサーE自治政府指定永久保存文化財たる太陽の女王号は、今は〝太陽乃塔〟の愛称で親しまれ、キャンサーE首都近郊の新興住宅地に立っている。
かんせい・しき・しょ【管制指揮所】
《英:Control Information Center -CIC-》
《群司令部》が脳であれば、その目であり耳であり心臓部でもある部署。
本篇の《CIC》には、さらに手となり足となる《機動観測班-MOT-》が試験的に配置された。
《群司令部次席幕僚》がセンター長を兼務し、航法士《アヴィエイター》と云う専任担当官で構成されている。
その業務は多岐に渡り、恐らくは本篇中で一番働いている部署でありながら、その具体的な描写は殆どないと云う縁の下の力持ち的存在。
《光宙艦群》の中でも最高機密扱いの部署のため、《航宙部航務員》は《群旗艦艦長》と云えども、《群司令》の許可なく立入は出来ないし、滅多に許可はおりない。
そもそも《群司令》本人さえも部下のセンター長の同意と同行がなければ立ち入れない。
なお、《CIC》内は飲食厳禁であるが、一部の《航務員》たちは、きっと中で、こっそり美味しいものを食べていると疑っている。
《き》
きどう・かんそく・はん【機動観測班】
《英:Mobile Observation Team-MOT-》
本篇中でほぼほぼ説明しているので、追加情報はあまりない。
《空間高機動モジュール-シュピーゲル一七-》に乗り込み、《シルバースター》の誇りも高く、宇宙へ飛び出すのが仕事。
《シュピーゲル一七》は、三機に分離・合体する仕様の上、《光宙艦》からの射出軌道要素が他の艦載機よりも特殊なため、専用の射出機と格納庫、並びに専従整備班(機付き整備員)が用意されている。
全くの蛇足だが、現実世界の某気象庁に同名のチームがある。(ネタ元とも)
ぎゃく・ぽーらんど・きほう・たくじょう・りょうし・えんざん・き
【逆ポーランド記法卓上量子演算機】
物語世界の現代では、骨董品扱いの〝電卓〟的な計算機。
HP社製。
きゃぶ【キャブ】
《英:Cab》
公団で広く用いられている汎用型有人光速連絡艇。
本篇中に登場するのは、百二十五式有人複座光速連絡艇で、他に八〇式有人複座艇と五〇式有人単座艇がある。
何が百二十五式で、八〇式で、五〇式なのかは不明。
《スーパー・キャブ》とは《自称、事務屋の親爺》が勝手にそう呼んでいるだけで、似たような名前の何かとは綴りも違うし、諸々違う。
《く》
ぐりーぜ・581・ほうめん・だい・ご・じ・はけん・こうちゅうかん・ぐん
【グリーゼ五八一方面第五次派遣光宙艦群】
制式記録名:05DLSSS-LCC1050
《英:05th Dispatched Light Speed Ship Squadron-Light Century Catalogue 1050》
ぐん・しれい・ぶ【群司令部】
《英:Group Headquarters -G.H.Q.-》
恒星間往還事業を行う《派遣光宙艦群》内に設置される謂わば前線司令部。
事業規模にもよるが、本篇に登場する第五次ケズレヴ往還群司令部は、小規模編成のため、群旗艦の《ウラヌス級光宙艦コーデリア〇一》のブリッジ内にブリーフィングスペースを間借りするかたちを採っている。
より大規模な編成の場合は、ブリッジとは別室に専用スペースを置く。
群司令《宙将補》、群副司令兼首席幕僚《一等宙佐》、次席幕僚二名《二等宙佐》(それぞれ光宙艦群運航担当、情報解析担当)が群司令部首脳部となり、配下に《管制指揮所-Control Information Center-》を置き、《光宙艦群》を構成する各光宙艦、その他、連絡艇などの管制指揮の他、光路上の宙域観測、情報解析などを担う。
また、そうした情報などをもとに光宙艦群全体の運用(光程、編成、補給、各スケジュール管理)に責を負う。
《CIC》は、それなりに大所帯なので、群司令部とは別に、艦内の専用区画に設置されている。
また群司令部関連の事務や連絡業務を行う部署は、それぞれの担当官が光宙艦内の航宙部各科事務室などに、やはり間借りするかたちで席を置いている。
本篇中の群司令部には新たにCIC直轄の《機動観測班-MOT-》が設定されたため、別にMOT運用チーム(実務担当チーム四名、専従整備班四名)が置かれ、専用機射出格納庫並びに整備用格納庫、並びに要員待機室が別途用意された。
《け》
けいむ・たい【警務隊】
《保安司令部・分遣隊》を参照のこと。
けずれゔ【ケズレヴ】
《英:Kezlev》
グリーゼ近傍恒星カタログ番号:グリーゼ五八一c
光世紀カタログコード:LCC1050c
太陽系から約二十.五光年離れた赤色矮星グリーゼ五八一の第三惑星。
現実世界においては、初めてハビタブルゾーン内で発見された地球型惑星として有名。ただ、現在では潮汐固定と云う特異な自転と公転の同期現象が観測されており、その居住性の可否そのものは危ぶまれている。
だが、それでも尚、本篇ではここを目指しているのだった。
ケズレヴは、本篇にある通り、有人光宙往還計画が実行に移された時点でつけられた惑星固有名で、現実世界での二〇〇八年にウクライナ国家宇宙局が運営する電波望遠鏡からこのグリーゼ五八一cに向けてメッセージが発信された故事に由来し、その電波望遠鏡がある都市イェウバトーリアの古名にちなんでいる。
語源となったハザール語Güzliev (美しい家)のクリミア・タタール語読みがケズレヴ(Kezlev)である。
特に物語には関係ないが、イェウバトーリアはクリミア半島にあり、本篇執筆時は、ウクライナではなく、ロシアが実効支配している街でもある。
無論、深読みして貰って構わない。
《こ》
こう・せいき・せかい【光世紀世界】
《英:Light Century World》
《太陽圏-Sol sphere-》(地球がその周りを廻っている太陽を中心とする、太陽系)を中心とする半径五十光年(直径百光年 = 一光世紀)の宇宙空間。
用語としては、石原藤夫《いしはら ふじお、一九三三年〈昭和八年〉四月一日〜)、日本の小説家、SF作家、サイエンス・ライター、SF書誌研究家、通信工学者(工学博士)》氏が、ハードSFの舞台などといった考察などのため、一九七〇年代後半から八○年代に掛けて提案したもの。
本篇冒頭で挙げている提唱者とは、当然ながら同氏のことである。
使っていいなら使おうと安易に手を出してはみたものの、今のところ、まるで使い切れてはいない。
《グリーゼ五八一》を指す《LCC1050》は、光世紀カタログでの公式名称《Light Century Catalogue 1050》である。
こうだん【公団】
《宇宙開発事業公団》を参照のこと
こうだん・くんれん・こう【公団訓練校】
《宇宙開発事業公団・航宙訓練学校》を参照のこと。
こうだん・ほんぶ【公団本部】
本篇では《幕僚総監部》の通称。
詳細は当該項目を参照のこと。
こうちゅう・かん【光宙艦】
《英:Light Speed Ship》
本篇世界での恒星間航行用宇宙船の通称。
本篇でも触れているが、有人による実用航行速度は、光速度の九十九.九九九九%が最大値で、物語開始時点ではこれ以上の速度には、有人艦は到達出来ていない。
なので、正確には亜光速航行宇宙船である。
この物語世界の光宙艦は、《アインシュタインの呪い》によって、以下の制約を受けている。
光速に近づくほどに船内時間の遅行現象が発生。
概ね地球での経過時間の約〇.四倍から〇.一倍(二十光年先へ到達する間の船内時間は単純計算では約二年になる)となる。
実際には凍眠システムも併用しているため、乗員の見た目の年齢はさらに若くなる。
最大光速度へ加速出来るのは恒星系外縁部を越えてから。
太陽系黄道面軌道では、カイパーベルトの先からが恒星間光路(光速度へ加速しても問題にならないルート)になる。
これは惑星、恒星系と光宙艦の相互で重力干渉が発生し、《とても不安定で危険な状態》になるため。
故に恒星系内は《光速度制限宙域》と設定されている。
そのため、光宙艦は《光速度制限宙域》外に達するまでは、《通常宇宙巡航速度》と呼ばれるアインシュタインがガミガミ云わない速度で飛行している。
その間は、乗員の多くは、当直を除いて、凍眠システムで寝ている。
もちろん、目的地の星系でも同様で、あらかじめ設定されている《光速度制限宙域》までには通常宇宙巡航速度まで減速しなければならない。
光宙艦乗りは、これを〝ハイウェイからインターを通って下道(したみち)へ降りる〟と表現する。
なお、恒星系外縁の《光速度制限宙域》には料金所こそないが《シェルター》と呼ばれる一時滞在・退避用の《ターミナル・ステーション》が、有人往還開始までに設置されている。
そして本篇にもあるように公団の光宙艦は《キャラバン方式》で運用されているので、加速と減速を繰り返したり、《中継ステーション》で寄り道したり、最短航路を直線的に進んでいる訳でもないので、単純計算では(色んな意味で)割り切れない。
こうちゅう・かん・ぐん【光宙艦群】
《英:Light Speed Ship Squadron》
公団の恒星間往還事業を担う実行部隊。
一般的には、複数の《光宙艦》で構成されているため《群》がつく。
他の組織では《光宙艦隊》などと呼ばれるが、公団では《キャラバン》と通称する。
特殊な編成でない限りは《群旗艦》を中枢とし、その目的に沿った光宙艦で構成されている。
本篇中の第五次ケズレヴ往還を担う光宙艦群は移住者輸送が主任務なので、《移住者母艦群》を主軸として、他の艦船を配置している。
各光宙艦の管理・運用は、《管制本部・航宙部》が担っており、艦長をトップに操舵科、需品科、衛生科などが置かれており、群旗艦艦長を首座とする艦長グループ《艦長会議(仮)》が全ての責任を以って、実務にあたっている。
《群司令部》が往還事業計画全体に責を負う点からみれば、少し職制と職分、職責が違う。
なお、《群司令部》は《管制本部・司令部》に属しており、指揮系統上は上位にあるが、組織としては《航宙部》とは別になる。
この他、長期光宙往還の場合は、保安・警備任務を主とした《保安司令部・分遣隊》が《警務隊》として乗り組む場合がある。
こうした経緯から混乱を避けるために《航宙部》と《司令部》では同じ階級でも《階級章》の意匠が違っている。
こうちゅう・し【航宙士】
本篇中では、特に明記がない場合は、公団に属する宇宙飛行士を指す。
本項では《航宙士》、《航宙曹》、《航宙士官》などについても記す。
別表の通り、公団に所属する航宙士は階級社会を構成する単位でもある。
おそらくは何処かの国のそんなような組織に似たような階級で分けられた団体・組織があるが、それは《作為に満ちた偶然と必然の結果》である……。
公団の航宙士は《訓練校》の《航宙学生》から始まり、最高位は《宙将》であがりとなる。
《訓練校》の基礎訓練課程修了を以って、《二等宙士》となり《宙士長》までが《一般航宙士》、あるいは《一般航務員》と呼ばれる。
《航務員》と云う呼称は読んで字の如しだが、正式な呼称ではなく、あくまでも社会的な通称でしかない。
《訓練校》の項で記した《トラバーユ法》が適用されない場合、任期は二年でそれ以上は二年単位で更新される。
つまり最初の二年で公団を退職することは可能ではある。
ただ、その時点で乗艦する《光宙艦》なりが光程途上にある場合、離艦して退職することは九十九.九九九九%認められない。
もっともその分、退職金が割増されるので、表立って不満を云う者もあまりいない。
公団が割と給与や待遇で《航務員》を縛る、または囲い込む傾向にあるのは自明であろうか。
《宙士長》を二年務めると、軍隊で云う下士官にあたる(企業で云うと係長待遇から上)《航宙曹》への道が拓け、希望すれば《訓練校》へ編入し高等訓練課程を経て、《三等宙曹》として公団へ舞い戻ることになる。
《航宙曹》、《航宙士官》には任期と呼べるものはなく、ほぼほぼ公団への永久就職が確定となる。
《航宙曹》は最高位が《宙曹長》で、定年まで《宙曹長》と云うケースも珍しくはない。
但し、指揮官(航宙佐官以上)クラスの正式な推薦があれば、《航宙士官候補生》として、さらに上を目指すことは可能となっている。
そんな変態は滅多にいないが、皆無と云う訳でもない。
《航宙士官》は、《航宙尉官》、《航宙佐官》、《航宙将官》に分かれるが、職制、職責、職分、によっても道筋は分かれる。
公団の設立当初は、組織的な規模もそれ程大きくなかったため、士官待遇は《宙尉》、《宙佐》、《宙将》の三階級のみで事足りていたが、組織が拡大するにつれ、一等、二等、三等と分かれ、現在の階級で落ち着いた経緯がある。
基本、上に行くほど道が狭くなり、少数となるのは、どこの組織も同じだが、職制などなどの都合から、《航宙佐官》のみ、組織内ではさらに細分化されている。
《三等宙佐》は、対外的には《少佐》で括られるが、公団内、特に給与・待遇面などで《甲種》、《乙種》、《丙種》の三段階となっている。
特に明文化はされていないが、慣習として《一等宙尉》はいきなり《甲種三等宙佐》にはなれない。
但し、いわゆる《二階級特進》とされる制度が適用される場合、《丙種三等宙佐》も《甲種三等宙佐》も等しく《一等宙佐》へ昇進となる。
しかし、例えば《二等宙尉》が《二階級特進》して《三等宙佐》になっても、先の慣習に従い、待遇面では《丙種三等宙佐》扱いにされ、《二階級特進の格差》問題として、組合活動への参加が認められていない《航宙曹の労働者としての権利》とともに、しばしば公団内外で物議を醸している。
醸しているだけで、公団トップが特に歩み寄る姿勢を見せたことはない。
この他、《特任宙佐》と云う特別待遇もあるが、これについては特に明確な規定はなく、定年間近の《一等宙尉》に《特任宙佐》として最後のお勤めをさせて、退職金にイロをつけたり、もしくは制度上、存在しない《准将》、《代将》と云う階級の代わりに《一等宙佐》を《宙将補》に昇進させる前の暫定として留め置くかたちで任官させるケースもある。
この場合、外部組織、または内部から見る場合でも、当てられている職制を以ってその待遇を変える格好となる。
《航宙将官》は、《宙将補》、《宙将》の二階級のみで、最高位の《宙将》は軍で云えば《中将》にあたる。
《大将》がいないのは、制服組のトップである《幕僚総監》がそれにあたるからである。
そのため、《幕僚総監》を務める《宙将》が対外的には《大将》とみなされる。
また、《航宙士》から《航宙尉官》までが自由意志で公団を離れる場合は《退職》と云うかたちを取り、希望があれば《予備役》と云う制度に編入される。
《予備役》は、空きがあったらいつでも戻って良いよ、と云う制度であり、《航宙佐官》以上に適用される《退役》とはニュアンスが大きく異なる。
《退役》制度は、公団側の意向でいつでも復職させることが出来る制度で、召集される側には、特別な事情がない限り、拒否権はない。
但し、《航宙佐官》に昇進する段階で《承諾宣誓書》に署名を求められるので、自業自得、いや互いの了解事項ではある。
以下は各階級のカウンターパート(あるいは対外的な階級)と代表的な職制である。
正規(?)の軍事組織は公団の航宙士官制度について、総じて快く思ってはいないが、何しろ〝老舗としての信用と実績〟があるので、表面上は笑顔と握手で応じている。
※通常、佐官クラス以上の指揮官を高級士官と呼ぶが、本編世界では〝上級士官〟と作為的に云い換えているので留意されたし。
英語表記については(航宙部/司令部)の並びで表記。
必ずしも、その通りとは限らないが、参考として。
幕僚総監
(大将・General (Gen))※公団内の階級としては宙将
宙将
(中将・Vice Admiral (VADM)/Lieutenant General (LtGen))
管制本部長、群管総務、技術本部長など。
宙将補
(少将・Rear Admiral (RADM)/Major General (MajGen))
管制本部司令部長、同航宙部長、光宙艦群群司令、光宙艦群繋留廠司令など。
一等宙佐
(大佐・Captain (CAPT)/Colonel (Col))
光宙艦群群副司令、同首席幕僚、光宙艦群群旗艦艦長、群管総務部人事部統括官、訓練大学校長など。
二等宙佐
(中佐・Commander (CDR)/Lieutenant Colonel (LtCol))
光宙艦群次席幕僚、光宙艦艦長、群旗艦副長、CICセンター長(レンズマン-ファースト)など。
三等宙佐(甲種・丙種・乙種)
(少佐・Lieutenant Commander (LCDR)/Major (Maj))
光宙艦副長、機関長など。
特任宙佐
※職制に準ずる。
一等宙尉
(大尉・Lieutenant (LT)/Captain (Capt))
光宙艦兵科職掌長(主任操舵士-操舵科長-、甲板長、医務長-衛生科長-、需品科長など)、CIC主任航法士(レンズマン-セカンド)、MOTチームリーダー、訓練大学校教官など。
二等宙尉
(中尉・Lieutenant Junior Grade (LTJG)/First Lieutenant (1stLt))
光宙艦兵科職掌副長(副操舵士-操舵科長補佐-、通信長、甲板長補佐、衛生科看護士長、需品科司厨部長、同被服部長など)など。
三等宙尉
(少尉・Ensign (ENS)/Second Lieutenant (2ndLt))
CIC航法士(レンズマン-サード)など。
航宙准尉
(士官候補生または准尉・Warrant Officer (WO))
宙曹長
(曹長または上級曹長・Chief Petty Officer (CPO)/Senior Master Sergeant (SMSgt))
最先任上級宙曹長(※幕僚総監部特別職)、MOTサブリーダー、訓練学校教官など。
一等宙曹
(曹長または一等軍曹・Petty Officer 1st Class (PO-1)/Master Sergeant (MSgt))
光宙艦兵科職掌主任(機関室主任、群司令部主任事務官、光宙艦艦載機整備班統括班長)など。
二等宙曹
(軍曹または二等軍曹・Petty Officer 2nd Class (PO-2)/Technical Sergeant (TSgt))
三等宙曹
(伍長または兵長または三等軍曹・Petty Officer 3rd Class (PO-3)/Staff Sergeant (SSgt))
保安司令部分遣隊(警務隊)警務官正(巡査長)など。
宙士長
(上等兵・Leading Spaceman (LS)/Spaceman 1st Class (S1C))
光宙艦兵科直当番班長、MOT専属整備班長、保安司令部分遣隊(警務隊)警務官補(巡査)など。
一等宙士
(一等兵・Spaceman (SN))/Spaceman 2nd Class (S2C))
保安司令部分遣隊(警務隊)警務官補(巡査)など。
二等宙士
(二等兵・Spaceman Apprentice (SA)/Spaceman 3rd Class (S3C))
保安司令部分遣隊(警務隊)警務官補(巡査)、CIC航法士見習(レンズマン・チャイルド)など。
尚、《宙士長》以下の《一般航務員》で組織されている任意加入団体《公団航宙士労働組合-公航労-》があり、その組合長は組合員による自由投票選挙で選ばれるため、階級は考慮されない。
《し》
しゅゔぁるべ【シュヴァルべ】
《独:Schwalbe》※ツバメの意。
《光宙艦》の標準艦載機のうち、《航宙部》所属の無人光速連絡艇の愛称。
《アインシュタインの呪い》の関係で、《光宙艦》は光速度航行中は、相互の無線通信が困難となるため、無人連絡艇を飛ばし、意思疎通を図っている。
基本的には先行する艦から後方の艦へ渡っていくので、《ツバメ》の愛称がついた。
何故、ドイツ語なのかは不明だが、艦載機の殆どは、《MOT》の専用機までがドイツ語の愛称になっているので、何か理由はあるのだと思う。
なお、《航宙部》所属の有人光速連絡艇は《シュトルヒ-独:Storch(コウノトリ)-》だが、今のところ出番は割愛されている。
《す》
すい・こう・ピーマン・に・ごう【水耕ピーマン二号】
航程一年以上を費やす恒星間往還を行う光宙艦群では、兵站線維持を担う輸送船からの定期補給だけではなく、再生出来る資源は循環し、一部の食糧で自給出来るものは水耕、農耕プラントで生産し、賄っている。
殊に食料の自給生産は、小は航務員たち個々人の余暇を利用した趣味的な菜園から、兵站全てを担う需品科が取り仕切るプラント艦に至るまで、多種多様な品目を扱っている。
水耕ピーマン二号は、グリーゼ五八一方面第五次派遣光宙艦群のゾディアック級水耕プラント光宙艦ヴァルゴ一三で独自に品種改良されたもので、需品科種苗研究員が技術の粋を尽くした末に開発に成功したことから、〝技の二号〟とも呼ばれている。
ケズレヴの主星である赤色矮星(M型スペクトル標準星)下にあっても収穫量を見込めるようにと改良された関係で、太陽などの黄色矮星(G型恒星)の元では、殆ど収量を見込めない特殊環境向け農産物でもある。
のちにさらなる改良を加え、暴風大気圏(ダブルタイフーン)下でこそ著しい成長を遂げる《水耕ピーマンV3》が登場した。
二号とV3は、ケズレヴ居留地の水耕プラント群に引き継がれ、同地の特産品となる。
なお、水耕ピーマン二号には自我があり、眼も口もあり、時として人を襲う……と云うのは都市伝説に過ぎない。
《せ》
ぜろ・あわー【ゼロ・アワー】
《英:Zero hour》
艦内時間で午前零時を指す。
本篇中の表記は《〇〇〇〇》となるが、これは伏字ではなく、《マルマルマルマル》と読む。
日付が更新される時間であり、当直交代時間でもある。
平時は《ゼロ・アワー》から二十三時五十九分《二三五九-フタサンゴーキュー-》までが艦内時間の一日である。
緊急事態が発報されると《二四〇〇-フタヨンマルマル-》と表示が切り替わり、以降、《群司令部》がカウントを戻すまでは、延々と終わらない一日が続く。
時間表記の場合の数字の読み方を参考までに以下に示す。
《〇-マル-》
《一-ヒト-》※〝シチ〟と間違えないために〝イチ〟ではなく〝ヒト〟と発音。
《二-フタ-》※聴き取りづらいので〝ニ〟または〝ニー〟とは云わない。
《三-サン-》
《四-ヨン-》※聴き取りづらいので〝シ〟または〝シー〟とは云わない。
《五-ゴー-》※語尾は長音。
《六-ロク-》
《七-ナナ-》※〝イチ〟と間違えないために〝シチ〟ではなく〝ナナ〟と発音。
《八-ハチ-》
《九-キュー-》
なお、公団の公式な共通語は《イギリス式英語》なので各自脳内で適切なそれに変換されたし。
ぜん・てんきゅう・とうごう・がた・こうほう・せいぎょ・もじゅーる
【全天球統合型航法制御モジュール】
《英:Total Absolute Navigation Keeper-T.A.N.K.-》
これがあるために《CIC》は関係者以外立入禁止となっている。
それ以上のことは字面から推して知るべし。
《た》
たいよう・けい・へいわ・いじ・きこう・ぐん【太陽系平和維持機構軍】
組織改変のたびにコロコロ名称が変わることに定評があり、物語世界では比較的、公団とも仲良くしている軍事組織でもある。
両者の間では、人事交流や技術交流も行われており、《公団技術本部》と《同軍第四管区航宙技術試験団》は新型光宙艦に関する共同研究開発も行なっている。
現在は《太陽系監察連合統合宇宙軍》と云う名前に落ち着いているらしい。
なお、《第四管区航宙技術試験団》の拠点は《岐阜》。
だ・じゃれ【駄洒落】
本篇、スピンオフのみならず、この用語辞典に至るまで、駄洒落と語呂合わせのオンパレード(死語)であることは、本項までを読んでいる暇な……奇特な人には周知の事実と思う。
駄菓子菓子、敢えて弁明するならば、日本語に限らず、多くの言語は、そんな駄洒落と語呂合わせに満ち溢れている。
殊に日本語に至っては、縁起物、云い換え、などなどむしろ日常的に駄洒落と語呂合わせを回避する手段がない程である。
本作が日本語で書かれている以上、駄洒落と語呂合わせから逃れられないのは、そうした文化、風土に起因するのであった。
本篇執筆中、筆者は、自身の配偶者からも、この登場人物たちは〝何語〟で話しているのか、と何度も問われたが、そんなことは読んだ人が決めれば良いのであ……。
《は》
ばくりょう・そうかん・ぶ【幕僚総監部】
本篇中では《宇宙開発事業公団》の制服組の組織を指す。
軍隊とは似て非なる組織である公団では、他の軍事組織と同じ用語を用いながら、その意味合いが若干異なるケースは多々あり、本用語などはその典型とも云える。
公団の制服組トップは幕僚総監(軍で云えば参謀総長、艦政本部長など)で、公団実務にあたる部門はほぼ全てがその管理下に置かれている。
光宙艦などの管理・運用を統括する《管制本部》、総務・法務・人事部門を統括する《群管総務部》、実用的な開発・研究部門の《技術本部》などはここに属している。
《光宙艦群》は《管制本部》の指揮下にある。
《ひ》
ぴーまん・を・きんき・と・する・しゅうきょう【ピーマンを禁忌とする宗教】
たわむれにググってみたら〝ンゲルグリ教〟なる宗教が見つかったが、ネタなのかガチなのかは知らない。
ググった先の記事によれば、アフリカはカメルーンの一部地域に根付いた土着の宗教とのことで、ンガジ・ペポニの地元からもそんなには遠くないので、まぁ、おあつらえ向きではあるかと……。
ただ、果たして他部族の信仰を容認するような宗教なのかも、ようは知らん。
《ほ》
ほあん・しれい・ぶ・ぶんけん・たい【保安司令部・分遣隊】
《英:Security Headquarters of Astrophysical Dispatched Office-S.H.A.D.O.-》
公団内、特に派遣光宙艦群などでの保安・警備任務を行う部門。
いわゆる《警務隊》。
軍隊ではないので《Military Police》ではなく、《Compliance Keeper》、《Judgment》とも呼ばれている。
その任務の性質上、《航宙部》、《司令部》とは独立した組織であり、《管制本部》ではなく、《群管総務部》に属する。
但し、司法・保安警察行動に支障がない限り、その責任者は、《群旗艦艦長》が《保安司令部》によって任命される。
また、実務上の都合から、警務官正(巡査長)は《派遣光宙艦群》の航宙曹(通常は《三等宙曹》)、警務官補(巡査)は一般航宙士(通常は《二等宙士》)から、各艦の艦長と副長によって選抜されるため、事実上は《光宙艦群》に属する《航務員》による組織となる。
なお、その権限は公団に属するものに限定されており、同乗している移住者や、公団が運営する居留地などへの行政警察権はない。
まぁ、遺失物捜しくらいはしないでもない。
なお、その本部は地球圏大英帝国の首都ロンドン近郊のとある映画会社の地下にある…と云うのは都市伝説に過ぎない。
《め》
めいん・らんど【メインランド】
《英:Mainland》
広義では地球公転軌道全域を、狭義では地球近傍宙域(概ね月周回軌道まで)を指す。
一般的には《地球圏》と呼ばれている。
本篇でも触れているように、この物語世界では公式な人類統一政体は存在しないので、《地球圏》は《本土》程度の意味合いしか持たない。
が、《光世紀世界》は太陽を中心に置いて設定された世界なので、政治的な中枢ではないが、地理的には人類世界の中心である。
そのため、人類があまねく《光世紀世界》全体へ生活圏を広げたとしても、他の物語世界とは違って、忘れられたり、失われたりは、多分、しない。
とは云え、必ずしも地球を経由しなくても《光世紀世界》の恒星間を往還するルートはあるので、その立場が将来的にはどうなるかは誰も知らない。
本篇中では、もっぱら「これだから《メインランド》の人は……」的ニュアンスで使われている。
なお、公転軌道上、太陽をはさんで地球の反対側には《憎いアンティクトン-Antikhton-》と非公式な名称で呼ばれる何かがあって、《メインランド》には含まないことになっているが、本篇とは全く関係ない。
(不定期更新)
-2022.01.12.update-