近代漢字文化圏の話②「惑星」
さっそくですが、皆さんは英語「planet」に当たる概念を日本語訳すると何になると思いますか?
普通の人であれば、「惑星」と答えるのではないでしょうか。
私もそう思います。
さて、今日は「惑星」について近代漢字文化圏から見ていきます。
1.韓国語の「惑星」
先日、私は韓国人とボーカロイドの話をしました。
そこで出てきたのが「砂の惑星(※1)」。
(※1 人気ボーカロイド曲の題名)
さて、これを韓国語にしたときなんというのでしょうか。
どうやら「모래의 행성(ムレエ ヘンソン)」というらしいです。
「모래의(モレエ)」が「砂の」という意味で「행성(ヘンソン)」が「惑星」という意味です。
そう、「행성(ヘンソン)」というのが、『planet』を指す韓国語なんです。
そして「행성(ヘンソン)」は漢字に直せば「行星」です。
「行星」と書いて韓国では「행성(ヘンソン)」と読むんです。
韓国ではそういう漢字を使って『planet』を表すんですね。面白い。
ところで「惑星」も突き詰めれば天文学の学術用語です。
韓国ではこういった学術用語は基本的に日本からの影響が強いため日本と同じ漢字語を使っていることが多いのですが、『planet』のことは日本とは違い「行星」と言うのです。
別の漢字語を使うなんてなかなか珍しい。
この違いはどこから出てきたのでしょうか?
※なお一応「惑星」を韓国漢字音で読んだ「혹성(惑星/ホㇰソン)」という言葉もあり主に日本統治時代に使われたらしいですが、これは正式な天文学では使われず今では一般的でない言葉のようです。
2.では他の国は?
韓国で『planet』を「行星」と呼ぶことは分かりました。
では中国やベトナムといった他の漢字文化圏の諸国は『planet』をなんというのでしょうか。
調べてみました。
中国語でもやはり「行星(Xíngxīng)」。
ベトナム語でも「hành tinh(行星)」。
...。
『planet』を「惑星」と訳したのはどうやら日本だけのようです。
中韓越はみんな「行星」と呼ぶんですね。
日本だけ仲間外れ...。なんでなんでしょう?
3.行星の起源
そもそも「惑星」という言葉の起源について、この言葉を作ったのが日本人の本木良永であるのはよく知られています。
和桴掇甫刺捏夜天(ホーフトプラネーテン)と名づくる六星あり。和桴掇(ホーフト)といふを此に頭と正訳す。甫刺捏夜天(プラネーテン)といふは刺的印(ラテン)天学語なり。此の語、和蘭(オランダ)に読瓦而数得耳(ドワールステル)と通ず。惑星と訳す。『星術本原太陽窮理了解新制天地二球用法記 上巻(1792年)』
上記引用の通り江戸時代に本木良永が「惑星」という言葉を作りました。
では「行星」は誰が作った言葉なのでしょうか?
基本的に日本で使われないですから、もしかして中国で作られた単語でしょうか?
ところが実は「行星」の語は江戸時代慶応年間から既に日本でも使われていたのです。
例えば1867(慶応3)年、ヘボン氏による『和英語林集成(初版)』にもその語が見られます。
他にも「哲学」という漢字語を新たに作ったことで有名な西周も1870(明治3)年の著書『百学連環覚書』で「行星」の語を使用していますし、1886(明治19)年、中江兆民も『理学鉤玄』で「行星」を『planet』の意味で使っています。
こうして見ると「行星」の語もかつての日本ではまぁまぁ広く使われていたのです。
では結局「行星」は誰が作った言葉なのでしょうか?
荒川清秀氏によれば(※2)、中国の辞書『英華辞典(1848年)』に初出するとされていますが、私が軽く調べてみたところ、そのような記述は見つからなかったので真偽のほどは定かではありません。
(※2 『近代日中学術用語の形成と伝播ー地理用語を中心にー』による)
しかし、色々調べた結果、荒川清秀氏が言う1848年より前の1817年に「行星」の語が『planet』の意味で使用された形跡を発見しました。
その語を使用したのはロンドン宣教師協会から中国に派遣されたWilliam Miln。
彼が著書『察世俗每月統記傳』の中の『論行星』において「行星」という漢字語を使用したことが、『Memorials of Protestant Missionaries to the Chinese (Mission Press1867)』にも書かれていました。
これ以前の使用例は少なくとも私は発見できなかったので、これが「行星」の初出ではないかと思います。
ですから、私個人としてはイギリス人が中国で中国人向けに作った上記の書物が「行星」の起源であると考えます。
4.日本での淘汰
さて、西周なんかが使っていたと既に述べた通り、日本でも江戸から明治にかけて「行星」という言葉は使われていました。
実は明治初期の日本には『planet』という概念には「惑星」「行星」さらに他には「遊星」の訳語があったのです(遊星については面倒なので今回は割愛)。
しかし皆さんご存知の通り、結局は淘汰の末に「惑星」のみが現代日本語に残りました。
ではなぜ「行星」が日本では使われなくなったのか。
韓国のインターネット辞書では「日本語では“恒星”と“行星”が共に“コウセイ”と読まれるので混同を防ぐために使われなくなった」と説明していました。
なるほど、そう言われるとそうかもしれません。読み方が同じだと分かりづらいですもんね。
しかしそれは間違いだと私は考えます。
なぜなら1886(明治19)年の『和英語林集成』では「行星」を「ギョウセイ」と振り仮名が振られているからです。
「行星」を「ギョウセイ」と読むなら「恒星(コウセイ)」とは住み分けが出来ていますから発音が混同されることはありません。なのでこの説は却下です。
とすると、なぜ「行星」が使われなくなったのか..。
淘汰された理由ははっきりとはわかりませんが、推測するに、イギリス人が中国で作った「行星」より日本人が日本で作った「惑星」の方が好まれたのだけなのかもしれません。
あるいは字面が「惑星」の方がカッコいいからかもしれません。
そこの真相は謎のままです。
色々手を尽くして調べたのですが、結局はっきりしたことは分かりませんでした。
このことに関してはこれからも調べていこうと思います。
4.行星の広まり
こうしてイギリス人宣教師によって作られ、中国で広まり、日本でも江戸から明治に一部で使われた「行星」は現在中国、韓国、そしてベトナムで使われている現役の天文用語です。
もちろん発音はそれぞれ違い、
中国では「行星(xíng xīng) <シンシン>」
韓国では「行星(행성)<ヘンソン>」
そしてベトナムでは「行星(hành tinh)<ハンチン>」
と呼ばれています。
漢字文化圏の中で日本だけが「行星」ではなく「惑星」を使うなんて、なんだか面白いような残念なような..。