聖書に基いて節分・恵方巻きを解説
おはようございます。
本日は安息日(金曜日の日没から土曜日の日没まで)ですが、西暦では二千二十四年二月三日(土)の世間で言われる節分であり、恵方巻きを食べるという風習が日本には古くからあります。
皆様は節分や恵方巻きの由来について調べたことはありますか。今の時代探せばいくらでも情報が出てきます。何も調べず考えず、風習やからと今日は「豆まき用の豆を用意しなきゃ」、「恵方巻きを作るか買いに行かなきゃ」等と考えてませんか。それははっきり言って異教の文化であり、日本人は古代イスラエル人の末裔でもあるので周りがしているからと真似てする必要は一切ありません。日本人が古代イスラエル人の末裔についてはこちら(https://ameblo.jp/leo085/entry-12808060341.html)でブログ主のミカエル氏が詳しく動画で解説されています。
先ず、節分についてですが支那が発祥とされています。そして豆まき用の豆の作り方は、前日までに、炒った福豆を枡に入れ神棚に供えておく。神棚がない場合は、白い紙の上に福豆をのせ、目線の高いところに供えておけば問題ない。とされていて、そもそも神棚に供えた豆を鬼に扮した人間に投げつけたり、部屋の中やあちこちに投げつけることが正しいと思いますか。神棚に供えたものを投げつける行為は神が豆を清める役割程度だと冒涜していませんか。神を人間の勝手な都合に合わせて利用しようとする行為は、はっきり言って非常に罪深いことです。それは人間が神を造ったのではなく、天地創造の主なる神が人を創造されたからです。聖書にはこう書かれています。旧約聖書 創世記一章二十七節「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。」(新改訳2017)この秩序を守り、順番を逆にするのはやめましょう。そして、豆まきが終わり、厄除けと験担ぎをします。厄除けは「祈祷」、験担ぎは「物事の成功への祈り」になります。祈祷とは神や仏に願い事を祈ることです。神社や寺で神主や僧侶に祈ってもらったり、祈祷師に祈ってもらったりします。験担ぎの験は仏教用語で修行や祈祷の効果や効き目を意味します。このとおり、厄除け「祈祷」、験担ぎ「物事の成功への祈り」は聖書で禁じられている異教徒の習わしであり、偶像崇拝、偶像礼拝に当てはまります。旧約聖書 出エジプト記二十章三節〜五節「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならい。あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形を造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。」(新改訳2017)と書いてあります。節分を聖書に照らし合わせて考えてみると禁じられていると私は思いました。
また、恵方巻きについて諸説ありますが、発祥は大阪であるとされており由来は当時、大阪の船場に暮らす人々が花街の遊びとして芸子と巻き寿司を使った遊びをしていた。とされていて、花街の遊びというと聖書で禁止されているみだらな行ないや姦淫してはならないに当てはまります。旧約聖書 出エジプト記二十章十四節「姦淫してはならない。」、新約聖書マタイの福音書五章二十八節「しかしわたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫したのである。」と書かれているのでこちらも聖書で禁じられていることやと私は思います。
恵方巻きの食べ方には、よそ見をせずその年の恵方を向き続けるという規則があり、「神様にお願いをしながら黙って食べましょう」、「途中で食べるのをやめず一気に食べきることも大事」、「一本丸ごとを黙って食べるのは、途中で誰かと話したり、恵方巻を食べるのをやめたりしてしまうと、福運が逃げる」とされていて、こちらも人間の勝手な願いを祈る悪習やと思います。神様に願い事をしながら無言で太巻き寿司を食べるのが良いことに思えますか。途中で喋ったら願いが叶わないから、福運が逃げるからという理由でその規則を守ることは自分勝手な主張であり、自己中心的で神を便利屋と勘違いしている証拠です。皆様はどう思いますか。
そしてここからが本題ですが、本日、金曜日の日没〜土曜日の日没までは安息日であり、天地創造の主なる神が定めた全き休みの日です。旧約聖書 出エジプト記三十五章二節「六日間は仕事をする。しかし、七日目は、あなたがたにとって主の聖なる全き安息である。この日にいかなる仕事をする者は、だれでも殺されなければならない。」と書いてあります。そのような主の聖なる全き安息の日に偶像崇拝や偶像礼拝をし、人間の勝手な都合を神に押し付けることの恐ろしさを考えてみてください。
ここで引用します。↓
安息日は、単に何もしない休みの日と思うのではなく、モーセの律法にあるとおり、聖別せなあきません。聖別とは、世俗的使用から分け隔てるということです。即ち、あらゆる世俗の仕事、旅行、買い物、スポーツ(観戦も含む)、娯楽(遊技、映画、音楽、芸術等)といった日常的に行うこと、言い換えれば、世俗的な行いをして過ごさへんというこっちゃ。普段の暮らしと同じことをしているんやったら、聖別してることにならへんさかい。真のキリスト者なら、周りの人間からどう言われようが、どう思われようが気にせず、安息日を守るべきや。これが基本的なあるべき安息日の過ごし方、守り方です。これは神を愛し、神に従うことを意味する。決して、自分勝手ということやない。
引用元:真の聖書福音と預言
https://ameblo.jp/leo085/entry-12273192222.html
安息日はミカエル氏が仰るとおり、世俗的な行いをして過ごしたらあかんということです。つまり世俗的な風習の節分を祝ったり、豆まきをしたり、恵方巻きを作ったり、買いに行ったり、食べたり等安息日にしてはいけないことでもあり、禁じられている偶像崇拝や偶像礼拝に当たります。そしてそのような行為は非常に罪深い行いであり、悔い改めが必要やと聖書に書かれています。
残された時間はもう長くありません。時間がある間に一人でも多くの方が聖書を手に取って世に期待するのではなく、主イエスに希望を持って日々悔いのないように生きましょう。