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聖書に基づいて七夕を解説

こんにちは。
今回は太陽暦七月七日の有名な恒例行事である七夕について述べます。

先ず、七夕とは織姫と彦星が一年に一度だけ、天の川で会える日とされていて、それを利用して日本各地で七夕祭りが開催されています。七夕と聞くと、笹竹に願い事を書いた短冊を飾り付けして、星にお祈りをしたりすると思います。短冊には青、赤、黄、白、黒の五色が用意されており、黒又は紫の短冊は「学業」に関する願い事、赤の短冊は「両親や先祖に感謝」する気持ちを書きます。白の短冊は「規則や義務を守る」に関する願い事、黄の短冊は「人間関係」に関する願い事、青又は緑の短冊は「成長」に関する願い事です。

何故この五色なのかと言うと古代支那の自然哲学である五行や儒教の思想である、五徳(五常)に関連があるそうです。

五行
自然界にある木、火、土、金、水を表します。
五徳
儒教が説く五つの徳のことであり、仁、義、礼、智、信を指します。

一応儒教について簡易な説明を引用しておきます。

儒学(じゅがく)
中国古代の儒家思想を基本にした学問。孔子の唱えた倫理政治規範を体系化し、四書五経の経典を備え、長く中国の学問の中心となった。自己の倫理的修養による人格育成から最高道徳「仁」への到達を目ざし、また、礼楽刑政を講じて経国済民の道を説く。のち、朱子学陽明学として展開。日本には4、5世紀ごろに「論語」が伝来したと伝えられ、日本文化に多大の影響を与えた。儒教。

コトバンク
https://kotobank.jp/

また、支那で乞巧奠(きこうでん)とも呼ばれ、本来は支那の神話に登場する牛郎と織女の逢瀬を祝う支那の祭りです。なので日本が他国の文化に影響を受けて七夕を行う必要はありません。また、紙切れに願い事を書いて祈ったり、星に祈ったり、天の川を特別視したりして盲信、崇拝することは聖書では偶像礼拝、崇拝に当たるので禁止されています。聖書にはこう書かれています。

旧約聖書 出エジプト記 二十章 四節~五節 新改訳二千十七年版
「あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。」
旧約聖書 申命記 四章 十九節 新改訳二千十七年版
「また、天に目を上げて、太陽、月、星、などの天の万象を見るとき、惑わられてそれらを拝み、それらに仕えることのないようにしなさい。それらのものは、あなたの神、主が天下のあらゆる民に分け与えられたものである。」


引用元: https://ameblo.jp/leo085/entry-12265023043.html

知らずに軽い気持ちで願掛けをしてしまうことはありがちです。私が居た大阪では大規模小売店や、食品店、コンビニ等で短冊が置かれていて誰でも気軽に参加できるようにされているからです。ですが、こういった軽率な行動こそが主イエスが預言された呪いを招く結果になっています。何故なら日本人の一部が古代イスラエル人やからです。主なる神を信じず、神の律法、掟、戒めを守らないのが原因です。この世のものに望みを置くこと自体が間違いであり、畏れ多いことやと気付くべきです。真の救いに至るには主イエス・キリストを通してしかありません。聖書にはこう書かれています。

新約聖書 ヨハネによる福音書 十四章 六節 ミカエル氏訳
「我は道であり、真理であり、命である。我によってでなければ、誰も父の御許に行くことはない。」

また、七夕は星祭りと呼ばれ、七月七日に行われていました。それは明治初期まで使用されていた太陰太陽暦から太陽暦に強行改暦される前の話であり、現在の太陽暦(グレコリオ暦)では二千二十四年度は八月十日なのでお盆の時期に被るためほんまにする意味がありません。本来の七夕は秋頃であり梅雨が明けておらず星の見えにくい七月七日ではありません。なので現在行われている七夕は季節も時期も異なることからただの商売戦力でしかありません。そのような悪習に利用され、ただ滅びるために神は人をお造りになられたわけではありません。創造主の神に立ち返り、神の律法、戒め、掟を守りましょう。そのためにも聖書を複数回通読し、こちら「真の聖書福音と預言」(https://ameblo.jp/leo085/)ミカエル氏のブログを読まれることをお勧めします。

憲法改悪も差し迫っており、残された時間はほんまにもう長くありません。時間がある内に聖書を手に取り、世に期待するのではなく、主イエスの再臨に希望を持って日々悔いのないように生きましょう。


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