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【寄稿】太田啓子さん/離婚後共同親権と憲法24条 根強い「男社会」と「イエ」意識

太田啓子(おおた けいこ)
弁護士(湘南合同法律事務所)。著書「これからの男の子たちへ『男らしさ』から自由になるためのレッスン」(大月書店)

離婚後も父母ともに親権者となることを認める「共同親権」導入を柱とする民法改正案が4月12日、審議入りからわずか1カ月で衆議院法務委員会を通過した。
本稿執筆日現在(4月16日)は参議院での審議予定は見通せないが、よほどの世論の高まりがなければ、このまま成立する公算が高い。施行されてから「こんなこととは聞いていなかった」と思う人が続出するだろう。

▼「子の利益」置き去りに


「離婚後共同親権」とは、教育、医療、居所指定等の、子に関する全ての決定事項を離婚後も父母が共同で行なう、つまり、一方の親の決定に他方の親が拒否権を持つということである。
法案では、例外的に「急迫の事情」がある時と、「監護及び教育に関する日常の行為」については父母それぞれが単独で決定できることになっている。
しかし、何が「急迫」で「日常の行為」に該当するかは判断が難しく、紛争が多数生じることは、衆院段階の質疑で鮮明になった。
例えば、法務大臣は「2〜3カ月後に予定されている手術なら『急迫』ではなく、父母の同意が必要」と答弁。しかし、2〜3カ月後に迫った手術のために、急ぎ元配偶者に連絡して同意書に署名をもらうのは現実的だろうか。手術前検査にも父母の同意が必要となると、適時に必要な医療を受ける機会を逃してしまう。
また、子の修学旅行の行き先が海外の場合、パスポート取得に親権者の承諾が求められ、離婚後共同親権なら父母双方の許可が必要だ。例えば、親権者1人の許可がないために、就学旅行に参加できない生徒が生じ得る。父母が一致しない時には家裁が決定するが、都度家裁というのはあまりに非現実的だ。

▼離婚を「無効化」したい人々


不正確な報道も多く、世間には誤解が蔓延している。
例えば「離婚後に親子が自由に会えないのはかわいそう」「共同親権にすれば別居親が養育費を支払うだろう」等の理由で共同親権に賛成する言説もみられるが、面会や養育費は「監護」の問題であって、親権は法的に関係ない。既に民法766条に基づき非親権者が監護に関わることは当然に予定され、家庭裁判所の手続もある。
「共同親権さえあれば子にもっと関われる」と繰り返す父権的な運動体が牽引してきた執念が結実して今に至っている。SNSを少し検索すれば出てくる、共同親権を求める運動体(「桜の会」等)の攻撃的な言説、家裁や法律事務所前での街頭宣伝を是非見てほしい。この「共同親権」運動は、ミソジニーな父権運動である。
注目すべきは、4月5日の衆院法務委員会で自民党の谷川とむ衆院議員が、共同親権の導入に賛成する立場で、「できるだけ離婚ができないような社会になっていく方がいい」と発言したことだ。共同親権をてこに、実質的に離婚を無効化したいという、家族神話・家父長制的な意識を悪びれずに露呈した発言だった。

▼24条の精神が破壊される


憲法24条2項は「配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」と定める。
24条は13条と並んで「個人」という言葉が入った条文である。明治民法下では、「イエ」の維持のために、個人の尊厳は劣位に追いやられた。特に女性は、個人として尊厳が守られる存在ではなく、「イエ」のために子を産み、家長に尽くす存在としての意味しか認められなかった。
家族は個人のためにあるべきだ。個人の尊厳が抑圧され、個人が不幸になるような場なら、その家族から解放される手段を保障することこそ個人の尊厳に資する。
離婚は、そのように個人を不幸な家族関係から解放する機能を果たす。その離婚を「しづらくする方がよい」という発言が、国会議員の口から平然と語られるというのは非常に怖ろしいことで、憲法の理念に反するとさえいえる。
共同親権に関してはメディア報道が鈍く、そのこと自体にも日本の「男社会」ぶりを強く思い知らされている。1人でも多くの人が声をあげ、施行されてしまったとしても問題を訴え続け、早期に改正し直すことが重要である。

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