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死んでしまった母親の思い出

こんにちは! 猿田信司です。

私の両親は、すでに他界して、
かなりの年数が経ちました。

父親との思い出は、すでに書いたので、
今回は母親の思い出を書いてみます。

子供の頃はとにかく怖かった

記憶に残る私の母親は、
子供の頃はとにかく怖かったです。

父親は見た目で怖かったんですが、
普段一緒にいるのは母親の方が多かった。

なんというか、怒られることが多かったです。

叩かれることもよくありました。


子供の頃、近くに住んでいた子供たちと遊んでいた時、
雨が降ってきて、帰るのが遅くなったことがあったんですが、
その時はめちゃめちゃ怒られました。

雨宿りして遅くなったんですが、
私が一番年長者だったのもあって、
他の子の家にも迷惑をかけたと、
めちゃめちゃ怒られて叩かれました(笑)

今思うと、私も子供の頃は、
結構やんちゃ坊主だったんでしょう。


もう一つ覚えてるのは、私は子供の頃、習字を習っていたのですが、
とある正月に、元日早々「書初めをしろ」と言われ、
母親が金属バットを持って、机の後ろで監視されたことです(笑)

もちろん、殴られたりはしませんでしたが(笑)

厳しかったですが、理不尽な暴力を受けたことはないし、
だいたい私が悪かったのは自覚しています。

母の作る私の好きな料理

私の母は、今時のこじゃれた料理なんて
作ってくれませんでした。

弁当を作ってもらっても、
おかずは煮物とかばっかりで、
とにかく茶色い弁当でした。


ですが、私が今でも食べたいと思う料理があります。

それは、母が作った「玉ねぎの味噌汁」です。


具は、薄切りにした玉ねぎだけの味噌汁。

今まで生きてきて、母以外が作っているのを知らないので、
他には誰も作らない料理なんだと思います。

ですが、私は子供の頃から、
この「玉ねぎの味噌汁」が大好きでした。

私にとっては、玉ねぎが甘くて、
めちゃめちゃ美味しいんです!!

「玉ねぎの味噌汁」の時は、おかわりするし、
普段は1杯しか食べないご飯も、2杯食べてました(笑)


しかし、母がいなくなった今では、
「玉ねぎの味噌汁」を作る人がいません。

ですから、食べようと思ったら、
自分で作るしかないのです。

私は、一時期、料理にハマってた時があって、
その時は自分で「玉ねぎの味噌汁」を作っていました。

数十年単位で食べてなかった「玉ねぎの味噌汁」は
ものすごく美味しく、懐かしい味でした。

ですが、味噌汁はあまり日持ちもしないので、
作るのは簡単でも、今では作ろうと思いません。

しかし、こうやって書いてみると、
「また作ろうかな」と思いました。

母親は食べるものが違っていました

私が子供の頃は、晩御飯は家族3人そろって食べていました。

父は、毎晩晩酌していて、おかずをつまみに飲んでいて、
最後にご飯を食べる感じでした。

私は、ハンバーグとかが多かったです。


ですが、母は全然違うものを食べていました。

父や私と同じおかずではなく、
前の日の残り物だったり、
漬け物だけだったりでした。

当時は、それが普通だったので、何も思わなかったのですが、
今になって考えると、貧乏だったので、
父と私には良いものを食べさせて、
自分は粗食で済ませていたんでしょう。

思い出しただけで、ちょっと泣きそうになります。


ですから、死んでしまった今でも、
私には母の好きな食べ物、
というのがわからないのです。

母は命がけで私を生んでくれた

母は心臓病を患っていました。

それは、私も知っていました。


これは、母が死んだあと、火葬場で待っている時に
親戚から聞いた話です。

母は、私の前に2人ほど身ごもったのですが、
母の心臓が出産に耐えられないということで、
子供を下ろしたことがあったそうなんです。


そして、私の時には「この子は死んでも生む」と言って
かなり無理をして生んでくれたそうなんです。

なんとか、母子とも無事でしたが、
母の心臓病の手術をされそうになり、
逃げるように退院したらしいです。

もし、当時の医療水準で手術していたら、
命が危なかったらしいので、逃げて正解でした。

後に手術した時も、死にそうになりましたからね。


私は「なぜ一人っ子なんだろう」
「なぜ両親は周りの親に比べて年取ってるんだろう」
と思っていましたが、母は自分の命をかけないと、
子供が産めなかったことを知って、わかりました。

私は、幸運で、たまたま
生まれることができた、ということを。

下手をすれば、母子ともに
死んでいてもおかしくなかったことを。

もし、私の前に身ごもった子、産まれなかった兄の時に、
命をかけて産んでいたら、私は生まれていなかったことを。

とてつもない奇跡の上で、私が生まれていたことを。


それを知ったのは、母が死んだあとでした。

今でも、この事を思い出すと、私は泣いてしまいます。

私は母親似

母親は姉さん女房で、
周りの親と比べても背が高かったです。

私は、背の高さや顔も、母親に似ている
と自分でも思います。


なんというか、死んでしまった母ですが、
何かが私に残されている、
そんな不思議な感覚があります。

めちゃめちゃ怒られましたけど、
心臓病なのに、命がけで私を生んでくれた母は
私にとっては、最高の母親でした。

おかあさん、本当にありがとう!!


最後までお読みくださり、
ありがとうございました。


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猿田信司の人生で起こったいろんなこと
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