W.Denta
現代の津軽三味線奏者についての紹介マガジン。筆者のレビュー。
津軽三味線の歴史を語る上で欠かす事の出来ない偉人達の紹介をまとめました。
キング オブ 津軽三味線 木乃下真市 どんな人? 津軽三味線の大会にて審査員長を務める、現津軽三味線界における重鎮。 昨今では「津軽三味線 三羽鴉」という表現を使わなくなったが、現在に用いるならば、確実にその筆頭となる存在である。 その演奏は、厳しく、鋭く、最も「津軽らしさ」を継承・体現している奏者であり、誰しもが認めるキング オブ 津軽三味線。
No.1 津軽三味線 アーティスト 吉田兄弟 どんな人? 吉田良一郎(兄:1977年)と吉田健一(弟:1979年)の二人から成る、日本及び世界で最も有名な津軽三味線ユニット。 「津軽三味線」と聞いたら、多くの人は第一に吉田兄弟が思い浮かぶのではないだろうか? 着物を纏い、力強く、荒々しく、速弾きで演奏されるという津軽三味線のイメージは間違いなく彼らが定着させたもといえる。 活動領域 古典
仁太坊 2人目の弟子 長作坊 出生は? 本名 太田長作 明治8年(1875)~昭和24年(1949)は青森県 北津軽の長泥村出身の明治時代の奏者。 どんな人? 幼少期に失明しており、15歳で坊様として暮らす事を決心し、明治21年仁太坊の元を訪ね3年間稽古をつけてもらった。 津軽三味線では三味線本体である胴の前側を叩くと小さい音が鳴り(前撥)、後側を叩くと大きい音が鳴り(後ろ撥)、これら2種を組み
仁太坊 最初の弟子 喜之坊 出生は? 本名 古川喜之助 慶応3年(1867)~大正11年(1922)は青森県 南津軽の荒田村出身の明治時代の奏者。 どんな人? 15歳で津軽三味線の開祖である仁太坊の内弟子となり、仁太坊の元で一年間稽古をつけてもらう。その後、出身地の荒田村に戻り坊様として活動をするとともに、弟子をとることで津軽三味線の普及に大きく貢献した。 エピソード
唄付け(伴奏三味線)の名人 福士政勝 出生は? 本名 福士正雄 大正2年(1913)~昭和43年(1968)は青森県 南津軽郡猿賀村字八幡崎出身で、昭和に活躍した。 どんな人? 農家の子で幼少期から三味線を弾いていたが、特定の師匠はいなかった。17歳の時に陸奥家演芸団に入団し、白川軍八郎や木田林松栄と共に陸奥家園芸団で活躍し、三羽鴉と呼ばれた。 唄づけに対し熱心に取り組むことで、唄い手たちに信頼され、「唄づけ名
叩き三味線の名人 木田林松栄 出生は? 本名 田中林次郎 明治44年(1911)~昭和53年(1978)は青森県 南津軽郡柏木字石郷出身で、昭和に活躍した。 どんな人? 農家の子で家に門付けに来る亀坊の音を聞き育つ。17歳の時に吹田三松栄の弟子となる。その後、白川軍八郎や福島政勝らと共に陸奥家演芸団で活躍し、三羽鴉と呼ばれた。 1の糸を叩く事にかけて誇りを持っており、40号もの太い糸(一般奏者は30号
弾き三味線の名人 高橋竹山 出生は? 本名 高橋定蔵 明治43年(1910)~平成10年(1998)は青森県 中平内村小湊出身で、昭和~平成に活躍した。 どんな人? 2歳の時に麻疹で目が見えなくなった。 15歳で戸田坊(戸田重次郎) に弟子入りし、生きるために門付けを行い腕を磨いた。 一時期、津軽三味線を引くことから離れ鍼灸、按摩師として生きることを目指すが、繁盛はしなかった。
津軽三味線の神様 初代 白川軍八郎 出生は? 白川軍八郎 明治42年(1909)~昭和37年(1962)は青森県 金木町出身で昭和時代に活躍 どんな人? 4歳の時に麻疹で目が見えなくなった。 9歳で近所の仁太坊に三味線を含む、楽器を習った。 当時、三味線は唄の伴奏とすることが基本だったが、イントロ部分である「前弾き」の演奏時間を徐々に長くしていくことで、三味
津軽三味線の開祖 仁太坊 出生は? 本名 秋元仁太郎 安政4年(1857)~昭和3年(1928)は青森県 金木町出身の明治時代に活躍 どんな人? 8歳の時に天然痘で目が見えなくなった。 盲目の女性旅芸人の瞽女に三味線を習い、14歳の頃から坊様として門付けを行うようになる。21歳の時、他の芸者よりも目立てるよう、従来の細棹ではなく太棹である義太夫三味線を用いて、撥で弦と三味線の皮を叩く派手な演奏方法を