成長という言葉がむず痒い
「成長したい」と口にしたことはありますか。
僕はこの言葉が苦手です。
「成長しろ」という圧力
「あのさ、これ何度目かな?早く成長してくれないかな」
そう言われながら、何度も突っ返される書道の課題文を見て、小学生の僕は歯を食いしばっていた思い出が残っています。
それ以来、この言葉は苦手です。
「うん、成長したね」
満足そうな先生の言葉に、どこか圧力のようなものを感じたからでしょうか。
成長という言葉のハードルが高くなった
「成長したい」と口に出そうとすると、喉まで出かけて、なんだか意識高い系と言われそうで、複雑な気持ちになったりします。
ただ、誰かの本気の「成長したい」は、「ソナタ、まだ高みを目指すか」という気持ちなので、応援しています。大谷翔平くんのように、どこまで行き着くのか見届けたくなってるやつです。
僕は「成長しろ」と人に言われると「いや、いいです」って思ったりしてしまう事が多い。
なんで?あなたに言われなきゃならないの? といった具合です。
その「成長しろ」「成長してほしい」という直接的な言葉の中に「私を満足させてくれ」という意味が入っているような、発言者のエゴが見え隠れして複雑です。
「あなたが期待する場所まで行けない僕は、成長していないってことですかね」
そんなふうに学生時代を生きていたら、いつの間にか「成長」という言葉そのものが、「ハードルが高く、私はそこまで望んでいないもの」になっていました。
「成長」=「人の期待に答える」ではなかった
一歩ずつでも前に進めばそれでよかった
「成長したい」と口に出す人は、僕を含めて少ないかもしれないです。
言うと、また期待と失望を押し付けられるんじゃないかと怖くなります。
でも、その場で足踏みしたいわけではないです。
「進歩を感じない職場にずっと何年もいるのが嫌だな」と思えば、転職が頭をよぎるかもしれない。
そうしたら、「じゃあ望むことができる職場か、せめて進歩のある職場へ」と思うでしょう。そのために、資格の勉強をはじめるかもしれないです。
そうやって、昨日と違う一日を過ごしたことを褒めて、「よくやりました」って言えればそれでよかったりします。
「ごちそうさま。美味しかったです」でちょっと世界が変わった
僕は飲食店を出るとき、「ごちそうさま」と言います。
日本人してるので、それは染み付いてることなんですが、そこに「美味しかった!また来きますね」と付け足す人と会ったことがありました。
その方は「本当に美味しかったらそう言うし、なるべく早く再訪する」と言いました。
そのときは、「へ〜。すごいな。僕にはできそうにない」と思って頭の片隅にしまっておきました。
ただ数年後、僕にもそのときが訪れました。
本当に美味しくて、また来ようと思った店と出会ったので、本心を勇気を出して伝えました。
ごちそうさまという習慣はあったので、そこに一言添えただけです。
それから一週間後くらいに、また本当に行きました。
すると、
「お、また来てくれたね。なんて名前?」
と店主がきさくに声をかけてくれました。僕は覚えていてくれたことを喜び、せっかくなので名刺を渡しました。
「Ryoくんね。覚えたよ」
たったそれだけの話ですが、これまでの僕からは考えられない状況でした。
本当にこんなことがあるんだと嬉しくて、今でもそのお店に行きます。
成長という言葉は苦手だけど、僕は知らないうちに成長している
人が期待する人間になっているかは、今となってはどうでも良くなっています。
あくまで自分が望んだことをできる範囲でやっていたら、「数年前とは別人だね」と言われることが増えてきました。
最近は、好きなことしかやらないようになってきました。
仕事も、たまたま就職した技術職でしたが、楽しいです。
今でも「成長したな」と言われたら、「いえ。そんなことは」と、むず痒くなると思います。
ただし、僕が望んだ方向へは確実に進んでいるので、それで充分です。
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