オデュッセイアのなかのオデュッセイア
『オデュッセイアのなかにはいくつのオデュッセイアがあるか。(略)物語さえ見つかれば、たとえ結末がよくてもわるくても、イタケーは、長年続いた時間も法もないあの無形の状態から脱出できる。(略)帰還が推測され、考慮され、のちには回想される。だがそれはまた、実現する以前に忘れ去られる危険を孕んでいる。(略)オデュッセウスは、じぶんがたどらなければならない道すじ、それは彼の運命のかたちなのだが、を忘れてはならない。ということは、とりもなおさず、オデュッセイアを忘れてはならないことになる。
(略)登場人物たちや場所がそれまでとおなじものだということを保証してくれるのは、物語そのものだけだ。いや、物語にまで変質が認められる。(略)しかし、この新しいオデュッセイアのむこうには、さらにもうひとつのオデュッセイアが存在する。旅の途中でオデュッセウスに会ったというクレタ人が登場するのだ。「ほんものの」オデュッセイアでは通過しなかった国々を旅するオデュッセウスの話をオデュッセウスは物語っている。(略)オデュッセイアの作者はオデュッセウスを十年も家に帰らせなかった。彼が姿を消し、家族や昔の戦争仲間にとって彼が行方不明になることは、作者が必要としていたのだ。そのためには、人知のおよぶ世界から出て、異郷、人間の外の世界、ある種の彼岸に行くことが要求される(彼の旅の集大成が死者の国であることは、けっして偶然ではない)。こうした叙事詩の領域から脱するために、オデュッセイアの作者はイアソンとアルゴナウタイの冒険のような伝承に依存することになる。(略)おなじ本のなかでステファニー・ウェストは、ヒューベックの説にすべて賛同はしないまま、彼の説を有効とする次のような仮説を立てている。それは、ホメロス以前に、現在のヴァージョンとは異なったオデュッセイアが存在したという、すなわち、異なった帰路をたどる話が存在したという仮説だ。ホメロス(あるいは、だれであれ、オデュッセイアの作者であった人物)が、この冒険譚をあまりにも貧弱で無意味であると考えたすえ、この幻想に満ちた冒険譚と差替えたというのである。それも偽クレタ人の旅程をすべて変えることなしに。じじつ、オデュッセイアの前文にもあたる部分に、いくつかのオデュッセイアすべてを締めくくる思想といえる一行がある。「わたしは、多くの人々の都市を見、多くの哲学を識った」。都市とは、いったいどれを指すのか。哲学とはいったい…。この仮説は偽クレタ人の旅物語によりぴったりかも知れないのだが……(一九八三)』イタロ・カルヴィーノ/須賀敦子訳「なぜ古典を読むのか」
長さのせいか上映は二回に分けられ、文字を追う目は理解から遠ざかる。
光を漢字に奪われ続ける間も進んでいるようだった映画に私は、置きざりに取り残されている。下へ流れはじめた俳優と監督の名が黒くなっていった。
どんな映画なんだろうね、紙コップを袋へ放り投げながら囁きあう音がする。
どうしてわかんないの
日本の映画だからだよ
字幕があったじゃない
ある冒険家/ライターを内から締めあげた、冒険とノンフィクションのアンバランス。
冒険の実際はひどく退屈な行為で占められるしかないから、遭難でもしない限り読者を惹きつけることは難しい。
誰もいない所で起きた遭難を確認できる者はおらず、次第に虚構の色さえ帯びていく。
書かれてある文字をいま読む者は、作者の生還を息継ぎに確認しては読み進め、読み終えるころ忘れている。
眠っちゃってたのかな
仕事なのに
外ももう曖昧になっている
『VS?Collective』は、現在の世界から押し付けられた選択肢に対して、もう一つの選択肢(=オルタナティブ)を実践・提示するイベント・翻訳・映像等の制作集団。 ただし、仮想敵を作ることで結束を図るような「二項対立的発想」=「VS」に対しては、積極的に「?」を掲げて。