メンバーのはるのです!
初めまして! はるのです。現高校3年生で来年の3月には卒業です。来年の今頃はどこにいるのやら、、、
それはさておき、自分と学校・学習との関係、またVREDを通じ思い描く将来や希望について話したいと思います。
一学習者として、学ぶことの意義、またその過程における自己理解と他者理解を一人でも多くの人と共有できたらなと思います。
過去に遡るのですが、私は神奈川県で生まれ、小学生になると同時に、中国・上海のインターナショナルスクールに入学しました。当時を振り返って思うのは「ただ単に学習が楽しかった」ことです。無論、小学生であるが故に学習という学習はしてなかったと思いますが、日々英語、日本語、中国語と接する生活は7歳の私にとって challenging ではあったと感じます。サバンナのモデルをクラスメイトと作った environmentの授業、サッカークラブで週末には友人とひたすらフィールドを走り回っていたこと、毎週金曜昼休みの宗教の授業など、五感を感じ、また使う体験が多かったことを覚えています。
小学4年時に日本に帰国した時も無論寂しかったものの、「日本での生活楽しみだな」という一種の希望を抱いていました。
しかし、学習すること自体段々と億劫になっていきました。
日本の学校に編入し、当然のように塾に通い、夜21:00に家に帰る日々を小学4年生として繰り返した経験は今となっては一つの学習形態として理解できる一方、私は「学ぶこと」に対する意欲が喪失していくのを体感しました。
日本の受験文化、また、暗記力を学力の物差しに使用する日本の教育制度を批判する意図はありません。実際、私もそうして中学受験を行い、これからも抜本的に学習指導要領が変わらない限り、この体制は続くと私は思います。
しかし、あまりにも自分が思い描いていた学習形態とは大きく相反していました。
塾の教科書を開いても、シャーペンが動かない。慣用句、ことわざ、漢字を覚えるための何個もの単語帳。
これを執筆するにおいて小学6年生時の塾の教科書やノートを読み返しましたが、率直に感じたのが受動的かつ一時的な学習だったことです。つるかめ算や旅人算の計算方法は今の私にとって「無用の長物」と化しています。
日本の学習形態は学習の成果よりかはその過程、言い換えると、学習を日常化する行動が得たい成果なのかと思うほどです。
ひたすら、かつ、がむしゃらに受験勉強をするのに比例して、自分の学習意欲が低下していくのを日に日に実感しました。当時の私は目標があるのに勉強したくない、その感情自体に嫌悪感を抱き、自分を怠惰者として見ていました。しかし、中学1年からのベトナムでの生活、 国際バカロレア(International Baccalaurate)での学びを通じ、単に自分は学びの過程において自ら考えたかった、また、学びを自ら構築したかったという強い思いがあったことを理解しました。
実際、この思いを汲み取ったのかどうか、当時の塾の先生が教科書を書き換え、中学受験では絶対問われることのない哲学的な問い、「みっちゃん」という蜂の主人公を通じた RPG的世界観、教科横断的な雑学を踏まえた、辞書ほどの厚さとなる教科書をつくってくれました。
つらつらと受験体験を書いてしまいましたが、VREDが目指す「学校愛を養う」また、「自他への理解」を私は「学習」という一面を通じ模索してきました。
その後、中学1年生からはベトナムのインターナショナルスクールに編入し、校内外の活動を精力的に行いました。海外の多くの学校は学期ごとに部活を変えられることが多く、年間を通じサッカーと障がい児孤児院でのボランティアは行っていたものの、バスケ、バレーボール、バドミントン、ダンスなどのスポーツに加え、オーケストラ、ジャズバンドやequality club などに首をちょこちょこ出していました。
学ぶことはひたすら机に向かって鉛筆を動かすだけではない。
友人と一つのミュージカルについて夜通し語り合うこと、様々なイベントやプログラムに参加すること、年齢問わず様々な人と対話することなど、「学び」は変形自由な粘土だと思います。無論、これらの学びを創造するにも、根本的な知識やスキルを身につけることは必要不可欠です。故に、このような環境をVREDは構築したいです。
誰もが学習でき、そのプロセスで自己と他者を理解できる場所・環境を整備すること。この目標を軸に、VREDはこれからも活動していきます。