『高次元科学と理解のあり方』オンライントーク 感想

興味があったので(2/3まで)聞いてみた。大変面白かったので、参加者の方々には感謝したい。
以下雑感。

全体に言葉の使い方が右往左往しており、「次元」が一体何を指すのかが分かりにくい。個人的に整理すると、「次元」と言うことで、①スケールの大小、②パラメータの多寡、③記述の長短、の三つについて議論されていると思われる。
①スケールの大小
例えば気体の分子運動のようなミクロな現象と、天体の運行のようなマクロな現象について、運動方程式は同一の記述が可能である。このスケールフリーな性質が、運動方程式が「普遍的である」と言われる根拠だと考える。おそらくスケールが大きければ記述に要するパラメータが多いと考えたため、このスケールの大小について「次元」と表現したと見受ける。パラメータを増やした場合の物理学における領域は解析力学あるいは統計力学等であり、運動方程式を扱う力学や、量子の運動を扱う量子力学ではない。物理学においては、スケールの大小とパラメータの多寡に直接的な関係はない。
スケールフリーな性質は相対論についても同様である。相対論が運動方程式に対し「より普遍的である」と言われる場合があり、この時の「普遍」は運動方程式に欠けていた「物体の運動の光速度に対する挙動の変化」というディテールを補完した、より精確なモデルであることを示している。当時想定されていなかった光速度付近におけるモデルを提示した、という意味では、相対論の適用範囲は運動方程式よりも広汎である。普遍性が適用範囲の広さである、とする説明は的を得ていると思う。また、物体の速度に限界があることを示した点では、非直観的だが正しいモデルを提示したという意味で、ゲージ場の議論とも共通する。ただし、相対論の場合は運動方程式と等価なモデルではない(より複雑で情報量が多い)ため、パラメータの数は同じでも、記述は運動方程式よりも長くなる。
元物理学徒の感覚としては、上述のように運動方程式に対し普遍的なのは相対論であって、量子力学や標準模型ではない。スケールが小さければ普遍的であるとは言えないと考える。実際、マクロなスケールについて、量子力学的な記述をすることには飛躍があるように思われる。波動方程式は量子を記述するためのものであって、野球のボールを記述するためのものではない。
②パラメータの多寡
本来議論されているのはこの点だと思われる。物理学においては、解析力学や統計力学に相当する。場合によっては、扱う粒子の数がアボガドロ定数オーダーに達するため、名前の通り統計による縮約(圧縮?)表現を用いており、認知科学との関連も多い。わたしの理解では、この「パラメータが膨大なために統計を用いざるを得ないこと」を指して次元の縮約あるいは圧縮と表現していると認識している。物理学で扱う気体分子のような物体の場合、その個々の挙動(振る舞い)についてはほとんど判明しているが、そこから統計的な振る舞いへの理論的説明は不十分である(エルゴード仮説周り)。ただし、等重率の原理を前提とした統計力学は完成しており、原理以降の議論に解釈の余地はないと思われる。
統計力学の場合、理論的説明は困難であるにも関わらず、直観(経験的な事実)とモデルは一致している。ゲージ場の議論や上述の相対論の話を含めると、採用するモデルの正しさと、そのモデルが直観的か非直観的かは無関係だと考えられる。ゲージ場の議論は、直観的なモデルを採用することによる弊害があり得る、と理解すべきではなかろうか。非直観的でも世界を正しく記述できるならば、もちろんその方が良いだろう。
参考:https://academist-cf.com/journal/?p=7005&utm_source=ReviveOldPost&utm_medium=social&utm_campaign=ReviveOldPost
③記述の長短
これは単に記述に対する情報の圧縮率の違いだと考える。モデルが等価であれば、適切な定義を新たに導入すれば記述が縮約できることは自明である。ただし、記述の縮約のために導入した定義(や操作)が非自明あるいは非直観的であること、そのことが新たな発見につながることは(特に数学的な操作においては)充分あり得る。これはある程度以上高度な数学(的操作)が非日常的である(したがって慣習的でない、要するに慣れていない)ためではないか。逆に充分慣れていれば、数式を見ただけで「どこかオカシイ」と直観することもあり得る。
運動方程式と相対論のようにモデルが等価でない場合には、モデルと記述の長短には関係がない。運動方程式を相対論の縮約された記述だと見做すことは誤りである。パラメータが多い方が良いわけではなく、なるべく多くの事が説明できる方が良い(モデルである)、という見解には同意する。また、物理学者が運動方程式を使う時行っていることは、「光速に対し充分低速なため速度の二乗の項を無視する」という条件の暗黙化である。明示されてはいないが、縮約のための適切な条件設定をしているのであれば、モデルとして等価と見做すことに違和感はない。したがって充分習熟した人間の実際の使用においては、見かけ上の差異はあれど、運動方程式は相対論と等価であると言ってよい。適切な近似は縮約ではなく計算の省力化である。
複雑な記述については、適切な縮約ができれば記述を扱うコストの削減につながるため、縮約は合理的かつ経済的であり、導入する動機になり得る。
簡潔な記述への美的感覚については、私的に反省してみたところ、上述の経済的合理性に伴ううれしさ、適切なモデル構築や発見に伴ううれしさ等と判別がつきにくい。おそらく何らかの意味での無駄のなさを表して「美しい」を用いているのではないかと思う。

メインのテーマについては、以下の記述派の意見には反対である。
・人間が理解できなければ科学が進まないとしたら理解は必要ない
・人間がちょこっとずつ進捗していくのでは(機械に?)追い付けない
これに対しては「人間がちょこっとずつ進捗(理解)していくのがまさに科学という営みなのでは?」と言いたい。
わたしの主張のベースは前記事と、バートランド・ラッセルが『西洋哲学史』で、科学を「世界を理解しようとする試みであるところの理論的科学」と、「世界を変革しようとする試みであるところの実際的科学」という二つに大別した見解の二つによる。ラッセルはこの後に実際的科学を権力哲学だと批判していくのだが、話が逸れるため割愛する。面白いので、興味があれば一読を勧める。
前記事に基づく部分は、「科学」や「理解」という言葉すなわち概念は、人が人の営みについて用いるためのものであって、これを機械(人工知能?)に当てはめることは必然的に擬人化を伴う、というものである。もちろんどういった機械を想定するかによるのだが、議論の中で「人間の認知的限界」という言葉が交わされていたように、当然機械にも機械の認知形式があり、それが人間と同じあるいは相似であると安易に考えることはできない(そのようにデザインすることは不可能ではないかもしれないが)。機械にとっての「科学」や「理解」(のようなもの)は人間の用いるそれとは概念的な差異があるはずであり、したがって人間の機械化のような認知形式の変化がない現状においては、それを直接的に「科学」あるいは「理解」と呼ぶことはできず、アナロジーの域を出ないのではないか。そう考えると、低次元化やグラフィカルモデルによる理解の軟化という努力は、人間の営む科学にとっては正道だと考えられる。

・理解できないのであれば占いと変わらない
という意見があったが、理論的な裏付けは困難だがテクニカルには上手くいく(現実にフィットする)というケースは上述の統計力学の例をはじめ、工学などでも無数にある。例えば金属の疲労破壊など。この場合はアナログな評価(金属を実際に捩じって破壊までの力や回数を確かめる試験)が経験的信頼につながっている。言い換えれば、現実にフィットするという繰り返し確かめられた事実が信頼を形成しているのであり、理論的な裏付けがなければ全く信頼しない(できない)わけではない。社会利用のために必要なことはテクニカルな評価の手法であり、理論的裏付けは必ずしも必要ではない。もちろん、理論的な裏付けや確からしい仮説があればそれに越したことはない。また、人工知能については全く未知であるわけではない(全くの未知であれば、そもそもそのようなシステムは構築できない)。挙動は不明でも入力および出力と動作原理は判っているし、テクニカルな制御は可能である。いわゆるアナログ計算機はこのことを積極的に利用した計算機だと言える。占い(計算機科学にならって神託またはオラクルと呼ぶとそれらしい)に欠けているのはこの社会的信頼の形成であり、おそらく予測の正確さやその頻度(確率)が低いために信頼に耐えないのだろう。
想定されている神託にしたところで、神託を下すためにはまさに人間に理解可能な形へ圧縮・縮約しなければならないのではないだろうか。パラメータの圧縮・縮約を用いずに可能だとは思えないし、この「人間が理解可能な形にする」という作業を人間が行うことは無駄だとは思えない。もちろん機械が考えて神託を下してくれるのなら人間は楽ができるが、人間に理解できるかどうかは最終的に人間が確認・検証しなければならないのではないか。そして社会的には、まさにその確認・検証によって信頼・利用が可能になるのではないだろうか。

・可視化へのリソースが科学の進歩を遅らせている
これは社会的な問題であって科学的探究における理解と直接の関係はない。また、上述の主張に則れば、可視化のような理解努力が科学であって、理解を欠いた記述は単なる自然現象と区別できない(識字未満の幼児にとっての本をイメージすると分かりやすいかもしれない)。実際には全く理解を欠いているわけではなく、下記n次元球の議論のように部分的ながら理解はあり、その理解は社会的信頼の形成の足掛かりとして機能する。他にもエンジニア(テクニシャン?)が少ないことや、研究における仮説の立て方に文化的バイアスがあること(意訳)など挙がっていたが、同じく社会的な問題であって直接の関係はないと思われる。アプローチの手法が多い方が良いのはその通りだと思う。

・数学におけるn次元球の体積の問題
 ⇒大規模なNNの原理は説明(言語化)できるのだからそれが理解である
ある意味では正しいが、問題は出力に対する信頼性や挙動の理解であって解答になっていないと思われる。ただし、訓練によって理解が深まることの具体例としては適当だと思われる。理解は訓練によって醸成され、その度合いは適用の適切さおよび広汎さによって表現することができる。

・記述できなければ理解できたことにならないのか?
これについては、「理解は記述ではないが記述は理解である」と言える。もちろん理解を欠いた記述(出鱈目な記述、写経など)はあり得るが。関連して、人間の理解は認知によって限界づけられる以外にも、表現すなわち身体性によって限界づけられるのだ、と言うこともできるのではないか。例えばもしカメレオンのように自在に体色を変えられる人間がいるとしたら、そのカメレオン人の用いる表現は人間とは別様であろうし、彼らの理解の仕方もまた人間とは別様であると考えることは自然ではないか。
個人的には人間の認知形式や身体性と世界の在り方から、人間の理解の形、人間の知性が如何に形作られているかを探究することに興味がある。それは機械や他の生き物の知性を問うことにつながるだろうし、知性の限界に対しどのようなアプローチが可能なのかを明らかにするだろうと思う。

なんとなく思い出したので次の言葉で〆たい。

いかなる真理もまったく完全に真ではないが、達成しうる最良の真理は、知的には訂正しうるものではない。――ブラッドリー

書き終わってから三つ目の動画を聞いているけれども(再生リストになかったので、ULされていないものと勘違いした)、三つ目の始めに話されている方(高木さん?)の考えはわたしと近いのかなと思う。内容が重複してしまったら申し訳ない。

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