『〈現在〉という謎―時間の空間化批判』への補足ノート増補版、『一物理学者が観た哲学』感想
谷村先生の書いたノート
http://www.phys.cs.is.nagoya-u.ac.jp/~tanimura/time/note.html
および、ノートへの反応を読んで書きたくなったので
最初に断りを入れておく
・わたしは一般人である(職業哲学者でも職業物理学者でもなく、大学にも属していない)
・わたしは大学で理学部物理学科を修了した
・わたしは趣味で哲学を勉強している
・わたしは谷村先生のノートに対し、基本的に賛同している
したがって、わたしには職業哲学者に義理立てする理由はない
さて、まず言いたいのは、谷村先生には心底同情する、ということである
わたし自身谷村先生と似たような経験があり、現代哲学に触れて以来約10年間ずっと裏切られ失望し、また事あるごとに憤慨してきた
視点は主に物理学ではなく哲学からのものだが、哲学業界から見て外野である点で立場は共通する。わたしが谷村先生に同情しても許されるだろうと思う
ふたつ目に、谷村先生のノートに対する指摘が2点ある
どちらも4章のP.75~76にある
1点目は論理実証主義について
歴史的な経緯としては、フレーゲおよびラッセルの仕事と、ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を受けたウィーン学団が言い出したと理解している。なお、ウィーン学団は『論理哲学論考』をバイブルにしていたそうである。ラッセルは数学の論理学による記述・形式化を図り、ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』にて同様のことを哲学に対し試みた。これらは誤解を恐れず言えば、形而上学に反対するものである(と、少なくともウィーン学団は解した)
加えてウィーン学団は地理的問題として、これも誤解を恐れず言えば、形而上学が主流であるヨーロッパ大陸において、イギリスの哲学者である上記2名の、しかも当地の主流哲学に反対するものを掲げることになる。これに当たってのお題目が「論理実証主義」である
したがって彼らの主眼は当地の主流哲学(形而上学)への反対と、それに伴う論理(学)の利用であって、科学に対する言説は基本的に当世の流行※に乗った傍流である、という見方が適当ではないかと思う。もちろん、彼らが初志貫徹できたかどうかは別問題であるし、科学哲学における失敗についての谷村先生のノートの記述は誤ってはいない
谷村先生のノートの主旨には沿わないかもしれないが、論理実証主義のスタンスは(内容は別として)、形而上学への反対という意味では谷村先生と同様のものである。科学哲学の側面のみを挙げるのは、些か勿体ないと思う
ただ、具体的には「なぜ、論理実証主義がこのスタンスを失ったのか」「なぜ、このスタンスがあるにも関わらず、哲学内で自浄作用が働かないのか」といった問題提議になるだろう。谷村先生ご本人も仰っているが、これを考えるべきは哲学者であって、谷村先生が考える道理はない
※20世紀初頭からの科学の成功は、大学関係者にとって極めてセンセーショナルなものであったと認識している。この認識が正しければ、彼らが科学に言及したくなるのは自然なことだろうと察する
2点目はパラダイム論について
パラダイム論は提唱したトマス・クーン自身が撤回・修正しており、専門図式(専門母型)という別のものに変更している。基本的にウィトゲンシュタインの言語ゲームを焼き直しした※ものだと理解しており、内容としてはかなり穏当な議論ではないかと思っている。この点、谷村先生の議論はクーンに対してフェアではない。自ら言い出したとは言え、極めて広範に流行した『パラダイム』の撤回にはクーン自身も相応の努力を払っただろうと想像する。また、少なくとも撤回した事実に関して、クーンは知的に誠実だった。ある意味で、クーンと同様の努力を払っている谷村先生には、訂正された専門図式にもコミットして頂ければ、クーンも浮かばれるのではないかと思う
※諸隈元氏の一連のtweetを引用させて頂く
みっつ目は、谷村先生のノートに対する補足である
わたしは現代哲学について、普段から「なぜ現代哲学はこうなったのか」「彼らのモチベーションは一体何なのか」を考えている。
わたしの考えが、谷村先生の立派な仕事の補足になり得るかは分からないが、少しでも資するところがあれば幸いである
・仕事のための仕事
例として、仮に特定の哲学者あるいは学説が真理であると認めると、それに反対する既存の研究の価値は相対的に減じる。したがって哲学全体として、ある特定の哲学者あるいは学説の価値を特権的に高めることは得策ではない。様々な研究者が様々な哲学(者)について様々な研究を行っている状態を維持することが、各研究者にとって都合がよい。これを哲学者は「多様性がある」と嘯く※が、構造的に学説を競わせるインセンティブが欠落していると見做すべきである。この傾向は特に哲学者哲学において顕著であるため、この研究手法は採用するべきではない。また、心の哲学などでは学説を競わせている、と言うかも知れないが、心の哲学はそもそも議論自体無意味であると批判されている。であれば議論による批判ではなく、議論させないこと、理由を付けて棄却することが肝要であって、内容について言及することは避けるべきである。議論することで仕事が増えるのだから、無駄を省くという意味でも、仕事のための仕事を増やさないという意味でも、である。デネットにしても、議論に乗っている時点で同罪だろう。本当に哲学内で谷村ノートと同様の批判があると言うなら、心の哲学や形而上学は排斥されるべきである。哲学者は、他の哲学者を攻撃することに及び腰であるように見える。哲学内でも批判されている、と言いながら学説が淘汰されないのであれば、それは立場を守るための言い訳、ポジショントークに過ぎない
哲学者は身内が誤った学説を世間に流布することを許し、自分たちの飯のタネの為に利用している。これは知的には先達の研究者に対する冒涜であり、倫理的には公金で賄う研究費で知的に価値がないと分かり得る研究を継続させる点で詐欺に類する、とわたしは思う
※谷村ノートがTLを賑わせた後、実際に哲学者がtwしているのを見た
・学問としての基礎がない
物理学では学部生から教授職に至るまで共通する基礎があり、例えば力学を知らないなどということは――クオリティの差はあれど――工学部でさえあり得ない。実際、学部で習得するような基礎を共有できていない人間は物理学者とは認められず、コミュニティからは排除されるだろう
一方、哲学にこのような共通する基礎があるのか疑問である。特に形而上学やポストモダンについて、そこに共通する基礎を見出すことはわたしにはできない。おそらく谷村先生を擁護するような哲学者も同様に、共通する基礎を見出すことはできないだろう。したがって、哲学全体に共通する基礎はないと考えられる
学問において、共通する基礎がないのに、応用や多様性などあり得ない。もっと言えば、共通する基礎がないものに学問を称する資格があるとはわたしには思えない
・蛸壺化
わたしでさえ哲学業界に疑念を持ち得るのだから、わたしより優秀な人間については言わずもがなである。これは別に哲学者の責任ではないが、単純な事実として、人口も金回りも少ない業界に優秀な人材が入るわけがない。重ねて言えば、知的に不誠実であると見做され得ることは、この傾向に拍車をかける。これは哲学者の責任である
これは皮肉で言うが、ただでさえ予算を削られどんどんパイが少なくなっている折に上述のような体たらくでは、在野研究と称して民間に逃避先を探すのも無理はないと同情する
・科学の素養がない
既に言われていることではあるが、これは「科学の素養がないとでも仮定しなければ(心の哲学に従事するような)哲学者を理解することができない」という意味である。ここまで虚仮にされて黙っていられるのもオカシイと思うが、残念ながら実際に素養を確認する試験は行われないだろう。誰もコストを払わないからである
少なくとも一部(科学哲学)の院試で物理学等の試験が課されることは知っているし、また教養科目としての履修はあるかもしれない。しかしそういった事実があるにも関わらず、科学の素養がないと見做さざるを得ない態度を取られるのは、かえって腹立たしいだけである
プラトンがアカデメイアの門に「幾何学を知らぬ者、くぐるべからず」と書いたそうだが、この精神が現代に残っていないのは嘆かわしい
・情報が何か理解していない
わたしは心の哲学で情報に関する議論を見たことがない
なぜか彼らは心を物理的なものと思いたくないようだが、その要因として、「そもそも情報というものが何なのかわかっていないのではないか。だから心を情報として理解すること、それが物理的なものであることに難色を示すのではないか」と疑念をもった
単純化された不正確な議論ではあるが、情報とは要するに配列である。並べるモノは何でもよいが、一般的に社会で使われていて、分かりやすいモノは電子だろう。これは確かに目で見えないし、仮に電子が出入りする素子を見ても、その違いは分からない。スマートフォンもPCも、ラジオもTVも、一見して物理的な形状に違いはないにも関わらず、泉が湧くように情報を伝えてくる。人間も、たとえ何もない部屋に籠って、新しい情報の入力を絶ったとしても、思考や想像によっていくらでも新しい情報を生成可能であるかに思える。素朴な直観としては、情報は無形であり、物質に依存しない非物理的現象に思えるのではないか(物質が”何であるか”に依存しない、という意味で、情報は無形である、と言うことは正しい)
実際には、電子機器も人間も、電子という物質による配列で情報を形成している(人間の場合は神経伝達物質や神経細胞の変形も含まれる)。電力や電波を停止すれば電子機器は新たな情報を出力できないし、人間も糖や神経伝達物質の供給を断てば同様であろう。残念ながら人間の場合は情報的な出力の停止と生物的な死が同時に訪れるため確認は困難だと思われるが、少なくとも、脳がその活動の維持に大量の物質(エネルギー)を必要としている事実に気を留めるべきだろう。すなわち、脳は物質(エネルギー)を情報に変換している。配列が物質に依存する以上、物質を欠いた情報はあり得ない
また情報は、物質の状態を扱う熱力学と同じ法則に従うことが分かっている。ここで”同じ法則に従う”ということを「カタチは違っても同じ扱いができる、すなわちそれらは等価である」と見做し、直観的理解とすることは、情報は非物理的現象である、という直観よりはマシに思える。この直観的理解を支持するものとしてよいかわからないが、実験的にも情報とエネルギーが等価であることが確かめられている。エネルギーと質量が等価であることは既知であるので、すなわち情報と質量は等価である
正直に言えば、わたし自身馬鹿げたことを言っていると思うが、前述のように、馬鹿げた仮定しないと心の哲学に従事する哲学者を理解することができない
・自己の感覚・体験・経験の過大評価
ここまで来ると身も蓋もない議論だが、他者のクオリアを疑う、という態度は、ふつう人が容易に認め得ることを事実と認めず自己を特権化している、という点で心理学における自己愛傾向に相当すると思われる。極めて偏見的であることを承知で言えば、わたしはチャーマーズがナルシシストだと言われても驚かない。実際、研究者の心理的傾向が研究活動に影響を与え得ることは想像に難くないが、仮に悪影響を及ぼすことがあるとすれば、構造的に防ぐ仕組みがなければ、学問全体に病理が蔓延する事態が起こっても不思議ではないだろう
わたしは学生時代にウィトゲンシュタインの『哲学探究』を読み、他の哲学の学説は即座に棄却した。それ以前に読んだものについては、一体何だったのかと多大な徒労感を覚えた。「哲学はウィトゲンシュタインによって終焉を迎えた」という言説は幾度が目にしたため、現代哲学に対しては同じ認識であるだろうと想像し安心していたが、それは間違いだった。その後心の哲学を知り、言語ゲームによれば瞬時に誤りだとわかるような、60年も前に答えが出ている問題を今更でっち上げて、世の中ではコイツらに給料を払って研究と称したお遊びをさせているのかと憤慨した。最も許しがたいのが、チャーマーズが日常言語学派の流れをくむ立場だったことである。なぜ自ら仰ぐ先達の積み上げたものを全く無視した学説をぶち上げることができるのか理解できなかったし、先達の業績を踏みにじる行為であると感じた。先日の概念工学入門ツアーの経験からも、「現代の哲学、特に分析哲学はウィトゲンシュタインから派生したにも関わらず、『哲学探究』から一歩も前進しておらず、理解もしていない」という感想をもった
わたしの信じるところによれば、哲学であれ科学であれ、およそ知的な営みに際して最も重要なのは知的誠実さである。間違いは間違いと認め、分からないものは分からないと言い、どんなに信じ難く、また自分がそう思いたいことに適わなくとも、それを認める態度である
”論理的に首尾一貫した教説体系というものは、どのようなものも必ず、部分的には人に苦痛を与えるものをもち、また流通する様々な偏見というものに逆行しているのである” バートランド・ラッセル『西洋哲学史』より
わたしとしては、現代哲学はこの知的誠実さを失っていると考えざるを得ない。そして、科学者には実情を知った上で現代哲学に関わらないようにしてもらいたい。リテラシーのない科学者が騙されているのを見るのは忍びない
最近個人的に認知科学に興味を持っているが、認知科学者がクオリアという単語を連発する様を見ていると非常に歯がゆい。心の哲学は経験科学ではないのだから、認知科学を自称するのをやめてもらいたいと思う
谷村先生のノートに対しては、対話を呼びかける声や、科学と哲学の分断を諫めるような発言を目にする。しかし断言するが、今問題になっているのは、『哲学が自己の改革を迫られている』ということであって、対話や分断の回避が必要な段階にはない。科学者にとっては、哲学がまともな知的誠実さを取り戻すまで、無視する以外に取り得る方策などない
最後に、わたしは言語ゲームを用いれば、「谷村先生のノートを哲学の立場から擁護可能である」と考えている。ただ長大になるため、別の機会に譲る。詳細な説明を希望する読者がいれば、Twitter等にご連絡頂ければ、可能な限り対応したいと思う。ただしわたしは一般人なので、わたしの説明には何の権威も保証もないことは断っておく
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