頭のいい人

頭がいい人は、難しいことを簡単に説明できる。

定期的に話題に上るよな、と思い、考えてみた。
第一に、この「頭がいい人は難しいことを簡単に説明できる」は本当に正しいのか。結論としては、難しいことを簡単に説明するためには、かなり高度な知的能力が必要だ、と考える。ただし第二に、その能力を「頭がいい」と表現することは、一概に正しいとは言えない。「頭がいい」については、言えることの幅がかなり広い。

物事を説明することは、その物事をいったん頭の中に入れて、言葉にしたり絵に描いたりといった表現で、別の人に伝えることだ。

画像1

上記の絵であれば、ゴリラだ、と言葉で伝える。
相手の頭の中では、

画像2

こうなっているとしよう。なぜか胸を叩いてドラミングしている。ゴリラ、と言われただけでは、ドラミングしているかはわからない。けれど、ゴリラと言えばドラミングな感はあるので、典型的なゴリラとしてこうした絵をイメージするのは間違いではない。ウホウホ言っていれば、ゴリラのイメージとしては満点だろう。他にも、任天堂好きはドンキーコングをイメージするかもしれないし、知り合いのゴリラっぽい人をイメージする少々失礼な人もいるかもしれない。どれも間違いではない。

つまり、絵(見たもの)を言葉に置き換え、言葉を絵(イメージ)に置き換えている。説明する側が頭の中で行っているのは一種のエンコードで、説明される側が頭の中で行っているのは一種のデコードだ、と言ってもいい。

さて問題は、どこまで正確に伝えるべきか、ということだ。動物園でゴリラを見た、という世間話程度であれば、それほど正確さは必要ない。相手の頭の中のゴリラがドラミングしていても問題ない。しかし、例えば野生のゴリラを観察に来た動物学者の間で「ゴリラだ」というだけでは、明らかに説明が不足している。そのゴリラは大人か子供か、オスかメスか、大きさはどのくらいで、どんな様子だったか、など、様々な観点からの正確さが求められる。ゴリラが頭の中で勝手にドラミングしていては支障がある。つまり、求められる説明の量と質は状況次第で変わる。

野生のゴリラの観察のように、目的がはっきりしている場合は、説明という行為はわかりやすい。説明する側に求められるのはプレゼンテーションの能力だし、説明を受ける側に求められるのは理解力と必要な情報を聞き出す能力だ。ここで上手に説明するためには、見たものを上手に言葉にすること、そして説明に対して話す相手が持つイメージを推論することが必要になる。話す相手が若く経験の浅い動物学者であれば、理解しやすく丁寧で、そして陥りがちな見落としなどをケアできれば、それは上手な説明と言える。話す相手がベテランであれば、詳細な説明はむしろ無駄で、簡潔に要点を押さえた説明が良い説明になるだろう。

つまり、ここで説明する側がしていることは、デコードを推論しそれに合わせたエンコードを行うことである。単に言語化するだけでなく、相手の理解を予測し、それに合わせた言語化を行なっている。これは知的に相当高度なことだと考える。双方向にコミュニケーションする場合には、受け手側からのフィードバック(ここがわからない、ここをもっと詳しく、など)があるため、修正しながら説明することができる。「難しいことを簡単に説明できる」で想定されているのは、おそらく動物学者が同行したカメラマンに説明するような場合だろうが、この構図自体は変わらない。

余談だが、目的がはっきりしない場合には、話し手と受け手の、それぞれが求める理解の度合いは異なることがある。話し手がどのくらい受け手に理解してもらいたいか、受け手がどのくらい話し手の見たものを理解したいか、が異なるのである。動物園に行った話し手が、話題のイケメンゴリラを見に行ったのであれば、話し手はイケメンゴリラについて語りたい。受け手が人間のイケメンにしか興味がないのであれば、受け手は別にゴリラの話はどうでもいい。この温度差がある時にお互いに生じる推論が、いわゆる「空気を読む」と呼ばれることの一端だと思われる。

さて、説明という行為自体が知的に高度だとして、次の問題は、これを受けて「難しいことを簡単に説明できる」を「頭がいい」と表現することが妥当かどうかだ。まず論理的に成立するかどうかを考え、次にいわゆる認知バイアスの影響と戦略上の利点を考える。

先の動物学者同士の例で言えば、ゴリラの観察というフィールドワークの目的を果たすためには、前提となる知識がある程度専門的に(難しく)なり、簡単な説明自体にそもそも意味がなくなる。つまり、仮に説明が上手いことを頭がいいと認めたとしても、その説明が簡単かどうかは頭の良さには関係しないことになる。したがって、「頭がいい人は難しいことを適切に説明ができる」とは言えても、「頭がいい人は難しいことを簡単に説明できる」とは言えない。簡単な説明が常に適切であると仮定した場合でも、簡単でない適切な説明が存在する以上、「難しいことを簡単に説明できる」は十分条件であって、必要条件ではない。逆の命題「難しいことを簡単に説明できるならば、頭がいい」は成立する。この観点からは、「頭がいい人は難しいことを簡単に説明できる」は妥当性に疑問がある。

認知バイアスと戦略上の利点については、適当なツイートがあった。

前段は置くとして、後段の「相手の言葉が理解できないのは相手が馬鹿だから」というのは正しいと思う。責任回避と優越感とは人が抱きやすいバイアスだろう。ただ、順序を逆にして、「相手の言葉が理解できないのは相手が馬鹿だから(相手が悪い)」という考えが元になって、「頭のいい人は難しいことを簡単に説明できる」という言説が生まれる、と考える方が自然ではないだろうか。このように、受け手の能力とバイアスとはこの「頭がいい人は難しいことを簡単に説明できる」という言説に影響を与えている。バイアスに基づいた判断は、前段のペテンを信じやすくなることにつながってしまい、危険だ。

一方、「頭がいい人は難しいことを簡単に説明できる」という理解には戦略上の利点がある。白状すれば、私は聞いた説明を理解できなかった場合、相手の頭が悪いと判断している。以下で理由を説明する。

”利口な人の言ったことに関する愚かな人の記録は、決して正確ではない。なぜならその人は、自分の聞いたことを自分が理解しうる何物かに、無意識のうちに反訳してしまうからである”
B.ラッセル『西洋哲学史』より

前提として、私は「世界は当人の考えられる以上の複雑さを持ちえない」と考えている。ここで言う「世界」は、ある特定の人が生きている=見ている世界のことだ。人は皆同じ現実を生きているが、見ている世界はそれぞれ違う。単に事実として見るなら、この事実はほとんど動かしようがない。人は誰でもその能力に見合った世界を見ている。逆に、世界を能力以上に難しく考えようとすることはリソースの無駄だ。極力理解に努めた上でなら、という条件付きではあるが、その上で理解できないのであれば、もはやそのことにリソースを割くべきではない。リソースの観点から言えば、世界は可能な限りシンプルな方が好ましい。
この世界の単純化という方略には、バイアスに対抗的だという利点がある。普通、ある物事の理解について、理解できた方が良く、理解できないことは悪いことだと考えられがちだ。無理に理解しようとした結果、上記のような「無意識の反訳」が行われてしまう。理解できないのであれば、「わかりません」と率直に認めた方がいい。世界を単純化しようとする場合、理解できないことに対してはリソースを割かなくてよいため、理解できないことはむしろプラスになる。つまり、理解できないことに対するインセンティブが生じる。そしてこのインセンティブは無意識の反訳に対抗的だ。単純化された効率的な世界観を構築するためには、極力理解に努めながらも、理解できない=関与しなくてよい領域を広げていくことが最適解になる。感覚的にはマインスイーパーに近い。
結果得られる世界観は快適なものではあるが、多少の難点と落とし穴が存在する。難点のひとつは、自身の能力を客観的に正しく見積もる必要があることだ。ダニング=クルーガー効果によって、正しい見積もりは難しくなる。特に高く見積もる場合(優越の錯覚)には問題が大きい。無意識の反訳と無理解を認めないこととによって、容易に誤った世界観を構築してしまうからだ。
もうひとつの難点は、常に自分の理解について再考を迫られることだ。自身の見聞と世の中の進歩に合わせ理解と関与を更新しなければ、即座に他人の話を聞かない老害と化してしまう。老人が簡単だが誤った世界に胡坐をかくのは、ひとえにそれが楽だから、理解と関与の更新が面倒だからだ。老人に限らず、こういった人は一定数見られる。面倒を避けようとして面倒に陥るのは本末転倒だと言わざるを得ない。楽をするためには、相応の労力は必要だろう。
これらの難点を斥け、単純化された効率的な世界観を構築し続けている限りは、聞いた説明を理解できなかった場合に、相手が自身と同様の最適戦略を採っていない、すなわち頭が悪いと判断することは妥当だろう。
一応断っておくが、私自身は努力しているつもりではあるが、自分でできているとは思っていない。また、本気でわけがわからないことを言う人にしかこういう感想は抱かない。

関連して面白い具体例がある。

一時期話題になったが、当時は何とも思わずスルーしていた。私自身は画像の頭の悪い人よりもはるかに頭が悪い。リンゴを見ても、おそらく「リンゴだ」としか思わない。何なら用がなければ思考の俎上にも上らずに無視すると思う。連想ゲームをしようと言われない限り連想はしない。どちらかと言えば、その時々に関心を持っていることに関係のない連想は無駄だと思う。無駄なことは極力考えたくない。連想が楽しいとも思わない。連想ゲームはそれこそ小学生の頃から、何が楽しいのか理解に苦しんでいた。空想や妄想についても、特に楽しくて好きだというわけではない。
このツイートをした人はどうやら違うらしい。知人に聞いても、私とは逆の性質の人間が相当数いるもようだ。適当に調べたところ、連想のしやすさに関する心理測定尺度は見つけられなかったが、空想傾性とは近いのではないかと思う。
連想のしやすさと数が頭の良さであるとするなら、私は積極的に頭が悪くなろうとしていることになる。これには笑ってしまった。おそらくツイートした人は連想をしやすい人で、連想すること、連想が楽しいことが当たり前なのだろう。私がそういう性質の人間がいると思わなかったのと同じように、連想をせず好みもしない人間がいるとは思っていないに違いない。あるいは単に非連想的な人間を頭が悪いと思っているか。まあ、思っているからこそのツイートだろうが。
連想と頭の良さが全く無関係だとは思わないが、知能指数の測定などを考えると、連想の量(頻度と数)よりは質(課題における連想の適切さ)が評価されているように思う。確かに、連想ゲームのように単に無軌道に連想するだけでは、頭がいいとは言えない。連想の速度についても言及されているが、たくさん連想すれば適切な解答への到達は遅れるのではないだろうか。一発で解答にたどり着けるなら、もちろんその方が頭はいいだろう。
連想する能力が頭の良さだとは思えないことに加え、自身の持つ能力を頭の良さに直結する発想そのものが優越の錯覚だと言える。つまり、事実の誤認という愚かさの露呈に加え、自身を頭がいいと暗に思っているというメタ認知の欠如も露呈している。愚かさを恥だとは思わないが、自らを賢いと発信しつつ愚かなことをしてしまう様は滑稽に映る。頭のいい人が自身の能力を過小評価するのは、こういった事態を避けるためでもあると思う。

以上、「頭がいい人は、難しいことを簡単に説明できる」についての考察である。多少の妥当性はあるものの、諸手を挙げて正しいとは言えず、安易に信じるのは危険な命題だと言えるだろう。広まるのはよろしくないように思う。
個人的には「頭がいい人」というのは、間違いを間違いと認めることができる人、理解できないことに「わかりません」と言える人、新しい知識を受け入れられる人、自分のために知識を蓄え頭を使い、なおかつそれを他人のために役立てることができる人、のことだと思っている。要するに知的に誠実な人のことだ。頭が良くなりたいとは思わないが、知的に誠実な人にはなりたいと思っている。脳みそのスペックを上げることが現実的に難しいとしても、知的に誠実な態度を採ることは、誰にでも啓かれているのではなかろうか。頭の良し悪しに関する不毛な諍いについて、私はここに勝手に希望を見出している。

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