概念工学入門ツアー 感想

去る8月10日・11日に京都・大阪で開催された概念工学入門ツアーに参加した

参加のモチベーションは以下
・フォローしている哲学(関係)者の間で話題に上っていた
・宣伝文句に釣られた

鈍行に揺られ3時間、泊めてもらう代わりに友人の分までチケット代も出し、それなりにコストを払っている。値段なりの面白さを期待

初日の第1講は概念工学の紹介
・話を聞く限りでは、(哲学から見て)社会学が羨ましいのでいっちょ噛みしたい、と聞こえる
・「結婚」が概念を変える例に用いられるが、文化侵犯にならないのか疑問
(例えば名古屋では結婚式代が比較的高い、という話を聞く。地域的に差があるのは風習すなわち文化的。また新婦側の家から家財道具一式の代金を出し新郎側の家から結婚費用を出す(うろ覚え)というような風習も耳にする。これら結婚に纏わる文化的風習に影響を与えないのか。例えば同性婚で上記のような数多ある風習をどうする・どうすべき・どうなるのか、という話は不可避な問題だと思うのだが、そこまで考えているとは思えない)
・上記を元に「概念を改良するのは良いが、結果的に社会に悪影響を与えた場合、哲学の社会的地位がマズいことになるのでは?」と質問。あまり明瞭な回答は得られない(申し訳ないがどういう回答だったか失念。「課題としてあります」くらい?)
本当は「(道義的)責任を取れるのか」と聞くつもりだったが、空気を読んで穏便な表現に

第2講義はハスランガーという概念工学のはしりになった哲学者の紹介
・フェミニズム、人種差別うんぬん。リベラル偏向か。第1講での悪い予感が当たる
・批判理論。「社会における不満を批判へ変えることが課題」
以前に友人とも話した内容(否定的な意味で)。不満はいいがそれで社会を回したらヒドイことになり得る。正当化の手段としての哲学(!)はナチスのドイツ観念論利用を思い起こさせる(B・ラッセル『西洋哲学史』より)
・「概念工学自体が政治的なプロパガンダではないのか?」と質問。会場から失笑。一般聴衆が笑うのは理解できる。後方での笑いは誰かわからなかったが、哲学者が笑うのは職業倫理に照らして許されることではない。確認しておかなかったことを反省(後方に後援の大西氏と朱氏が居た)
質問に対し講師からは「どういう意味ですか?」と聞き返される。「左派勢力は宣伝できる、左派哲学者は仕事が増える、どちらも利益がありますよね」と補足。部外者の私から説明するようなことではない、研究者に自覚がないとはどういうことだ、と内心激高していたが、やはり空気を読んで穏便に済ませる
この様子ではハスランガーの研究資金がどこから出ているのか(○年間で○ドルの研究資金獲得と紹介にあった)や、政治的なつながりの有無を確認するなど、透明性を担保する努力はしていないだろう。知的に誠実であるとは到底思われない(後から、むしろ私が世間知らずで、『分析哲学はリベラルなものだ』というのが常識であり、そのための失笑である可能性も考えたが、実際そこまで腐敗しているなら恥を晒すことに後悔はなく、どちらでも構わないと思いなおした)
「ハスランガーが概念工学を創始したわけではない。概念工学自体はリベラルだけのものではない」と回答があったが、創始した方(カペレン?)にどういう政治的背景があるのかについての言及はなし。また後段は、上記の通り宣伝目的なので内容はどうでも良く、中身の議論になった時点で目論見通り。仮に右派が議論に乗ったところで左派の宣伝には違いない(私の質問のような概念工学『外』からの指摘しか意味を成さない)ため、実質的には回答になっていない。宣伝手法としては極めて巧妙で、考えた奴は非常に賢いとは思う
・定義、改良的アプローチうんぬん。やりたいことが先にあって、それに合致する理屈を捏ねている印象。ハスランガーの議論全体が”過程の巧妙さだけが評価される”権力哲学である(B・ラッセル『西洋哲学史』より)と言える

初日は以上。この時点でかなりガッカリ。翌日の講義に不安が募る
書籍の購入会には参加せず、友人と食事をとり解散

2日目は会場が大阪へ移動
昼前に大きな駅へ移動、友人とタピオカミルクティーを飲み、おしゃれなハンバーガーを食べ解散
とはいかず開始まで駄弁って時間をつぶす
上述の結婚の話、宗教画の文化的位置づけ、同情と共感の違い、等について話をした。面白い話ができた気がするが詳しくは覚えておらず割愛

今回は椅子に背もたれがある
2日目の(通算)第3講義は推論主義について
・「red」の推論役割。前の質問者(推論主義ガイドツアーの人らしい?)からの流れで「意味の使用説を採る以上、『訓練された』以上の理由が必要なのか」と質問。回答は失念したが納得できず、また「科学的~」と聞こえたため「それは”納得できる表現形式”(『哲学探究』)ではないか」と返したことは覚えている。
(『必要なのか』という聞き方は誤りで、正しくは『あり得るか』のように聞けばよかった、と後から思った)
講師およびブランダムの後期ウィトゲンシュタインへの理解度に疑問が残る
・また別の質問者からの流れ(「連想は推論なのか」からの一連の)に対し「”概念間の推論規則”という場合の『推論』と”脳の推論過程”という場合の『推論』を混同しているのではないか」と指摘。発言自体質問ではなく、また質問者は納得した様子だったため「時間大丈夫ですか」と促し回答はもらわなかった。後の質問時間に講師および朱氏から目配せがあったが面倒なので申し訳ないが無視

第4講義は推論主義の概念工学への応用
・こちらでも過程の巧妙さが重視されており、権力哲学からは脱していない
・ブランダムはヘーゲル研究者とのことで、オチに『回想』を持ってきていたが、これについて友人は激怒していた。確かに「なんとなく良いこと」を言って〆ておこう、という意図が透けて見える程度には雑な結論である
・稲葉氏から簡便かつ分かりやすい概念工学の経緯の説明と、ぶっちゃけた質問があったが講師はぶっちゃけず。確かにもっと踏み込んでもらった方が面白かったが、若い研究者へのイジリと見えなくもない。かわされても当然
キャリア発言は気遣いはあるのだろうがさすがに即答は難しいだろう

講義は以上。続いてその場で軽い(と朱氏は言っていたが充分立派だった。感謝)懇親会があったので一応出席
懇親会について直接言及は避けるが、全体を通して思ったこと
・業界自体ローカルな印象を受ける。哲学でも一般的にはマイナー、さらに分析哲学ときては致し方なしだが、このローカルさ、属人的性質では基礎的な部分ですら共通化できないのは当然か?(よって後期ウィトゲンシュタインへの理解がない――好意的な見方をすれば甘い――のではないか、という推測)
・上記(共通化されていない)が正しいとすれば、「共通する基礎がないのに応用はあり得ない」(応用哲学、通じて概念工学への批判)と元物理学徒からは言いたい
(物理では学部生から教授職に至るまで共通する基礎があり、例えば力学を知らないなどということは――クオリティの差はあれど――工学部でさえあり得ない)
・ウィトゲンシュタインの哲学探究が世に出て既に70年近くが経ち、哲学探究にて既に概念工学より穏当な実践が提示されており(例として、水本正晴『ウィトゲンシュタインvsチューリング』)、また後期ウィトゲンシュタイン自体実践的でもある、にも関わらずこの現状
個人的には失望を禁じ得ない
・“ヴィトゲンシュタイン研究者のグレイリングは「彼ら(日常言語学派)のうち大部分は概してヴィトゲンシュタイン後期の思想の影響を受けておらず、後期ヴィトゲンシュタインに対して活発な敵対活動を行っているものもいる」と断言している”(wikipedia『日常言語学派』より)には納得
(グレイリングの背景を知らないため文面に対してのみだが)
・心の哲学は知りうる限り(wikipedia知識に毛が生えた程度)では後期ウィトゲンシュタイン的に大部分お話にならないが、それでも概念工学よりはマシ(社会学――もっと直接的に言えばフェミニズム――よりは認知科学の方が少なくとも政治的には穏当な学問なのではないか、という意味)だと思う
・私は元物理学徒として、政治や社会との関与は凡そ知的探究にとって邪魔になるという認識があるし、特に核兵器関連では歴史的に非常にセンシティブな場面に会ったことから忌避感さえ持っている。私見だが、多かれ少なかれ物理学に従事する人間には共通する感覚ではないかと思っている。
のだが、学問として社会的影響力を持ちたがるのは知的探究よりも権力志向を重視している、という理解でいいのだろうか? 権力を志向するなら学問よりもっと効率のいい手段がいくらでもあるだろうに、と考えると不思議でならない(できないから大学に残るのだ、という見方はあるだろうが)
・アカデミアの構造自体が知的誠実さを担保しないならば、アカデミアの存在意義とは一体何なのか

総じて概念工学および推論主義それ自体は知的には満足いくものではなかったが、こうして言いたいことを言える機会を得たのは有難いことである
私のような部外者から一石を投じることにも一定の意義があるのではなかろうか

なお、本noteは批判的な内容であることを鑑み、東京での同ツアー開催(8月24日)を待って公開とした

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