科学における数学の理不尽な有効性

前記事と関連して。
私的には理不尽だとは思っていない。
これを不思議だと考える人への説明は次の二通りあると考える。

1.構成的な見方

谷村先生も似たような話を書かれていたと記憶している。科学、例えば物理学などは社会的(歴史的)に構築されてきたものであって、今の形=数学が有効であるような形になったのは結果的なものである、とする説明である。
例えば古代ギリシャでは元素(世界を構成する元になるもの)について、様々な説が唱えられていた。元素は水だとか、いや元素は愛だとか、四つの元素から成るとか、精神から成るとか、アトムから成る(原子論)とか。各々の説を誰が如何に唱えたか憶えていないが、現代から見てもあながち馬鹿にできるようなものではないことは記憶に残っている。彼らの考え方は、当時の世界観に合致した明晰で筋の通ったものだったし、その帰結の一部は驚くほど世界の在り方を的確に捉えていたと言える。このように、様々な説が言わば群雄割拠する状態は充分あり得る。さてしかし、現代自然科学では彼らの説は大部分が棄却される。それはなぜか。
これは様々な基準あるいは指標に照らして、現代自然科学の在り方(言わば仕様)が、我々にとって合理的だからである。例えばひとつの基準は論理性であろう。ある事柄についての理説が他の説に対して排他的である(両立しない)ならば、少なくともどちらか一方は誤りだと考えることは自然である(もちろん両方誤りである可能性もある)。また、別の事柄についての説と互いに整合的である方がより好ましいだろうし、ある説から得られる予測が現実と合致するならば、その説は確からしいと考えられるだろう。他にも、より客観的な方が良い(誰にでも確かめられ、時によらず再現できた方が良い)など様々考えられる。
特に基準を設けず、誰でもどんな説でも唱えられる、という状態でももちろん構わない。古代ギリシャはある面でそうだった(だからそこ懐疑主義が生まれた)し、現代でも好き好きに自説を唱える行為は其処此処に見られる。古代ギリシャの原子論者が数学を用いずに原子という真理を言い当てたように、数学を用いずに正しい理説を積み上げることは不可能ではない。しかし、そこに何らの基準もないのであれば、唱えられる説にはすべて同様に価値がない。科学の採用すべき基準は何か、その価値は何か、ということは難しい問題だが、ここに述べた混沌とした状態と、科学における基準や価値の希求との差異こそが、科学を科学たらしめるものだと言える。
この様々な基準あるいは指標の、ひとつの帰結として数学の利用がある。数学をひとつの恣意的なゲームだと捉えれば、その採用は統一的で、整合的で、客観的(属人性がなく時によらず再現する)であるという様々な基準を満たす。逆説的に、我々にとって合理的な(都合のよい)ものを採用したらそれが数学だった、と言うことである。すなわち、(科学における)数学は人間の社会的構成物である。
また、谷村先生の言うように、社会的・歴史的には「有効である」と言えるような合理性を希求してきた結果として有効と言えるのであって、無効なものは捨てられてきたし、数学を採用したからと言ってあらゆる学説が有効であるわけではない。数学的には正しいが科学的には噴飯もの、という学説は特に珍しくもない。

逆の例を挙げる。機械設計に携わった経験からは、「言うほど数学的か?」という感想がある。規格化された工業製品は人間の目からはキレイに整って見えるが、技術的な視点から言えば、キレイに整って見える程度にキレイに作っているのである。寸法は大抵100ミクロン単位でズレており、表面性状はガタガタで、不純物もゼロにはできない。ただの棒でさえ、真っ直ぐに作ることは極めて難しい。世の技術屋がバラツキを抑え込み、安定した性能を発揮する信頼に足る製品を作るために払っている技術的努力を考えるとため息が出る。もちろん求められる精度に依るが、物体はほとんどまるで思い通りにならない。膨張し、歪み、錆び、摩耗し、ありとあらゆる環境の影響を受ける。金属組織は一様ではなく、熱処理は不安定で、熱処理の後加工は難しいくせに、加工してから熱処理すると歪む。強度剛性解析をしても、期待した通りの耐久性を持つかどうかはわからない。解析上は問題なくとも、試験をしたらどこかしら壊れるといったことは日常茶飯事である。
技術屋から言わせてもらえば、美しいのは数式であって現実ではない。ある意味で、技術屋は現実を数式に当てはまるようにフィットさせることに努力を払っているわけだが、それ自体の難しさに加え、数式通りにならないこともままあるのである。したがって感覚的には、現実(自然)が数式(数学)通りにならないことに理不尽さを覚えこそすれ、逆の感想を抱くことは考えにくい。
もちろん前記事にならい、「だからダイレクトフィットなのだ」と言うことはできる。しかし技術屋とて数式が「現実を余さず反映している」という意味で完全ではないことは理解している。あらゆる条件を盛り込むことはリソースの観点から言って現実的ではない(計算機の進歩によってそれが現実味を帯びてきた、ということ自体は歓迎すべきかもしれないが)。技術屋は思い通りにならなかった時、では一体何が原因なのか、モデルの外側について考えることができ、それを多くの場合突き止めることができる。技術的問題を解決できる場合、モデルが完全でないことは労力の問題であって、それが理解できないことを意味しない。問題を解決できない場合でも、それは何が要因か特定できない、ということであって、要因とみられるものを列挙することは可能である。まったく解決の糸口がつかめない、と言う場合は稀ではないか(そのような解決不能問題は信頼性の観点から技術的に排除されるかもしれないが)。これは製造に関する環境が制御されているためである。例えば工場の地盤(床)は相当頑健に作られているが、これは工作機械の動作による振動が他の工作機械に影響を与えないようにするためであり、トラブルに際し通常そのような要因は頭から排除される。
つまり、技術屋が現実を数式にフィットさせるような、ある程度以上制御された環境についてならば、大抵の場合人間に理解可能なメカニズム(という形式)に落とし込むことができる、ということを意味するのではないか。自分で書いていて何を当たり前のことをと思うが、これは「数学の有効性はその対象の制御に対し相対的である」ということではないかと考える。抽象的なモデルについてならば数学の有効性は高く、制御された現実については数学の有効性は限定的になり、全くの自然に対しては数学の有効性は著しく減じる、のではないか。もしこのことが正しいとすれば、数学の有効性が理不尽である、とする見方はある種一面的なものだと言える。また、モデルに反映可能な、したがって現実的に計算可能な条件が拡大してきた、という事実から、計算機の進歩によって数学の有効性は増大している、とも言える。

古代ギリシャ人にとって、運動するものはすなわち動物であり生き物だった。したがって太陽や月や星々が生き物に見えること、天体が意志を持つ神々だと考えることは自然なことだった。

近代の科学者にとっては、動物身体は極めて複雑な物理・化学的構造をもつ処の非常に念入りな機械であり、新しい発見という物の全ては、動物と機械との表面的な断絶を減少させる事にある。しかしギリシャ人にとっては、明らかに生命の無い運動をも、動物の運動に同化させる事がより自然に思えたのである。
B.ラッセル『西洋哲学史』より抜粋

蜂は営巣において数学的構造物を造るが、それは人間にとってハチの巣は数学的である(ように見える)、ということであって、蜂が数学をするわけではもちろんない。人は様々な物事に数学的な構造を「見出す」。数学の有効性は理不尽である、と言う時、このことの背景にあるものを考えねばならないと思われる。

2.規則の一致

そうは言っても、おそらく上記構成的な見方は直接的な解答ではない、と言われるように思う。この問題は還元すれば、なぜ自然は数学的構造を持つのか、という問題である。例えば人間原理もまた直接的な解答ではないが、人間のような知性が存在可能な条件を考えた時、自然が数学的構造を持つことはその必要条件である、とする見方にはある程度説得力がある。しかし、仮に人間が存在しなくとも自然が数学的構造を持つこと、また仮に宇宙人が数学(のようなもの)を作ったとしても、それは(同程度に厳密であれば)人間の作る数学と本質的に同じものである、ということに疑いの余地はないように思われる。
ここまで来ると次のような想定が必要になると思うのだが(このような想定は荒唐無稽だと私的には思うが)、自然が何らかの秩序(人間にとって意味を持つものでなくともよい)を持つならば、そこには数学的構造(人間が未発見のものでもよい)の何れかが合致することは明らかだと思われる。構成的な見方を加味すれば、自然が何らかの秩序を持つならば、そこに数学的構造の何れかを合致させることは可能であろう、ということである。これはほとんどトートロジーではないのか。秩序がある、と言うことが数学的構造を持つことの言い換えだと言ってよいのであれば、そこにまったく秩序がないことは、そこにはまた数学的構造もないことをも意味するだろうから。
知性が何かということは難しい問題ではあるが、少なくとも、想定する世界が何らかの意味で秩序立ったものでなければ、近年の計算論的神経科学が示すような「予測」は意味を成さないと思われる。卑近な例で言っても、慨日の規則性(周期性)がなければ、時計を作れず、日々の時間という概念は生じ得ないのではないか。通年の規則性がなければ、いつ田植えをしていつ収穫するかといった予定を立てること(カレンダー)もまた無意味になるだろう。自然が秩序を持つからこそ「予測」が意味を持つのであり、そこに疑問を投げかけることは、直接的には無為だと思う。ただしこのことは、間接的すなわちメタレベルでの意義まで否定するものではない。

別様に説明してみよう。熱対流のコヒーレントは適した例だと思われる。

ローレンツが調べた熱対流で、温度勾配が小さい時には、流体は静止していると話した。しかし、スケールを変えてミクロに見ると、分子は完全にでたらめな運動をしている。温度勾配を大きくしたら、この分子のでたらめな運動がもっとでたらめになるかと思いきや、蜂の巣型のきれいな対流が生まれた。一つの対流の渦の中では、分子はランダムではあるが、まとまった統一した運動をしている。そういうのをコヒーレントだという。温度勾配をもっと大きくすると、渦が乱れて乱流になる。
もっと温度勾配を上げたら、乱流がますます激しくなると思いきや、乱流の渦同士がコヒーレントになって、ひとまわり大きなスケールの対流が生まれる。残念ながら、実験室の大きさではそこまでできんが、自然の大気の中では、そうなっている。もっと温度勾配を上げれば、その大きなスケールの対流渦が乱れて乱流に変わってくる。だから、天気の変化を起こす大気の流れには、階層構造があることになる。
伊東敬佑『カオスって何だろう』より抜粋

加えられたエネルギーと秩序構造のスケールに関係があるということは興味深い。このコヒーレントについて、わたしに理論的な説明はできない。しかし、そもそも秩序が生まれたり消えたりすることは不思議で不可解に思える。もちろん「秩序が生まれたり消えたりすること」自体は規則的で秩序立っており、長期的な観察と経験を元に不思議とは感じなくなることもありうる。したがってコヒーレントに対するこの疑念は短期的・直観的なものである。こうした感覚は子供がある種のおもちゃ(オイルタイマーなど)に興味を持つことと同根ではないかと思う。人が、「常に秩序を持つ物事」であれば簡単に納得するが、そうでないことを大抵不思議に感じるとすれば、そこに何らかのバイアスがあることは明白である。予測というものの性質からして、次もまた同じ事象が起こることへの期待が生じ、したがってコヒーレントのような現象はその期待を(少なくとも短期的には)裏切るのである。
現実の自然の多くは多重に統計的な動態である。予測するものとしての知性が期待するような常態を示す物事は、知性が期待するほど多くはない。普通恒常的だと思われる天体の運行でさえ多体問題であり、厳密には周期的ではなくカオス的である。しかし、地球の自転や公転の周期性は生命活動の時間スケールに対しては極めて安定している。知性はこのような自然の中の安定性を常態として利用してきたと言える。多くの生命は慨日リズムや潮の満ち引きを利用している。比較的高度な生き物は、パブロフの犬のように、繰り返される事象を安定的で恒常的なものと見做し学習によって予測する。学習とは、ある意味では規則を生み出すことだと言ってよい。こと人間に至っては、抽象的な概念、理想的(この語自体が象徴的である)なモデルを作りだすまでになった。その最たるものが数学だろう。人が数学を作りだすまでの過程を考えた時、それが自然に合致すること、合致させることができることは、文字通り自然に思われる。

余談1.解釈

知性による予測自体がある種の統計的な処理であることを加味した時には、事態はさらに複雑になる。科学において、特に物理学が比較的曖昧さを含まないのは、扱う対象がこの予測を行わないからだと言ってよい。統計力学で扱う気体分子のような対象を考えても、それが予測をしたり個性を持っていると想定する必要はない。人間や社会を扱う学問の含む曖昧さ、複雑さはこの差異に因るだろう。わたしはこの「扱う対象が予測を行わない」「扱う対象の個性を考えずともよい」ことを「素性が良い」と表現している。扱う対象の素性の良し悪しはそれを対象とする学問の探究プロセスに大きく影響する。素性の良くないものを素性の良いものに置き換えて考えることは、経済学などで普通行われている(経済人など)。前提としてこの「我々にとって都合のよい置換」すなわち解釈が行われている以上、そこには現実との乖離がある。往々にしてこの解釈が複雑さを避け考えやすくするための簡素化であることは忘れられ、知的混乱の原因となる。またこの種の解釈からは、解釈する人間にとって、また個人にとっての都合の良さ=主観的要素やバイアスを排除することができない。解釈は本質的にその解釈が拠って立つある恣意的な立場の上に成り立つからであり、また主観的要素やバイアスを認知するために、メタレベルのすなわち高度な認知能力が要請されるからである。
プロセスとして主観的要素やバイアスを排除すること、またそのメタ認知にかかる認知的負荷を削減することは合理的であり、実際科学はその合理的基準の下に、可能な限り解釈を排除しようとしてきた。量子力学等で解釈が問題となるのはこのためである。解釈の余地がより少ない方が好ましいことは直観的には周知されているように思うが、その事由まで述べたものは読んだ覚えがない。わたしは解釈が嫌いだが、ひとつは合理的でないからであり、ひとつは解釈に頼る人間が往々にして恣意的な解釈に拠って他人を支配しようとするからである。

余談2.科学の二面性

科学は二つの側面を持つ。ひとつは理論的な側面であり、理論的科学は捨象と抽象化をすることで単純・理想的な概念・モデルを作り、現実における自然現象を表現し理解するためのものである。もうひとつは技術的な側面であり、実際的な科学、技術としての科学は、自然を制御しモデルに近づけるためのもの、あるいは逆に、制御によってモデル化を容易に、そして正確にするためのものである。
このふたつの差異は重要であり、その重要性のひとつは目的にある。理論的科学は、副次的にはどうあれ基本的な目的は一貫して現実の世界を理解することにある。対して実際的な科学、技術としての科学の目的は直接的にはそれによる自然の制御にあるが、何のために制御するか、という制御の目的は必ずしも世界理解にあるわけではない。技術による制御は、社会利用とそこから得られる利益に直結する。社会的な利益という価値には権力構造が付随するのであり、技術とその便益とが分かち難い以上、科学の実際的側面から政治的問題を排除することは難しい。さらに厄介なことには、制御そのものが目的と化したとき人に沸き起こるものは、「ある目的のために行われる制御」という理性的な枷を越えた支配とその欲求である。科学の興隆以降、この支配と欲求とが様々な資源(文化的、人的、環境的)に損失を与えてきた。そしてこの科学に対する政治的関与と自然への支配性との二つは、権力哲学へつながるのである。

技術としての科学は、実際的な人々の間に、理論的哲学者に見出しうる如何なるものともまったく異なったところの、一つの考え方を築き上げつつあった。技術は一種の力の感覚を与えたのであり、人間はいまや、以前とはまるで違って、環境というものに左右されないのだ、という感じが生み出されていた。

技術によって与えられる力は、社会的であって個人的ではない。無人島に難破した通常の個人、と言うものを考えてみると、その個人は十七世紀の人間であれば、現在の人々よりも多くのことをなしうるであろう。

科学的技術は、単一の方向に組織された多数の個人の協力を必要とするのであり、したがってその傾向は、上手く織り成された社会的構造を要求する故に、無政府主義や個人主義にさえ逆行するものなのである。

科学的技術に感銘を受け、そこから発想の源を得た諸哲学は、権力哲学なのであり、非人間的なもののすべてを単なる原料とみなす傾きを持っていて、目的はもはや考慮の外にあり、過程の巧妙さだけが評価されるのである。
B.ラッセル『西洋哲学史』より抜粋

もうひとつの重要性は理解についてのものである。実際的な科学、科学的技術における理解について考えたとき、それが凡そ制御についてのものであることは注目に値する。技術における理解は、如何に制御するか、ということから、対象の何たるかを浮き彫りにしていくという手法を採るように思われる。対する理論的科学における理解は、ある理想的な条件の下で示される、対象とそれらの関係性に数理的帰結を見出すことにある。現実における制御と理想上の条件の差異、実現についての像(モデル)とイデアル(理想的)な像の差異は、同時に対象についての二面性でもある。この現実と理想の二面性は、前述の「素性の良さ」とも関係する。ある理論において、理想的な条件を比較的簡単に実現できる場合、すなわち対象についての現実と理想の二側面が近接している場合には、この二種類の理解は地続きであり、理論について考えることは、ほとんど同時にその理論の実現について考えることでもある。ここにおいて、現実の対象は想定するモデルと一致すると言ってよい。しかし、理想的な条件を容易に実現できない場合には話が違ってくる。この場合、数理的には正しいが現実とうまく合致しない、あるいは、経験的には制御もしくは法則化可能だが、理論的な(=メカニズムの)説明ができないという事態が生ずる。理想的な条件を容易に実現できない場合とは、理論が、より正確に言えば、現実に合致させるために想定しなければならないモデルが複雑すぎるか、現実を理想的な条件に置くための制御が複雑すぎるか、あるいはその両方ではないかと思われる。
以下に述べることは少々飛躍しているかもしれない。ここまで書いて、現実と想定可能なモデルとが近接していないならば、そもそもそのモデルを理解と呼んでよいのか、という疑念が生じた。もし仮に人が、現実と想定可能なモデルとが近接(一致)していることを「理解」と呼び、そうでない事態に為されることを「解釈」と呼ぶ(余談1.解釈参照)のであれば、理解とはすなわち対象についてのモデル(想定)と現実における対象(の制御)が近接あるいは一致することを指すのではないか。
前記事の動画を思い起こすと、動画内で「高次元な事象でもグラフィカルな(視覚的な)変換によって(言わば目で見て)わかるのであれば、そのことを以て理解と言ってもいいのではないか」という議論が為されていたように思う。聞いた時には「正しいが、視覚のような身体的な、言わば無意識に頼ったものを理解と呼んでよいのか否か」と思案した。確かに例えば量子は波動性と粒子性が身体的・感覚的な直観に反するがために、まさに新しく考案された語=概念ではある。ここでもし仮に「理解」をこの種の身体的・感覚的な、無意識の直観へ言わば還元し、したがって意識的な理解というものをそもそも否定するのであれば、理解とは身体的・感覚的直観と、その直観から抽象化された像についてのものだと言ってよい。この時人は身体的・感覚的直観とその像から推論不能な事態には理解ではなく「解釈」せざるを得ないことになる。解釈とは、人の身体的・感覚的直観に反するものに対し、それでもそれを何処かに定位し納得したいという動機に因る。感覚器官の性能と脳の演算能力には限界があり、またその限界に伴う認知資源を有効に活用するため、世界をよりローコストに再現する=情報を圧縮することは理に適っている。感覚器官の形式と圧縮の手法によって、直観的でない、すなわち理解できず解釈に頼らざるを得ない事柄が生じることは想像に難くない。
また身体的・感覚的な直観ということを考えると、概念の理解は身体操作の延長にあるように思われる。ある数列を見て、「わたしは今やこの数列を理解した」「わたしは今やこの数列の先をつづけて書くことができる」と言う時、それは「わたしはこの数列を操作(によって推論)できる」ということの言い換えである。この操作が概念上のものであればそれはモデリングであり、現実における操作であればそれは制御である。
まとめると、導入した二つの仮定が正しいのであれば、理解とは身体的・感覚的な直観に基づき対象の二側面(概念あるいは事物)を共に操作可能であることを指す。操作が概念上のものであればそれはモデリングであり、これは科学の理論的側面に属する。操作が現実のものであればそれは技術的制御であり、これは科学の実際的・技術的側面に属する。概念上であれ現実の上であれ、操作が難しい場合には二側面の近接性は失われ、人の感覚に合致させるために何らかの解釈が必要になる。ただし、操作可能性は身体的にも概念的にも訓練によって向上させることができる。したがって対象を操作できるか否か、理解できるか否かは訓練によって変動する。このような(理解の)理解のもとに、直観的な理解が困難な高次元の事象を、グラフィカルな処理によって人の感覚に合致するよう変換を施すことは理解にとって正当であると結論する。
これまで見てきたように、解釈問題は少なくとも二つのパターンに弁別できる。ひとつは高次元科学や統計に見られるような複雑さの問題であり、この問題はグラフィカルな処理などの感覚的に受け入れやすい変換を施すことで理解しやすく緩和可能である。ひとつは量子や確率のような身体感覚に合致しない認知形式上の問題であり、概念の創設および訓練と制御技術の発展によって緩和可能であると思われる。このように、対象の性質がどのようなもので、なぜ我々が解釈に頼らざるを得ないのかを考えることは、解決に向けた一助になると思われる。逆に言えば、そもそも「理解」とか「解釈」と言うことで、一体我々が何をしているのかを明らかにせず議論を進めることは不毛ではないかと思う。

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