人生に意味はない

人生の意味。益体もない話ではある。大抵の人は「そんなものはない」「考えてもしょうがない」と答えると思う。その答えには私も同意する。さてしかし、なぜ人生に意味がないのか、あるいは、なぜ考えてもしょうがないのか、見聞きした覚えがない。私も、自分の考えを口に出したことはほとんどない。

そもそも、人生の意味と一口に言っても、何を問うているのかは判然としない。言葉を探すと、生きる価値や、自分の行いの意義などに言い換えできるように思う。
人生の意味や生きる価値と言うほど大仰でなくとも、それを問う時と同じ感覚に陥ることは意外と頻繁にある。学生が勉強に対して「こんな勉強をして一体何になるのか、本当に役に立つのか」と思う。スマホのゲームで遊んでいてふと我に返る。「こんな下らないことをして一体何になるのか」。風呂場や布団の中でふと考える。「この生活は一体いつまで続くのか」。置かれた状況が悪ければ、「こんな生活が一体いつまで続くのか」になる。記事を書きながら「こんな記事を書いて何の意味があるのかわからん」と思うことも無きにしもあらず。風呂場や布団の中は特に危険だ。電車の中や、運転しない時の車内も危険かもしれない。後者については、昨今はスマホのおかげで疑問を持つ機会は減っているようにも思う。

何かをしながら、あるいは休んでいる時にふと疑問が生じる。こうした経験は誰しも、折にふれてあることだろう。

なぜ「意外と」頻繁にあるのかを考えると、それは大抵の場合こうした疑問を無視、スルーしているからだ。無視しているから記憶に残らない。そして「そんなものはない」とか「考えてもしょうがない」と言うのは、疑問を無視するための呪文なのだ。少し考えれば、意味や価値や意義といったものは相対的で、つまり考え方次第でどうにでもなることに気づく。「そう思うならそうなんだろう。お前ん中ではな」ってやつだ。無視するだけなら簡単にたどり着く結論で充分、というわけだ。疑問を持つ度に一々つまずいていたら、生活が成り立たない。無視は当然だろう。

生活が安定し充実していれば、こうした疑問を無視することは容易い。やりたいこと、やるべきことがあれば、それをやり始めれば疑問は消える。集中している最中に疑問は生じない。疑問のない状態、つまり日常に、簡単に戻ることができる。
問題はそうでない時だ。生活が不安定で、充実していなかったり、不満を感じることが多い場合。そういう時には、ふとした疑問を無視することが難しい。やりたくないから手がつかず、集中も続かない。その度に疑問が生じ、何の意味があるのか、価値や意義があるのかといった疑問を、マトモに考えてしまう。こうした思考は往々にして、やらないための理由を探す非生産的で不健全なものになる。
考えた結果、生活を変える転機になるのならまだいい。そうでない場合、例えば学生の身分では、主体的に生活を大きく変えることは難しいだろう。学生でなくとも、使える時間や収入が少ないとか、家族を養わなければいけないとか、そうした諸々の事情から板挟みにあってしまえば、うつ病や自殺に繋がってしまっても不思議ではない。

疑問を持ってしまった時、それをマトモに考えたり、あるいは新しく何かを始めてみるとか、楽しいことに没頭するとかいったことは、得策ではないと思う。価値や意義を感じていないのに無理くり考え出しても、それこそ意味がない。やりたくないことを適当に済ませて、楽しめることだけがんばっても、結局は逃避でしかない。どちらも対症療法だ。
大事なのは、人間ってそういうものだと理解することだと思う。
人間、休まずずっと集中し続けられるようにはできていない。どんなに楽しく充実した生活を送っていても、自分の行いに全く疑問を持たないなんてことは不可能だ。
どんなに意味があると思いたくとも、人生の意味を保証してくれるものなど何処にもない。自分にとって価値があると思えるものが見つかるかもしれないし、見つからないかもしれない。今は価値があると思っていても、時間が経てば変わるかもしれない。

疑問を持つのは自然なことだ。呪文で撃退してもいいし、何なら「疲れてるな」とか「いつものことだな」とか思っておけばいい。条件付きでなら――つまり何らかの価値基準を設ければ――意味は普通にあるのだから、無視するのが当たり前のことだろう。「考えてもしょうがない」というのはそういう意味だし、「人生に意味はない」という言葉は、無条件に意味や価値や意義を求めること自体、そもそもナンセンスだという戒めなのだ。
また、疑問を無視できるかどうかは、自分に余裕があるかどうかの指標になる。無視できない時は、どうして無視できないのか、なぜ余裕がないのかを考える切っ掛けになる。考えて生活を変えられればよし。どうにもならない時は、おそらく誰かに頼るしかない。そのくらい余裕がないのだから、誰かに頼っても、それは悪いことではないだろう。余裕のある人が余裕のない人を助けられるなら、それは紛れもなく善いことだと思う。

さて、言いたいことは大体書いてしまったが、もう少し考えたことがある。
この問題について考える時、どうも人はハードルを上げていく傾向にあるように思う。つまり「より意味がある人生、より価値が高い人生の方が、より良い人生だ」とナチュラルに考えているように見える。大きな業績、高い評価や報酬、名誉など、そういったものがあった方がいいと。
私はこの考え方は間違っていると思う。そこまで期待されていないからだ。

人生の意味について真面目に考えると、そこに社会的な見方が入ることは明らかだろう。ヒトは群れで生きる生き物だ。他人の力を借りずに、全く独力で生きることは難しい。関わらなければ生きていけないのであれば、そこに自分にとっての社会、社会にとっての自分、という互恵的な観点が入るのは自然なことだ。何が社会にとって意味のあることなのか、と言われれば難しいが、広い意味での社会貢献だと思っておけば間違いではないと思う。
あるいはもっと具体的に、周囲の人から何を求められているのかを考えればわかりやすいかもしれない。大抵の場合、大したことは求められていない。家族を念頭に置けば、健康に過ごしてほしいとか、生活に困窮してほしくないとか、できれば家庭を持って孫の顔を見せてほしいとか、精々そのくらいだろう。これらが社会情勢からして難しいという事実はあるが、今は置いておく。要するに、家族と言えども他人に非凡なことを求めている人は、実はほとんどいないということだ。極端な話、「私に救世主になってもらいたいか」と周囲に聞けば、イエスという答えはまず返って来ないだろう。誰もそんな期待はしていない。

より意味のある人生、より価値ある人生を求め、ありもしない期待に応えようとする。これは問題だ。これまでの話に逆行してしまう。
どういう人生が、誰がどう考えても意味がある、価値があると言える人生なのか。それを考えるということは、つまり人生の意味をマトモに考えることに他ならない。人生の意味を考えていて、やりたいこと、やるべきことに集中できるだろうか。周囲の期待に沿うことになるのだろうか。日々の生活をお座なりにして、周囲の期待に反してまで人生の意味を考えて、一体なんになるのか。

時折浮かぶ疑問という形でなしに、平時に人生を意味を問うとすれば、それは偏に願望なのだと思う。人生の意味を認めてもらいたい。期待されていると思いたい。なぜそう思うのか。自分が意味ある人生を送るに足る人間だと思っているから、期待されて当然だと思っているからだ。もっと言えば、自分はスゴイ人間だ、自分に高い能力があるという結論が先にあって、それを誇示するために意味や価値を求めるのではないか。
別にそれはそれで構わない。
今わの際には、けっこうな人が後悔の言葉を遺すそうだ。他人から拍手喝采を浴びるための人生に悔いが残らないとは私には思えないが、それこそ人それぞれだろう。ただ、悔いのないように生きるにはどうすればいいか、満足して死ぬためにどうすればいいかを考える方が、自分の願望に向き合わねばならない分、人生の意味を問うよりは幾分かマシではないかと思う。

最後に。最低限社会と関りを持ち、多少なり社会に貢献し、害を為さないのであれば、他人にそれ以上のことを求めるべきではない。それ以上のことについては、他人の期待に応える義務など、元来誰にもない。
人はたとえ謙虚でも、自分を基準に考えてしまうことはままある。それは仕方のないことだ。例えば、親が高度経済成長期を生きてきた、その基準を子に求めてしまうとか。親の普通が、子にとっては高いハードルになってしまう。自分と同じことを求めているだけなのに、世相がそれを許さないといったことが。子が理解を得られないとすれば、それは互いにとって不幸なことだと思う。過度な期待は問題を生むと肝に銘じたいものだ。

以上、人生の意味について考えたことを書いた。ありふれた問題にしては、世間的には正しく対処している人が多いようだ。それだけ皆が上手に生きているということだろうか。そう願いたいものだが、上手くいかないことは誰にでもある。大した文章ではないが、そういう時に多少なりとも支えになれば、書いた意味があるというものだ。

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