『哲学探究』概説

はじめに

 ウィトゲンシュタイン『哲学探究』を概説する。モチベーションは、第一に、ウィトゲンシュタインの文章が分かりづらく、簡単にまとめたものが欲しいため。第二に、人に説明する手間を省くため。第三に、科学(特に認知科学)と親和的な哲学として有望だと考えるので、その紹介のためである。
 本稿についてのご意見、ご感想、ご質問等あれば下記まで。
mail:vozleaf☆gmail.com

要約

 先ず以て、『哲学探究』全体を要約することは難しい。書かれた歴史的な背景や、そこにおける問題意識を共有しなければならないためである。これを説明することは迂遠であり、わたしの目的にとって直接的に関心があることではない。したがって本稿では概説と銘打ちながら、わたしの理解と関心に基づき『探究』を再構成した。説明に際して、原典からの直接の引用は一切ない。第1~3章では、言語活動の目的を情報伝達に置き、目的に合致する要件として「伝達効率の向上」を軸に、言語がその活動において如何に構成されるかを概観する。第4~5章では、活動の領域を言語から拡張することで、最終的に認知モデル(のようなもの)を導出することを目的とする。
 大まかな流れは原典に沿うように構成したが、一部(状況および慣習の強調、納得のゆく表現形式の強調、ラベルの導入、その他いくつかの主張)は原典には存在しない補助的なものである。また、原典にあるいくつかの項目(家族的類似、私的言語など)は、全体としてさほど重要でないと判断し割愛した。

1.言語ゲーム

 ウィトゲンシュタイン(以下Wと略記)は『哲学探究』において、言語ゲームという考え方を骨子とした。言語ゲームはその名の通り、言語活動をゲームとして捉えるものである。一般的にゲームと言うと、いわゆるTVゲーム、ビデオゲームを思い浮かべるが、ここで言うゲームはより広い範囲を指す。以下、ゲームの例を列挙する。

・ボードゲーム
 チェス、将棋、囲碁、すごろくなど
・スポーツ
 野球、サッカーなど
・カードゲーム
 トランプ、UNOなど
・その他
 ジャンケン
 あっち向いてホイ
 伝言ゲーム
 しりとり
 アルプス一万尺

 これらゲームに共通する特徴をまとめると、ゲームは、「一定のルール(規則)の下、道具を用いて、環境(※)または他者と相互作用する活動」と表現できる。これらのゲームは必ずしも競技ではなく、勝敗のないゲームもあることに注意されたい。
 言語活動は語を道具とし、その定義および文法を規則とした、環境または他者との相互作用を伴う活動と見做すことができる。したがって、言語活動はゲームに類するものである。
※環境との相互作用は、いわゆるひとり遊び、言語活動では独り言や掛け声などを想定している。

 言語活動がゲームであるとする類比は良いとして、しかし日常的には、わたしたちは言語活動をゲームと呼ぶことはない。実際、Wに対しF.ラムゼイより、「言語活動とゲームを比べることができたとしても、それを以てその言語使用者が何らかのゲームに従事しているとは(少なくとも表面的には)言えない」旨の指摘があった(※)ようである。確かにラムゼイの指摘の通り、ゲームと言語活動には差異が見られる。以下、ゲームと言語活動を対比することで、その類似と差異を明らかにするとともに、言語ゲームによってどのような視座が得られるかを解説する。なお、本稿では『哲学探究』に沿って解説するに伴い、ゲームと言語活動との差異について折に触れて言及する。
※高木俊一氏よりご教示頂いた。『哲学探究』第81節を参照のこと。

 細かい考察に移る前に、ふたつの前提を確認する。ひとつ目は、ゲームと言語活動のそれぞれの目的である。ゲームの目的が基本的に遊ぶこと、ゲーム自体の遂行にあるのに対し、言語活動の目的は主にコミュニケーション、情報伝達にある。これを第一の差異としてもよい。目的の違いから、ゲームにおいては必要だが言語活動には不要である、あるいはその逆であるような慣習が生じることは想像に難くない。
 ふたつ目は、道具の成立に対する制限である。例えば球技で扱う球は、適度な大きさでなければ道具として使うことができない。身近でかつ比較的大きいものでは、ビーチボールとバランスボールが直径75cm程度であるが、これ以上の大きさになると、手足で扱うことが困難になってくる。例外的なものとしてゾーブ(人間が中に入って転がるビニール球)は直径3.2mあるが、これを球技としてよいかは少々疑問である。小さいものでは卓球の球が40mm程度。もっと小さくとも扱えるが、これより小さいものは例えばビー玉(17mm)やパチンコ玉(直径11mm)、BB弾(直径6mm)となり、球技というよりは、指や機材を用いた撃ち出しが主な用途となる。球技として人間が扱うことのできる球の大きさは、およそ直径40mm~75cm程度であり、この範囲になければ球は道具として成立し得ない。これは人間の身体的形状、サイズ、運動機能に由来する。
 言語についても同様のことが言える。例えば音声言語であれば、発声器官の出力周波数帯および、聴覚器官の可聴域と分解能はおおよそ決まっている。文字であれば、視覚における認識の分解能と速度、および眼球運動の速度などが制限となる。人間は普通このような条件下においてのみ言語を扱うことができ、したがって言語はこの範囲に収まるよう構成されている。これは、単位時間あたりに伝達できる情報量=伝達速度に充分小さな限界があることを意味する。
 以上二つの前提、情報伝達という目的と伝達速度の制限より、言語という道具に求められる要件が浮かび上がってくる。すなわち、伝達効率の向上である。

 ここでは一例として、言語の多義性に注目する。
 道具として将棋(盤と駒)とトランプを比較した時、より多くの種類のゲームを行うことができるのはトランプの方である。将棋については、わたしは将棋と将棋崩しの2種しか知らない。一方トランプは、大富豪、七並べ、ポーカー、ブラックジャックなど、多くのゲームをすることができる。また、占い、トランプタワー、マジックなど、カードゲーム以外の使い方も多様である。トランプは盤と駒よりも多義的である、あるいは、トランプの使い方は盤と駒よりも曖昧である、と言える。このトランプと将棋の対比から、「道具の使い方の数、道具に与え得る役割の数と、その道具を用いるゲームの数は一致する」と結論できる。したがって、道具の使い方の数が多ければ(すなわち多義的、曖昧であれば)、その道具を用いるゲームの数は多くなる。言語について言えば、ある語(道具)が多義的であれば、その語を用いる言語活動の数は多くなる。前述の要件=伝達効率の向上の観点から、語は可能な限り多義的・曖昧であることが望ましい。その語を用いる活動の数が増える、つまり、同じ語(道具)を使い回すことができるためである。特に短い語については、伝達のために要する時間が短いため、多用することで伝達効率は向上する。しかし一方で、音韻の組合せが限られるため、数を用意することができない。多義的であれば短い語の見かけ上の数を水増しでき、結果的に伝達時間を短縮できる。したがって単位時間あたりの情報量=伝達速度が向上すると考えられる。
 トランプが多様な使われ方をすることは、トランプに多様な役割を与え得る、と言い換えてもよい。やろうと思えば、将棋の駒に新たな役割を付与することは可能である。例えば、歩の動かし方をチェスのポーンと同じくするなど。しかし、盤の形状(升目の数)や駒の動かし方について、さらに種類を増やすことは煩わしいため、一般的には避けられている。せいぜい飛車や角など少数の駒を落とす程度であり、役割の増加や変更は見られない。泰将棋のような拡張された将棋も存在するが、一般的なゲームとは呼び難く、例外的なものと見做すことに違和感はない。ここで言われる「煩わしさ」を、道具の性質から定量的・数学的に考えることは興味深い問題である。なぜトランプについては役割を増やすことが容易で、将棋については煩わしいのか? それが道具の種類の数によるのか、道具同士の関係性によるのか等々は、ゲームや言語の構造についての重要な観点であろう。

 語(道具)は可能な限り多義的・曖昧であることが望ましい。その一方で、ある語の使い方が多義的・曖昧であると、その語だけでは使い方を同定できず、伝達に問題が生じる。例えば、「かく」という音韻だけでは、「書く」「描く」「欠く」「各」「核」などの内、どれを用いているのかが分からない。もちろん都度文中の語について定義を与えてもよいが、定義文中の語についても定義を与える必要が出てくる可能性もあり、大変煩わしい。巧妙なことに、言語は周辺の情報を利用することによってこの問題を回避している。周辺の情報とは、前後の文(文脈依存性)、表情や仕草などの振る舞い(ノンバーバル・コミュニケーション)、時間や場所や対話相手の状態などの環境である。ここではこれら周辺の情報を「状況」と呼ぶ(※)こととする。わたしたちは言語活動において、種々の状況によって語の使い方を同定している。
※水本正晴『ウィトゲンシュタイン vs. チューリング』による。

 ゲームにおいては、どのように道具の使い方を同定しているのか。先ほどの将棋とトランプの例では、道具を用意した時点で、盤と駒についてはほとんど将棋を指す以外の使い方はしない。すなわち、盤と駒の使い方はほとんど定まっている。しかし、トランプについては何をして遊ぶか選択肢が多いため、道具を用意しただけでは、使い方はほとんど定まらない。これに対し一般的に、ゲーム名の宣言(「大富豪やろうぜ!」など)が行われ、この宣言が道具の使い方および規則の決定、すなわち取り決めと見做される。一部のゲームにおいては、宣言に伴って細かいルール、いわゆるローカルルールについての採否判断も行われる。例えば、大富豪における8切りや階段革命の有無などの採否がある。慣れたメンバーでゲームを行う場合には、通常ゲーム名の宣言だけで事足りる。変更がある時にだけ、その旨を伝えればよい。これに対し、言語活動は状況による同定を行うため、日常的には宣言がない場合が多い。前述の通り、いちいち取り決め=定義を与えていては非効率だからである。もちろん、ゲームを宣言なしに行ってもよい。しかし、メンバーやその知識などにある程度条件が必要になる。メンバーが一定であること、慣習的に特定のゲームが行われていること、ローカルルールに対する採否判断が一致していること、などである。余談だが、無言でカードを配り、注意深く見なければ何をしているのかわからない遊びを始める様を想像すると、若干不気味である。逆に、不気味さを演出したければ宣言を省けばよいのかもしれない。
 ゲームは、実行する段階で道具の使い方および規則を宣言により取り決めており、目的を達成するまでの間に変更が加わることは極力避けられる。ゲームの目的は基本的にゲームそのもの、ゲームの遂行にあるため、ゲームの最中に規則が変更されることは、その目的の未達成、すなわちゲームの放棄につながり得るからである。したがって、ゲームにおいて規則は固定的である、と言える。
 一方、言語活動は、流動的に規則を変更し得る。これは伝達がその目的だからであり、伝達のために、規則はむしろ変更した方がよい場合がある。実際、道具の交換(語の言い換え)、使い方の変更(定義の変更)、状況の変更(文脈、環境の変更)、新しい道具(語)の導入などは柔軟に行っている。創作などにおいてもこの傾向は顕著である。
 またこれに伴い、言語活動には規則に違反した場合のペナルティ(罰則)が存在しない。もちろん、語について厳密な定義と文法規則を定め、違反に対して罰則を設けてもよい。しかし、日常生活において余りに煩雑でることは明らかであろう。間違いをより容易に訂正し得る方が、伝達効率に優れ、日常生活の実態にも即している。
 以上をまとめると、言語活動は以下のような特徴を持つことが望ましい。
・多義的である。
・状況から使い方を同定できる。
・使用に際して(事前の)取り決めが必要ない。
・規則が流動的である。
・罰則がない。
 既に言及したが、これらの特徴は基本的に言語活動上の煩わしさを減じるため、伝達効率の向上のために、結果的に生じた慣習だと思われる。これらの特徴、差異を以てラムゼイの主張を是とすることができるかは難しい問題だが、しかし一定の結論は得られると思われる。すなわち、ゲームは取り決めだが、言語活動は(少なくとも部分的には)そうではない。この結論の詳細については次節で解説する。

2.語の意味、規則、慣習

 語の意味について、結論から言えば、「語の意味はその使用である」(『哲学探究』第43節)と言える。第1章での「使い方」という語を「意味」という語と入れ替えても、ほぼ問題なく読むことができる。言語活動をゲームに見立てると、ゲームにおける道具の使い方が、言語活動における語の意味に相当する、ということである。この第43節は、分析哲学における意味の使用説、言語学における語用論など、様々な分野に影響を与えている。
 これに対し、世間一般に見られる素朴な直観においては、語の意味は指示による定義によって与えられると考えられている。例えば、色見本の赤色を指して「これが赤だ」と、指し示すことによって定義を与える、という見方である。これをWは直示的定義と呼ぶ。直示的定義を元に、「語の意味は予め決まっている」「語に意味が付随する」といったイメージ、言語観は一般に見られる。例えば、「リンゴは青い」と言う人に「違う。(色見本を指して)これが赤だ。リンゴは赤い」と間違いを指摘することは、「語の意味が使用を決定する」という直観的理解につながる。赤という語の意味は色見本によって規定・定義されており、意味の違いが判るからこそ使い方=使用の間違いを指摘できる、と考えられるからである。したがって直示的定義からは、「語の意味はその使用である」、言い換えれば、「語の使用が意味を決定する」とは逆の結論が得られることになる。
 さてしかし、直示的定義には例外が存在する。先の例にならい、青リンゴと青信号を取り上げる。これらの語は同じ「青」という語を冠し、またかなりの場合に青と緑とを明確に区別できるにも関わらず、実際には緑色を「青」と呼ぶ例である。したがって、「青」という語は必ずしも色見本による定義に沿った使い方をするわけではない。日本語においては、「青々と茂った」「青二才」のように若いもの(特に植物)について慣習的に青いと表現するため、青リンゴについては理解しやすい。青信号についても、この慣習が転じたもののようである。なお余談だが、最近のLED信号機には(奇妙な表現だが)青い青信号に変更されたものが実在する(※)。
デイリーポータルZ:本当に青い青信号、登場

 このように、事実としていわゆる(直示的)定義とは異なった用法を持つ語は多数存在する。また、あだ名や暗号などの場合には通常の定義とは異なった意味を新規に与え得る。わたしと友人はある人物を「シューベルト」とあだ名で呼んでいるが、当たり前だが彼は明らかにシューベルトではない。暗号の場合には、通常の定義と同じ定義を与えては暗号にならない。第1章の規則の流動性や取り決めの有無を考慮しても、そもそも流動的に変化させ得るものを「定義」と呼ぶことには疑問がある。日常言語においては実際に定義を与えておらず、ある状況における使用によって直接意味を示していると考える方が自然である。
 語の使用の訓練および学習においても、与えられた定義の学習と言うよりは、慣習的使用の学習と言った方が実態に即している。我々は緑色のリンゴや緑色の信号を見て「青」と反応するように訓練され、学習する。そして訓練および学習の結果として、ある話者間で使用が一致することがコミュニケーションを可能にする。英語では青リンゴを「green apple」と呼ぶ。これは日本語と英語における慣習の差異である。青リンゴが英語で「blue apple」でないことを疑問に思う人はいないだろう。もしかしたら日本でも、頑として「緑リンゴ、緑信号」と言い張る人がいるかもしれない。彼らと接する時、使用の不一致から意味の違いを理解することができ、このことが間違いを指摘する根拠となる。
 日常言語における語の意味すなわち使用は、定義によって与えられると言うよりも、慣習によって支えられている。この意味で、辞書は規則を記したルールブックではなく、慣習的用法の参照先である。「リンゴ」という文字がリンゴを意味しなければならない理由はなく、ビートルズのメンバーでも椎名林檎でも構わない。もっと言えば、全く別の何かを意味していても構わないが、しかし慣習的には何でも構わないわけではない。状況によって同定できる程度には決まっている必要があり、同定できなければコミュニケーションを図る度に暗号を解読する羽目に陥ることになる。これは明らかに効率的ではない。
 文法における語順もまた慣習による。語順は発話や作文の都度、まったくバラバラでも構わない。しかし、ある程度一定の語順に則っていないと文意を取り違える可能性が高くなる。これは情報伝達の観点から好ましくない。多用する単純な文の語順から複雑な文へと、順を追って挿入箇所を決め慣習化していけば、語順についてさほど多くのバリエーションは生まれない。実際言語間を比較しても、語順のバリエーションは言語のバリエーションほど多くはない。例えば英語の関係詞は、結論から入って後から補足できる形の挿入の慣習である。日本語では結論⇒補足の順で文を構成する場合には、2文以上に分ける必要がある。ある程度以上長い補足を付け足す場合には関係詞は効率がよいのではないか。英語と日本語における関係詞の有無という差異は、おそらく漢字のような複雑な表意文字を持つ言語との差異が生むものと思われる。情報が圧縮された文字の体系では、形容のための音韻および文字の数が少なくなるため、関係詞の導入による効率化は効果が低くなるだろう。このように、使用する文字の形式などによるプロセス上の制約は言語活動上の慣習に影響を与え得るものと考えられる。

 言語活動が慣習によるものだとして、定義や文法、すなわち言語活動における規則とは一体何なのか、という疑問が生じる。これに対しては二通りの回答が考えられる。第一に、規則は語と語の間の関係であるということ、第二に、規則は訓練・学習の規準であるということである。
 語の定義とは、その語についての一定の説明である。これはその語についての、別の語による説明であり、それら語についての関係を示す。一定の説明あるいは関係を与えることは、その語についての取り決めを与えることと同じであり、したがってその語に関する活動をゲームと見做すことと一致する。この意味で、定義を元にした活動、例えば数学や自然科学は一種のゲームである、と言える。文法についても、文法が語に役割(「名詞」や「動詞」のような)を与え、役割の間の一定の関係を示すものである、ということから定義と同様の議論が成立する。
 定義や文法規則の提示は、直示的定義のように訓練・学習の初期の段階で用いられることがある。例えば、子供に色を教える場合、物の指示(リンゴの絵の指し示し)に対して色(赤)を回答する、という訓練が想定できる。この場合には、言語活動は単にゲームであると見做してよい。この段階において、人は指示に対して正しい答えを言う、という反応をするよう訓練され、学習する。この時答えが正しいかどうかは、与えられた規則に依存する。すなわち、規則は訓練および学習の規準として用いられている。
 このように、規則は言語活動をゲームとして行う際に用いられるものである。一方、第1章で述べたように、日常の言語活動は少なくとも部分的にはゲームではない。ここにおいて、ゲームと言語活動の差異は、規則と慣習の差異である、と言える。では慣習とは何か。慣習とは、様々な状況における使用の繰り返しである。ひとつ例を挙げる。わたしの姪(3歳)は先日、クリスマスプレゼントにシルバニアファミリーのお父さん人形をリクエストした。彼女はシルバニアファミリーの家や他の人形を持っていたが、お父さん役の人形を持っていなかった。彼女はクリスマスを前に「クリスマスには何がほしいの?」という質問をたびたび受け、都度「シルバニアファミリーのお父さんがほしい」と回答していたが、あまりに同じことを聞かれるため面倒になったのか、最終的に「お父さん」と回答するに至った、という笑い話である。もちろん父親は健在であり、離婚もしていない。彼女はこのような状況において「お父さん」という回答が別の意味になりうることに気づいていないのである。状況における使用を学習するためには、赤色を習い覚える訓練のような単一のゲームによってではなく、実際に様々な状況において使用する、ということを繰り返し行わなければならない。慣習の学習とは、その字義の通り習い慣れること、学習の繰り返しによって語を取り囲む様々な状況を把握することである。すなわち、言語活動における慣習とは、様々な状況による語の取り囲みを示すものと考えられる。
 日常の生活において、文脈、振る舞い、環境等の状況は時々刻々と移り変わっており、ある語の使用が、その使用の持つ旧来の状況から外れること、あるいは、別の語がより適切であるような状況へ変化することは容易に起こり得る。新たな状況における使用が繰り返し起きれば、情報伝達の観点から、語の取り囲み=慣習を新たなものへと変化させることは充分正当である。これが言語活動における慣習の変化、慣習化である。この実例として、誤用の慣習化が挙げられる。

 ここまで、ゲームと言語活動とを対比的に扱ってきた。しかしややこしいことに、実際のゲームは当然ながら日常における活動である。ゲームという活動には必然的に状況が伴い、したがってゲームについての慣習が存在する。第1章で宣言について語っている段がこれに当たる。また、前述した「数学や自然科学は一種のゲームである」と言うことに対する抵抗があるとすれば、それは数学や自然科学を、言わば理想化されたゲームと見做すことに対する抵抗である、と言えよう。この見方が、実際の活動から慣習を無視した、単純化された見方だからである。理想を語ることと実際を語ることとの対立はよく目にするが、これは規則と慣習の対立と言い換えることができるかもしれない。規則を伴う活動=ゲームとしての活動は、学習の規準として、そして語の関係の説明として、折に触れて繰り返し規則を参照するような活動である。ここにおいて、参照の繰り返しによって慣習が生まれ、時には状況の変化によって慣習の変化や規則の改定が為される。このような活動における理想化されたゲーム、繰り返し参照される規則は、すなわち規範と言ってよい。本稿では以後弁別のため、日常の活動=言語ゲームと対比される、理想的なゲームを意味するものとして、この「規範」という呼称を使用することとする。いわゆる社会的な規範を指すものではないことに注意されたい。
 さてここで、第1章で言及したラムゼイの主張および、『探究』第81節における「論理学は規範の学である」という言葉で言われていること、正確を期せば、ラムゼイの主張に対して言語ゲームの立場から言えることは何かが明らかになると思われる。繰り返しになるが、人間が活動する以上、そこにはどうしても状況が生まれる。人間は理想的なゲームをプレイすること、純粋に規範だけを扱うことはできない。例えば数学における規範、すなわち規則の成す全体は極めて強固であり、したがって数学の規範性は比較的高いと言える。しかし計算あるいは証明は活動であり、ここには慣習が存在する。計算や証明におけるテクニカルな手法は、初学者にはエレガントで高度なものよりも、冗長であっても簡単なものを選ぶ方が良い。この選択は学習者のレベルの他にも、教育機関や教員や教科書によって変わり得る。細かい部分では、計算には暗算、手計算、電卓、算盤など様々な手法があるし、記法や記号の読み方などもローカライズされていたりする。一方、言語活動は第1章で見た通りかなり規範性が薄い。言語においては、数学における実際の計算にあたるもの、情報伝達の重要性が高いためである。極端な言い方をすれば、情報伝達さえできればよく、伝達のためなら規範をどこまでもへし折っていく。規範に従ってもよいが、そうしなくともよい。言語は慣習=状況に頼り、それが(長期的には)変化してしまっても実際上の問題は生じない。口語では、世代を経ればコミュニケーションが生じず、また文語(書物)も参照されづらくなっていくため、充分な世代を経れば、ある時代の言語を規範と見做す実際上の理由は減じていく。逆に、言語の慣習を規範によって固定化することは、状況の変化への追随を阻害する側面を持つ。
 論理学においてはどうか。わたしは論理学を修めておらず、論理学がどこまで規範的なのかについて詳しくないが、しかし少なくとも数学と同程度の規範性は持つように思われる。取り決めた規則について、またそこから演算・演繹できる規則について、訓練および学習の規準であり、関係の説明であり、繰り返し立ち返る先である、という意味で「論理学は規範の学である」と言うことは正しい。
 一方、第81節で規範と対置される記述は、例えば数学における計算や証明、そして言語活動における情報伝達として捉えられる。計算や伝達される情報は、(ある事実についての)規則を用いた記述である。これは規則がゲームにおける取り決めであることとは異なる。取り決めるルールは恣意的であって何でもよい。例えば人間の手指が10本でなかったとしたら、10進法はここまでスタンダートなものにはなり得なかったであろう。一方、時計は12進法と60進法とを並列に用いている(小数点以下を含めれば100進法も)が、これは約数の多さという利便性のためである。どの進法を採用するかは取り決めであって、どの進法の時間も別の進法の時間に換算できる、という意味で、それぞれの記述の内実は変わらない。進数という記法は記述ではなく、したがって規則=規範は記述ではない。ただしややこしいが、上記のように規則(の採用など)を記述することは可能である。

コラム:分析哲学と言語ゲーム

 世間的な認識とは違い、いわゆる分析哲学と言語ゲームは明確に異なる。言語ゲームにおいては、例えば分析哲学で言われるような、「水とH2Oは同一である」(同一説)という言明はまったく受け入れることができない。なぜなら、一般的に「水」という語の使用および状況と「H2O」という語の使用および状況は異なっており、したがってほとんどの場合両者の意味は異なるからである。例えば、喫茶店で水を頼む場合、「H2Oをください」とは言わない。また、化学実験においても「H2Oを汲んできて」とは言わない。水の類義語は、H2Oの他にも、「純水」「水道水」「飲料水」など多岐に亘るが、すべて使用および状況は異なっており、不純物を考慮すると、物質としても同一とは言い難い。例えば体液(血液など)はその構成物の大部分が水であるが、これらが水であると見做されることはほとんどない。化学を教える際に「水はH2Oである」と言う場合も「同一である」という意味ではなく、「水は分子式で書き表せばH2Oである」という意味である。もちろん場合によっては「水」という語と「H2O」という語が交換可能、すなわち同じ意味である状況はあり得るが、例に挙げたように一般的には成立しないため、特殊な場合と見做すべきである。言語ゲームに忠実に考えれば、同一説のような言明を一般化することはあり得ない。したがって、意味の使用説を採用しているとしても、それがすなわち言語ゲームの採用を指すわけではない。むしろわたしの経験上、「意味の使用説」と言われる場合、それが言語ゲームの文脈で言われることはほとんどない。また、分析哲学において言語ゲームが取り上げられることもほとんどない。
 同一説に見られるような、哲学における論理学の利用は、理想化されたゲームについての哲学を意味し、したがってそのような哲学は必然的に規範についての哲学である、と言えるのではないか。確かに論理学は実際有用ではあるが、それは論証という活動として、また計算機科学における実践として有用なのであり、言語ゲーム的に、すなわち日常の言語活動やその慣習の経験的記述において有用であることは自明ではない。論理的な分析というものは、日常の活動とその慣習的側面を度外視した見方、例えば野球という活動についての議論で、野球のルールを語るようなものではないのか。確かに人間は規則に則り、その演繹により新たな規則を作ることができる。しかし、その間には学習という過程があり、表現という活動と慣習とがあるのである。学習過程を排し、日常の活動と慣習とを排し、規則のみを扱うことは、人間の活動における表層的な表現の、さらに抽出され正規化された一部分を扱うことに他ならない。論理学が人間の活動の一部をシミュレートすることが事実であるとしても、それは日常の活動を記述するものではない。学習過程や慣習的側面を考えた時、これらは極めて複雑怪奇であり、日常の活動を規則によって記述することは困難である。よしんば記述することができたとしても、それを理解し活用することは不可能ではないかと思われる(※)。これらのことを考慮すると、論理的分析による記述が哲学的偏狭であることは明らかではなかろうか。これがWが『論理哲学論考』を部分的にであれ捨て去った理由であろう。そしてこのことが、Wの小学校の教員という経験によって、人間の学習過程をつぶさに見る機会に恵まれた影響によるだろうことは、想像に難くない。
※規則による記述を還元的にし尽くせば、学習過程や慣習を記述できるのではないか、という観点については後述の補遺3で触れる。ただしこれは機械学習に見られるような数学的記述であって、論理学的な記述とは言い難いと思われる。強力な並列演算機による、学習などの数学的記述が可能となった近年において、論理的モデルでなく数学的モデルに頼ることは自然ではなかろうか。

3.心的過程、ラベル

 『探究』では、痛み、理解、思考、想像、意志、意図などの心的・内的な語についての議論に、かなりの分量が割かれている。ここでは個別の語についての詳細は省き、心的・内的な語の特徴をまとめて解説する。
 前提として、現状人間は心的過程を直接伝達する手段を持たない(※)。例えば、痛みなどの感覚は直接他人には伝わらない。伝達のためには、振る舞い、口語、文語、絵、映像などの手段、すなわち表現を用いて間接的に説明しなければならない。以下例示する。

・痛みについて。実際に痛みがあるかどうか、またそれがどのような感覚かは、表面的には当人にしかわからない。したがって痛みがあるかどうかは、「痛い」という発言、つらそうな表情、患部を庇うなどの振る舞いによって判断される。医者にかかる場合には、どこに・どのような痛みがあり、その程度や持続、どのような場合に起こり増減するのかを説明する。
・理解について。例えばある計算法を理解したかどうかは、提示した理論や例題とその解法に対し、類題が解けるか否かによって判断される。また、一定の状況の下で、計算法の使用を示すことで理解を示している。ここにおける理解の度合い、深さとは、計算法を使用できる状況の広さである。
・思考について。「~を考えよ」と言われ従う場合には、考える演技をする。例えば、顎に手を当てる、眉間にしわを寄せる、腕を組んで下を向くなど。このような振る舞いなしに、口を開けて呆けている状態を目にすると、本当に考えているのか不信に思う。また考えた内容の説明によって、思考されたかどうか、そこにおける真剣さなどを判断する。

 これら心的過程についての語を使用する際、心的過程として、内的に何が起こっているのかは問題にならない。痛みというの学習は振る舞いの学習である。ある種の振る舞い等の表現に対し痛みという語を使用するのであり、内的に起こっていることを痛みと呼ぶのではない。これは直観に反するが、しかし振る舞いの一致を以て語の使用の一致とするのでなければ、コミュニケーションを図ることは出来ない。具体的には、子供は転んでどこかをぶつけたり、注射を受けた時に、「痛かったね」と言われ、そのような状況において生じる感覚が「痛み」であることを学ぶ。この場合、訓練の規準、すなわち語を教える基準は、転んだこと、注射を受けたことであり、子供に生じた感覚ではない。もちろん子供に生じた感覚がどのようなものかを問題にすることはできるが、それは科学的な探究、すなわち納得のゆく表現形式(『探究』第158節)の探究であり、言語活動においては無用である。例えば脳を調べることによって、痛みの感覚を物理的に同定することはできるかもしれない。この調査に科学的な意義があるのかは置くとしても、日常生活を送るのに脳の調査が必要となることはあり得ない。逐一感覚の内実について問わねばならないような言語は、その煩わしさを考慮すると、日常の活動における言語としては不適であろう。心的過程を表す語は、その内実が何であるかに関わらず、使用できるように構成されているのである。これについては「箱の中のカブトムシ」(『探究』第293節)が分かりやすい例えかもしれない。「箱の中のカブトムシ」についてはネット上で調べることができるため、詳細は割愛する。
※これについては例外がある。Wによれば、言語における思考は、内的か外的かを問わず「語り」そのものであり、したがって直接伝達可能である。ただし、思考は語りだが、語りは必ずしも思考ではない。思考を欠いた語りというものはあり得るからである。また、像(イメージ)による思考はこの限りではない。例えば、立体物の展開(折り紙や綾取りでもよい)について思考する場合。また、思考について別の表現を用いて説明することは可能である。詳細は『探究』第316節~第362節等を参照のこと。
 ただし厳密には、思考は語りそのものではないと思われる。語りよりも思考の方が速いことや、逆に遅いことがあり得るからである。喋りながら、思考に口が追いつかない、といった経験は誰しもあるだろう。また、自分が口で言ったことを後から理解する、といったこともある。つまり、脳内の何らかの計算過程を思考とするならば、その計算と語りにはずれが生じる可能性があり、したがって思考と語りは同一ではないということになる。

 姪(3歳)は、先日妙に不機嫌だった。「どうしたの」と聞いても不貞腐れるだけで、何が原因かわからなかった。だが、トイレに行かせるとお腹を下しており、トイレの後は機嫌もよくなった。不機嫌だったのは、おそらく腹痛が原因ではないかと思われる。話すのは達者で「痛み」についてもある程度の理解は示すが、下腹の不快感をお腹が「痛い」と表現してよいことには思い至らなかったようである。卑近な例ではあるが、しかし実際、ある感覚をどのように表現すればよいかわからず、思い悩むという経験はありふれたものであろう。これは、自分の感覚に合致する表現を、公共の言語表現から探す、という作業に他ならない。わたし自身、むずむず脚症候群という病気を患っている。文字通り、脚(の内部)にむずむずと掻痒感が生じる病気だ。その感覚が他人にも起こり、病気として認定されている、ということには思い至らず、大人になってから病名を知った。同様に気がつかなかった例として、ブルーフィールド内視現象と不思議の国のアリス症候群がある。また、症状(?)の名前が見つかっていないものとして、極まれに視界の両端が円状に暗くなることがある。外出した時や車内で、特に明所に出た時に起こるため、おそらく瞳孔が視野に入り込んだものではないかと推測しているが、検索しても出てこないため、同様の症例があるのか不明である。先ほど「感覚に合致する表現を探す」と書いたが、ここで行われていることは、より正確に表現すれば「感覚の説明に合致する表現を探す」ことだと言える。したがって、言語活動上の「心的過程」とは第一義的にその説明(表現)のことである、と言える。痛み、理解、思考、想像、意志、意図などの心的・内的な語は言わば、その各々の説明(表現)に対して貼られるラベルである。これはまた、心的・内的な語は心的過程についての種類(カテゴリー)を示す、と言うことでもある。姪は、不快感を上手く説明できるだけの表現力を持たないため、既知の感覚から「痛み」を類推し、腹痛を痛みにカテゴライズすること、腹痛に対し「痛い」というラベルを使用することができなかったのであろう。
 以上より、心的過程を表す言語表現について、3つの段階を想定することができる。すなわち、(言語)活動に伴う心的過程(感覚など)の内実、心的過程の説明(表現)、説明のためのラベル(語)、の3段階である。

 この「心的過程はすなわち説明(表現)である」、具体的には例えば「痛みは振る舞い(行為)である」と言う態度(※)から、Wの見解を心理学における行動主義と関連づける見方があるようである。しかし、哲学上の通説およびWが自称するところでは、Wは行動主義者ではない。この点について補足する。
 『探究』では、心的過程の存在は、虚偽や誤りを含め端的に認められている(第304節、第308節および周辺を参照)。言語活動において心的過程の内実を確認することがなく、語がその内実を(直接)意味しないからと言って、心的過程の存在まで否定する必要はない。日常の活動においては、痛くないのに痛い「ふり」をすることに、ある種の困難さが伴う。同時に、痛みの伴わない痛みの振る舞いを、虚偽だと見抜くことがあり得る。また、心的過程の説明には良い説明と悪い説明があり得る。ここにおいて、説明の良し悪しを決める基準は一体何なのか。これらのことを考えると、心的過程の存在を認めることは理に適っているからである。したがって言語ゲームの立場からは、「行動は心的過程に起因する」と言うことに些かの躊躇もない。ただし、痛みは振る舞い(行為)である、ということが直観に反するという事実を考慮すると、行動の重要性は強調してもし過ぎることはないだろう。また、この「行動は心的過程に起因する」ことに対する探究は、心理学や認知科学における探究であって、哲学における探究ではない。これは例えば「心の理論」についても同様であろう。他者の行動から心的過程を推測している、と言うこと自体に異論はない。実際、例えば子供が転んだ時に痛いだろうと思う、その推測は、心的過程⇔説明⇔ラベル、という3者間における学習に含まれると言ってよい。しかし「推測」と言うと、推測を行う実体を想定しなければならなくなる。これもまた、哲学ではなく心理学における探究であろう。そして、これらのことを以て言語ゲームが「行動主義である」と呼ばれるか否かは、やはり心理学や認知科学における問題であって、哲学的に興味ある問題ではない。
 さてここで、一歩踏み込んだ考察が可能だと思われる。言語活動において、心的過程についての語の使用が一致することが、言語の構造(あるいは公共性)および訓練と学習によって説明できることは既に述べた。この一方で、表現(振る舞いなど)の一致は如何に説明できるのか、という考察である。結論から言えば、言語活動においては、表現の一致は心的過程の内実の一致と見做すことができる。すなわち、ある語によって表現される心的過程の内実は話者間で一致する。これは比較的強い主張であり、事実Wもこのような主張はしていない。根拠は、表現の不一致が科学的な発見につながるという事実である。具体的には、色覚異常を考えればよい。色の弁別に対する反応という表現の不一致が、実際に錐体細胞の不一致につながっている例である。もちろんこの科学的事実は我々を納得させはする。だが、ラベルと表現さえ一致すれば言語活動上は問題ないにも関わらず、ラベルと表現についての物理的な機序まで一致することは、ある種奇妙な一致ではないのか。この一致が偶然ではないということ、すなわち心的過程に伴う反応(表現)と物理的基盤が話者間で一致するということは、心的過程の内実が話者間で一致することを哲学的に(言語ゲーム的に)要請するものと考えられる。ただしこれは程度問題であり、日常的には感覚器官の個々人の差異(視力の個人差)や、同一人物における恒常性(調子が悪い時には霞んで見える)などが認められ、一致の度合いは変動し得る。また、ノーブ効果の哲学実験を考慮すると、心的過程のラベルをどのような状況で学習したか、その語の使用の慣習によっても変動し得ると考えられる。したがって、心的過程と言語活動は(ある程度)相対的である、と言える。同時に、ラベルおよび表現によっては、状況への依存性の高低があり得ると想定できる。例えば、痛みなど比較的生得的な反応は慣習的な差は小さく、ある種の好悪などの比較的生得的でない反応は慣習的な差は大きいと考えられる。例えば、足の小指をぶつけて痛がる反応に時代、地域差があるとは考えづらい。一方、ファッションの好みに時代、地域差があることは明らかである。逆説的に、ラベルおよび表現の一致性は、その概念についての慣習的・文化的影響の指標となり得るのではないか。このような観点からサピア・ウォーフ仮説やブーバ・キキ効果を考えることは、興味深い問題であろう。
※W自身は「説明」という言葉を意図して避けるが、これは例えば「痛みにのたうち回ること」と、それを「説明すること」とが別の行為であるためである。自然な表出を説明することは確かに迂遠である。この章での「説明」という語の用法は、自然な表出を説明と見做すという用法であり、自然な表出の説明を意味しない。私的にはさほど違和感はないため、説明という表現を用いた。ただ、痛みにのたうち回っている人に「説明ありがとう」と言うと怒られるだろうことは容易に想像できるため、実用的な用法とは言えない。

 章の最後に、心的過程を表す語について、特に注意すべき点を挙げておく。心的過程についての語を、人間以外のものに使用する際は注意が必要である。例えば、「機械が計算する」「脳が推論する」「動物が思考する」のような表現がある。これらは擬人化された表現、つまり比喩であって、文字通りの意味だと受け取ることは誤りである。「動物が思考する」は比喩だ、と言われれば納得できる向きもあろうが、しかし今日においては、「機械が計算する」と言う表現はありふれたものであり、直観的には誤りだとは思えない。そこでこの問題を考えやすくするため、次の実例を挙げる。

 ある科学者が、CPUの更新に伴いワークステーションを買い替えた。ところが新しいCPUにはエラッタ(※)があり、特定の計算を実行すると数値を必ず間違えるのである。科学者は、更新前のワークステーションによる計算結果と比較することでこのエラッタを発見した。そして自らの手で検算して確認し、製造企業に報告した。
※マイクロプロセッサに存在する構造上の欠陥のこと。

 ここにおいて重要な点は、最終的に科学者自らが計算した、ということである。当然企業側でも検証は行われた。もちろん手法として手計算でなければならないわけではないが、しかしこのような検証は必ず人間が行う。なぜ人の手を介さねばならないのか? これは「機械が計算する」と言う時の計算が、人間の計算という行為を機械化=自動化したものに他ならないからである。奇妙な想定ではあるが、例えばタコがもし計算のようなものをするとすればどうか。これを便宜上タコ算としよう。タコ算が8進法であろうことは論を待たないが、タコ算における算盤(すなわち計算機)をタコ算盤とすれば、それは我々の作る算盤とは違ったものになるだろう。タコ算盤はタコ算を機械化・自動化したものであり、当然ながら彼ら自身の計算(タコ算)結果と計算機(タコ算盤)の結果は合致しなければ、それは計算機として用をなさない。換言すれば、計算機が計算機であるためには、それがどのようなものであれ、人間の計算の延長になければならない、ということである。この意味で、「機械による計算」は人間の計算の拡張であると見做すことができる。人の手を介するどんな検証をも排除するような機械は、如何なる意味でも計算機ではあり得ない。機械が発達し、自主的に計算(のようなもの)を実行できるようになったとする。しかしそれは、何らかの機械であることは認められても、もはや「計算機」とは呼ばれないだろう。「機械が計算する」とは、実態としては「機械を用いて人が計算する」と言うことの省略であり、文章にならえばそれは比喩である。したがって文字通りの意味で、機械が自ら計算すると考えること、計算する主体として機械を考えることは誤りである。より一般化すれば、人間と同じ形式の心的過程を持つ主体として、人間以外のものを想定することは誤りである。
 ここで、タコ算についてもう少し掘り下げてみよう。先ず以て、タコの足は一般に「足」と呼ばれるが、物を掴む機能などにより「腕」とも表現される。しかし、腕や足という区別は、人間にとっては有用かつ自然なものであっても、タコにとっては無用の区別ではなかろうか。また、タコの足の根本には比較的大きな神経節があり、この神経節が各々の足の運動を制御すると考えられている。このことから、俗にタコには脳が9つあるとも言われる。胴にある主脳にとって各足がどの程度随意的かはわからないが、タコ(の主脳)にとっての足は、人間にとっての手足よりも随意的ではないのではないか。すなわち、半ば自動的に動くものと想定してもよかろう。これは例えば、漫画『寄生獣』のミギーのようなものと考えられる。作中では、本体である主人公のあずかり知らぬところで、右腕であるミギーが自ずから行動している様が描かれている。タコからしてみれば、人間は4つの足を持ち、その各々の足は半ば自動的に動くものと映るのではないか(※)。さて、このような生き物であるタコに、我々が習うような仕方で計算を訓練するという思考実験を行ってみよう。水の中でも書ける紙と鉛筆を用意し、我々が紙と鉛筆を用いて計算するようにタコを訓練するのである。ここにおいて、もし先ほどの「足が半ば自動的に動く」という想定が正しいとすれば、タコは自らの足を、我々人間が動物を調教するように、あるいは子供を教育するように、訓練しなければならないのではないか。その結果として、タコはある計算問題を見て、足が自ら施した訓練の通りに動くことによって、半ば自動的に答えを得るようになる。ここでタコがしていることは、足を計算するように仕向け誘導することである。この訓練された足は、言わばタコにとっての自動化された計算、すなわち計算機と見做せるのではないか。このような行為を、果たして「計算」と呼ぶことはできるのか。訓練の結果として、たとえ見かけ上は人間の計算と同じことが起こったとしても、その計算は我々人間の用いる「計算」という語とは、違う使われ方をするだろう。つまり、タコにとっての計算という表現は、人間の用いる「計算」という語(と行為)とは、表現全体における文法的地位が異なるのである。したがって人間以外のものに対し、人間の用いる語を当てはめることに、文法的な正当性はないと結論づけられる。
 この結論に対し、例えば動物の知能の研究について、言語ゲームの立場から、次のように言うことができよう。第一に、人間以外のものに語を適用するためには、そこで使用する語について一定の取り決めを与えなければならない。第二に、その取り決めは人間の日常言語における使用と共通する表現を持たねばならない。ミラーテストを例にとると、ここにおける取り決めは、「ミラーテストにパスすることを自己認知とする」ということであり、共通する表現は、「鏡を見た時の反応」である。実験の妥当性は置くとして、このふたつを以て「動物に自己認知がある」と言うことは、言語ゲームとして充分正当である。なぜなら、探究として広く共有可能な形で取り決めを与えること、そしてその語の使用が、日常言語における使用と部分的にであれ一致することが、その探究を納得できる表現形式として科学に位置づけるからである。関連する項目として、補遺1を参照されたい。
 実生活上ではこのプロセスは逆である。まず通常の使用、すなわち人間に適用しているところの「知能」と言う語があり、人はその語に纏わる表現と共通する表現を動物に見出すことによって、その表現を「知能」と呼ぶ(呼びたくなる)。このことの規準は表現が似ているか否かであって、その内実ではない。犬や猫などに知能があるか、意識があるか、あるいは自己認知があるかという科学的あるいは哲学的問題を考慮して、それらの語を使っているわけではない。ここにおいても、心的過程として、内的に何が起こっているのかが問題にならない、という点は共通している。
 普通人間は、人間以外のものに対しても自身と同じ認知形式を持つという仮定の下でしか思考できない。この意味で擬人化という比喩表現は、人間に理解可能な表現形式としての意義を持つ。人間が使う表現の、人間以外への適用についての議論は、すべて「どこまでが人間か」という議論に帰着するのである。ここでの議論は、第2章の「意味」が人間の活動において成り立つことおよび、第5章の確実性に通じるものである。
※足が20本あると見る(人間の指をタコの足と捉える)可能性もある。なおタコについては、P.G.スミス『タコの心身問題』を参照のこと。

コラム:心の哲学批判

 第3章を考慮すると、いわゆる心の哲学で言われる問題の大部分を批判できる。これは言語ゲームの実践における例題でもある。以下列挙する。
・心身問題
 言語ゲームの立場からは、「心」と言う語の使用に注目するべきであろう。例えば「心がこもっていない」という使用には、「真剣みが足りない」という程度の意味しかない。つまり、日常における「心」という語の使用には、心的過程の内実や、哲学的深淵さは伴っていない。日常において心身問題が問題にならない以上、「心身問題」と言う場合の使用は、日常における「心」という語の使用から外れていると考えるべきである。「心」というラベルは実際の状況における説明(表現)に貼り付けられるのであって、心身問題で言われるような使用(心的過程の内実)とは異なる。したがって、言語ゲームの立場からは「心身問題」は疑似問題である。もちろん、ここにおける使用がどのようなものか、ということが肝要ではあるが、各論における使用の詳細については割愛する。一方、医療や認知科学における探究において、心的過程についての科学的不一致が発見されない以上、「心的過程の内実は物理的身体に依拠する」と言う、より強い主張が可能である。繰り返しになるが、これはもちろん哲学の問題ではない。心の哲学では、医療や認知科学に見られるような、科学的な取り決めを行っていないのであり、これをナンセンスだとすることは自然である。
・クオリア(感覚質)
 結論から言えば、感覚における質の差は言語ゲームに影響を与えない。今仮に、読者諸氏の見る赤という色が、わたしにとっての青という色であったとしよう。しかし両者ともに同じモノ(リンゴなど)を見て「赤い」と反応するよう訓練され学習しており、言語ゲーム上は両者を見分けることは不可能である。実際、クオリアが異なるとしても、日常生活においては何も困ることはない。すなわち、クオリアという語を日常の生活の中に定位することはできない。もちろん科学的に解明される場合には別問題だが、それはもはや哲学の問題ではないし、科学的に解明可能な問題でもない。したがって言語ゲームの立場からは、クオリアは無意味(文法上意味を持たない)である。同様に、クオリアを用いた問題や思考実験(意識のハードプロブレム、哲学的ゾンビ、マリーの部屋など)は、すべて無意味である。また仮に導入するとしても、心身問題同様に、科学的不一致が発見されない以上、クオリアが話者間で一致することは哲学的に要請される。
・自由意志
 このラベルを日常的に使用する機会はあまりないが、アメリカでは、弁護士が自由意志を問題にして裁判を争った実例があるようである。自由意志を持たないのだから被告に責任はない、という論旨である。これが馬鹿馬鹿しい主張であることは論を待たないが、では裁判あるいは何らかの責任問題で問われていることは何なのか。ここで問われていることは、実際行われた(犯罪)行為の他に、別の行為を選択する余地があったのか否か、という状況である。したがって行為者の心的過程の内実は問われておらず、自由意志という内実が伴うか否かは日常の活動、「自由」および「責任」という語に纏わる言語ゲームには何ら関与しない。言語ゲームの立場からは「自由意志の問題」は疑似問題である。
 一方、例えばAIについて責任が問えるか、という問題を考えることはできる。しかしこの問題も、心神喪失における責任能力のように、社会的にどのような状況であれば責任を問えるか、という問題であり、自由意志の有無は実際上の問題になり得ない。

 以上のように、言語ゲームの立場からは、心の哲学のほとんどの問題は棄却される。『探究』の出版から60余年を経た今、このような問題が議論されている事実は不可解である。しかし逆に、なぜ心の哲学が問題となるのかを考えることは、哲学的には興味深い問題であろう。また、例えば「クオリア」という語については、特に認知科学において多用されている様に見受けるが、別のラベル(弁別できれば何でもよいが、例えば意識的○○、主観的○○など)を用いる方が、余計な混乱を招かないのではないかと思われる。もちろん、「クオリア」と言うことで、これらの語を代替する使用が為されている場合は実際上の問題はないが、心の哲学で言われるクオリアとは、その使用=意味が異なっていることに充分留意するべきだろう。

4.アスペクト

画像1

 Wは『探究』第Ⅱ部にて「アスペクト」を導入した。上記の絵はウサギとアヒルに見える絵であるが、この絵を見た時、「ウサギとしての見え」をウサギのアスペクト、「アヒルとしての見え」をアヒルのアスペクトと呼称する。心理学で言うところの「オブジェクト認知」あるいは「ゲシュタルト」と同様の概念である。この絵の奇妙さは、知覚(情報)として同一なのにアスペクトは異なることがあり得るという点にある。したがって、アスペクトは知覚に基づくが知覚そのものではなく、あるアスペクトは他のアスペクトに対し排他的である。また例えば、アヒルを知らない人がアヒルのアスペクトを見ることはない。したがって、アヒルとしての見方、アヒルのアスペクトは学習されるものである、と言える。そして人はアスペクトについて、現在どちらを見ているかに関わらず、どちらにも見え得ることを知っている。したがって、アスペクトは記憶として保持可能である。またここでは図示しないが、例えばこの絵を別のウサギの絵で取り囲むことによって、ウサギのアスペクトに引っ張られるという体験が生ずる。したがって、アスペクトは取り囲み=周囲の状況の影響を受ける(※)。
 Wがアスペクトを導入する目的は、アスペクトによって言語活動を認知過程に落とし込むことにある。この絵とアスペクトの関係は、言語活動における語と意味の関係と同じである。第1章で述べたように、「かく」という音韻は、知覚情報としては同じでも、「書く」「描く」「欠く」「各」「核」などの内、どれを意味するのかが状況により変わり得る。同様に、前節のアスペクトに関する議論は、語の意味についても同じ議論が成立する。したがって、語の意味は(認知過程における)アスペクトである
※水本正晴『ウィトゲンシュタイン vs. チューリング』による。

 第3章にて、語について「ラベル」という呼び方を導入した。第3章では単に語として導入したが、ここで以降の議論を簡単にするため拡張しておく。すなわち、表現一般をラベルと呼称することとする。ラベルは、文字、音声言語、数字、その他記号一般(電気信号、モールス信号など)および、反応、振る舞い、ジェスチャーなどの動作、演技、絵、映像などとして扱う。このラベルとアスペクト、状況を用いて、言語ゲームをモデル化したものが下図である。

言語ゲームの概略図

 言語および表現は、ラベルをノード、規則をエッジとして動的なグラフ(ネットワーク)を形成するものと考えられる。グラフ全体が状況=ラベルとその取り囲みであり、状況から見ればラベルと規則は構成要素である。図の都合上一者で描いたが、複数でも可能(=コミュニケーション)であろう。ここで「操作可能な状況」としているのは、例えば建築物や地形など、短期的に操作することが困難な状況の存在を想定している。操作不能な物事についても、ラベルを用いる=言語などにより表現することは可能である。
 このモデルが『探究』を理解する上で、と言う以上に有用なものであるかはさておき、一種の認知モデルであると見做すことができるのではないか。『探究』では直接このようなモデルについての言及はない。しかしこのことから、Wが『哲学探究』の後に『心理学の哲学』を物した、そのモチベーションを垣間見ることができよう。認知科学が始まる前に、言語活動についての経験的な省察から、このようなモデルが類推可能であったということは、ひとつの興味深い事実である。

 実際このようなモデルは、認知科学的には興味あるものではなかろうか。例えば、アスペクトの記憶は意味記憶である、と言える。より正確を期せば、ラベルについてのアスペクト記憶が意味記憶に、状況についてのアスペクト記憶がエピソード記憶に相当すると考えられる。アスペクト記憶は自身を成立させる状況の記憶を含んでおり、したがってあるアスペクトからその状況を類推することは可能である。このことから、意味記憶とエピソード記憶に本質的な違いはないのではないかと考えることは、(妥当性は置くとして)さほど突飛ではないだろう。このように、認知科学との親和を『探究』の中に見出すことができる。
 また、このモデルは(モデルとして正しいかを含め)さらに精緻化可能であって、先に述べた複数での描像に加え、例えば内界と外界の区別の導入など、課題はあるものと見込んでいる。
 Wは他にも図地反転図形やネッカーの立方体などを用いた考察を行っている。当時としてはおそらく先進的なものだろうが、今日においてもその意義が理解されているとは言い難いと思われる。興味を持たれた方は是非原典にあたって頂きたい。

5.確実性

 『探究』における確実性は難しい概念だが、いわゆる身体性を包括する概念であるため、単に身体性として考えても差し支えない。正確を期すと、確実性とは言語ゲームを成立させる前提を意味する。すなわち、人間の在り方および世界の在り方である。日常の生活において疑い得ない(=確実)、そしていわゆる哲学(特に形而上学)において疑われているようなもの、としてもよい。身体性とは、人間の在り方としての身体性、ということである。具体的には、第1章で述べた道具の成立や、第3章で述べた前提(人間は心的過程を直接伝達する手段を持たない)、あるいはアフォーダンスなどがある。一方、世界の在り方については、我々が常日頃接している現実というものを考えればよかろう。具体例としては、人間原理などが該当すると思われる。ここで重要なことは、人間の活動、言語ゲームは、世界と人間身体の相互作用によって生じる、ということである。
 第4章の言語ゲームの概略図では、具体的な規則およびラベルを想定していないため、確実性は反映されていないように見える。しかし、アスペクトは知覚に基づき、ラベルの操作(表現)は運動に基づくため、図全体は身体性に依拠すると言える。ただし、どのような身体性に依拠するか、という点では自由度を持つため、形式的に類似する知能であれば同型のモデル化が可能であると思われる。このことから、さまざまな形の身体性に基づくラベルの表現力を考察すること、表現力によって知能を評価することは、興味深い問題ではなかろうか。例えば、頭足類(イカやタコ)は体表の色を非常に多彩かつ精緻に変化させることができる。残念ながら彼らの色覚は2色錐体であるため、彼ら自身は自分たちの体表の色とその変化を濃淡の形でしか見ることはできないが、もし彼らがその色彩を見ることができたなら、体表の色変化によるコミュニケーションは現状よりもはるかに多様だったに違いない(※)。言語ゲームのモデル化によれば、このような想定が具体的に評価可能であると思われる。
※P.G.スミス『タコの心身問題』を参照のこと。

実践編

 最後に、言語ゲームの実践を記す。「哲学は役に立つか」ということが問われて久しく、この問いに対する有効な回答は杳として見ない。しかし断言するが、言語ゲームは日常の生活において役立つ。言語ゲームは、日常の言語活動の、経験と観察から得られる記述である、と言える。この意味で、言語ゲームは日常の(言語)活動におけるリテラシーである。例えば、広い意味での(学術的でないものを含む)哲学的疑問というものは誰しもが持つものであろう。しかし心の哲学批判で見たように、その問いが日常の生活において、実生活上で意味を持つかどうかは、決して明らかではない。言語ゲームはこれを明らかにする。言語ゲームそのものが、ひとつの世界観を提供するアスペクトだと言ってよい。以下引用する。

……ウィトゲンシュタイン自身示唆しているように、哲学者が人々のアスペクトを変えうるとしたら、それはあくまで(気づかれていない部分を指摘したり別の可能性を示唆したりすることで)「間接的」にのみ可能なのである。そこでは特定の像を「誤っている」とみなしたり、「正しいアスペクト」の名のもとに規範を外から押しつけたりすることはあまり意味をなさない。哲学者が意図的に変えるのではなく、事実として人々が見方を変えるのはいかにしてなのか、をただ具体的に記述すること。これがウィトゲンシュタインの次の興味となったとしても不思議ではないだろう。アスペクトの転換は、「正しい見方」を知っている哲学者から導かれて起こるのではない。哲学的問題とそこからの解放という図式から、取り囲みがさらに取り囲まれることを通してアスペクト転換を繰り返しながら次第にアスペクトを共有していく、というダイナミックな図式への転換であり、そこにおいては「正しさ」はむしろ結果として自然に現れてくるにすぎない。
(水本正晴『ウィトゲンシュタインvs.チューリング』p.380。強調は本文による)

 ここに書かれているように、言語ゲームにおける哲学の主たる仕事はアスペクトの提示である。言語ゲームというアスペクトによって、ある哲学的な疑問について、それが果たして言葉の上で有意味なものなのかを、語の使用とその状況をつぶさに見ることによって明らかにするのである。これによって、疑問が解消すればそれでよく、解消しなくとも、疑問をより洗練し精緻にすることができる。

 ここまで見てきた言語ゲームの考察に基づき、以下の例題を考えてもらいたい。解答例は本稿末尾に記載する。

問1.「愛」の語の使用について論ぜよ。
問2.「神」の語の使用について論ぜよ。なお、アニミズムに言及することが望ましい。
問3.寛容のパラドクスを言語ゲームの立場から批判せよ。

 この三つの問題は、人が哲学的迷妄へ陥る要因となる錯誤を代表したものである。問1は、語が心的過程を指示するという錯誤に基づく。「愛とは何か」という問題は、その語を用いた活動の問題であり、語に伴う感情の問題ではない。問2は第3章で論じた擬人化の錯誤についての問題である。詳細はそちらを参照されたい。問3は、語を取り囲む状況を見過ごして、その概念だけを考えるという錯誤に基づく。自由意志の批判で見た「自由」という語は、選択という行為に関わっている。例えば、わたしが自分の脚力だけで月までジャンプできないからと言って、それを不自由だと主張することは馬鹿馬鹿しい。「自由」という語は選択という基準に対して用いられるのであって、何でもできる状態を意味しているわけではない。
 このように、哲学的疑問の表出は様々あるが、しかし人は普通に生活している最中に、常にこのような問題に気づき、考えているわけではない。つまり、例えば足の小指をぶつけて痛がっている最中や、靴に小石が入って不快に思ったまさにその時に、哲学的疑問を抱かないのと同様に、日常生活において語を使う最中に哲学的疑問を抱くことはない。わたしはここに、いわゆるゲシュタルト崩壊との類似を見る。すなわち、哲学的疑問は、語に伴う心的過程の内実、その概念に集中した時、そして語を取り囲む状況を見失った時に起こるものではないか。言い換えれば、我々が折に触れてその語のアスペクトを見失うことに由来するのではないか。例えば「クオリア」と言う語を創出することで、人はその喪失を補填しようとしている、と言えるのではないか。見失ったアスペクトを、新たな語(のアスペクト)で埋め、あたかもそれによって安心を得ようとするように。しかし、それが単なるゲシュタルト崩壊によるならば、そのような哲学的疑問を持ったというだけでは、そこに学問的な正当性を見出すこと、哲学的な重要性を見出すことはできない。誰にも起こり得る軽い失見当識という以上のものがあるとは考えられないのである。わたしは『探究』を読んで以来こう考えまた実践し、結果として哲学的疑問に煩わされることはなくなった。この実践によって失ったものがあるとすれば、それはゲシュタルト崩壊に伴う感覚(一種の不安あるいは喪失感)を重視するという偏見だろう。言語ゲームを考えた時、この感覚を重視することが、哲学的に有意義であるとはもはや思われないのである。

 もしこの種の解答で納得できない場合には、その人が求めているものは(真理の)記述ではない。したがって哲学以外のものにその道を探すべきである。実際歴史的には、多くの時代において(現代も例外ではない)真理の記述的探究ではないものが哲学に求められてきた(※)。

形而上学は背景に沈み、今や個人的倫理学が、最大の重要性をもつにいたる。哲学はもはや、真理を勇猛に追究する少数の人々の、前方を行く火の柱ではなくなり、それはむしろ、生存闘争の跡を追って、弱者や負傷者をすくい上げる救急車となったのである。
(B.ラッセル『西洋哲学史』ヘレニズムの世界より)

 個人的な問題に対する解答、人生の指針、あるいは処世術について、記述が不可能であるとはもちろん思わない。しかし、これらの問題はその多くがケースバイケースであり、より一般的な真理を探究することとは区別するべきである。真に個人的な問題ならば、それが一般的なものであると思いたい向きもあるだろうが、学問ではなく種々のカウンセリングに頼るべきであろう。他方、一般的な問題として扱う場合、仮に一般化できたとしても、それを万人が実践できるとは限らず、この実践についての問題は結局のところ個別的問題に帰する。これは大小を問わず社会的な問題であり、哲学というたかだか一学問が扱うべき問題ではない。哲学に限らずとも、社会的な問題を包括的に扱うべき学問など、現代には存在しない。例えば仮にある種の問題解決能力について、それがどのようなものかを哲学が記述するとしても、その心理学的背景や有効性の探究、その教育・普及を含めれば、それは哲学だけの仕事ではない。自己にせよ世界にせよ、その変革を望む者が、哲学の実践、すなわち真理の記述を目的とし、そこに留まることは誤りである。
※例えば、いわゆるビジネス書に書かれるような「人生哲学」を想定してもらえばよい。なお、ラッセルは後述の補遺1で引用するように、宗教を主眼に置いている。

終わりに

 以上で『哲学探究』の概説を終わる。以降の補遺1~4は補助的なものであり、本稿の大筋からは少々外れている。またある程度Wを知っている方向けではないかと思われるので、読み飛ばしても問題はない。全体の見通しは、読んで頂ければ多少良くなることと思う。なお、状況についての考察および、補遺3の正当化の問題について一部加筆を予定している。
 本稿を書くにあたって、昨年10月に開かれた認知科学若手の会での発表を元にした。快く発表の機会を設けて下さった同会に感謝したい。また、高木俊一氏からの第81節および規範と記述に関する指摘、水本正晴氏の著作(特に「状況」に関する考察)に負ったところが大きい。両氏にも謝意を表する。また、原典中の索引を当たるよりも、諸隈元氏のTwitterを検索した方が容易に目的の語を調べることができた。氏の精力的な活動には尊敬の念を禁じ得ない。

 この『探究』の再構成という試みは、如何なる意義を持つのか。本稿はいわゆる哲学書(哲学者)の解説にあるようなテクストベースのものではなく、文献学的な価値はない。根幹部分は『探究』に由来しており、またその説明は世間的に言われていることと大差ないものである。つまり大して面白いものではない。面白いであろう部分は、要約にある「伝達効率」を軸にした部分と、認知モデルの構成だと思われる。前者は、昨年春ごろまで、都合2年ほどかけて毎週友人と『哲学的探求』読解を輪読した成果である。初めて『探究』を読む友人に、1節1節呑み込めるように具体例を挙げ説明する中で、「言葉というのは、普段は何気なく使っているけれども、よくよく考えてみれば驚くほど効率良く、巧妙にできている」と言える場面が多々あったのである。この部分が面白いものであるとすれば、それは趣味で哲学書を輪読できる縁に恵まれたこと、友人が極めて率直に「わかりません」「(解説)お願いします」と言ってくれたこと(彼は良い生徒である)、『哲学探求』読解を著した黒崎先生の業績によるものであろう。後者は、わたしの認知科学への関心、ひいては現代認知科学の功績による。わたしの関心とWの関心は同じではないかも知れないが、Wの著作や、Wとチューリングとの関係を鑑みるに、問題意識はいくらかWと通底するのではないかと思っている。
 本稿の意義は、このふたつの部分が実際に使えるかどうかにかかっているだろう。つまり、本稿が『探究』を読む助けになること、(認知)科学者の興味を惹くことのふたつである。せっかく書いたので有意義であってほしいものだが、こればかりは分からない。

 興味本位で哲学に触れてしばらく経つ。多くの哲学者が様々な学説を提示しており、またそれらについて世間的にも色々言われる様を見てきた。哲学に限った話ではないが、哲学者は必ずしも世間的に考えられているような偉大な、あるいは思慮深い人間ではなく、多少変わってはいるものの基本的に「ただのおっさん」である。これはWも例外ではない(相当な変人であることは間違いないが)。評価すべきは行った仕事であるが、その仕事とて当人の人間性や、生きた時代の流れから逃れることは難しい。この観点から、Wの仕事は部分的に、そしてそのアイデアにおいて哲学史上最も優れたものと見ている。なぜなら、これまで見てきたように、言語ゲームが我々人間の活動についての、経験に合致するアスペクトを提示するためである。わたしの見聞きした範囲では、言語ゲームは学説として最も理に適っており、おそらくこれ以上のものは望めないだろうと考えている。他の学説は凡そ言語ゲームに対し排他的であり、その多くが経験に合致しない。認知科学的には現象学でもいいかも知れないが、リテラシーの面では言語ゲームの方がスマートではないかと思っている。言語ゲームはさほど新しい概念を導入する必要がなく、日常言語と衝突しない。つまり、言語ゲームは(認知)科学に新しいものを付与しない。経験に反するものを提示せず、むしろ考察における言語的混乱を解消することができる。
 『哲学的探求』読解でも訳者の黒崎先生が以下のように述べているが、大いに同意する。

……このような転換に、西欧的哲学の終焉をみる思いがする。『探求』とは、我々の思考にそのような転換を迫る――真に革命的な――著作なのである。しかし、残念ながらこの事の深い意味は、必ずしも一般には十分に自覚されているとは言えない。
(黒崎宏訳『哲学的探求』読解p.9)

 特に認知科学の分野で見過ごされていることは残念に思う。本稿がこれを払拭することに貢献すれば幸いである。
 なお、本稿で『探究』と『探求』のふたつの表記あるが、これは一般的に『探究』と訳されるところを、黒崎先生が『探求』と訳したことによるものであり、表記ゆれではない。また、Wittgensteinをヴィトゲンシュタインでなくウィトゲンシュタインと表記しているが、参考にした『哲学的探求』読解および『ウィトゲンシュタインvs.チューリング』に則ったものである。以上の知識は、諸隈元氏のTwitterのハッシュタグ「#どうでもいいヴィトゲンシュタイン情報」による。

補遺1.科学

 『探究』においてWは「哲学は科学ではない」と主張している(『哲学探究』第109節等)。哲学が何であるか、あるいは科学が何であるか、ということは難しい問題である。もし科学をラッセル流に「経験と観察に基づく真理の記述である」とするならば、Wの主張に反して言語ゲームは、日常生活における(言語)活動の、経験と観察から得られる記述、あるいはものの見方、一種のフレームワークである、という意味で経験科学に類するものである、と言える。また、Wの業績はその転換から前期=『論理哲学論考』と後期=『哲学探究』に大きく分けられるが、両書ともに(Wの考察した真理の)記述の羅列というスタイルを採っている。『論考』は論理による記述であり、『探究』は言語ゲームによる記述である。このことから、Wにとって哲学とは全期間に亘って記述の学であったと言える。確かに言語ゲームと、いわゆる自然科学との間に差異はあるが、上記のような類似を排して、あえて強調するモチベーションはどこにあったのか。これはひとつには、Wの性格に起因するのではないかと思われる。Wは天邪鬼であり、当世(20世紀初頭)における科学の目覚ましい発展と、大学界におけるその流行に対する反目があったことは事実である。また、「哲学は詩のようにしか作れない」というW自身の発言や、ラッセルの「知性の領域での芸術家」という評からも窺えるように、Wは芸術(的なもの)に重きを置いていた。穿った見方をすれば、芸術的である自分に陶酔していたと言えなくもないが、「人間(の活動)についての真理の記述」と表現すれば、そこにある種の芸術性が伴うことを殊更否定しようとは思わない。しかし記述は美しいから重要なのではなく、真理であるから重要なのだ、と考えることは、知的誠実さからは妥当であろう。先のラッセルの評を引用する。

「私はウィトゲンシュタインに、真と思うことを述べるだけでは駄目で、論証するように言った。すると彼は、論証などすれば思想の美しさが損なわれる、泥だらけの手で花を汚すようなものだと答えた。私は感心した。知性の領域での芸術家というのは、極めて稀有な存在だから」

 これは見方を変えれば、Wの移り気な性質と怠惰さを表したエピソードだとも言える。平易で簡潔な、それでいて十全な説明を求めることは、同時に退屈で億劫な仕事でもある。芸術という見栄えの良い言い訳が立つならば、この仕事をうっちゃっておきたい、という誘惑はあろう。結果として乱雑な、体系的でない、不親切な仕事が残ったわけである。凡百の理解のための説明を惜しむという意味では、尊大さも窺える。断っておくが、わたしはWを嫌って言っているのではない。人間的にも好きだし、仕事にも尊敬の念を抱いている。しかしWにもっと自らの後続、ひいては他者への配慮があり、彼の仕事が親切だったなら、わたしがこのような文章を書く必要はなかったかもしれない。Wの書いた、驚嘆に値するほど分かりにくい文章を繰り返し読み、理解し、かみ砕いて、分かりやすいように書き直す作業をしていると、恨み言のひとつも言いたくなるというものである。話が逸れたが、芸術性を鑑みた時、科学に対する反目が生じることは想像に難くない。このように、科学に対する二重の反目が、「哲学は科学ではない」という主張につながった面は否定できないのではないか。ここで、わたしはWと逆の主張をしたい。すなわち「哲学は科学である」というものである。
 普通、誰かの考えを書いたものを読む時、明らかな間違いを正しいと主張するような部分はほとんどない。確かにミス、間違いはありうるが、別にそこが間違っていたところで、全体に影響を与えるようなものではないことがほとんどであり、当然ながらそのような重大なミスは避けるように書く。しかしWの書くものは違う。「哲学は科学である」とした上でその差異を述べれば全体としてまとまりが生まれるところを、逆の主張をすることによって混乱を招くような書き方を平然とする。これは上述のように私情によるものでもある。一方、Wは例えば第81節において、哲学が規範であるか否かについて明言せず、曖昧な、どちらとも取れるような書き方をしている。同様の書き方はいたるところに見られ、また例えば否定によって逆説的に結論を浮き彫りにするような書き方を好む。「AはBである」という書き方はAについての可能性を狭めるが、「AはBでない」という書き方は、B以外のものである可能性を残す。したがって知的には、Wは自論に忠実である、すなわち自論の成す全体の整合性よりも、自論の持つ可能性を増やす、あるいは維持することに重きを置いている、と言えるのではなかろうか。結果的に彼の書いたものは全体として玉虫色であり、このまとまりの無さが難解さにつながっていると思われる。Wの書くものを読む時は、曖昧な表現や「あるものが何でないか」という書き方とは裏腹に、「あるものが何であるか」ということに常に注意を払わねばならない。読者諸氏がWの著作を読む際には、この読み方を勧めたい。少なくともわたしには、このような読み方によってしか『哲学探究』で言われていること、ひいては言語ゲームによって得られる帰結の数々を理解することは叶わなかった。出来不出来は別として、わたし自身は言語ゲームについて忠実であるつもりで書いており、したがって本稿では『探究』からの直接の引用は控え、新たに書き起こすというスタイルを採っている。
 さて前々段で「哲学は科学である」と主張した。しかし一方、Wの主張する「哲学は科学ではない」の意味するところは何なのか。ここで言われる科学は自然科学を指しており、上述した「経験と観察に基づく真理の記述」という、言わば広義の科学とは異なっている。確かにWの言うように、哲学は自然科学ではない。自然科学はひとつの活動=言語ゲームであり、その営みは人間の活動全体からすれば一部分でしかなく、また大部分の人にとって日常的なものでもない。第3章で見たように、日常の言語ゲームにおいて科学的探究は無用である、相容れない、という意味で、哲学は自然科学ではない。また、実践編で述べたように、哲学の仕事が、言語ゲームの提示によって、人々が哲学的迷妄から脱する手助けをすることにある、という見方からも、その仕事は自然科学の仕事とは性質を異にする。
 わたしがWに反して「哲学は科学である」と主張するモチベーションは、言語ゲーム、ひいてはWの著述のスタイルが前述の広義の科学に該当することに加え、もうひとつある。それは納得のゆく表現形式(『探究』第158節)である。Wは自然科学が我々にとって納得のゆく表現形式だと書いているが、これは哲学と科学との関係において、極めて重要だと思われる。すなわち、言語ゲームが日常の生活における(言語)活動の、経験と観察から得られる真理の記述であるならば、科学がその記述を支えるという意味で、納得できる表現形式である限りにおいて、哲学と科学は接続可能でなければならない、ということである。第3章にて、「ラベルと表現についての物理的な機序が一致することは、ある種奇妙な一致ではないか」と書いた。しかしもし表現についての物理的な機序、すなわち科学的な探究が一致しない場合には、科学という営みはその目的と意義を失うものと思われる。人間の営みにおいて、科学がその一部分、しかも今や重要な一部分を成すという事実は、言語ゲームという人間の活動の記述との接続を、哲学的に要請すると見做すべきであろう。同時に、ある活動が科学であるためには、それは日常の活動、言語ゲームにとっての、納得できる表現形式でなければならない(※)。この意味で、哲学と科学は相補的なものである。納得できる表現形式でないものは科学でなく、科学的記述によって納得できないものは哲学ではない。したがって言語ゲームの立場からは、いわゆる形而上学や心の哲学は哲学でも科学でもない。形而上学や心の哲学(Wの言う「病理としての哲学」)の拒否という意味で、そして心的過程の内実の問題を、哲学の問題ではなく自然科学の問題に帰着させることができるという意味で、「哲学は科学である」という主張は言語ゲーム全体にとって整合的である。
※ここで言われる「納得」は、もちろん個人的な納得を意味しない。また、人が科学を理解しているかどうか、科学が直観的であるかどうか、という問題とも異なるものである。深い理解がなくとも納得することはあり得るし、非直観的なものごとを納得することもあり得る。ここにおける「納得」という言語ゲームがどういったものかは、哲学的に興味ある問題である。

 またこの「哲学は科学である」という主張は、副次的に哲学から価値の問題を除くことができるという効用がある。以下引用する。

……宗教とは違って、科学的技術は倫理的には中立であり、不思議をおこないうるものであることを人間に保証しはするが、どのような不思議をおこなうべきか、と言うことは教えないのである。それはこの点では、完全なものではない。
……伝統的には哲学に含められているところの、そして科学的な方法がそこでは不適切であるような巨大な分野が存在する。その分野は、価値に関する究極的な諸問題を含むものであって、例えば科学だけでは、残忍なことを他人にしかけて楽しむのは悪い、といったことの証明は不可能なのである。なんであれ、知りうることのすべては科学的手段によって知ることができるのだが、正当に感情的な問題に属するょうなことは、科学的方法の領域外にある。哲学は、その全歴史を通じて、不調和に折表された二つの部分から成ってきた。一方には世界の性質に関する理論があり、他方には最善の生き方に関する倫理的あるいは政治的な教説が存在している。これら二つのものを、充分な明断さで分離しなかったことが、これまでの多くの混乱の源泉であった。プラトンからウィリアム・ジェイムズにいたる哲学者たちは、宇宙の構成に関するみずからの意見を、道徳的教化ということへの欲求によって影響されることを許した。どのような信念がひとびとを有徳にさせるか、ということを知った(と考えた)彼らは、それらの信念が真であるということを証明しようとして、しばしばきわめて詭弁的な議論を考え出したのである。わたしは、道徳的、知的根拠の両方に立って、その種の偏見を非難するものである。道徳的にいえば、みずからの職業的能力を、真理に対する公平無私な追求以外のものに用いる哲学者は、一種の裏切りを犯しているのだ。そして哲学者が探究を始める前から、ある信念が真であろうと偽であろうと、とにかくその信念は善なる行動を助長するものである、といったことを仮定する場合には、その哲学者は哲学的思索の範囲をあまりにも限定し、哲学を些末的なものとしてしまっているのである。真の哲学者は、あらゆる種類の先入見を検討する用意をもつものなのだ。真理の追求に対して、意識的にせよ無意識的にせよ、なんらかの制約がおかれるならば、哲学は恐れによってマヒしてしまい、「危険思想」を口にする者たちを処罰するところの、政府による検関への道が準備されることとなる。実際のところ哲学者は、みずからの諸研究の上にすでにそのような検閲を課してしまっている。

 共にラッセル『西洋哲学史』からの引用である。正確な引用箇所は本が手元にないためご容赦頂く。広義の哲学に対するこの態度は、Wがラッセルの政治活動に反対したことを裏付ける。ラッセルが「平和と自由のための世界機構」を作った時Wは激怒し、「それでは戦争と奴隷のための機構を作れと言うのか?」と問われ、「その方がマシだ!」と答えたそうである。哲学において科学的な態度を標榜するラッセルが、自らそれに背いた(※)ことに激怒するのも無理はない。もともとラッセル自身このような一貫性のなさを避けていたことは、弟子であるWの知るところでもあっただろう。Wが「哲学は科学ではない」としながらも、結果的にであれ生涯ラッセルの訓示を守ったことを考えると、なかなかドラマティックな出来事だと言えるのではなかろうか。ともかく、「哲学は科学である」という主張は、哲学から価値の問題を除くという態度とも、整合的だと言える。またこれは、哲学の仕事がアスペクトの提示、共有であること、言語ゲームが規範ではなく記述であることとも整合的であろう。価値というものは、アスペクトの共有によって結果的にもたらされるのであって、何らかの規範を押しつけること、社会的な正しさを標榜することで得られるものではない。この意味で、「哲学は科学である」という主張は、言語ゲームによるアスペクトの提示を、価値中立に置くものである。
※ラッセルの政治活動は、基本的に彼の哲学とは分離的かつ穏当なものであったと思われる。しかしWの主張するように、言及しないことがより穏当であることに変わりはないし、言うまでもなく哲学者の仕事は哲学であろう。わたしとしては、ラッセルが政治活動に代えて、もっとWの成果に関心を持ち哲学を続けていれば、という気持ちがある。様々な事情からこれが叶わなかったことは残念でならない。ラッセルが哲学を続けていればそうしたであろうことを体現すること、ラッセルとWとの哲学的仲裁が、本補遺のテーマだと言ってもよい。なお、Wはここにも私情(ラッセルが哲学から離れることへの嫉妬)があったものと推測する。

補遺2.語り得ぬもの

 Wの言葉の内で最も有名と思われる「語り得ぬものについては、沈黙しなければならない」は、Wにとって哲学が記述の学である、ということを考えると理解しやすいと思われる。『論考』が論理による記述、『探究』が言語ゲームによる記述であることは既に述べた。このことからWには、哲学による記述の拡大、具体的には例えば「哲学による社会的な規範=倫理の記述」などの可能性が常に念頭にあったと思われる。『論考』においては論理による倫理の記述、『探究』においては言語ゲームによる倫理の記述、というわけである。しかしWは、この試みが極めて難しいことを理解していた。例えば、個々の人間の成り立ち、個々人の社会との関係の成り立ち、全体としての社会の成り立ちを考えると、これを記述することが容易ではないことは明らかである。一方で、例えば『心理学の哲学』を、哲学による記述の拡大の足掛かりであると捉えれば、Wがこの試みを諦めていなかったのではないかと考えることは、さほど突飛とは思われない。これらのことを踏まえると、この言葉は「記述できないほど複雑なもの(社会的な規範など)については、沈黙せざるを得ない」と捉え直すことができる。なお、Wの性格を考慮すれば、「この言葉の含意を理解できない鈍物は黙っていろ」という意味も込められているものと、わたしは半ば確信している。
 補遺1でWが「結果的にであれ生涯ラッセルの訓示を守った」と書いた。Wの手記や傍迷惑な罪の告白、プライベートな場では他人の倫理的問題に口を出すこと、ラムゼイの政治的見解への文句等を考慮すると、Wにとっては倫理と言うことで、個人的な倫理、すなわち自己の(不)誠実さと戦うことが肝要だったのではないかと思われる。このことがわたしが「結果的にであれ」と書いた所以である。この私的な倫理への偏重が、Wを広く社会的なもの(例えば政治)ではなく、比較的個人的なもの(心理学)へ向かわせたと考えることは自然であろう。Wは社会的な規範については、さして興味を持っていなかったのではないか。もちろん、彼の書いたものの中に、社会的規範についての有用なひらめきがあったことを否定するつもりはない。しかしそのようなひらめきは、それだけでは探究と呼ぶことはできない。Wの社会的規範についての見解は、これらのことを念頭に置いて読むべきであろう。

補遺3.ウィトゲンシュタインのパラドクス

 表題のパラドクスは『探究』第201節にある、規則と行為のパラドクスである。Wの結論は、結局のところ行為は無根拠にただ行われるのであり、「規則に従う」と言われることは、それら行為と規則とが合致していることを表現しているに過ぎない、というものであった。主旨に異論はないが、多少の反論として、学習と訓練を根拠とすることは、「根拠」の言語ゲームを考えれば、少なくとも日常的にはさほど不自然な使用ではなかろう、無根拠は言いすぎではないか、とは考えられる。
 ここで、このパラドクスに類似する問題提起はいくらか可能だと思われる。例えば、第2章で見たように、規則と慣習との間に、「言語ゲームが結局慣習に依るのであれば、規則とは一体何なのか」を問うことができよう。ここでわたしは、規則と学習のパラドクスを提案したい。第4章で図示したように、規則(ラベルとその関係としての規則)と行為(表現)の間には学習という過程がある。ここにおいて、規則と学習されたものの間、学習されたものと行為の間にはパラドキシカルな隔絶がある、というものである。以下、「学習されたもの」を「学習された規則」と呼称する。これは説明可能なAIの問題と通底する。すなわち換言すれば、議論の対象が人間であれ機械であれ、学習された規則性を説明(や表現)することが可能なのか、あるいは、学習された規則性を説明や表現によって正当化可能なのか、という問題である。もちろん技術的・科学的な説明はある程度可能であろうし、それを納得できる表現形式と見做すこともまた可能であろう。学習の逆問題(逆強化学習等)を解くことはひとつの解答であり得る。またこの「学習された規則性」の探究は、心的過程の内実の探究と考えられる。したがって言語ゲームの立場からすれば、この問題は哲学の問題ではなく、科学の問題であろう。またこの問題に、言語ゲームによる説明が不可能である(したがって文法上無意味である)と解答することは、行為が無根拠に為されることおよび、私的言語批判と整合的であり、ひいては『探究』理解の助けになるのではないか。あるいはWは、確実性がこの問題に寄与すると見込んでいたのかもしれない。他方このように、哲学的な考察から科学的な問題が予見可能であることは、興味深い事実であるとともに、言語ゲームの有用性を示すものと考えることができる。
 なお、正当化については検討していない。説明は不可能かつ無意味だと考えるが、正当化については可能かもしれない。この正当化の問題を、言語ゲームにおける認識論と見做し考察すること、ひいては納得できる表現形式を活動として記述することは、哲学的に興味深い問題だと思われる。余談ではあるが、わたしとしてはこの問題を「説明のギャップ」と呼びたい気持ちがある。心の哲学に先を越されてしまったことは残念である。

補遺4.圏論

圏論モデル化

 先日、第2回「圏論と認知科学」WSへ参加した。せっかくの経験を生かして、圏論による言語ゲームのモデル化を試行した。ただし、わたしは圏論についてはWSに参加しただけの初学者なので、本補遺は眉に唾を付けて眺めてもらいたい。
 言語ゲームを考えた時、次の3つの圏を考えることができると思われる。規範の圏:N(Normの頭文字)、ラベル(表現)の圏:L(Labelの頭文字)、アスペクトの圏:Asp(Aspectの略)である。以下、言語ゲームとの対応を記す。
・圏Lの射は始域が終域の「状況」であることを示す。
・圏Lの射の類:hom(L)を「慣習」と捉えることができる。
・圏Nは圏Lの部分圏である。
・圏Nの射は「規則」を示す。
・圏Nから圏Lへの包含関手(※)が存在する。
・圏Aspの射は「(学習された)規則性」を示す。
・圏Lから圏Aspへの関手は認知過程に相当する。
・圏Aspから圏Lへの関手(※)は表現に相当する。
※ここでは図示していない。

 問題はこれらがモデルとして適切に設定可能かどうか、可能だとして、例えば恒等射が何に当るのか、米田の補題を考えることができるか等である。しかし、この問題を除くとしても、圏論によるモデル化は言語ゲームを考え易くする点で、ある程度有用だと思われる。

解答例

問1.「愛」の語の使用について論ぜよ。
解答:「愛」という語は、「愛用」「愛玩動物」「愛飲」「愛好家」などに用いられる。道具について用いられる場合、それは自分の身体の一部のように扱える(くらい常用している)、という意味である。人や飲食物、趣味などに用いられる場合には、それが自分の生活の一部である(くらい一緒にいる・よく飲み食いする・行う)という意味である。これらを踏まえ共通する事柄を抜き出すと、「愛」という語は「自己との同一視(ができるくらい親密であるさま)」に対し用いられる、と考えられる。
 余談であるが、愛という言葉は非常に雑多に用いられており、わたし自身の語の理解も曖昧なもので、どう使えばよいか判然としていなかった。この日常的な使用を言わば基準として見ることで、何が普通の意味の「愛」で、何がそうでない(例えば文学的なもの)のかが、初めてはっきりしたのである。文学的、あるいは芸術的な表現が余計なものだとは思わない。しかし、文学的、あるいは芸術的表現の日常への過度の侵食は、言葉を有名無実のもの、日常の用を為さないものへと変貌させ、人を哲学的混迷に至らしめる道のひとつである。

問2.「神」の語の使用について論ぜよ。なお、アニミズムに言及することが望ましい。
解答:神頼みや「Oh, my god」などの使用を考えると、この語は基本的に自分の(人間の)制御下にない=uncontrollableな物事に対し用いられる。したがって「神」という語はこれらuncontrollableな物事をcontrollする主体として想定された(擬人化された)ものであり、この想定はアニミズムと通底すると考えられる。

問3.寛容のパラドクスを言語ゲームの立場から批判せよ。
解答:寛容は、日常的にはミス(錯誤や誤解に基づく過ち)に対して用いられる。そこに錯誤や誤解がなかった場合に、「寛容」という語を用いることは些か不自然である。例えば、故意に為される嫌がらせに対して寛容と言う場合、それは黙認・黙殺や衝突の回避を意味するのであり、日常の使用に即しているわけではない。同様に不寛容は、錯誤や誤解に基づく過ちを認めない態度を指す。不寛容自体は故意に為される態度であり、ここに寛容を問うことはできない。寛容は、何らかの基準(この場合は錯誤や誤解の有無)を元に「ある・ない」と言われるのであり、基準を設けない寛容という語の使用は無意味である。寛容のパラドクスが問われる場面では、大抵この基準が設けられていない。寛容のパラドクスは「寛容」という語を誤って使用しているのであり、実際にはパラドクスではない。
 以降解答には含まないが、ではこのパラドクスは実際には何を問題にしているのか。実例として、言論の自由の問題が挙げられるようであるが、これはどこまで攻撃的な言論を認めるかという、社会的な線引きの問題である。線引きの問題はパラドクスではない。確かにどこに線を引くかは問題ではある。しかし、パラドクスという誤った呼称により、問題に対する誤った認識を生ぜしめることには、受け手としても、そしてその発信においても、注意しなければならないだろう。

ここから先は

0字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?