【小説】久雨(ひさめ)
次々に繰り出される屋根瓦が大きく張り出して、隣り合う民家へとどこうとする。ワーゲンゴルフのハンドルを右に切って、住宅街の向こうを遠目に眺めた。あの家が建っている区画の角を左折してから、大通りに向かえば、勤務する大学まではもう少しだ。屋根の色が互い違いに黄と黒で葺かれてあれば、それだけで珍しいのだが、エンペラーペンギンの腕を思わせるような、あの屋根の反り方といったら、それはもうひとえにあぶなっかしかった。同僚の学者から、あれはれっきとした翼なのだと教えてもらったことがある。退化して使えなくなった翼は一見すれば、腕にしか見えないだろう。どれだけ力強く羽ばたいたところで、南極の大空を舞い上がることはなく、虚空をつかむこともとうていできないわけだ。三年前まで、娘の久雨[ひさめ]と暮らした木造家屋だった。彼女は、悪性腫瘍で十二歳のときに亡くなった。最期は、自宅で看取ってやった。ペンギンのぬいぐるみが好きだった。
「なんでコウテイとかエンペラーなの?」
「キングよりも大きいからだそうだよ」
「王様よりも上?」
「そうだろうね」
「その上は?」
「まだ見つかっていないんだ」
「じゃあ、あたしが見つけにいくわ」
「南極に?」
「どうせ、死ぬんでしょ?」
通り過ぎてから愕然とした。家は重機によって、解体されるようだ。先週の金曜には、洗濯物が二階のベランダに干されてあり、子どもの自転車や観葉植物がガレージに立ち並んでいたはずだ。バックミラーごしに一瞥して、ハンドルを左に切り大通りを目指す。明日また来ればいい。すぐに更地になることはないから、解体具合もそのときには詳しく見られるだろう。運転に集中しよう。ここからは交通量の多い道だから、油断は禁物だ。スピードを緩めて走らせていたときだった。バス停から少し離れたところに、白いきつねが立っている。手招きがゆらめく。ちがっていた。きつねのお面をつけた輩が、乗りたいという合図を指先でこちら側に送っていた。持っているのは、茶色の手提げ鞄だけだった。背格好からして子どもだろう。信号待ちの車列の中にあったから、車はいったん停めざるをえなかった。〈きつね〉が、お面を外して助手席の窓の隙間から顔を覗かせる。
「ごめんなさい、あなたなら乗せてくれるかな、と思って」
中学生らしき女の子がいた。目尻はすんなりとほおに溶けこんでいるが瞳のきつい色合いからは、利かん気なところも感じ取れた。編み込みの髪が肩から垂れ下がり、いちずなまでに愛らしい顔立ちがわたしを緊張から解き放った。久雨に似ていたということもある。
「通勤の途中で。ここから二十分ぐらいのところなら」
彼女は、扉を開けて、後部座席にいきおいよく乗りこんだ。お面を右手に持ったまま、紫のプリーツスカートに包まれたお尻を引き摺っていた。もはや、通いなれた道のようには思えなくなってきた。ファストフードの店やホームセンターが立ち並ぶ、ありふれた目抜き通りなのに。
「ねえ、どこまで行くの」
思い切りのよい話し方だった。
「ここから真っ直ぐ行ったところにある、A大学だよ」
「じゃあ、その手前で降ろしてくれない?」
「そのお面は……」
「だって、ヒッチハイクなんて誰も止まってくれないから」
「それにしても」
「止まってくれたじゃない。蒸発したお父さんに似ていたからかな」
「……」
「それにしても……。私によく似合うでしょう?」
彼女のほほえみが、つるりとしたミラーに居残った。信号が青に変わる。だんだんスピードを上げていった。アクセルを踏むのと同時に、彼女が話し始めた。乗せてもらっている以上は、こちらから何か話さなければいけない、といったふうだ。
「このお面は、小さいころから家にあったものなの。縁日で買った安ものではなくて、ちゃんとしたやつ。物心ついたときから私のそばにあったのよ。お父さんが北極に行った帰りに民芸店で買ってきたの。夜中でも眠れないときにはベッドの近くに置いてたの」
はずみがつくと止まらなくなる話し方もあの子と同じだった。
「今からお父さんの墓参り。持っているとなんだか落ち着くから」
「北極にもキツネがいるのかな?」
バックミラーの中で目を合わせた。
「うん。そうらしいわ。白いホッキョクギツネだって」
「南極と違って、北極は氷が浮いているだけだから生きるのが……」
ミラーごしに目をそらした。カーナビのデジタル時計は、依然として表示を変えない。
「気を遣ってくれてありがとう。でも、誰だってみんないつかは死ぬから」
彼女は、窓外に目をやって遠くを眺めていた。久雨との会話では、それきり話せなかったことを彼女には言えるような気がした。
「しめっぽいと、氷が溶けてしまうね。もう少し明るい話をしよう」
わたしの声は、干からびているかのようで自然にくぐもってしまう。
「冷凍保存なんてのはどう? 死んだ人もマンモスみたいにきれいなままでいられるから」
「ああ。その人のことをいつか誰かが見つけてくれるかもしれない」