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トランボ ハリウッドに最も嫌われた男

前から興味があったのですが、ダルトン・トランボと言う人物。
脚本家、映画監督、小説家
脚本ではごく一部ですが
ローマの休日、黒い牡牛、パピヨン、ダラスの熱い日など
これは私が見た作品ですが、30本近くの脚本を手掛けた人物。
こんな素晴らしい実績のある人物なのですがある時期ハリウッドを
追放されていたという。
彼は、1943年にアメリカ共産党に入党。戦時下の共産党はアメリカと戦争を強く支持する姿勢で、約8万人の最高党員数を記録していた。
当時のハリウッドにはジョン・ウェインらを筆頭に「アメリカの理想を守るための映画同盟」という組織が設立され、非米活動委員会への協力が推進されていた。聴聞会でトランボは「あなたは共産党員か、あるいは、かつてそうであったか」などを問われたが証言を拒んだ10人が議会侮辱罪を言い渡され、禁固刑の実刑判決を処されることになった。この10人が後に「ハリウッド・テン」と呼ばれることになった。
ハリウッド・テンの実質的なリーダーとして上訴を目指して活動していたが、1949年11月に上訴請求が棄却された。
1950年6月、ケンタッキー州アッシュランドの連邦刑務所に送られた。模範囚として1年の刑期は2ヶ月減刑された。1951年からは家族と共にメキシコに滞在。複数の偽名を使って脚本家としての仕事を続け、B級映画作品の脚本やリライトで多数の仕事をこなし、映画会社のプロデューサーから高い評価を得ていた。1954年にはアメリカに戻り、偽名で仕事を続けた。
実名でハリウッドに復帰した後、『脱獄』『パピヨン』などの脚本に関わった。また、長年映画化を希望していた自作の小説『ジョニーは戦場へ行った』を、自らの監督作品として原作・脚本を兼ね、自ら資金も調達して製作した。1971年に公開され、アメリカでは興行的に失敗したが、カンヌ国際映画祭では審査員特別グランプリ、FIPRESCI(国際映画批評家連盟)賞、国際エヴァンジェリ映画委員会賞を受賞した。
1970年、全米脚本家組合から功労賞を送られた。これは「ブラックリスト」に載せられたトランボへの「和解」を意味することになった。1975年5月5日、映画芸術科学アカデミーから、『黒い牡牛』に対するアカデミー原案賞としてオスカー像のレプリカが授与された。
ざっとトランポの経歴を書いてみましたが華やかな所と思っていたハリウッドでそんな政治的的な出来事があったなんてしんじられない。

「トランボ ハリウッドに最も嫌われた男」という映画が以前公開されていました。
Amazonプライムビデオでレンタルしてみてみょうと思います。
現在は自分の主義主張で投獄される様な事は有りませんが当時の世界情勢などを振り返ってみたいと思います。

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