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なぜ人文学を学ぶのか~錯誤への道標~

 私は現在大学で、人文科学、すなわち文学や思想、歴史などを学んでいる。文学は、戦後の科学技術至上主義の政府の方針により、時代に取り残され、戦前・戦後において軽視されてきた。現在でもその兆候は続いている。だが、これからの技術革新の時代において、文学・思想は、かつてよりもその意義を増していくように見える。

 オルテガの『大衆の反逆』、フロムの『自由からの逃走』の中で、今日、人々は寄る辺のなき根無し草、すなわち「大衆」としての性質を強く持つとされている。周囲に波長をあわせ、依存先を求め、感情的に行動する人々、そうした人々によって形成された社会。

  そのような社会から生まれうるのは、新たな価値が日々創出されていく未来ではなく、マルクスが『資本論』で論じているような、「昨日と代わり映えのない明日」が生みだされ続ける世界であろう。この世界観から脱却するために、私は思想・文学が価値を持つと考える。

 なぜなら、文学などに代表される人文知には、先人達の輝かしい未来を実現させるための苦悩と努力が書かれているからである。歴史や思想が軽視されやすい今日とは対照的に、むしろ将来そうした苦闘の証を、現代の文脈で読み替え、社会を形成していく上での道標として提示していくことに、価値が置かれていくこととなるだろう。

 そうした道標を築き上げるために、文学部は言葉について考えていかなければならないと私は思う。人間の言葉は元来、情報伝達の媒体としては不完全なものであるということを、私達は思い出さなければならない。その上で、言葉が何を伝えるのか、どのような価値を生み出すのかを考えていくべきではないか。そして、その役目は、専門家だけではなく言葉を扱うありとあらゆる表現者たちが担っていかなければならないはずなのである。

 文芸批評家、福嶋亮太との往復書簡集『辺境の思想』の中で、中国社会学者の張彧暋は、人類の言葉が持つ可能性に関して、恩師である社会学者リア・グリ―ンフェルドとの以下のような会話を掲載している。

「多くの人は、言葉の役割はコミュニケーションすることにあると思っているけれど、それは違います。だって、私達はよく相手の言うことを誤解するでしょう?(中略)人間の言葉の特性は、よく意味を取り違えることにあるのです。意味は恣意的に解釈可能ですから。言葉の使い方が少し違うだけで、意味は全然違ったものになる。それによって文化も違ってくるのです。だから、異なる文化間において互いを理解することは、あなた方が思っているよりもずっとずっと難しい。では、人類の言葉の役割とは何でしょう?」
そう問うたあと、先生は微笑んでこう続けました。
「デカルトが言うように、自分が考えている状態を意識すると、初めて自意識が生まれるんですね。だから、人間の言葉の役割は、考えるためにあるのだ」と⁽¹⁾

 人間の言葉は、錯誤に満ちている。その錯誤を味わい、そこに価値・意味を見出し、新たな錯誤を再生産していくのがこれまでの人文学の役割であった。言語を使う限りにおいて、どれほど社会が進歩し、技術が変革していこうとも、人は過ちと錯誤の連鎖の中からは逃れることは出来ない。だからこそ、人は「考える」のである。

 己が潜在的に持つ錯誤について、思索することによって、人類は未知のものを受け入れ、己の文化に取り込んでいく精神的土壌を獲得していった。私を含め人文学を学ぶ者たちは、その意義について改めて考え直さなければならない。

 私たち人類は自らが抱えている錯誤に対しての思想を持つことによって、外部・未知のものを「道具」として扱えるようになり、巨大な文明を築いてきた。これから著しい技術革新を迎えるであろう時代において、技術と社会について、考えていく上で、この視座には意味があるように思う。

 技術を本質的な部分で受け入れるために、技術(外部)と思想(内部)の「間」を感じ取る精神性を、私たちは持たねばならない。人文学は、その「中空」を考えるうえでの非常に有意義な視座の源泉となるはずである。

 だからこそ、今文学部で自分が学んでいることには、これからの社会と技術に活かせる叡智が数多く潜んでいると考えている。それらを学び、科学技術の未来への礎として、現役世代の、そして後の世代への道標が作り出せるようになることが、現状の私の目標である。

引用

(1)『辺境の思想』、福嶋亮太・張彧暋、文藝春秋、2018年、40頁


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