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語ることと回復①
心の傷を語ることが回復につながるという話を、ずっと疑わしく思っていた。傷を忘れろ、というのではない。そんなことが不可能なのはわかりきった話だ。語れるようになることで回復するのではなく、回復したから語れるのではないかという単純な話だ。
回復するために、自分の身に起こったこと順序立てて整理する。自分の感じたことを、忠実に言葉にする。きちんと語るということを目的にすると、最初に生じるのはたぶん、自分に語れるように語るという事態だ。きれいな語りにするために、うまく言葉にできないものを切り捨てる。それは単に他人から促された自分に対する欺瞞にすぎず、混乱状態から抑圧に移行しただけにすぎない。だからそんな物語りはすぐに破綻する。いや、破綻するも何も、はじめとは異なる種類の苦しみを生む。
もちろん、過去を語る作業がどこかで完結するわけではなく、何度も繰り返す過程であり、出来事や感情は時間の経過と共に何度も語り直されるのだということはよくわかる。治療者もそう言っている。
でも、そこで大事なのは、何をどのように語るかではなく、語ることができる相手がそこにいることなのではないのか。回復の作業は別の場所で起こっている。いや、生きる過程の全体が回復の過程で、言葉が発される場所は、単なる中継地なのではないのか。
いや、これは安易な言い方だな。勢いで思っていないことを書いてしまった。
語ることができる相手がいるというのはもちろん大事だ。でも、私はたぶん、回復はありえないと思っている。起こってしまったことは起こってしまったことで、それで自分が変わってしまったのなら、元に戻ることはない。時間の経過の中で、元に戻るものは何もない。当たり前の話だ。でも元に戻ることはないにしても、別の状態になることはある。
心に傷があろうがなかろうが、私たちの心はぐちゃぐちゃしている。言葉できれいに語ることができる領域は、本当に小さい。そもそも、言葉は言葉でしかなく、心ではない。心ではないもので心を表すことはできない。だから、言葉を理解できても、言葉で表現されているものを理解することができるわけではない。これは他人の言葉だけではなく、自分の心に関しても同じだ。だから、語れるようになるということは、語れるようになる以上の意味をもたないはずだ。
「愛」という言葉の意味を理解することと、「愛」とは何かを理解することは、根本的に違うことのはずだ。だから、言葉を理解することは、言葉を理解することでしかない。語ることは、語ることでしかない。
にもかかわらず、実際にはそれ以上の意味をもつ。おそらくそれは、語る言葉に、語られた心を寄せていくからだ。
いや、これは断言しすぎか。しかし、私たちは自分で思っている以上に言葉に信頼を寄せている。言葉で自分を作り変えたり、作り変えることができたように感じるからだ。言葉ではないものに比べて、言葉を理解することは簡単だ。自分の感情は理解できなくても、感情を表す言葉は理解できる。
しかしそうだとすると、言葉で語ることで回復すると信じるというのは、言葉で自分を作り直すことができると信じることに等しいことになる。そんなに簡単なことなのだろうか。というより、本当にそんなことは可能なのだろうか。
もちろん、自分を変えることはできる。状況を変えることもできる。しかし、言葉で変えることは、本当にできるのだろうか。変わればいいのに、というのはわかる。でもそれは可能なのだろうか。
これは何も治療に限った話ではない。
言葉で自分を語るとき、人は何をしているのだろうか。
(つづく)