Voices Vol.17 不登校と共に生きる
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今回、このようなステキな理念のもと立ち上げられたVoicesの記事を書くことができ、とても嬉しく感じています。
ずっと自分の経験や想いを発信したいと感じていたところに声をかけていただきました。
数年前の不登校の経験についてありのままの私の姿を言葉にしました。
不登校になった理由
私が不登校になったのは大学一年生の7月。
それまでは無遅刻無欠席で二つのサークルに所属しそれぞれの活動に参加していました。
違和感を持ち始めたのは6月頃だったような気がします。
発端は一冊の不登校に関する本を読んだことです。大学に入る前から不登校には興味があり高校生のときから不登校や教育関係の本を読み、大学も教育関係の学校にしようかまで悩んでいました(結局は違う大学を選んだが)。
最初は懐かしいななんて思いながら読んでいたけれど、読むほどにその本に夢中になり、高校の頃の興味のあった自分が戻ってくるような感覚になっていました。
大学の勉強は面白かったのですが、なかなか夢中になれない自分もいました。大学を自分のやりたいことと、先生に勧められたからが半分半分の気持ちで決めてしまったことが理由かもしれないと思っています。
大学の勉強をすれば少しずつ夢中になれる、そんな軽い気持ちが心の隅にはありました。教育関係の大学に行きたい、将来も不登校と関わったことをしたい、そんな気持ちもあったけれど、大学での勉強に集中したい想いから教育・不登校への気持ちを諦めることを決めました。
しかし大学で一冊の本を読み、高校の頃にもった不登校への興味が戻り出し、徐々に気持ちが大学の勉強から教育・不登校へ動いていってしまいました。大学の講義への集中力も薄れ大学の勉強への熱も薄れていくのは明らかに感じていました。
気持ちがどうであれ体が動くのであれば大学にお金を払ってくれている以上は通わないといけないと思いつつ、90分間の1講義のうちほどんど集中して聞くこともできていない、ましてや大学の勉強に興味すら示していない自分が嫌にもなるし大学に行く意味すら分からなくなっていました。
それでも朝起きて準備をして当たり前のように行きました。
学校を休む、“さぼる”ことの罪悪感を感じても休むことはできなかったのです。
そんなことを感じながら6月を過ごしていましたが、7月1日、私の中の糸が切れました。その日も5限まで講義は受けました。泣きながら。
隣に友達もいたし、周りにもかなりの人がいる中で。どうして泣いていたのかは今でも分からないのです。
拭いても拭いても涙が止まらなく、でも広く大人数いる講義室を抜け出す勇気はありませんでした。結局なんとか最後まで講義室に居座りました。すぐに部屋を出て家に帰り、スーパーで食料を買い、家にこもりました。
「もう私は学校に行けない。」一人暗い部屋、泣きながら思っていました。
こうしてこの日を境に私は大学に行かなくなったのです。
不登校時の様子
最初の一週間ほどは一切家から出ることはありませんでした。
部屋の電気を付けず、カーテンも窓も開けず(天候不良の日以外は必ずやっていたこと)、必要最低限の目的以外では寝室から出ることもありません。InstagramとTwitterを消しました。本当はLINEも消したかったのですが、親との連絡の手段であったため連絡が途絶えると学校に行っていないことがばれる可能性があるので残しました。
一日の生活スケジュールは、
目が覚めたら起きて、朝ドラの録画を観て(大学に行っている時から欠かさず観ていたのでこれだけが唯一の楽しみだった)、寝室で過ごします。
眠たくなったら寝ます。3日に一回位のペースでお風呂に入り(午前中に入ることが多かった)、洗濯は溜まったらやってました。
食事は午後に一回。
冷凍していたうどんや卵かけご飯をよく食べていました。
最初の一週間くらいがこのような生活だったのですが、次の週位から少しずつ動けるようになりました。何を思ったのか本が読みたくなり大学近くのBOOKOFFと本屋で本を大量に買い、冷凍うどんもたくさん買いました。
家の中での生活も、起床も就寝時間もバラバラでお風呂や洗濯のペースもあまり変わることはありませんでしたが、一日二回は食事をとれるようになり、本を読んだりテレビを観たりもできるようになっていました。
ただ精神面では不安定な時期が長く続きました。
学校に行けないことに対する自分の弱さ、自分を責めて、これからの不安、死にたい消えたい気持ち。何がしたいのかもわからなくなった。泣きたくないのに泣いてしまう自分。そんないつまでも強くなれない弱い自分に対してなく日々が続きました。
学校を辞めるという選択肢
私の不登校は約1ヶ月。
8月の中頃からちょうど2ヶ月ほどの夏休みが入ったからです。それも含めちょうどいいタイミングだったのかもしれません。実は7月の中頃あたりには「学校を辞めたい」という気持ちになっていました。外に少しずつ出られるようにはなってはいましたが学校に行くどころか、学校がある方向自体に行くこともできませんでした(幸い学校と反対方向にスーパーがあった。ただ本屋は遠くなった。)。
「学校が怖い」「知っている人に会うかも」そんな気持ちになり足がすくみ苦しくなるのです。
学校に行きたくない(行けない)。
学校のことなんて考えたくない。
今がこんな状態で後期から行けるようになるはずがない。
なのにそれを隠して後期分の授業料を親に払ってもらうのは罪悪感でしかない。
「休学っていう選択はない?」そうも言われました。
でも私にはその考えは一切なかったのです。
休学自体を逃げだと考えていた部分もあります。でもそれ以上に休学しても学校から離れられるわけではないし、いつかはまた復学にせよ退学にせよ学校のことを考えなくてはならない。
なんとなく、根拠はないけれどもう少し冷静になったとしても
「学校にもどりたい」と思うことはないだろう、そう感じていました。
当時も今も、当時の退学を考えていた頃の自分は冷静ではなかったと言い切れます。勢いで決めて曲げなかっただけなのかもしれません。それでも私は当時の自分の判断を今でも間違ったと思うことはありません。
ここまでが私の当時の生活と心境ですが、この生活にどうしても欠かせない人がいます。私が学校に行かなくなった当初からずっと私の声を聞き続けてくれた人がいます。学校に行けないと感じた時、真っ先に連絡した人です。行けないと感じたことに焦りや不安のような気持ちを抱いて誰かに相談したくなったのかもしれません。その人が毎日のように私の声を聞いて、励ましてくれ、学校に行っていない私も不規則な生活を送る私も認めてくれました。肯定してくれました。
その人がいてくれたおかげで死なずになんとかでも生活してこれたのだと思います。
不登校後の苦しみ
その後、大学を辞め実家に戻ってきました。
私の地元が田舎で、田舎ならではのことなのかもしれませんが、ご近所さん、親戚、友達の兄弟や親など自分となにかしら関わりのある人たちには私が帰ってきたこと、学校を辞めたらしいという情報がいつしか広まっていました。
高校の時の担任の先生から一度話を聞かせてほしいと呼び出されたこともあります。
私に直接、親に、友達を介して、
「どうしたの」
「なんで学校辞めたの」
「今何してるの」
どうも私と関わりがあるというだけで、私の様子を知りたがる人が次から次へと出てきました。
たしかに友達も、ご近所さんや親戚も私のことを知っているから気になるという気持ちも分からなくはないです。
実家に帰ることが決まった時からこうなることを予想はしてはいましたが、経験してみると想像以上の苦しみをたくさん感じました。
「なんでそんなに私のことを聞くの」
人に聞かれるたび心の中では疑問も、怒りも大きくなっていきました。
一番恐ろしいことは、その人達に悪気がないことなのです。
「心配」「気になる」
ただそれだけの気持ちで聞いてきたのだと思います。
でもそれが、悪気がないからこそ、余計に自分が苦しくなった原因の一つだと思っています。
相手に悪気がないことは分かっているのに自分は相手の言葉を「圧」として変換して自分の中に取り込んでしまいます。
同じような状況を今になって経験しても言葉をそのまま素直に受け取れないことがあります。
どうして私を昔から知っている、関係性が近いからというだけで私のことに込もうとするのか、答えたくもないことを答えることが当たり前だという雰囲気になってしまうのか、ずっとモヤモヤでいっぱいでした。
とにかく自分のことを聞かれることも、自分のことを答えることも苦しかったのです。自分のことでいっぱいいっぱいになっていたこともあり、この人達には私が答えたくないと思ってるということがわからないのだろうかと考えることもよくありました。
私の想いとこれから
答えられない(答えたくない)の気持ちの中には、自分でも整理がついておらず、受け入れられなくて気持ちを言葉にできないという想いが入っています。
なんとなく答えは分かっているけれど、それを言葉にしてしまうとそのまま更に自分に圧としてもどってくることを恐れてもいます。
一度でも誰かに否定されたり、理解してもらえなかったりした経験があることで相手が何を考えているのか、自分の不登校ということをどう捉えるのか、どう思うのかが分からないと自分の心を先に見せるには抵抗があります。
その相手が近所の人であろうと、親戚であろうと、友達であろうと関係はないのです。
それでも私は聞かれても「答えたくない」「答えずらい」と思ってしまう自分が嫌で、いつかは堂々と答えられるようになりたいと思うようになりました。
高校生の頃からの不登校への興味は消えてはいませんでした。
だからこそ自分自身が不登校の「当事者」であり、自分のことを受け入れて認められるようになるまでの経験したからこそ、「第三者」と「当事者」としての二つの立場で話せることもあるのではないかと思っています。
正直、今でも答えられない人もいます。一度でも自分のことを否定されたと思った人や初対面の人にも自分の過去の話をすることには抵抗があります。その反面、”不登校””中退”の自分の話に興味を持ってくれたり、話をしていくうちにこの人になら話せそうと思えたりした人には「話したい」と感じるようになり話せるようにもなりました。
私はこれからも少しずつ発信をしていきたいと思っています。
気持ちを言葉にすることは簡単なことではないし、今でも過去の出来事を思い出すのは辛いこともあるけれど、自分のためにも誰かのためにも言葉にし続けたいのです。
当時の自分は経験談というものを求めていました。その後の明るいレールを用意されるわけではないけれど、「自分だけじゃないんだ」と何も変わらない日々の中で気持ちだけでも楽になりたかったからです。
不登校で辛く苦しい思いをしているのは自分一人だけではないことは分かっていました。けれど自分の状況しか見えていない時間が長くなるほど同じように思っている経験している人の存在を忘れ自分一人だけの感覚に陥ってしまいそうになりました。
私と同じように感じている人は少なからずいるはずだと思っています。
だからこそそういう人たちの気持ちをほんの少しだけでも軽くできるのであればしたいのです。
また私は、もっともっと声を聞きたいとも思っています。この想いは以前から抱いていたのですが、この記事を書いていくうちさらに強く確かなものへと変わっていくのを感じました。
不登校の経験、今の想い、保護者としての想い、経験者ではないけれど不登校に興味関心のある人の視点、不登校の人や保護者と関わりのある人の視点など、私の経験はほんの一部に過ぎなくて私には知らないことの方がまだまだたくさんあります。そういった想いを知りたいし、目でみて感じたいと強く思っています。
「知る」「感じる」「見る」が今の私の大きなテーマです。
私はこれからも、不登校と共に生きていきたい。
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