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3.11 東日本大震災後の被災地への旅

🔴2011/05/12 東北被災地への旅 

 5月2日から5日まで私は、宗教哲学者の鎌田東二さん(京都大学こころの未来研究センター教授)と東日本大震災で被災した宮城県から岩手県の海岸線を北上する旅をした。鎌田さんは、東日本大震災の被災地を訪問し、そこにある聖なる場所、宗教施設の被災状況、宗教団体の被災者への取り組みなどを見て、今後の「支援」の形を探りたいと思い、一緒に同行させていただくことになった。震災後、私は石巻市の釣石神社の釣石がどのような状態にあるのか、ネットで調べると釣石はそのまま無事だった。その上、何人かの参拝者が津波の時に、釣石の横の石段を駆け上がり命が助かったという記事を見た。釣石は78年の宮城県沖地震に耐えたことから「落ちない石」として知られ、今年の正月には、受験生ら約1万人の参拝客を集めた。今回の地震でも耐えたことになる。この釣石を見たいと思った。そして、東北のいくつかの聖石も確認したかった。 

5月2日 夜行バスで早朝の仙台に入る。仙台駅は、工事用シートがかかっていた。 

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 市内を散策する。震災の被害はそれほど感じられなかった。朝食を食べ、しばらく喫茶店で休む。12時半頃、仙台駅で鎌田さんと合流。昼食を食べ14時に陶芸家の近藤高弘さんと奥様(ご実家は仙台)、そして陶芸仲間の方々とお会いして打ち合わせをする。近藤高弘さんは宮城県白石市七ヶ宿町の西山学院高校内の登り窯「無限窯」で、被災者に届ける器「Myお茶碗」の制作を行い、国内外の陶芸家たちに協力を呼びかけて被災者数約15万個のお茶碗を目標に被災地域の子供や大人に届けるプロジェクトを進めていた。 

 近藤さんの友人から車をお借りし、鎌田さん、近藤さん夫妻と一緒に若林区にある浪分神社へ向かった。自衛隊駐屯地近くの住宅外の一角に神社はあった。 

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 ここは、多くの市民が津波で亡くなった仙台市若林区の荒浜地区から5キロほど内陸にあり、貞観津波(869年)の直後に建てられた「浪分神社」だ。元来は元禄16年(1703)に霞目の八瀬川に建てられた稲荷社だったが、慶長の大津波(1700人以上の死者)が二つに分かれて引いた場所に天保6(1835)年に移されて浪分神社に名称を変えた。この神社には、白馬にまたがった海神が大津波を南北に分けて鎮めたという伝説があるという。 

 その後、津波被害が激しい若林区へ。震災後二ヶ月近く経っても、家屋や車、木々が粉々になって水田を覆っていた。 

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我々は亡くなった方々の魂にむかってしばし黙祷を捧げ、鎌田さんは法螺貝を吹いた。 

 その後、宮城県庁へ向かう。県庁の県政記者会で16時30分から「心の相談室設立について」の記者会見が行われたていた。 

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「心の相談室」は、「死者への弔い」と「遺族へのケア」を中心的な課題として、被災者の伴走者となりたいとの願いで始まった相談室だという。そして、東北大学、医療法人社団 爽秋会、宮城県宗教者連絡協議会、世界宗教者平和会議日本委員会、仙台キリスト教連合、仙台いのちの電話、反貧困みやぎネットワークなどの協力を得て被災者の生活と健康全般の包括的な相談を受けるために電話相談窓口を開設するという。医療の相談、生活の相談、メンタルヘルス、宗教の相談を無料で受けるものだ。異なった宗教者が協力しあって、弔いからグリーフケア(悼む悲嘆へのケア)をするとは実に画期的なことだ。 

 その晩、鎌田さんの知り合いで記者会見に参加していた東北大学教授の鈴木岩弓さん、近藤さん夫妻と一緒に夕食をご一緒する。それから、鎌田さんとの東北の旅は始まった。鎌田さんとは10数年前アイルランドやイギリスのケルトの地を巡った間柄だが、寝袋で車中泊をしながらの旅は初めてである。食材を購入して、その夜は七ヶ浜町の君ケ丘公園の駐車場で車中泊する。 

 5月3日 翌朝、6時過ぎに七ヶ浜町の被災地を見る。高台から下に降りると別世界が待っていた。 

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被災地域の農道をゆっくり走りながら、猿田彦大神を祀る鼻節神社を参拝する。 

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境内を散策すると石そのものが祀られていた。

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 吠崎の岩場を歩いてから塩釜神社へ向かった。8時半過ぎに近藤さん夫妻と塩釜神社で合流してお参りをする。

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 禰宜さんから塩釜周辺の震災後の状況や身元不明者への宗教者による弔いのお話などを伺う。近藤さん夫妻を東塩釜駅までお送りし海岸線を北上する。松島を見ながら近藤さんの奥様が用意してくれたお結びを美味しくいただく。

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 松島は、奇跡的に被害が少なく、観光客で賑わっているのに驚いた。 石巻市に入ると、津波の被害の激しさが実に痛々しかった。 

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しばらく、ある被災地区の状況を観察していると虹というか、レインボーの帯が上空に現れた。 

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その後、立正佼成会石巻教会を訪ね御参りをさせてもらいお話を伺う。立正佼成会では、全国の会員の方々から少しずつお米を集め「米百俵・托鉢布教による真心支援米」として被災地に届けているという。 

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ある若い女性会員の方はお姉さんがいまだ行方不明で、話の途中で涙を流していた。震災後、教会は心の拠り所としての重要な役割を担っているように見えた。さらに北上して女川町へ移動する。女川町の町立病院がある高台から望む。

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 先月の4月23日、NPO東京自由大学主催「シャーマニズムの未来~見えないモノの声を聴くワザ」(なかのZERO小ホール)というシンポジウムがあり、私は記録係をさせてもらった。シンポジウムで最も印象的だったのは漫画家の岡野玲子さんの話だった。岡野さんは、新陰陽師を雄勝の硯ですった墨で描写していると「オガツ、オガツ」と耳元で聞こえたという。また、雄勝法印神楽の「橋引き」の演目に感動した岡野さんは、震災後、壊滅状態になった雄勝町が気になってネットを検索すると神楽師のHPと出会い、掲示板にメッセージを書いてから、神楽師とメールのやりとりを始めたという。家やすべてのものを失った若き神楽師は、最近、篠笛を買ったという。若者は、町を見下ろす丘の上で篠笛を吹き町の復興を祈ったという。そして、新陰陽師では雄勝法印神楽で使われた橋引きの和歌「人ならば契りも深き伊会杉の 今も情けを忘れがたらむ」を紹介するらしい。岡野さんは、個人的に雄勝町への支援をされていた。 

 雄勝町に入ると壊滅的な光景が広がっていた。 

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大型バスが二階建ての屋根の上に乗っかっているとは信じ難い。津波は計り知れないエネルギーがある。 

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鎌田さんは、雄勝総合支所の職員に神楽関係者のことを尋ねた。すると、近くの避難所に雄勝法印神楽保存会副会長さんがいるとのこと。さっそく連絡をとって避難所に伺わせてもらった。副会長の伊藤さんから震災の話やお神楽の話をお聞きする。保存会の会長さんはいまだ行方不明で神楽面と衣装のほとんどが海に流されてしまったという。多くの神楽師の方は助かったが、家や仕事を失った方々は、今後神楽を続けることも大変だと思う。伊藤さんは、被災された自宅に戻り雄勝法印神楽のパンフレットを見せてくれた。

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 最初の載っている石の写真に私は目が点になった。それは石(いその)神社(延喜式内)の磐座の写真だったのだ。 

 その後、我々は石神社のある雄勝町大浜へ向かった。大浜の浜の近くにあるのが葉山神社は、残念ながら地震と津波で大きく破損していた。

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 石峰山石神社への山道を登ろうとすると、一台の車がやってきた。それは、葉山神社のすぐ近くに住む宮司さんの車だった。宮司さんに石神社の事をお聞きすると、石神社への地図が入った由緒書を渡してくれた。日も暮れはじめていたので登拝を断念する。その日は、石巻市に道の駅「上品の郷」のふたごの湯に浸かる。復興支援を手伝っているボランティアと思しき若者が多かった。道の駅駐車場で車中泊する。 

 5月4日早朝、石峰山石神社へと向かった。40分ほどで石神社に到着する。 

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鎌田さんは祝詞、般若心経を唱え篠笛、石笛、法螺貝を奉納した。すると、朝日が森の中を照らし始めた。それにしても見事な磐座である。

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 さらに上に進むと尾根に出る。巨岩を根でつかみ今なお成長しているケヤキの木は、神々が降臨する古代祭祀の原型を現していた。

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 何とも艶かしく、そして神々しい。 

 その後、石巻市北上町十三浜にある釣石神社へ向かった。これまで二度訪ねていたが、神社に近付いてもさっぱり光景を思い出せないでいた。それもそのはず、釣石神社周辺の集落は、ほとんど津波に飲み込まれてしまったのだ。

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 かつて社務所と境内があった場所は地盤沈下をして水がたまり、大きな池になっていた。池の淵から神社に近付くと確かに釣石は以前と変わらぬ姿を見せていた。

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 釣石の下の陰石も変わらない。 

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ただ、入口に設置された茅の輪は折れまがり、灯篭は崩れていた。我々は釣石横の石段上がり奥社を御参りした。 

 次に向かったのは気仙沼市にある宝鏡寺である。このお寺は、宗教人類学者の佐々木宏幹氏が幼いころ育ったお寺である。 

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お寺を御参りして住職にお話を伺うと、気仙沼は旧市街はほとんど津波の被害を免れたが、新市街はかなりの被害を受けたという。それから金光教気仙沼教会を訪ねお参りしてお話を伺う。近くの紫神社は、避難所になっていて震災直後から自主的に炊き出しをしていた。 

 その後、陸前高田へ向かった。陸前高田の海沿いの市街地は壊滅状態であった。 

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 慈恩寺がある広田地区は、津波で道路を寸断され物資が三日間ほど入らなかったという。ようやく、四日目に自衛隊のヘリコプターで物資が届いたときは、「万歳!万歳!」と言って喜んだという。 

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 慈恩寺は、避難所になっていて北海道から来たボランティアの人々が炊き出しをしていた。 

 その後、釜石へと向かった。釜石市街もかなひどい状況だった。 

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 鎌田さんは国学院大学の教え子の末永君の安否を知りたかった。彼は、平成10年、神戸のメリケンパークで行われた「神戸からの祈り」という祈りを中心としたイベントの最初に釜石虎舞をお姉さんと二人で踊ってくれたのだ。その日は、彼の安否は分からなかった。(後日6日、非難して無事との連絡が鎌田さんに入る。) 

 最後に向かったのは、岩手県宮古市の小国の集会場だ。ここには、沖縄大学から学生と教員39名が、ボランティアの支援活動にやってきていた。その中に沖縄大学で教鞭をとる旧知の須藤義人君がいた。彼らは6日間、泥だしや支援物資の仕分けなどをしたという。ボランティアの最終日の夜、我々は小国の集会所で再会し、その足で早池峰山の麓、タイマグラの山小屋へ向かった。須藤君は大重潤一郎監督の映画「久高オデッセイ」の助監督もしていて、最近「久高オデッセイ~遥かなる記録の旅」(晃洋書房)を出版したばかりだ。彼は、津波の被害で割れなかったワンカップの地酒を「縁起のよいお酒です」と言っては注いでくれた。薪ストーブを囲んでの宴会は心が和んだ。その夜、タイマグラの山小屋前で車中泊する。 

 5月5日、早朝に起きて大槌へ向かう。途中、朝日を浴びた早池峰山を遥拝することができた。 

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大槌町もかなりの壊滅状態である。

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 そこから北上して宮古市街へ。大きな観光船が打ち上げられていた。 

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田老、小本、野田、そして久慈へと北上する。 

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  最後の久慈の街は、内陸にあったため被害が少なかったことは、今後の復興に重要な拠点になると思った。 

  4日間、被災地を駆け足で巡った。被災地を見ながらそこで亡くなった方々、いまだ行方不明の方々のことを思うと、ただただご冥福をお祈りするしかない。 

  今回、岡野玲子さんのご縁から、雄勝町の磐座との出会いをいただいたように思う。そして、何よりもこの磐座を守りつづけている若い宮司さんの存在は重要である。 

 磐座への祈り、雄勝法印神楽の復活によって雄勝の再生を確信する。そして東北の再生を祈りつつ・・・。 

盛岡から東北道を南下し、白石蔵王駅で鎌田さんとの旅を終える。 

須田郡司 拝