日本のロック、そしてゴスペル、2つの世界のパイオニア、小坂忠の人生
TBSラジオで毎週金曜日8時30分~午後1時まで放送の「金曜ボイスログ」
シンガーソングライターの臼井ミトンがパーソナリティを務める番組です。
このnote.では番組内の人気コーナー
「臼井ミトンのミュージックログ」の内容を書き起こし。
ちなみにyoutube版では動画も公開しているのでそちらも是非。
日本のロック、そしてゴスペル、2つの世界のパイオニア、小坂忠の人生
レジェンド・シンガーソングライター小坂忠
歌手であり牧師でもある小坂忠さんがガンとの闘病の末74歳で亡くなられました。小坂忠さんって音楽ファンとか音楽業界の中にいる人にとっては知らない人はいない、超レジェンド・シンガー・ソングライターなんですが、
お茶の間レベルの大ヒット曲があるわけではなく、そもそもキャリアの途中で牧師さんに転職してしまって、ポピュラー音楽のシーンからは長いこと姿を消していた方ですので、彼の功績、一体どう言う点でレジェンドなのか?という部分がちゃんと伝わっていない気がしていまして。
今日は追悼の気持ちを込めて小坂忠さんの人生やその功績に迫ります。
小坂忠さんは1948年生まれ、いわゆる団塊の世代で、彼が大学在学中というのは学生運動が激しさを増していた時代。忠さんはあんまり学生運動に興味を持てなかったので、手持ち無沙汰に麻雀やったりバンドやったりで、
バンドでは主にTHE ROLLING STONESなんかの洋楽カバーをやっていたみたいですね。
オーディションからデビューへ
で、ある日バンドメンバーが、オーディションの話をもってきます。
日本ミュージカラーというレコード会社がロックバンドのオーディションを開催するということでそれを受けに行ってみたわけです。すると、驚くべきことにそのオーディションに参加したのはその忠さんのバンドのみだったんですね。これはつまり、いかに当時はまだロックバンドやってる人が少なかったかってことですよね。まだビートルズがデビューして数年経つか経たないかくらいの時代ですから。
半ば不戦勝のような形でオーディションに勝利しまして、「フローラル」というバンド名でのデビューが決まります。これが1966年です。
フローラルがデビューした日本ミュージカラーというレコード会社。
実は、結構羽振りが良くてですね。というのも、当時The Monkeesという
アメリカの人気バンドのファンクラブ日本支部を運営していたのがこの会社だったんですよ。The MonkeesはTHE BEATLESと人気を二分していたアイドルバンドですから、会員が2万人いたそうで、それで相当儲かっていたらしいんです。
で、フローラルも〝The Monkeesのファンクラブの会員が結成したバンド〟
という設定にして、アイドルっぽい衣装を着せてデビューさせたんですが、
忠さんたちはロックをやりたいわけですから、別にアイドルになりたいわけじゃない。当然これはうまくいきません。しかも当時ロックっていうのは
音楽産業としてはまだ暗中模索のジャンルで、演歌歌手の島倉千代子さんの前座をやったり、職業作家さんが書いた曲を歌わされたりと歌謡曲っぽい
システムというかグループサウンズ的な活動を強いられていたわけです。
とてもじゃないけど本人たちの望むロックバンドの形ではなかった。
次第にメンバー間でもこのままで良いのか、と軋轢が生まれます。
細野晴臣・松本隆と「エイプリルフール」を結成
そこでレコード会社と話し合ってバンドを一新しよう。ということになり、忠さんを軸に新しいバンドメンバーを探し始めます。そんな折、偶然都内で開かれた学生パーティーで小坂忠さんが出会ったのが、細野晴臣、松本隆、鈴木茂、そして林立夫。のちに「はっぴいえんど」や「ティンパンアレイ」のメンバーとなる人たちです。
学生のパーティー会場に小坂忠さんが来たもんだから、当時ミュージシャン志望の高校生や大学生だった細野晴臣さんたちも大興奮ですよ。
「小坂さん!僕ら自分たちのオリジナル曲も書いてるんで、ちょっと一曲歌ってくださいよ」なんて言って、歌詞がビッシリ書き込まれた大学ノートを松本隆さんが持ってきて、その場で忠さんに歌ってもらって。
それで「オォ〜やっぱりプロの歌手ってやべーな!超うまい!」なんて言って、大いに盛り上がる。
小坂忠さんも、ちょっと年下だけどこれは凄いミュージシャンたちを見つけたぞっていうことで、彼らを新しいバンドに誘うんですね。
なんせ所属レコード会社がThe Monkeesのファンクラブで儲かっていましたから、当時の大卒の初任給の倍以上の月給がもらえるということで、その
給料袋を細野晴臣さんの目の前でチラつかせて、細野晴臣、松本隆の2名がバンドに加入します。こうして生まれたのが「エイプリルフール」と呼ばれる日本語ロックの草分けとも言われる伝説的なロックバンドです。
彼らはとにかく毎晩のように都内のディスコで演奏するんですが、そういう仕事って、結局営業仕事というか、酔客の踊りのBGMとしてひたすら洋楽
ロックをカバーし続けるわけですね。アーティスト活動とはとても言えないですよね。彼らはそんな演奏の仕事が終わったあとで、毎晩のように松本隆さんの家に集まって、いろんなレコードを聴きながら、こういう歌詞をこう言うサウンドに乗せてみよう。と、そこで、日本語ロックの可能性を大いに語らっていたわけです。自分たちの日本語オリジナル曲をもっと増やしていこう、と水面下で計画が進んでいく。
演劇の世界で自分を表現する道を選ぶも…
ところが、小坂忠さんは、当時アングラな演劇とかアートとか、いろんなことに興味を持っていて、演劇の世界にも顔を出していた。当時まだ日本語詞によるロックが生まれ始める前夜ですから、忠さんは、海外アーティストのシャウトをコピーすることが本当に表現活動と言えるのだろうか?と自分の音楽活動に疑問を持ち始めてしまったんですね。
彼は、細野さんや松本隆さんと日本語詞のロックを一緒に模索するよりも、演劇で自分を表現する道を選んだんです。
ちょうどその頃「ヘアー」というブロードウェイミュージカルの日本語版を上演するということで、出演者を募集していました。
忠さんはこのオーディションに参加します。そのときに伴奏者として連れて行ったのがバンドメイトの細野晴臣さん。彼のギター伴奏でバク転しながら歌を披露しまして、見事合格!小坂忠さんはミュージカルの道に進みます、ところが!
このミュージカルに関わった関係者の多くが公演中にマリファナで捕まっちゃうんですよ。小坂忠さんは始末書書いただけで釈放されたんですけど、
これでミュージカルも中止です。
カルチャーのハブになっていた西麻布「キャンティ」
さぁこれから先どうしようかな、と思ったその頃、以前この音楽コラムでもお話ししました、日本のニューミュージックに非常に大きな影響を与えた
レコード会社、アルファミュージックの創始者である村井邦彦さん。
彼が、アルファミュージックを設立する直前に、日本コロムビアの傘下で
新しいロックレーベルを立ち上げます。マッシュルームという名前のレーベルなんですが、アルファレーベルの前身と言っても良いかもしれません。
そのマッシュルームというレーベル設立に関与したもう一人の重要人物が、西麻布のキャンティというレストランのオーナーである川添象郎さん。
この人は名家の御子息で、文化人として国内外のカルチャーのハブのような役割を果たしていた人なんですね。で、そんな彼のお店キャンティでは業界人や文化人が夜な夜な集うサロンのようになっていました。
実はこの人がですね、小坂忠さんが参加していたミュージカル・ヘアーの
プロデューサーも務めていたんですよ。まぁ一緒にマリファナ吸ってた仲というか。そんなご縁もあり、この新しいレーベルから小坂忠さんのソロアーティストとしてのデビューアルバムをリリースすることになったわけです。
ただ、小坂忠さんは、自分のやりたい音楽が理解してもらえるかどうか不安だった。なんてたって最初にデビューしたときは島倉千代子さんの前座ですから。そのトラウマがあったんでしょうね。ですので、レコード会社に任せるのは不安だということで、昔一緒にバンドをやっていた、毎晩ディスコで演奏を共にした馴染みのメンバーをもう一度呼び寄せます。
日本ロック史において最重要アルバムの1つ「ありがとう」
そうして集められたのが、細野晴臣、松本隆、鈴木茂、という面々。
彼らは小坂忠がミュージカルに駆り出されている間、絶対の信頼を寄せる
ヴォーカルがいなくなっちゃったもんだから、自分たちで交互に歌を担当する形で新たにロックバンドを組んでいました。
それが「はっぴいえんど」ですね。そのサウンドを気に入っていた小坂忠は、彼らに頼めば間違いなく自分のやりたいサウンドが実現出来る、と。
そう踏んだんですね。
こうして出来上がったのが小坂忠のソロシンガーとしてのデビュー作
「ありがとう」というアルバム。このアルバム、実はデビュー前の荒井由美さんのレコーディングデビュー作にもなっています。どういうことかというと、ユーミンは、さっき話に出た西麻布のキャンティというレストランの
常連さんでしたから、オーナーの川添さんが連れてきてこの作品でも演奏させたんですね。
このアルバムで初めて、細野晴臣率いるミュージシャンチームと、デビュー前のユーミンと、そしてのちにアルファミュージックを立ち上げることになる村井邦彦さんが一同に会した。これが後の荒井由美の「ひこうき雲」につながり、ティンパンアレイにつながり、そしてYMOに繋がってゆく。
日本のロック史において最重要アルバムの1つと言っても過言ではない。
小坂忠さんって、つまり、日本語詞のロックミュージックというのが花開いていく黎明期のシーンのど真ん中に存在していた、なんかこう大きな支柱みたいな、そんな人なんですね。
そんな日本語ロックの草分けである彼が一体何故、牧師に転身し、日本の
ゴスペルミュージックの第一人者になったのか?ここまでのところは彼の
壮絶な人生の序章に過ぎない、むしろここから先が本題なんですが・・・・
今日のところは、お時間でございます。すみません、ソロデビューまでの話で時間を使い果たしたので、続きはまた次回。
youtube版では動画で同様の内容をご覧いただけます。
金曜ボイスログは毎週金曜日8時30分~午後1時にて放送。
AM954/FM90.5/radikoから是非お聞きください。