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美大に進学したい女子高生の悩みから、アラフィフが学んだ話

「親に美大進学を反対されています」

ある日、新聞を読んでいるとこのような悩み相談が目に入った。私は、アートの仕事をするなかで、アーティストが生計をたてていく大変さを見聞きしていたので意識しないうちにその記事を目で追っていた。

質問者は、高校2年生。両親に美大の受験に合格するために、専門の塾に通いたいことを相談したところ大反対された。両親と同じ医療系の道へ進むように諭されたが、興味を持てない。両親を説得する方法を知りたいという内容だ。

50代の私は、子供の将来を心配する親御さんの気持ちがよくわかった。絵描きは食べられないというのが日本の社会の通説だからだ。

しかし、その状態に対して日本には美術系の大学が多い。国公立では、東京藝術大学、金沢美術工芸大学、愛知県立芸術大学、京都市立芸術大学、沖縄県立芸術大学。私立では、多摩美術大学、武蔵野美術大学、女子美術大学、横浜美術大学、秋田公立美術大学などがある。このほか、美術系の学部を持つ大学を検索すると、172校がヒットした。こうした美大には難関校が存在しており、合格するための予備校も存在している。

例えば多摩美術大学、武蔵野美術大学の美術学部の一学年の定員は、それぞれ約1000人だ。つまり、年間多くの卒業生が社会へ送り出されているが、一説によると日本でプロの画家として活躍しているのは、草間彌生さんや村上隆さんをはじめとする30~40人といわれる。

こういった現状なのだから、親御さんが進学に反対するのは当然のことだろう。

この高校生の悩みに対して、回答者は2つの答えを提示していた。

一つ目は、卒業後の就職先が幅広く存在していることを両親に伝えるというもの。美術大学は芸術家育成機関と思われがちだが、大手企業の プロダクトデザイナーや建築業界・マスコミ関係などで働く道もあれば、教師となる道があるということをプレゼンしてはどうかというのだ。

もう一つは、自分で資金調達をして進学を目指す方法だ。まずは親がすすめる通り医療系に進学して、一度就職をする。美大進学に必要な費用をためてから受験にチャレンジをするという方法だ。

果たしてこの答えに女子高生は納得するのだろうか。私は疑問を持った。

そもそも子供が芸術の道を選ぼうとすると親が反対するという構図は今にはじまったことではなく、古今東西の事例に多くみられる。今も昔も同じような悩みを若者たちは抱えているのだろう。

例えば、小説家の二葉亭四迷は、父親から「てめえなんか、くたばってしまえ!」と罵倒されたことからこの名前を名乗るようになったというエピソードが残っている。

画家も同様だ。19世紀に活躍した「光の画家」と呼ばれる印象派のクロード・モネもそうだ。彼の名前を聞くと、有名な『睡蓮』のシリーズをはじめ、色彩にあふれた静かで優しいタッチを思い浮かべるのではないだろうか。その画風から穏やかな人生を過ごしたイメージを持つ人も多いだろう。

しかし、彼も最初は画家になることを父親に反対された一人なのだ。モネが育ったのは、フランスの田舎町。子供の頃から絵がうまく、近所の額縁の店で個展を開き、描いた人物画を売っていたほどの腕前だった。自然な流れでアートの道に進みたいと考えたが、船舶販売と雑貨屋を営んでいた父親は反対した。彼を後継ぎとして考えていたのだ。しかし、歌手だった母親の後押しで絵の勉強を始めることになった。

モネは、パリで絵を学びたいと考えるようになり、父親にそれを告げると大反対された。しかし、自分が絵を売って貯めた大金を見せて父親を説得し、生活費の仕送りも条件として得たという。

しかし、この選択はモネにとって長年の貧乏生活のはじまりであった。

パリで画家の活動を始めた26歳のモネは、年下の絵画モデルと恋に落ち結婚した。代表作「散歩、日傘をさす女性」で描かれた女性としても知られている。

しかし、身分が違うと両親は猛反対し、生活費の仕送りが断たれてしまう。さまざまな人や店に借金があり、作品を差し押さえられそうになったため、200点もの作品を自ら切り裂いたという逸話もある。

子供が生まれると、さらに困窮していく。極貧に耐え切れず、28歳のときに自殺を図るが失敗。印象派の画家たちのなかでは、最も早く注目を浴びて作品が売れていたルノワールに食べものを恵んでもらっていたという記録も残っている。

サロンという当時の画家にとって重要な展覧会では何度も落選し、自分たちで「印象派展」を開き、話題にはなったものの絵が売れたわけではなかった。モネたちの絵は、当時の人たちから賛美されていた写実的な絵画の流れから外れるものだったため、「印象派」という言葉が揶揄として使われていたのだ。

そののちも、愛する妻の死、破産してパトロンの夜逃げ、その人物からかつて受けた恩義に報いて11人の大家族を養うことになるなど、モネは壮絶な経験をしている。

彼の絵が脚光を浴びるようになり、経済状況がよくなったのは、40代になってからだ。モネの優しいタッチの根底には、言葉にならない辛い経験が横たわっている。いや、そのような闇を見たからこそ、光に満ちた絵画を描き続けたと言ってもよいのかもしれない。

このほか親に画業を反対された画家としては、多くの印象派の画家に大きな影響を与えたマネがいる。マネの父親は法務省の高級官僚、母親は外交官で子供には法律の道に進んで欲しいという願いがあったため、画家になりたいというマネは大反対を受ける。仕方なく海軍学校を受験したが不合格になり、その後両親を説得し画家の道へと進んだ。

のちに代表作「草上の昼食」を発表するのだが、マネが親の反対に屈して法律家になっていたら、印象派は現在見られる作風とは別の形になっていたかもしれない。

同じく印象派の女流画家のメアリー・カサットは、アメリカ人で父親が成功した株式仲買人、母親は銀行家の家の出身という恵まれた環境で海外の都市を旅行するうちにプロの画家になろうと決めた。家族は反対したが、カサットは意志を貫き、本格的に絵画を学ぶためパリに渡った。彼女は、アメリカに印象派を紹介し、人気を集めるきっかけを作ったキーパーソンの役割を果たした人物だ。もし、カサットが画業の道に進まなければ、印象派の名声が高まるのには時間がかかっていただろう。

日本には、親に勘当されてまで絵の道を歩んだ女流画家がいることをご存じだろうか。片岡球子である。昭和から平成時代にかけて活躍した日本画家で、小学校教師として務めながら日展などに応募し続けるが、何度も落選を経験し、「落選の女王」が彼女の別名であった。その作風が型破りで色使いが大胆な独自のスタイルだったことから「ゲテモノ」という別名で一部からは呼ばれたが、徐々に認められるようになり日本三大女流画家と称されるようになった。そして、103歳で亡くなるまで創作を続けた。

とは言え、そういった前例があるからといって、安易に画家の道をすすめることはできない。

今から半世紀ほど前、「太った豚より、やせたソクラテスになれ」という言葉が流行ったことがあった。東大の総長が卒業式で卒業生に贈った言葉だ。「満足した豚であるより、不満足な人間であるほうがよい。満足した馬鹿であるより、不満足なソクラテスであるほうがよい」という意味でもともとは、哲学者のジョン・スチュアート・ミルの言葉だそうだ。
しかし、このような精神論を語るような生き方は今の時代には難しい。私なら親の反対に悩む女子高生の悩みにどのような回答を用意できるだろうか。

自分なりに答えを求めてインターネットを検索した。見つけたのは、画家の収入源として個展・展示会を開く。コンペに応募する。美術教師・講師として勤務する。美術教室を開く、など安定とはほど遠いものであった。


そのようななかで、一冊の本をみつけた。1984年生まれの画家・中島健太さんの著書『完売画家』である。この本のなかで彼は「絵描きは食えない」は、言い訳だと言っている。中島さんは一浪ののち武蔵野美術大学造形学部油絵科に入学。大学在学中からプロの画家として活動を始めたそうだ。専門は写実絵画。制作した作品700枚はすべて完売し、手元に1枚も残っていないことから「完売画家」と名乗っている。


「どうやってチャンスをつかんだらいいのか」という絵を描いて生活の糧にする方法は学校は教えてくれない。だから自分で売れるための分析や戦略を手がかりを見つけていくしかない。


彼が提示している、作品が完売する一つの答えとして「画家はサービス業だ」と語っている。絵を描いたその先に飾ってくれる人がいることを忘れてはならない。その人が幸せになれるように作品を描くことが重要だというのだ。

さらに「好きなことをやっているのだから」とお金の話から逃げるのではなく、ギャラリーやお客様とお金の話をきちんとすることの重要性を説いている。

プロの画家にとっての安定とは、安定しない足場で生きることに慣れること。自分の足元で何が起こっているのかという意識を持つことが、5年、10年先の自分を安定させることにつながるという。

私は、彼の話に回答のヒントがあると感じた。

これは、画業のみならず、どんな仕事をしようとも通じる人生のセオリーなのではないだろうか。高校生が自分の適性を知ることは難しい。しかし、大人の私たちですら、適性や個性をわかっているといえるだろうか。私たちは、いつも白紙でスタートラインに立っているのだ。

自分は何も知らない状態なのだという謙虚な姿勢を持ち続けること。だからこそ先を行く人たちからアドバイスをもらって、試行錯誤しながら手探りでも進んでみること。それは、美術大学を受験するためというよりむしろ彼女の人生全体に実りをもたらすに違いない。そんな彼女の姿勢を見れば、きっと家族も見方を変えることだろう。

女子高校生の悩みへの返答を模索するうちに、いつのまにか自分自身の未来について答えが出たような気がしたひとときであった。

《終わり》

執筆者プロフィール
杉村五帆(すぎむら・いつほ)。株式会社VOICE OF ART 代表取締役。20年あまり一般企業に勤務した後、イギリス貴族出身のアートディーラーにをビジネスパートナーに持つゲージギャラリー加藤昌孝氏に師事し、40代でアートビジネスの道へ進む。美術館、画廊、画家、絵画コレクターなど美術品の価値をシビアな眼で見抜くプロたちによる講演の主催、執筆、アートディーリングを行う。美術による知的好奇心の喚起、さらに人生とビジネスに与える好影響について日々探究している。
https://www.voiceofart.jp/

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