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我が愛しのコム・デ・ギャルソン~バブルから令和まで~

「おっはよう!」

「え? あなた誰?」

私はその女性に不審な表情を向けた。

「もしかしてミキ?」、その姿に私はあっけにとられた。

そこは都内の女子大の教室。朝の講義がはじまるタイミングで、100人くらい入る教室は、女生徒たちで活気づいていた。その女子大は、中高大学が一貫だった。地元の女子大生は、都会的でファッショナブルだったから一目見てわかった。

私は、もともと中国地方の田舎出身だったこともあり、人が多いところが苦手。まして、同じ年なのに洗練された都会出身の女性たちの前ではひけめを感じた。だから、いつも彼女たちから距離を置いて座るようにしていた。

私は、学校に隣接した学生寮に住んでいた。寮の食堂で朝食を食べるとすぐにバッグを持って早めにでかけ、教室に入り、後方の窓側の席に陣取るようにしていた。

五月の風が気持ちいい。入学からやっと一か月だって、窓から見える街の景色も壁にかかった時計も、机と椅子も少しずつ自分のテリトリーとして目になじむようになってきた。

そんなところに声をかけられたのだ。

ミキは、同じ高校からこの大学へ進学した友人であった。同じ寮に住み、いつもトレーナーにジーンズ、スニーカーといういでたちで一緒に学校へ通っていたのだ。

しかし、今日の彼女は赤い口紅に、ロングのソバージュ。肩パッドが入ったピンク色のボディコンシャスなワンピースを着ている。誰かわからなかったのも仕方がない。

驚きよりも、寂しさがこみあげてきた。心のなかは、「ついにこの日が来てしまった……!」という思いでいっぱいになった。

というのは、同じ学生寮に住む田舎出身の垢ぬけなかった子たちがどんどんボディコンにワンレンデビューを果たしていっていたからだ。

時は、バブル期。当時の女子大生といえば、このようなスタイルでなければ女ではないという風潮があったものだ。

私は、軍の飛行機でスカイダイングをする勇気を出せず機内に取り残された最後の兵士の一人のように焦り、心細さが生まれた。

はるか下を見ると、いちはやく飛びだした女学生たちが広げたパラシュートがカラフルな花のように舞っている。「いやだ、私には飛び出すことなんてできない!」

「昨日、小泉先輩に選んでもらったんだ」

学生寮は4人部屋で、そこに住むのは九州や四国、東北から上京してきた女学生たち。なんとなく東京の華やかさにコンプレックスを持つ気持ちが連帯感を生み、先輩と後輩の仲がとてもよかった。

みんなで時間さえあれば、誰かの部屋で集まってviviやcan canなどの雑誌を読んで、線を引いたりページを折って「シャネル」「ルイ・ヴィトン」とブランドの名前を暗記したものだ。とにかく、貪欲に学んで、みんながどんどんきれいになっていた。

昨日の寮の夕食でもある話題が持ちきりだった。隣の県出身で同じ学年のアケミが、皆の憧れであるシャネルの口紅の「開封の儀式」を行ったのだ。

アケミの口癖は、「大学卒業とともに結婚して、専業主婦になる」であった。彼女は、入学当初から周辺の共学の大学のテニスサークルを熱心に調べていち早く練習に出て、打ち上げにも積極的に参加していた。それで一か月にして彼氏を射止めて、誕生日には赤プリ(赤坂プリンスホテル)に宿泊する約束をとりつけたとういう。

その日のためにシャネルの口紅を買ったのだという。

アケミの目的意識がうらやましかった。私には、目標がなかった。

理想の男性と出会うこと、結婚すること、それは多くの女性にとって重要な目的の一つであることに違いなかったが、どうも自分が求めるものではなかったのだ。

そんななか、私とミキは、そういった勢いある流れになかなか入れなくて取り残されていた。しかし、ミキもついに一歩を踏み出したのだ。

ミキと小泉先輩が、私ボディコンデビューさせようと、土曜日の午後に買い物に誘ってくれた。洋服を選んでくれるという。嫌がる私を、「絶対、きれいになるから!」と2人が百貨店に引っ張っていったのだ。

一人なら絶対に入れないようなビビッドな服がつるされた店の一角で、生まれて初めてボディコンシャスの赤いワンピースを試着した。そのときに私は、学生時代そのままのショートカット。それに自転車通学だったから日に焼けた浅黒い肌だったから、鏡のなかの自分は子供が大人の服を着たような違和感があった。

私はみじめになった。「うーん、赤じゃないのかなあ……」とミキも先輩も言葉が少なかった。

なのに、店員さんが、「お似合いですよ、このゴールドのイヤリングとネックレス、つけてみて。ほら、すっごい女っぽい!」と言ってじゃらじゃらと音がするようなアクセサリーをつけられてまるでピエロのように見えた。きれいになるどころか、私はどんどんほんとうの自分とかけ離れていくのが悲しくなった。

先輩が「だいぶイメージわかった。いつものあんみつ屋さんへ行って考えよう」と言って、店を出ることができたのであった。

フロアをエスカレーターに向かって歩いていると、そこだけ異質なオーラを放つ空間があった。ディスプレイのマネキンがまとうのは、白のパフスリーブの長袖のブラウスに黒のボリュームがあるバルーンを思わせるスカート。

見たことがないタイプの洋服であった。看板を見ると COMME des GARÇONSと書いてあった。

読み方がわからなかったが、通り過ぎたあとも私はなぜかこの服を忘れることができなかった。

その数日後、学生寮の近くの美容院で、いつも担当してもらっている美容師さんに「ボディコンが似合わなくて泣きそうになったこと。皆と同じでないといけない焦りがあるけど、自分らしくなくてどうしても着たくないんだ」という話をした。

すると、彼女は答えた。今の洋服には、大きく分けて2つのグループが存在している。一つは、ボディコンシャスやOLさんが着るようなコンサバ系、もう一つは、ヨウジヤマモトや三宅一生のような日本人ならではの侘び寂びを生かしたユニークで主張のある洋服。

百貨店で見た、白と黒の洋服がディスプレイしてあった店のことをたずねると、彼女は、すぐにわかったようで、それは「コム・デ・ギャルソン」というブランドだと教えてくれた。ジャンルで言えば、後者のグループに入るらしい。

コム・デ・ギャルソンは、反発や反抗というマイナスイメージが強い黒を基調にした洋服をパリコレで発表し、世界中から注目を集めている日本ブランドなのだという。

「そういう洋服が好きなら、こんなヘアスタイルのようが似合うわよ」と見せてくれたのが、小泉今日子さんの顔写真。当時、彼女はアイドルから、ファッションリーダーへとポジションを変化させている途中だった。

そのきっかけとなったのが、「刈り上げ」である。所属事務所に無断で行ったのだという。

いいなあ、そんな心意気。私はそっち側のほうがあっている。そう伝えると「そうだよね」と言って、美容師さんは、私をあっという間にショートボブでうしろだけが刈り上げの流行のスタイルにした。

「ああ、これだ」、私は、やっと自分の居場所を見つけたような気がした。これなら、あのコム・デ・ギャルソンのバルーンスカートも似合うに違いないとディスプレイを思い出した。

とは言え、学生に入手できる値段ではなかったので、私は、洋服を手に入れるためにアルバイトを始めた。倉庫で段ボールを組み立てて通販の下着を詰めていく仕事、インスタントラーメンの液体ソースを目視で確認して詰めていく工場の仕事、街頭でのティッシュ配り、電話営業をはじめ、ここだけの話夜のラウンジのバイトも数回した。

幸いにもバブルの時代だったので、女学生のバイトはよりどりみどりだった。2週間働くとコム・デ・ギャルソンのマネキンが来ていた、長袖のパフ袖、丸襟で腰にかけてふわっと広がる白いブラウスと黒いバルーンのスカートが買えるお金がたまった。

私は、生まれてはじめてコム・デ・ギャルソンのショップのエリアのなかに入った。ハウスマヌカンと呼ばれる黒づくめの販売員が寄ってきて、一瞬出ようかなとくじけそうになったが、「大丈夫、このためにがんばってきたんだから」と購入した。

翌朝、そのスタイルで大学へ出かけた。学生寮の玄関のガラスのドアに全身を映して確認した。
「うん、似合っている。うん、かっこいい」

しかし、キャンパスでは異質で目立った。刈り上げでそんなかっこうをしている学生は女子大にはいなかったからだ。

ミキが寄ってきた。ほめてくれるのだろうと思った。
そうしたら、バルーンスカートを見て、私にささやいたのだ。

「スカートのすそ、下着にはさまっているよ」

スカートのすそがアシンメトリー(左右非対称)で、半分がめくれあがったようなデザインだったからだ。

私は、ガッカリした。このセンスを理解してもらえないとは!

しかし、よく考えるとそれは自然だった。私もボディコンシャスの世界が理解できなかったのだから、逆もしかりだ。

学生時代には、バイトをしたからといって何着もコム・デ・ギャルソンの高価な洋服を購入することはできなかったが、それでも店に通い続けた。

コンクリート打ちっぱなしのインテリアに吊るしてある白と黒を基調にした洋服がつくりだす世界は、「もっとシンプルに生きればいい」と、が教えてくれているようだった。

コム・デ・ギャルソンの白と黒の世界は、自分の生き方にあっていた。白か黒か、YESかNOか。そんな二者択一の主張を感じさせたし、誰かに好かるために装うのではなく、自分の内側から着たいと思うものを着ることの大切さを教えてくれた

ファッションとは、生き方、自分がどうありたいかと連動しているのである。

会社に就職してからは、コム・デ・ギャルソンを着ることはなくなり、グレーのスーツを着ることが多くなった。さし色にはワインレッドやスモーキーな黄色など、渋みがかった色合いのものをさし色にあわせ、一転して地味なおしゃれに傾倒していった。

よく会社員のスタルを揶揄して「ドブネズミ色のスーツの群れ」といわれる。

ひどい表現だが、あながち間違っていない。彼らは、組織のなかで生き延びるためにそのような色をあえて着用しているのである。

というのは、組織のなかで「自分はこういう考え方の人間である」という主張は、必要ない。そんな主張をしようものなら、仕事は一切進まなくなり、孤立するであろう。むしろ真意を隠すほうが賢明だ。

会社で働いているとAとBの板挟みになるという状況もよくあるパターンだが、勤めが長い人ほど知っているはずだ。AもBも選んではならないと。答えは、Aでもあり、Bでもある。つまり、白でも黒でもなく、限りなく白に近いグレー、限りなく黒に近いグレーというように、グレーゾーンのなかで濃さを選択していくことが大切な処世術である。

このあたりを理解できるかどうかで、その人が会社員として長く生き延びることができるかどうかが決まってくるというのが、経験から得た持論だ。

私は、長年会社員と働き、むしろこのような生き方を誇りに思っている。そのなかで学び、今も座右の銘にしている言葉がある。

「清濁あわせ呑む」

これは、善も悪も受け止める器を持つことが重要だ、という意味である。

誰もが本音では白か黒で生きたいのである。しかし、失敗したり、正直な意見を言って上司に怒られたり、取引先からクレームがくると、自分の意見は口に出すべきではないと経験から学んでいく。

会社員生活を経て、ご縁があって個人事業主となった。

私は愕然とした。
うってかわって、ここで求められるのは、「あなたは、白か? 黒か?」なのだ。なんでもグレーゾーンにしていたら物事が進まないのである。

私はまた新しい生き方のための模索をはじめた。

そんなときにたまたま表参道へ行くことがあった。「かっこいい洋服だな」とふと目に留まったのが、コム・デ・ギャルソンのブティックのウインドウだった。

昔と変わらない、オーラのある服であった。色は赤や緑などバリエーションが増えていたが、「あなたは何者なのか?」と問い詰めるような気迫に満ちていた。

グレーという柔軟性を身に着けたうえで、そこからまた白と黒の世界へと生き方を変えていかなければならない。白と黒の間には、無限のグレーのバリエーションが存在することを経験として身に着けたからこそすべてを包含できる白と黒の世界、それが今の私なのだ。

今の仕事が軌道にのったら、一つ叶えたい夢がある。それは、コム・デ・ギャルソンで一着のスーツを買うことだ。

そこで初めて成長した自分にあえると思う。その日が来るのが楽しみだ。

《終わり》

執筆者プロフィール
杉村五帆(すぎむら・いつほ)。株式会社VOICE OF ART 代表取締役。20年あまり一般企業に勤務した後、イギリス貴族出身のアートディーラーにをビジネスパートナーに持つゲージギャラリー加藤昌孝氏に師事し、40代でアートビジネスの道へ進む。美術館、画廊、画家、絵画コレクターなど美術品の価値をシビアな眼で見抜くプロたちによる講演の主催、執筆、アートディーリングを行う。美術による知的好奇心の喚起、さらに人生とビジネスに与える好影響について日々探究している。
https://www.voiceofart.jp/

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