noteを毎日書かなくなった代償
京成線に乗ってると、扉にこんなシールが貼ってあるんですが、コレを見ると毎回「レッドブル」を思い出してしまう、ボイスカプセル佐坂です。
多分配色ですよね。色って面白い。でも私はレッドブルよりもモンスター派ですが。
そんなことはどうでもよくて、ここ2ヶ月noteを書いてなかったんですね。
去年は3人で1年間365日毎日note投稿をやってたのですが、それを終えてスパッとnoteを書かなくなったんです。もうなんか解放感もあって、気分は長い間プロアスリートやってて、ようやく引退してゆっくり過ごしてるみたいな感じ。
そんなこんなで2ヶ月間、引退後の生活を自由に楽しんでたんですが、なんかどっかでモヤモヤするんですよ。
noteを書かなくなってその分、めちゃくちゃ走る時間、カラダをケアする時間に充てられていて、記録も上がってきているので、マラソンを生きがいにしている私としてはこの上ない充実感!、、、と言いたいところなんですが、やっぱり走ってない時間はなんかスッキリしない感覚があります。
そしてとうとう気づいたのですが、最近私、無性にモノを捨てたくなるんです。気づいたら手当たり次第ゴソゴソして、捨てられるもの探してるんです。そしてゴミ袋がいっぱいになったら満足するみたいな。そういう状態がここ数週間続いています。
まあ、断捨離することはいいことなので特に困っているわけではないのですが、この現象を自分なりに分析してみると、
排泄欲の一種なのかなと思いました。
要するに何かが溜まってしまったからそれを吐き出したいという生理的なものなのかなと。
noteを書かなくなったことにより、私のアウトプットの機会が減りました。その分インプットの割合が増えてしまって、自分では気づいていなかった整理できていない情報や知識、感情がどんどんと溜まっていたのかなと。そしてインプットとアウトプットの均衡性を保つために私の場合は、モノを捨てたい欲が溢れてきたんだと思います。そう考えると走る時間が増えたのも同じロジックで、走ることにより一度頭を無の状態にすることで精神的に落ち着くことができていたのかなと思います。
人間って面白いですね。思考のアウトプットが滞っていたら素直に文章や声で発信すれば済む話のように感じますが、私の場合は、断捨離とランニングも解決策になるみたいです。
まあこんな感じで自分の新しい一面を見つけられたのも「noteを書かない」という行動を起こしたからなのかな。とポジティブに捉えていますが、やっぱりnote書くことは今後も続けていきたいなっていうのが私の本音です。
noteを書いている時やネタを考えている時って、内容がどれだけしょうもなくても、めちゃめちゃ頭使ってて、自分が今何を考えてて何をしたいのかっていうのに気づけるめちゃくちゃ貴重な時間だなと感じます。読み手のためというよりは本当に自分のための時間。他人のためと思うとハードルが高くなるnoteですが、自分の思考の整理のためと思うと気楽なものです。
という感じで、新年初のnote投稿は、
note書かなくなると、断捨離がすすむってことと、
京成線のドアのシールがやっぱりレッドブルにしか見えない。(これやっと誰かに共有できた)
っていう内容でした。
今年も相変わらずPodcastで音声番組を配信してます。
平凡な日常に潜むみんなにスルーされている出来事をピックアップしてお話ししてます。是非聞いてみてください。
おたより、心からお待ちしています!